雨景色ひとりきり[完成版]
シリーズ三作目にあたるお話です。これ単体でも読めるようになっています。
晴れた春の宵はきれいだ。
包み込むように柔らかな光を投げかける月は、それ自体が包み込まれているかのように薄く膜がかっている。朧月を囲むように群青の、その外縁に仄かに紫が溶け込んだ空が広がり、人の営みが照らす地表近くは紺。作られたかのように繊細な、あくまでも自然の産物にすぎない景色は温もりがかっている。そういった日の空と光は、忙しなく駆け回る人々をしばし落ち着かせ、揺籃の赤子の如き心地に誘うことさえある。……もっとも、それは晴れていたら、の話である。
既に宵といってもいい時刻だが。その日は曇っていたため、いまいち明るく、故に暗さとの対比によって輝く人工の灯も霞んで見えた。比較的薄い雲を透かして覗く月はぎらぎらと光り、それでいて蜃気楼のように定かではなく。見上げた者の幾らかを苛立たせたが、多くの人にはそもそも空を見る余裕さえない。
冬より低くなった空は厚雲でさらに圧をかけ、仕事に帰宅にと慌ただしく動き回る人々に余計重く伸しかかる。こと丸の内はビジネスマンが多く、落ち着きのない、あるいは楽しげのない顔で、勤め人らが道を横切るのを眺めることができた。とはいえ、皆が皆同じような行為、状態で行き交うさまは見ていて特に楽しいものでもなく、五分とかからず飽きる光景ではあった。
格調高い、しかし修復されたのはわりと最近の、赤煉瓦の建物に顔を向ける者は少数派だ。さらに立ち止まるのは――ついでに、ちょうど良い位置までカメラを持って移動するのは――もはや観光客だけである。建物沿いの歩道を行く人々の向こうはタクシーの溜まり場で、そのさらに向こうにやっと道路がある。
彼はそれらを見下ろしている。地上に居ながらにして、俯瞰している。
深く理解するよう努めなければ、そこはあまりにも単純であり。行き交う勤め人や学生、その他定義づけできない人々から離れ、一人静かに佇む様子は、周囲の忙しなさとは打って変わって落ち着いていた。彼が本当に見ているのだとすれば、そこはたやすく客観視でき、見渡せることだろう。
赤煉瓦の建物から少し離れ、しかしタクシー待ちの客に間違えられない絶妙の距離を保つ場所。彼は建物側の、草木の植わった処と道とを区切る白い塀に少しだけ凭れつつ、曇り空と人々を眺めている。正確にいうと、そちらのほうに顔を向けている。
彼はシンプルなデザインの眼鏡を掛け、鼻から顎までをマスクで覆っていた。マスクのサイズが合わないのか、呼吸のたび、眼鏡のレンズが白く曇り、曇りが晴れたと思いきやまた曇る、を繰り返していた。故に、彼がいま目を開けているのか瞑っているのか、開けているのなら何を見ているのか、眼鏡が曇っていても見えるのか、一切判別がつかない。季節柄、花粉症かその予防のように見えなくもないが、どのような理由にしろ、風貌がまったく窺えない、というのは不気味だった。
ベージュのスプリングコートで肩から膝まで覆っているため、身体の線も定かではない。同様に、年齢もはっきりとは判らない。コートから僅かに覗く首の太さやズボンのデザインから、細身ながらも男性であることが辛うじて窺えるのみである。
行き交う人々のなかには佇んだままの彼のほうにふと、視線を向けたりする者もいるが、すぐ逸らす。顔がまったく見えない人間に得体の知れなさを感じ気味悪く思ったのか、もとより興味などないのか、自分の用事で忙しいのか。おそらくそれらすべてだろう。大抵の人は前を向いたまま、赤煉瓦の建物のなかか、そのさらに向こうへ消えていく。
と、彼は顔を上向かせた。くせのない黒髪がぱさり、と揺れる。
上方には依然として曇り空が在った。いまにも雨が降りだしそうな、それでいて断固として降りそうにない、煮えきらない灰色だった。まるで何かを堪えているようで、その雰囲気が伝染して、人々を鬱屈せしめているかのよう。
「~~~~~~」
マスク越しに、曇りにけぶる空へ向け、彼はなにか吐きだした。空を、見ているのか。呪詛にしろ要請にしろ、天に吐いた言葉は届かずただただ跳ね返る。
春の天候は不安定だ。……だからこそ、すっきりと晴れた宵の景色は、なおさら美しいのかもしれない。
* * *
エレベーターホールはなぜかいつも静かだ。ふと、勝山慎司は気がつく。彼が勤める企業が収まるビルのなかは、開業から終業まで、そしてほとんどすべての場所で、人が行き交い、話し合い、ごみごみしている。だというのに、エレベーターを待つ間と、乗っている間は、静寂が場を支配する。もちろん、必ずしもそうというわけではない。仕事の関係で話し合ったり電話したりする場合もあれば、友人を見つけて世間話に興じることもある。しかし多くの場合、それまでどれほど大声で話していた者も、エレベーターホールへ着くと押し黙り、乗っている間、必要に迫られて話す場合も自然小声となる。
騒がしいのが好きではない勝山にとって、それはいいことだった。怒声、歓声、泣き言が飛び交い、電話音が鳴り響く仕事場にあって、彼のストレスは日々蓄積されていた。せめてエレベーターを利用している間だけでも、それらに悩まされないなら、これからはもっと利用回数を増やしてもいいかもしれない。まあ、そう思うのは、単に階段を使わず楽をしたいだけかもしれないが。
と、そんなことを考えている間に、勝山のいる階に上へ行くエレベーターが停まった。扉が開くと、誰も乗っていない。幾人かと共に勝山もなかに入る。無人だったエレベーターはたちまちいっぱいになり、望む階のボタンを押す手が入り口付近の女性を掠める。
乗客が収まると、扉が閉まり、エレベーターは動きだした。下のほうへと。
「え?」
「あれ?」
乗客はとっさに、扉の上の表示を見た。数字は上昇している。ボタンも先ほどまで彼らがいた階より上の階しか押されていない。しかし、乗客の誰もが、下降していると実感した。
「うそ、故障?」
「まいったな、これから会議なのに」
人々の間にざわめきが漏れる。一人が階のボタンを順に押した。しかしエレベーターは停止しない。別の一人が非常ボタンを押した。しかし本来外部と通話が繋がるはずが、何の反応もない。さすがに乗客は焦りだした。
どうなってる
いつまで降りるの
なんで
嫌
なにこれ
再度非常ボタンを押すも無駄だった。連打しても、他のボタンをめちゃくちゃに押しても、エレベーターは止まらない。それどころか、扉の上のパネルに表記されたデジタル数字はこのビルにはないはずの、最上階より上の数字を示し、最下階に着いたと体感するほどの時間を過ぎてもまだ降り続ける。
扉の上の表記が揺れ始める。エレベーターもそれに合わせ振動する。降下のスピードが速くなる。それどころか、横に前に、構造上動くことがないはずの方向へ激しく押しだされる。人々の身体は大きく傾ぎ、他者にぶつかって押し倒し、自らもすっ転ぶ。
女性はしゃがんで叫びだし、苛立った男性が足を打ち鳴らして怒鳴り、切羽詰まった人が扉を叩き、勝山がいつも感じているエレベーター内の雰囲気とはかけ離れた騒音で満ち溢れた。酔った者が耐えきれずに嘔吐した。吐瀉物が人々の足の間を流れ、避けようとするも狭いエレベーター内では逃げ場もない。
堪えきれず、勝山は叫びを上げた。それさえ置き去りにして鉄の箱は下降し続ける。
* * *
橙と緑のラインの入った車体に乗り込み、人々は思い思いの行為をしている。イヤホンを装着したり、雑誌を読み始めたり、落ち着きもなく席を移動してみたり。電車が出発するのは、まだまだ先だ。
ここはこの路線の始発駅であり、他の路線と比べ、概ね終電までの区間が長いためか、電車がホームに着いてから出発するまでけっこう時間がある。ホームではなく車内でそのときを待つ人々を、彼は車外から見守っている……のだろうか。眼鏡とマスクのせいで相変わらず、表情はもちろん、目を開けているのか閉じているのかさえ判別がつかない。
彼はあれから赤煉瓦の建物……駅のなかに入り、階段を上がって、あるホームにある連なった椅子の一つに腰かけていた。既に、彼の前で電車が何本か発車していたが、乗り込むことはなく、呆、と斜め上に顔を向けている。
ホームに設置された椅子というのは本来、電車を待っている間座るためのものだろうが、他線のホームならば埋まっているか、そもそも設置されていないそれにはいま、彼の他に座る者はいない。すでに電車が到着しているというのもあるだろうし、時間帯もあるだろう。ホームへと至る階段の下や、他線のホームでは相変わらず、多くの利用者が行き交い、騒がしく押し合いへし合いしているなか、そこは比較的空いていて、音もなく。だからとても――静かだった。
雨音がよく響きそうだった。空は変わらず曇っていた。このまま雨が降ることも晴れることもなければひょっとして、雲は電車やホームの屋根を圧迫して潰してしまうのではないか。そう思えるほど、雨は降りそうで降らないまま。
何か思ったのか。彼は息を深く吐きだした。レンズが白く曇り、生暖かい息が跳ね返って顔に当たる。不快だったのか、嫌々するように首を振る。すると遠心力で眼鏡が大きくずれた。その途端、彼はぴたりと止まり、急いで眼鏡の位置を直した。たまたまその様子を見ていた車内の女性が、小さく噴きだす。
彼は頭を抱えて俯いた。別に雨の代わりに爆弾が投下されたわけでもない。ただ、女性に笑われたのが見えていて、気恥かしくなっただけだろう。顔色は完全に窺えないが、耳は赤らんでいる。
しかししばらくして、再び顔を上げた。車内から意図的に目を逸らし、また空を見上げる。そこにあるのは相変わらず、灰色の羊の群れのような光景だけだった。
何か目的があって空を見ているのではなく、することがなくてただ眺めているだけのようだった。ホームにいても、電車を待つわけでもなく。人を待っている様子もなく。雨を待っているわけですら、ない。彼の周りで、彼を除いた場所で、人々は衝き動かされるかのように駆け回り、ひっきりなしに足を、口を、手を動かしているけれど。彼だけの時間は、ただただ徒に過ぎていく。
そうしているうちにも夜は迫ってくる。人々と光を飲み込もうとしては毎晩争いに敗れる闇は、今日は挑むまでもなく雲によって侵攻を阻まれている。
「ふう、やっと見つけたっす」
電車が発車した。それまでの静寂をぶち破って旅立つ轟音。駅員のアナウンス。汽笛らしき音。前後にした様々な聴覚的刺激によって、その声はかき消されていた。しかし、彼は聞くまでもなく、その到着を知った。
電車を見送り、椅子の背凭れに身を預けた彼の、やや上向いた顔を覗き込むように。彼と空を隔てるようにして、一人の少年が立っていた。彼が呆然としている間に来ていたのだろう。全然気づかなかったのだから。
外見は十二、三歳といったところ。シャツにもズボンにも皺一つなく、ぱりっとしている。華奢な身体に不釣り合いな、大きな鞄を肩に斜め掛けし、つやつやとした髪はくせがかっていて柔らかい。風貌も表情も年齢も――先ほど恥じらったときのしぐさからするとまだ若そうだが――窺えない男性とは対照的に、大きくつぶらな眼が特徴的だ。
「むむむむむ?」
マスク越しに話しかけた声は、対話の用をなさないように思われた。
「前回会ったときの様子と、あなたの行動パターンから推測するに、次は丸の内辺りに泊まってるのではないかな、と。けれど、まさか駅のなかにいるとは。どっか行くつもりだったんすか」
彼の言いたいことを的確に汲みとって、少年が答える。
「むい、むむむ」
「そっすか。では……今後の予定はどうしましょっか」
言いながら、彼の隣に腰掛ける。
「今期のノルマは既に達成しました。その分を差し引いても、充分なボーナスが頂けるほどの依頼をこなしました。いまのところ他ペアからの要請もありません。どうします? さらに点数を稼ぎますか」
どうせ他にやることもありませんし、と付け足して、少年は出方を待った。
ここ数年、首都圏で噂される怪奇現象のなかに、“お悩み相談事務所・異界系”と呼ばれるものがある。特定の拠点、連絡先などを持たないため、“どこにもない事務所”のほうが呼び名としては広まっているだろうか。一般の人々は存在を疑問視し、他の怪奇と同じく都市伝説の一つと思っているそれは、しかし実在する。
古来より、人の価値観や技術では証明できない怪奇現象というものが多々発生していた。その多くは、この世の理を乱す存在……幽霊、異形の化け物、目に見えない心の動きなどが引き起こす。そういったものに対抗できるのは必然、同じく人の理では説明のつけようがない力を持った者達だけとなる。
“事務所”もまた、そういった者達の集まりであり、怪異に巻き込まれた一般人からの依頼を引き受けている。結果的に人の世の治安を守ることになるものの、しかし“事務所”の目的は人助けではない。
怪奇現象が発生すると、人類が自力で獲得することのできない、やはり既存の価値観や技術の範疇にないエネルギーもまた発生する。“事務所”の実行部隊が怪奇を処理すれば、その怪奇が保有していたエネルギーを手に入れることができる。“事務所”の目的はあくまでエネルギーの回収であり、性質上、一般人が犠牲になろうと知ったことではない。……一応、依頼者の身の安全を保障する制度はあるが、実行部隊のなかには、怪奇処理の際「必ず」一般人の――依頼者以外の犠牲を、伴う者もいる。
“事務所”の体制は無慈悲であり、そのせいで、末端の実行部隊にとってもシビアである。実行部隊は期間内に予め決められた量のエネルギーを集められない場合、良くて減給、悪ければ馘首にされる。
そして、彼ら二人は、その“どこにもない事務所”に所属する実行部員と交渉役なのである。
実行部員は性能に個性はあれど皆、怪奇に対抗する手段を持っており、彼ら一人ひとりに“窓口担当”という外部との交渉役がつく。実行部員のなかには、従来の方法によるコミュニケーションが困難な者もいるためだ。
ここに座っている彼もまた、マスクを付けている間は会話が成立しないため、隣の少年が補佐する必要があるのだろう。
彼は、口を開いた。
「ふふひふふふふふむいふふむ……ふふふふんふふひむふふいむーむむむ?」
「人禰女史は問題ないそうっす。松見さんはまだ、ノルマに少しだけ届かないそうなので、要請はないでしょう」
「ふふひはひほひーむむむも」
「大丈夫ですよ、あの人なら。千織嬢もいますし」
「ほっは。ふむ、ふふふふむうーうーむむいむむ、ふむふむ、ふふふいひひふーふーふふむむーむむ、ふふっふ」
「……すみません、最後の『ツユクサ』しか判らなかったっす」
彼はコートのポケットをまさぐり、端末を取りだした。そして何か打ち込み、少年に見せる。
『そろそろ、七不思議に挑戦してみたい』
少年は画面を見、その文章を見て彼の顔を見、また画面を見た。
学校や企業など、ある一定の地域・区画において知名度があり、かつ長期的に発生・顕現し続ける怪異を数件まとめて“○不思議”と呼ぶことがある。それらは大抵、人々がおもしろがって吹聴した、取るに足らない噂である。
しかし、“事務所”に所属する者にとっての“七不思議”とは、東京を中心に、首都圏に点在する七つの“通常時とは勝手が違う、厄介な怪異”のことである。それらが特別視されるのは単に強大すぎて相手できない、というだけでなく、様々な事情が絡んでいるせいだ。“環状線の悪魔”のように、少しでもちょっかいを出そうものならエネルギー回収どころか“事務所”壊滅の恐れさえあり、かつ人間には無害なため不可侵のもの。“時計仕掛けの霊柩車”のように、処理するより顕現しているほうが多くのエネルギーを回収できるため“事務所”上層部の意向で(多少被害が出ようと)放置されているもの。
「七不思議って、あの七不思議っすよね?」
少年は小首を傾げ、確認する。その仕草は団栗を集める様子を目撃された栗鼠のようで愛らしい。彼は頷いた。
彼や少年の上司が「手を出すな」といっているものが大半である。それに敢えて挑もうというのである。しかし、
「それはいいっすね」
すてきっす、と、本来諫めるべきはずの少年はにこにこ笑っている。
その様子を確認してから、彼は再び文字を打ち込んだ。
『じゃあ、さっそく調べて』
「了解っす」
少年は鞄からタブレットを取りだし、
「あなたの成績なら、多少オイタしても笑って許してくれそうっすものね。失敗しても自己責任ですし。……あ、そだ」
タブレットを操作しながら、何かを思いだした。
「そういえば、上層部から調査指令が来てたっす。“七不思議”の一つに“閉鎖ビル”って呼ばれるものがあるんすけど」
「ふーふふむむ。……ふいふふふふぶ」
彼は呆れたようにふぅー、と長く息を吐きだした。スルーして、というより気づかない様子で、少年はタブレットを繰る。
「東京のどっかにあるビルだそうっすけど、一度入ったら出られないそうなんすよ。でも、入口がないから入ることもできないらしいっす」
「ふぁんふぁほは。ふむ、ほんはいふぁいははいは。ひほほふぁいほーほふはふふぁいむむむーむ」
彼は仰け反り、跳ね返ると憤慨したように腕を振って喚きだした。何を言っているかは依然として不明だが、気持ちは伝わってくる。
「まあ、入ることも出ることもできない箱のまんまだったら、大して問題はなかった、だから“事務所”も放置してたんすけど。でも最近、その物件に入れるようになったっていうんすよ。それどころか、人を引き摺り込むそうなんす」
「ひほふいは」
「や、入った人はほとんど数時間で出られるらしいんで、人喰いではないっす。でも、いままで何の問題もなかった物件が、急に人に干渉しだしたのは、“事務所”としてもほっとけないなあってことで、東京担当の誰かが調査するよういってきたっす。で、ノルマはクリアしたし、暇を持て余してるようなら挑戦しません? やりたくないなら他の人に回しますけど」
彼は口を噤んだ。マスクが唇に巻き込まれ、横方向に線ができる。
「河童の口みたいっす」
無視した。
現在、“事務所”に所属する者のうち、東京を受け持つのは六人。実行部員が三人と、彼らの窓口担当員である。
そして、実行部の他の二人が限定的な能力しか持たないのに対し、彼の能力は汎用的、といえる。いうなれば、他の二人が対処できない怪異を一身に引き受けているようなものだ。それ故、他の二人が通常の依頼において「自分の手に余る」と判断した際、多くの場合、彼に依頼を回す。
だから彼は依頼解決数も多く、ノルマ達成も早い。一見不公平に見える配員だが、多種多様な怪異が発生する東京では、これが最良だった。“事務所”にとっても、そして、怪異に巻き込まれる一般人にとっても。
口を開こうとして、巻き込まれたマスクが上下の唇に引っ付いていることに気づき、引っ張って直す。手を放すと、顔の両側でゴムがばちん、と鳴った。
一見、どこにでも売っているマスクのようだ。しかしもともと籠ったような話し方をする質なのか、彼の言葉は繊維に絡めとられてどうしても意味を成さない。それでも少年には判った、彼が言うことを。マスク越しの言葉だけではない。次になんと言うのか、予測がついていた。
「ふふいむむむ」
彼は了承した。先ほどの話を聞く限り、他の実行部員にそう余裕はないだろう。それにもし、そのビルでの案件が他の二人の手に余るものだったなら、それどころか彼以外には対処できないものだとしたら、危険だ。そう判断してのことだった。
「言ってくれると思ってた」
少年はぱたん、と、本を閉じるようにタブレットを両手に挟んだ。
「……」
「……」
そのまま、時間が過ぎる。
「ふふっふ」
「なんすか」
沈黙を破るように、彼が口を開いた。
「むあ、ほもひるひふふぁふむむはいふぉは?」
「え、無理っす。だってそのビル、どこにあるか判ってませんもの」
「ふぁ!?」
思わず、彼は両拳を膝に叩きつけた。表情が伝わらない分、身体を使った感情表現が大げさなようだ。びっくりして、二人の前を横切ろうとしていた勤め人風の男が二人を見た。
「ふむ、ふーふっへひふむふふ」
「そっすよね。えと、エレベーターが鍵みたいっす」
赤の他人の通行人が驚いたというのに、少年に慌てた様子はない。慣れているのか、それとも単に鈍いだけか。
「ちょっと待ってくださいね」
少年は再び、タブレットの画面に指を滑らせた。
「あったあった、東京都港区に勤務するS・Kさん(男性、29歳、会社員)の証言。うちの調査担当員はほんと優秀っすね~。……えと、引き込まれたことのある人の話によると、エレベーターに乗ってたら、突然激しく揺れだしたそうっす。で、突然止まったと思ったら、廃墟みたいなビルのなかで。出口を探しても見つからなくって、そこからの記憶がなくて。気づいたらまたエレベーターに乗って、元の場所に戻ってたそうっす。夢だったのかなあって思って同じエレベーターに乗ってる人に確かめると、同じ場所にいたことを憶えてて、でもやっぱり途中から記憶が抜けてるんすよ」
「んーんー」
「で、これは全員に共通することなんすけど、ビルに入った後? 異常ってほどでもないんすけど、脱出直後からだるくなって、数日間、ぼーっとするというか。いや、以前と比べて物事に動じなくなったようだって。事実、業者に調べてもらってエレベーターに異常がないことが判ると、いやその前から、その日のことどーでもよくなったみたいになっちゃってて。“事務所”の調査員が聞くまで忘れてた人もいるらしいっす。元の場所に戻ってこれたし、日常生活にもさほど支障がない以上、そんなもんすかね。噂もそれほど広まってないみたいっす」
「うーむ」
「つまり、エレベーターに乗ればビルに入れるっす」
「ふぁるほほ……っふぇ、はほは!」
話だけ聞けば確かに、エレベーターによってビルに人を引き込んでいることは判る。しかし、東京で一日にエレベーターを利用する人、回数がどれだけあるだろう。もちろんエレベーターに乗ったすべての人間がビルへ引き込まれるわけではない。そうなったらとっくに大混乱である。もしかしたら引き込まれるエレベーターや人間には、何がしかの条件や法則があるのかもしれない。
この二人が乗ったエレベーターがたまたまビルに辿り着くとは限らない以上、調査のしようもないのである。
「ほーふんふふ! へへむーむーふむいむふぁひへむーむふむふ、ふふふむいふはふむむむ!」
マスクがなかったら唾が飛んでいただろう。それほどまでに激しく、彼は喚きたてた。
「ふぇ?」
しかし少年は、なぜそんなに興奮するのか判らないっす、といった様子で小首を傾げた。
「……どうにかするのがあなたの仕事でしょ」
彼は拳を握りしめ……諦めて、溜め息をついた。拳を解き、電車のいない線路の上空に顔を向けた。宵闇の黒を吸いこんだ雲はいよいよ重く垂れこみ、それでいて白く照っている。
「……はっはほふへはふぃーふひ」
「何が。あ、雨すか。そっすね、いい加減降ってしまえばいいのに」
彼は独語のつもりだったのだろう。しかし、少年は投げられた言葉を拾い上げ、同じく放り投げるように応答した。
* * *
「……さっさと降ればいいのに」
ぱっとしない灰色の空を睨みつけ、麻生亜弥香は呟いた。天気予報では降水確率は高かったが、まだ降っていない。特に雨が好きなわけではない。むしろこの季節が好きなわけではない。晴れていようと雨だろうと、朝晩は冷え、日中は蒸し暑い。昼に掻いた汗が制服と肌を貼りつけ、煩わしい。晴れでも雨でもない、どっちつかずの「曇り」は、そんな彼女の気持ちをさらに苛立たせる。
ただでさえ、今日は学校の学年集会で、中学校最高学年としての責任と受験への心構えについて長々と、しかも怒鳴られるような大声で学級担任に説かれたばかりで、気分があまり良くないのだ。「あのゴマシオ、ムカつく」など友人と愚痴りあった後、それぞれ帰路についたところである。今日は金曜日、しかも進級早々「勉強しろ」と口うるさい両親は、なんと二人とも出張である。もちろん勉強をさぼるなと釘を刺されてはいるが、そんなものは布の上に刺した画鋲と同じ。布の端を引けば簡単に抜けてしまうのだ。今宵は好きなだけ友人とメールし合い、ゲームをし、夜更かししようと決めこんでいた。
早くも贅沢な気持ちが先行したのと、学級担任の話を聞いて疲れた、という甘えが、普段は地下鉄のホームへ下りるのに階段を使う彼女を、エレベーターを利用しようという気にさせた。
エレベーターの前には彼女以外にも、サラリーマンやOL、学生らしき人が数人待っていた。人数が人数なためか、列を作らず横に散らばっていたが、通行人から文句を言われることはなかった。
昇降機が上がってきた。二重扉が開くと、なかは無人だった。普通はまず、車椅子やベビーカー、怪我人を優先するものだが、たまたま待っている人のなかにそういった人はいなかったため、亜弥香たちはすぐ乗り込んだ。昇降機のなかには五人の人間が収まった。
扉が閉まる。ふわりと身体が浮くような錯覚があった。硝子張りの扉の向こうが外の景色から、雑多な石やゴミを経て、灰色の壁へ移行する。若干古い設備は軋んだ音を立てながら、人々を下へと運んでいく。と、不意にぎっ、と音がして、エレベーターは停止した。感覚としてはホームに着くほどの時間だったが、しかし扉の向こうには依然として硬い灰色があるだけだ。
たたらを踏む。いきなり、エレベーターが後方に退いたため、乗客は皆バランスを崩した。
本来動くはずのない方向へ向けて、昇降機は全力疾走する。それに合わせ乗客は踊らされるように動く。サラリーマンがすっ転んで床に顎をぶつけ、扉から離れた位置にいた女子大生が背中から壁に叩きつけられた。
「なにこれ!?」
誰かが呻くように言った。エレベーターとは思えない速さで、箱はありえない方向へ進み続ける。いつの間にか、正面の硝子には闇が塗られている。ぎぎいいぃぃぃぃ…………と、搾るような絞めるような音が反響する。設備のどこかにガタがきているのだ。当たり前だ。エレベーターは上下に動くものだ。じゃないと「昇降機」ではなくなってしまうではないか。
少しでも身体にかかる負担を減らそうと、各々、床か壁にへばりつく。壁伝いに、男子学生らしき人がパネルに近づき、手を伸ばして非常ボタンを押した。
何も起こらない。
その人はなおも非常ボタンを叩き、他のボタンも闇雲に押しまくる。しかし、エレベーターに変化は起こらない。
不意に、壁に張りついた身体が前に押しだされた。エレベーターが一瞬、停止し、……倒れた。比喩ではなく、なかの乗客ごと、箱が前方に九十度回転した。
「ぃうぎゃ」
亜弥香にはまだ、叫べるだけの余裕があった。床に引っ付いていたため、ずり落ちて扉の上に載っただけで済んだ。しかし後ろの壁に張りついていた者はいきなり下(前)に投げだされ、着地もままならず脚や肘、顔をもろにぶつけてしまった。
「だ、大丈夫ですか」
亜弥香は手近にいたOLに手を伸ばした。よろよろと上体を起こしかけたOLはしかし、すぐに潰れてしまった。エレベーターが今度は扉の方向、つまり下方に動きだしたのだ。エレベーターとしては正しい方向への移動かもしれないが、今度は昇降機自体が前倒しになっている状態である。物理法則やマシンの原理を無視している。いや、もしかしたら、亜弥香達の認識のほうが狂っているのかもしれない。
亜弥香は気づけば、天井(背後)を見上げていた。自分の、途方に暮れた顔が見えた。バリアフリーの観点から、多くのエレベーターで、背後の壁に鏡が取りつけられているのだ。
先ほどの男子学生が、横(天井)を押しだした。乗客ははっ、と気づく。天板を開ければ、普通のエレベーターなら吊っているワイヤーが見えるはずだ。その状態を見れば、いまどうなっているのか判るかもしれない。
亜弥香と、サラリーマンが天板ににじり寄り、男子学生に手を貸そうとした。と、そこで箱の向きは元に戻った。今度は亜弥香達が、下(床)に放りだされる。
「ぅあっ」
人にぶつかりはしなかったものの、背中を強打して呻き声を上げる。しかしそれで終わりではなく、箱は九十度、さっきとは逆方向に倒れ込み、さらに横転、しかも二転三転、縦に横に転がりだした。転がりながら、なおもどこかへ向けて動きだす。横回転しながら上方へ向かう、ドリルのような動きで。と思ったら、振り子のように揺れながら、跳ぶように前方へ。あるいは、上から殴りつけられたかのように、中心を窪ませながら下へ。
遊園地のアトラクションよりも激しく不規則な動きだ。洗濯機のなかの洗濯物よろしく、乗客は掻き回される。横、上、前、方向感覚がめちゃくちゃで、三半規管が悲鳴を上げる。正確にいうと、キーン、という耳鳴りがする。床に血が広がる。誰か怪我をしたのか、それとも体内の器官に異常が起きたのか。
混乱する人々を乗せた、いや、乗る人をすべて混乱に陥れたエレベーターは、不意に停まった。ガクンという衝撃があり、静かになる。と、それまで横倒しになっていたと思しきエレベーターがいきなり半回転し、それに合わせて扉が開いた。乗客は皆、福引のガラガラから吐きだされる残念賞の赤玉のように外へ放りだされた。
「ああ!」
OLの足が扉に引っかかり、よろめいて亜弥香にぶつかった。出口がエレベーターの出入口より小さかったらしく、段差ができていたのだ。
もみくちゃにされ、涙と汗と涎と血で汚れた人々は、コンクリートの床に折り重なるように倒れ込んだ。それでもよろよろと身体を起こし、辺りを見回す。
「え? え?」
「ってかここどこ?」
息も絶え絶えに、しかし疑問を口にせずにはいられなかった。
規格に合わないエレベーターを見るまでもなく、そこは亜弥香が乗っていたエレベーターが辿りつくはずのない場所だった。武骨な灰色で統一された、暗い空間は、いつも利用している地下道とよく似ている。しかしそこは、いつも見ている場所とは明らかに異なっている。通路の途中というよりも、屋内の部屋を思わせる狭い空間で、空気はひんやりとしていた。
壁も床も天井もコンクリートが剥きだしで、歩くと大げさなほど足音が響いた。立体駐車場のように見えなくもないが、八畳ほどのそこには車を停めるスペースどころか、そもそも搬入できるような出入口がない。前と右は壁のみで、背後の壁に開け放しの扉。左の壁に、人一人くらい通れそうな四角い穴。扉はないが、出入口だろうか。天井に時代遅れの蛍光灯が備えつけてあるものの、灯りはついておらず、しかしエレベーターの扉から差し込む光によって部屋の隅まで見てとれるほど狭かった。
その光が、痩せる。
いち早く気づいた男子学生が駆け寄るが、二重扉は無慈悲なほど素早く――通常エレベーターが開閉する二、三倍ほどのスピードで――閉まり、乗客を建物に置き去りにしたまま、駆動音が遠ざかり始めた。
「……くそっ」
男子学生が悪態をつく。扉の横の上下ボタンを連打するが、昇降機が戻ってくる気配はない。辺りは闇で、ざわめく少人数の声がいやに響き渡った。
と、闇を突くように光が生まれ、思わず目を瞑る。そっと目を開くと、女子大生が端末の画面をオンにしていた。
「うっそ、まじで」
女子大生が声を上げ、困惑の表情とともに画面を周囲に見せる。極彩色の待ち受けにデジタルの文字盤が浮かんでいる。18:12。しかし彼女が見せたいのはそれではなく、その斜め上に浮かぶ赤い文字だった……圏外。
他の面々も急いで自身の携帯電話を取りだし、画面を見た。そこにもやはり「圏外」の文字。
「は? まじで」
「ここどこ?」
「東京?」
各々、不安とともに携帯電話を操作するが、外部との連絡はできず、ネットにも繋がらない。試せるだけの手段を試した。しかし、無駄だった。
「らちがあかないな」
男子学生がスマートフォンの画面で周囲を照らす。エレベーターに向けると、扉の上の「4」が浮かび上がった。灯を左側に逸らし、歩きだす。置いて行かれまいとするように、女子大生、サラリーマン、亜弥香、OLの順に、出入口のほうへ向かう。
出入口横に電灯のスイッチが備えつけられていたが、操作しても灯は点かなかった。現在でも利用されている建物には見えないため、電気は止まっているのだろう。ではなぜエレベーターだけ駆動したのか。いや、それをいうなら、そもそも亜弥香達がこんなところにいること自体おかしい。
扉のない、コンクリートに開けた穴のごとき出入口の向こうは、もともとは部屋だったらしい空間だった。しかし、エレベーターのあった部屋とは違い、壁は崩れ、ほぼ枠組みだけと化している。前方と右方には、かつては隔てられていたと思しき、いまは一続きになった部屋がそれぞれ広がっている。奥のほうは暗くてよく見えない。左の壁は崩れておらず、透明なガラス張りの窓があった。窓の外には、イルミネーションのごとく光の散ったビルの群れと、その合間を縫うような灰色の空が見えた。景色からすると、どうやら本当に四階くらいの高さらしい。
学生達が右奥へ向かった。サラリーマンも後に続こうとする。亜弥香はしばし逡巡した後、前方へ歩を進めた。
奥の部屋も右側は崩れていて、学生達三人の姿が見えた。亜弥香から見て右側の壁を照らしている。そこにはアニメのポスターが貼ってあった。長髪の少女と、日本刀を構えた男性が背中合わせで描かれたもので、本来、少女の左眼があるべき場所はコンクリートが剥きだしになっていた。ポスターのデザインではなく、どうやらそこだけ意図的に刳り抜かれたらしい。
亜弥香は左のほうを見た。意匠化され、鮮やかな色で塗られた文字が、壁の上で踊っている――träumerei。
次に前方奥を照らす。暗がりに、上下階段が見えた。安堵の溜め息が零れる。階段を下りていけば、この建物から出られるはずだ。外へ出ればここがどこか判るだろうし、携帯電話も繋がるだろう。亜弥香は一旦部屋を出、学生達のいるほうへ向かった。
すっかり朽ちた壁の向こうは、それまでの部屋より広い空間だった。正面に故意に隻眼にされた少女の画があり、左側は壁。男子学生と女子大生、それにサラリーマンの三人は、向かって右側、亜弥香が発見した階段とは反対側の、行き止まりのスペースにいた。……違和感を覚える。
男子学生が奥の壁に手を当て、何か探っていた。女子大生もすぐ横の壁を軽く叩き、頷く。
「やっぱりだ」
男子学生が向き直り、背後の壁を示す。
「多分、この先にも部屋がある。けど、壁で塞がれちまってる」
「こっちも。外まではまだ空間があるはずなのに、向こう側に行けないようになってる」
女子大生も、自身が探っていた壁を指さした。
違和感の正体はそれだったのだ。建築学に詳しくない亜弥香でさえ判る。ビルの規模やら何やらを考えると、まだ部屋があるはずなのに、そちらへ行けないようになっている。明らかに打ち捨てられた廃ビルという様相なので、間取りが変えられてしまったのだろうか。……それにしては妙だ。壁が取り払われている、というのなら廃ビルとしておかしくないし、現に亜弥香たちのいる側は壁が壊され、ほぼ一続きになっているというのに。出入口を失くし、塗り込めたのには何かわけがありそうだ。
いや、それよりもいまは脱出することが先決だ。
「あの、階段を見つけました」
「ほんと!」
三人の顔がぱっと綻ぶ。もし塗り込められた先に出口があったら、このビルに閉じ込められるところだったのだ。
「あっちです」
亜弥香は来たほうを指さした。
「あれ?」
女子大生が困惑の声を上げる。
「あの人は?」
瞬間、亜弥香も気づく。いつの間にか、OLがいなくなっている。
周囲に呼びかけ、照らしてみる。いままで通ってきた道を引き返して捜してみるが、OLの姿はない。
「先に下りて行っちゃったのかな」
困惑しつつ、四人は階段の方へ向かった。
階段に足を乗せると、静寂のなか、びっくりするほど音が響いた。気づかれずに下りることは、まず無理だろう。
「あの人、エレベーターで行っちゃったのかな」
女子大生がぽつりと零した。その声音には、抜け駆けされた、という憤慨より、無事であってほしい、という期待が込められていた。
亜弥香たちは無言で階下へ向かった。いくら下っても変わらない階段の景色は不安と焦燥を否応なしに掻き立てたが、何か言おうとしても言葉が出てこず、ひたすら足を進めるしかなかった。
「たしか、ここが一階だよな」
三階分下ったとき、先頭の男子学生が声を上げた。先ほどまでいた階は、四階であったはず。なら、ここが一階で間違いない。まだ下り階段はあったが、おそらく地下へ向かうものだろう。
皆、ほっと息を吐いた。なぜこのような場所へ来ることになったのかは判らないが、ともかく、やっと帰れる。疲労と安堵が口から漏れ出た。
階段から出てすぐの部屋、向かって右側の壁は落書きされていた。意匠化された「träumerei」。亜弥香は首を傾げた。これと同じものを見たことがある。色遣い、大きさ、aの上の¨の動き、何から何まで一致する。
左の壁は取り払われていて、奥の壁にアニメのポスターが貼られていた。剥がれかけたポスターには少女と男性が描かれていて、中央、ちょうど少女の左眼の位置に、ぽっかりと穴が空いていた。
頼りない灯でそれらを照らしながら、男子学生と女子大生は意を決したように、前方へ足を向けた。おそらく二人も、亜弥香と同じ不安を感じているはずだ。唾を飲み込み、後へ続く。
一続きになった、朽ちかけた部屋を通り抜けた先に、エレベーターがあった。前方の壁はコンクリートで、出口はない。エレベーター上の数字を確認する。……端末の灯のなか、「4」の字が、嘲笑うようにそこに在った。
「……っ、な」
「……え」
「う、そ」
言葉は三者三様、しかし驚愕と困惑、そしてどこか予想が当たった、という絶望は一様。
先頭の男子学生が踵を返し、そして気づいた。
「!? おっさん、どこだ!」
OLに続き、サラリーマンまで消えている。
「くそっ」
男子学生は来た道を戻ろうとする。女性二人も、姿を見失わないようにと、必死で後に続く。
手前の部屋に飛び込む。窓の外は摩天楼の群れと曇り空。まるで、四階から見えるような景色。
「ちくしょう!」
男子学生が窓を開けた。すると。
灰色の空間が現れた。ガラス越しに見た東京の風景ではなく、さながら、廃墟のような建物の、内部のような部屋が。
「なんなんだよ、なんなんだよ」
男子学生が、身を乗りだして窓枠を越えた。着地すると同時に、背後からタン、と音がした。
とっさに振り返る。窓枠を越えて、向こう側へいったはずの男子学生が、なぜか奥の部屋に出現していた。
男子学生は驚愕の目でこちらを見返し、間髪入れず振り向いた。もちろんそこに窓などない。二次元の少女が、右眼だけで見つめ返しているだけだ。辺りを見回す。三方が壁の部屋は行き止まりで、しかし前と右奥に部屋が隠されている。
「なんなんだよ、ありえねーだろ」
堪えかねたように男子学生が吠え、身を翻し再び階段へ向かった。そのまま下りて行ってしまう。
「待って!」
女子大生が追いかける。二人分の駆け下りる音がうるさいほど響き渡る。
亜弥香は躊躇い、結局、留まった。ばたばたばた、という音は一向に遠ざからない。
突然、階上から人が駆け下りて来た。びくつき、とっさに上を照らしだす。
眩しそうに目を細める、女子大生の顔が映しだされた。
「なん、で……」
階段を下へ向かったはずの女子大生が、階上から下りてくるのか。
「え?」
女子大生は辺りを見回し、亜弥香と顔を見合わせる。
「え、どうして……エレベーター使って……ない、よね」
「は、はい」
女子大生は、なおも不安気に視線を右に左に動かす。
「…………タケシは?」
「はい?」
「アタシより先に下りてったよね? 見たでしょ。どこ行ったの?」
先ほどの男子学生のことらしい。二人は知り合いだったようだ。
「いえ、あの、戻ってきたのはあなただけです」
「……うそ」
亜弥香が告げた途端、女子大生は唇を戦慄かせ、
「いや、タケシ? タケシ!」
階段を駆け下りはじめた。亜弥香はとっさに呼び止めようとしたが、間に合わず、女子大生は暗闇のなかに消えていった。エコーがかった、駆け下りる足音は、今度こそ遠ざかっていった。
身体の芯がさあぁ――、と冷えていく。これまでも人が消えていくたび、悪寒のようなものはあった。しかしいま、それまでとは比べものにならないくらいの恐怖と心細さが濁流となって亜弥香を飲み込み、洪、と押し流して溺れさせようとしていた。
静寂。ついに、亜弥香一人になってしまった。
沈黙。何も言葉が出てこず、独語さえできない。
なのに、微かに音がする。
エレベーターの駆動音。振り返った。奥の部屋が明るい。駆けだした。ランプに灯が点いている。音はだんだんと近づきつつある。光が点滅し、チン、という音と共に、到着を知らせた。
亜弥香の顔がくしゃくしゃに歪んだ。これで助かる、という直感が顔一面、身体の隅々まで行き届いた。
部屋に飛び込むと、ちょうど二人の人物がエレベーターから出てくるところだった。先に小柄なほうの人影が降り、次いで、比較的背の高い人が降りようとした。
と、後から降りようとした人物がかっくん、と蹴躓いた。そのまま、故意ではないかと思うほど大げさに空中を掻き回しながら、最後は顔面から床に倒れ込んだ。その背後で、扉が閉まろうとする。
「あぶない!」
小柄な人影が、慌てて転んだ人を引っ張り出した。猛スピードで閉まりつつある扉に、危うく足を挟むところだったのだ。先ほどのOLと同じく、エレベーターの扉に対し建物側の出口の大きさが合わなかったせいで転んだようだ。
間一髪、足をプレスされずに済んだ。しかし、亜弥香は脱出の機会を失い、二人は亜弥香同様ビルに閉じ込められることになってしまった。
光に慣れた眼が、暗闇のなかにうっすらと、二人の姿の残像を映しだしていた。
膝に僅かな痛みを感じ、それからやっと、すとん、と下降する感覚が追いつく。どうやら崩れ落ちたみたい。ただ、大げさに嘆いたり、涙を零すことはなかった。脱出には失敗したものの、再び一人ではなくなったからだろうか。
「暗いっす~、灯はどこっすか~、どこにいるんすか~」
まだ幼さの残る、よく通る声が、暗闇に反響した。しかし、その調子にあまり狼狽えた様子はなく。この状況を楽しんでいるようにさえ感じられた。
ぱっと、光が咲いた。暗順応に移行しつつあった眼が、再びの光に眩んで、瞑るだけでは堪えきれず顔ごと背けた。エレベーターから降りてきた二人のうち、小柄なほうがタブレットを起動していた。灯が遠いため、持ち主の手元から口元にかけてがちょびっと見えるだけでしかないが。その灯に引かれるように、もう一人が近づく。
「あ、そこにいたんすか。心配しましたよ。いきなりすっ転ぶし。しゃんとしてくださいね」
「ふぉはえはふひひひふぁ」
応えた声は、なぜかくぐもっていたが、言いたいことは明白、「おまえは何様だ」。
「ふう、ま、首尾よく立ち入れたっすね。よかったよかった」
「ふーあい。へっほふふぉはえ、ふむむふむふむ」
「細かいことは気にしない。さ、早く建物の起点を探しましょう。にしても暗いっすね、灯を持ってくればよかった」
「あのっ」
ようやく上げた声は、嫌になるほど大きく、コンクリートの壁にわんわんと反響した。二人がこちらを向いたのが、気配で感じられた。
「誰すか?」
二人が近づいてくる。それにつれ、タブレットで照らされて見える範囲も広がる。亜弥香は立ち上がった。
まず目に入ったのは、十代前半らしき少年だった。背は低めで、手足は細く肌は白い。懐こそうな顔立ちで髪が跳ね、黒と白を基調とした服装が男の子としては薄い体躯を覆っている。ふわりとした、やわっこく軽そうな外見と雰囲気をもつ一方、黒目がちの円い眼には、冬の夜の湖底のごとき深く艶やかな、底知れない光が湛えられ、それが何とも印象的だった。
亜弥香は次いで、少年の傍らに立つ人物に視線を移した。思わず眉が跳ね上がる。
少年より背の高いその人は、顔の半分を眼鏡、もう半分をマスクで隙間なく覆っていた。呼吸するたび、眼鏡のレンズの光の屈折の度合いが変わる。暗いのも手伝って、人相がまったく窺えない。偏見かもしれないが、どのような理由にしろ、顔をすっかり隠しているというのは、それだけで不信感を煽らせた。大きめのコートを纏っているため、身体の線も定かではない。ただ亜弥香は、直感的に、男の人だ、と判断した。
「えっと……」
少年が言葉に窮していると、不意に、男性がコートのポケットに手を突っ込み、自身の端末を取りだした。画面を点け、何か操作しだす。亜弥香の頭のなかで、ちり、と音がした。
「それ! 外と連絡とれますか!?」
気持ち大きくなった声が、壁によって増幅され二人を打つ。男性はびくつき、端末を取り落としそうになった。
二人は顔を見合わせ、タブレットと端末を弄った。
「えっと……外とは無理みたいっすね」
「そう……」
亜弥香は項垂れた。予想はしていたが、いざ断定されるとやはりがっかりする。
なおも外部との通信を試みているのか、男性は端末を操作し続ける。少年は自分より背の高い亜弥香の顔を見上げ、尋ねる。
「お嬢さん一人っすか」
「え、うん。他にも人がいたんだけど、皆いなくなっちゃって」
「そうっすか……」
「あのっ」
タブレットに視線を落としかけた少年を呼び止める。
「何すか」
「なんでそんなに落ち着いてるの?」
少年は、タブレットを一撫でして顔を上げ、眉をひそめて小首を傾げてみせた。
「……別に落ち着いてないっすよ。駅でエレベーターに乗っただけなのに、まさかこんなところに着くなんて思いもしなかったっす」
「嘘」
すぐさま否定する。
「あなた、さっき言ったじゃない『首尾よく立ち入れてよかった』って。『建物の起点を探す』とも」
「……」
「……」
二人は何も言わない。ただ黙って各々画面を見ている。なので、さらに詰め寄る。
「ねえ、建物の起点って何? ここはどこなの? どうしたら帰れるの?」
男性の口元が動き、マスク越しに、くぐもった音が漏れる。
「ほいふへ」
「なんて言ってるの?」
「ほいふへほひっはむはむ」
「判んないから!」
亜弥香は拳を固めて振り下ろした。気圧されたように、二人は少し退いた。しかし、なぜか先ほどから、タブレットや端末から視線を完全に逸らしてはいない。同時に、亜弥香に画面が見えないようにもしている。
焦れったくなり、少年の手からタブレットをひったくった。画面を見ると、チャットのようだ。
9☆ミ:犠牲者でしょうか
Tomohiro:そのようだね
9☆ミ:どうやって撒きましょう
Tomohiro:隙を見て
9☆ミ:一人っす。らくしょーっすね!
9☆ミ:やばいっす
9☆ミ:ごまかしきれないっす
9☆ミ:もうだめっす(T_T)
「何よこれ! チャットできんじゃない!」
「いや、ほんと、外とは連絡つかないす」
「何言ってんのよ」
亜弥香は画面の上を見た。電波が来ていない。
「……」
「だから言ったでしょ。外とは無理だって。それ、彼と円滑に会話するシステムなんすよ」
「へ」
亜弥香の手のなかで、画面が更新される。
Tomohiro:ツユクサ
Tomohiro:もう、ばらしちゃおう
画面を覗き込んだ、少年の表情から、
―――――――――――――――――――――――――暗転
同日同刻。都内某所。
東京といえど、人通りの少ない場所はある。人通りがない場所はもはやないだろうが。たとえば、ある駅から隣の駅へ至る、線路下のわりと細く暗い路地。そういったところはけっこう、人気がない。歩くよりも鉄道を利用する人が多いのだろうか。通りがかる電車の音が耳障りなのだろうか。いずれにしろ、独りになりたいときに独りになれることは、もはや有難いことかもしれない。
いまにも降りだしそうな天気も相まって、ますます人気のない、とある、そういった駅間の路を、一個の人影が歩いていた。
黒い靴。黒いコート。黒い髪。全身すべて黒づくしの人影は、まだ雨は降っていないというのに傘を、やはり黒い傘を広げていた。そのせいで風貌を窺い知ることはできない。ただ、風にたなびく長い髪と、歩くたびちらちらと舞い落ちる白っぽいものだけが、妙に印象的だった。
不意に、人影はひゅうう、と息を吸い込んだ。どこかでひゅううと、何かが応えた。しゅうう、と歯でもって音を立てて息を吸った。またしゅううと、同じ音がどこからかした。谺のように、人影の呼吸を、いないはずの誰かがなぞる。
人影はくつくつと笑う。哂う。嗤う。少し間が空いて。
嗤い声は返ってこなかった。ただ、呆れたような吐息が。
人影を、消し去った。
―――――――――――――――――――――――――明転
少年の表情から、仕草から、歳相応の愛らしさと共に誤魔化しが消えた。いや、そもそもいままですべて虚偽であったかのように、がらりと雰囲気が変わった。一瞬、あどけなさの残る顔から表情どころか筋肉の動きの一つ一つまでもが消え、人形よりも表情のない、感情のない。完璧なニヒルに成った。と思ったら次の瞬間には、拗ねた子どものような表情を浮かべ、元の愛嬌のある状態に再び変わっていた。
そう短くない間付き合ってきたとはいえ、少年がたまに見せるこういった変貌に、彼はいまだに慣れないでいた。
少年は、ふぅー、と溜め息をつくと、
「……判りました。じゃあ、あなたから見た現状も教えて下さいね。まず、あなたの名前は?」
「え、」
一瞬前の変化に呆気にとられていたようだ。立場が逆転した。見た目中高生ほどの、制服を纏った少女は狼狽え、おずおずと「麻生、亜弥香」と名乗った。
「では亜弥香嬢、どうやってこのビルに来たのか。このビルで何があったのか。教えて下さい」
少女……亜弥香は、訥々と語り始めた。彼は、そして少年も、黙って話を聞いていた。暗く冷たい空間に、亜弥香の声だけが反響する。
概ね、予め聞いていた他の犠牲者の証言と同じ内容だった。ただ、このビルには(おそらく)人為的な細工によって行けなくなっている階と区画がある、という新情報を得た。
亜弥香が一通り話し終えた後で、少年が口を開く。
「よく判りました。でも、そんな悲嘆することじゃないっすよ。消えた人も、亜弥香嬢も、無事ここから出られるようにできますから」
そのために、僕らは来たんですから。
亜弥香は彼と少年を見つめる。これまで私が何もできず、打つ手なしだったというのに、いきなり現れたいろいろ胡散臭そうな二人組が果たしてこの、文字通りの袋小路を破ることができるのか。むしろますます胡散臭さが増した、と言わんばかりの、不審と不信の貼りついた顔で。
その表情と心情をよそに少年は明かす。静謐に、厳かに。
「僕らは、“お悩み相談事務所・異界系”の事務員っす。あなたも噂くらいは聞いたことがあるでしょう。東京都を中心に発生する超常現象の数々と、それに対処する集団があるって。今回は、“事務所”上層部の指令で、ここ最近問題になっている怪奇物件の調査に来ました」
「……え? え? まさか……“どこにもない事務所”」
「近頃では、そう呼ばれることが多いようですね」
不審の色に予想斜め上の答えに対する呆然のアクセントを添え、純粋な驚愕を少し混ぜた顔で二人を見比べる亜弥香をよそに、少年はとびきりの営業スマイルを浮かべてみせる。
「最近、エレベーターを利用した人がどこかの廃墟に引き込まれる事件が多発してましてね。被害にあった人は怪我もなく帰還できるそうなんすけど、数日間物事に鈍くなってしまうそうで。で、僕達が調査に来たってわけっす。まあ、現地で引きこまれた人と鉢合わせするのも想定内だったけど、あなたと会ったのはホント偶然す。それにしてもラッキーっすよ。普段は他ペアからの委託以外では電話か直接会ってでしか依頼できない、エンカウント率が限りなく低い東京担当のエースに、頼んでもないのに解決してもらえるなんて」
先ほどの厳かな雰囲気(それほど改まる必要はなかったのだが)から一転、少年は通販のセールスマンのように捲し立てた。
「紹介します。彼は春秋冬朋尋。怪異対処の実力は“事務所”内ナンバースリー。東京担当三組のなかでは堂々のナンバーワン! 依頼達成率はなんと、“事務所”全体のエースである栃木の姫柳女史と並び100%! あ、僕は窓口担当の九三露草っす」
「ふふっふ、ふーふんふふふむ」
「まあ、口語による意思疎通はこのとおりっす」
少年――露草は、タブレットを取り返すと、改めて亜弥香に画面を見せた。
「付き合いが長いとある程度判ったりもしますが、基本、普段の会話は筆談によるところが大きいっすね」
「え、でも、ちょっと待って、え?」
あまりのことに、亜弥香は混乱しているようだった。見かねたように、彼――春秋冬朋尋は、腕を左右にゆっくり振って、戻すのを繰り返してみせた。意図を汲みとった亜弥香は、すぅ、はぁと深呼吸する。
「……じゃあ、あなた達は初めからこのビルに来るつもりだったのね」
「はい。どのようにして来たかは、企業秘密っすけど」
「ここから出ることもできるの?」
「はい。もちろんっす」
「ふぉはえははふんはふぁいむむ」
朋尋は突っ込んだ。彼らの乗ったエレベーターがここに辿り着くよう仕向けたのも、これからビルの異常を解決し、亜弥香達を帰すのも、朋尋がやることだ。露草が得意になるのはいい気がしない。
「まあまあ。ともかく、あなたを帰すのは、僕らの仕事が終わってからになるけど、いいすか」
亜弥香の顔がぱっと綻んだ。こうして見ると、なかなか可愛らしい顔をしている、ようだ。暗いせいで断定はできない。
朋尋は軽く眼鏡を押し上げると、部屋の奥、エレベーターの向かいの壁を見やった。……もはや指摘するまでもないが、彼は眼鏡が曇っていても方向くらいは判るのである。
「ほっひれひーほあ」
「?」
壁を指差し確認するが、亜弥香には伝わらない。
「えっと、確かこっちの奥は行き止まりなんすよね」
「え、ええ」
露草の翻訳を受け、ようやく亜弥香は頷く。確かに、エレベーターのある部屋から見て、ちょうどそちらの空間に行けないようになっていたはずだ。
「さて」
露草は朋尋にタブレットを預けると、亜弥香に向き直った。
「精神的な檻を破る方法は知ってますか」
「え、」
「簡単すよ。檻を作った者を尽く裏切ればいい。要は相手にしなければいいんすよ。檻も作成者も容赦なく、相手が可哀想になるくらい徹底的にシカトするんす。いじめられっ子がいじめっ子の興味をなくす方法と同じっすね。こちらに『在る』と思わせて閉じ込めるのが目的なら、『在る』と思わなければいいんす。閉じ込められた~、ってアクションするから檻が強固になるんすよ。反応しなければ案外脆いっす。そこで矛盾なり弱点なり突いて崩せばいいんす。簡単でしょ」
「え、え、でも」
言いながら、露草は肩から鞄を外す。亜弥香は声を荒らげた。
「でも、ここは精神的な檻じゃないよ! 実際閉じ込められてるじゃん! 破るなん……」
ヒュオン、と風を切る音がして。白いものが疾く、少女の目の前を掠めていって。総てを後ろへ遣るような、もの凄い風圧が発生すると同時に。がらがっしゃ~ん、みたいな、この場に似つかわしくない、コミカルな音が轟いた。
露草が振り回した鞄が、見るからに重厚なコンクリートを突き破って、大穴を開けていた。
「物理的なら、もっと簡単っす」
なんてことのないように言うと、鞄を元の位置に戻し、朋尋からタブレットを受け取って、露草は瓦礫の山と穴の縁を跨いで向こうへ渡っていった。
が、当然、亜弥香にはいま起きたことが信じられない。
(え? 遠心力? 鞄の重量何t?)
当然ながら、建物に使われるようなコンクリートの壁をぶち破るには鉄球付きの重機が必要になる。露草にも、彼の鞄にも、それに相当するだけの破壊力があるようにはどうやったって見えない。混乱する亜弥香の前に、端末の画面が差しだされた。
Tomohiro:ツユクサは基本、天然。たまに何も考えてなさすぎて不気味なくらい虚無になることがあるけど、能天気なだけだから
亜弥香としては、先ほどの表情の解説よりも――解説になっているかは微妙だが――いま壁をぶち破った不思議を説明してもらいたかったはずである。タイミングがずれているところを見ると、朋尋のほうこそ天然ではないか、と錯覚してしまいそうになる。が、端末を見せている人物は俯いて肩を震わせている。確信犯かこのやろう。
「あの……ええと、」
言い淀んだ亜弥香の意を汲んで、端末の画面を更新する。
Tomohiro:春秋冬と書いて、「なつなし」
「ああ、なるほど。……へえ~」
亜弥香は感嘆の声を上げた。彼の苗字を見た人は、大方その反応をするのだが、やはり誇らしい。満足して、先を促す。
「あの、春秋冬さん、追わなくていいんですか」
「二人とも、早くぅ~」
ちょうどそのとき、露草の声が聞こえてきた。頷き、亜弥香を先に通してから、朋尋も穴を越える。
穴の向こうは小さな部屋で、奥の壁の前で露草が待っていた。
「どうやら、目指すものはこの向こうみたいっす」
焦れったそうに、露草が再び外した鞄を振る。亜弥香は眉を顰めた。ならば、二人を待たずに壊してしまえばいいではないか、と言いたげだが。マスクのなかで朋尋はにやける。実は、露草が壁を壊せたのは、朋尋の“口添え”があったからなのだ。
合図を送ると、露草は鞄を振り上げた。亜弥香が後ずさる。再びの衝撃と轟音。飛び散る瓦礫。眼鏡のレンズに砂がびっしりとこびりつき、視界を奪う。
破壊の余韻が収まってから、眼鏡を外してレンズを拭う。一瞬、視界に色と形とそれ以外の総てが溢れた。再び眼鏡を掛けるとそれらは消え、正面に空いた大穴だけが彼の視線を独占する。
大穴の向こうから、仄かに光が溢れでていた。
「行くっすよ」
恐れなど欠片もないように、露草はさっさと穴を超えていった。ここで露草を放置したらおもしろそうだが、それをやると今度こそむくれそうだ。朋尋は亜弥香を伴い、穴をよじ登った。
* * *
向こう側は広かった。比較的左右に広がりを持った、おそらく三十畳以上の空間。壁、床、天井はいままでの部屋と同じくコンクリートで、窓はない。いままで見てきた構造と合わせても、この建物が元は何のために建てられたのか、なぜ閉鎖されたのかはまったく判らない。……まあ、そんなもの、後で調べればいいだけだ。
学生らしき男性がいる。勤め人らしき女性がいる。セーラー服の少女がいる。車椅子の老人がいる。ベビーカーに乗った赤ん坊と、母親がいる。多くの人間が、床に倒れ、或いは蹲り、仄かに発光している。いや、よく見ればそうではなく、緑色の、桃色の、灰色の、淡い燐光に覆われている。しかし、そのほとんどに、いま、身体がなかった。
と、視界の端で、何かが動く気配がした。とっさに顔を向ける。亜弥香には見覚えのある、学生らしき女性だった。
女子大生は床に倒れていたが、半分上体を起こし、もう半分を置き去りにしたまま立ち上がった。分裂して、二人になった、かのように見えた。
まるで、蛹を突き破る蝶のように。女子大生は起き上がった。なのに、床には未だ、彼女が横たわっている。顔も、服装も、髪の一房までまったく変わらない。しかし、立ち上がった女子大生は生きた人間そのものであるのに対し、床に横たわったままの女子大生は半透明で、淡黄色に光りながら、目を瞑っている。まるで幽体離脱のようだ。いや、どう見ても置き去りにされているほうが幽霊よりなので、体幽離脱、といったところか。
殻を脱ぎ捨てるように立ち上がった女子大生は、ふらふらとおぼつかない足どりで部屋の隅へ歩いて行くと、再び倒れ込んだ。そこには彼女の他に、OLらしき女性やサラリーマン、男子学生らしき人影が倒れていた。
露草は彼らに近寄ると、
「生きてるっす」
呼吸や脈を確かめた。
しかし、そのことを心に止めたはしたものの、亜弥香も、朋尋も、そちらのほうを見ていなかった。床に広がる、光と輪郭だけの人々、そのむこうに居るものを、凝視していた。
「な、なに、あれ……」
亜弥香が怯えた声を上げる。
壁から床に張りつき、静かに息づいているのは、一個の巨大な繭だった。薄紫色に発光するそれは、大人の男性五人が横に並んだくらいの大きさがある。内側から溢れだす光が、膨らみ、萎み、を繰り返し、波打っている。中身は、生きている。繭が伸ばした糸のうち、床か壁に張りついているものはピクリともしない。しかし、蕾を持った植物が根を伸ばすように。繭から出た、藤色の糸がするすると、人々の輪郭に纏わりつき、絡め、包み込んでいる。
そっと、亜弥香が。床に横たわる人の形のうちの一つ……仄白い赤ん坊に、おそるおそる、触れた。すると、赤ん坊が解けた。
「ひっ」
悲鳴に、朋尋が振り返る。亜弥香はとっさに手を離したが、すでに遅い。一瞬まで赤ん坊を形作っていた糸は、瞬く間に彼女の手に纏わりつき、腕を伝って首まで絡みついてきた。
亜弥香は糸を外そうともがく。しかしその手は糸をすり抜け、掴むことができない。そうこうするうちに、薄く紫色にグラデーションのかかった糸は亜弥香の顔にまで達する。朋尋は亜弥香に伸ばされている糸を断ち切ろうとした。しかしやはり、すり抜ける。しかも、糸は朋尋の手にまで纏わりついてきた。
「――っ」
とっさに、朋尋は亜弥香ごと床に倒れ込んだ。思いっきりずさーっと倒れ込み、一気に繭との距離を稼ぐ。肩や膝が擦れたが、亜弥香には極力被害がないよう努めた。速さについていけなかったのか、二人に絡みついていた糸が外れる。呟き。しかし、なおも糸は二人を追ってきた。が、それは叶わなかった。
触手のようにのたうつ糸は、朋尋の顔の先1mに至ったところでびくつき、まるでそこにガラスの壁があるかのごとく拱いている。
亜弥香はぼんやりと、それを眺めていた。いきなり突き飛ばされたのは驚いたけれど、庇ってもらったおかげでさほど影響はない。
顔を上げた。朋尋が、半分だけこっちに視線を向けていた。さっきの勢いで、マスクが吹っ飛んだらしく、顔が露わになっている。
息を呑む。まだ若い。眼鏡とマスクのせいで表情が掴みづらいのを除いても、感情表現が豊かとはいえない、むしろ乏しい様子といい、全体的に落ち着いた、老成した雰囲気といい、先ほど露草が話していた来歴といい、身に付けているものの飾り気のなさといい、亜弥香は、少なくとも自分の倍くらいいっているものと決め込んでいた。ところが。怪奇現象対応のプロ、それもエースだという男は、思っていたよりもずっと、遙かに若かった。外見の若さ、というのもあるが、その顔つきにはまだ若輩の気配が残っている。せいぜい二十歳そこそこ、それどころか、まだ十代ではないかと思うほどに。
完全に相貌が窺えなかったせいか、マスクが外れ、眼鏡が曇っていない顔は、調子抜けするほどまともだった。眉と眼が二つずつ、鼻と口が一つずつ。眼の周りには睫毛があって、東洋系、もっといえば日本人的な顔のつくり。特に突出するところのない、整ってはいるが、けれどあくまで常人の域をでない顔立ち。変わったことといえば……ずれた眼鏡の奥、黒い瞳のなかで、異なる黒が一定でないことくらいか。黒の上に、より濃い黒がゆっくり渦巻き、たなびき、逆巻く。空を流れる雲のように、濃淡の様々な黒が、虹彩のなか巡っている。しかし、眼の大きさも、色……黒の一つ一つ自体は、特に目立つようなものではなく。あくまで、“普通の人”という印象を与え続ける。
【大丈夫?】
――コエが、した。
何と言ったのか、亜弥香には理解できなかった。
……いや、聞きとることはできたのだ。しかし、それはただの「音」の羅列のように、亜弥香の頭のなかで、意味を持つ「言葉」に変換されなかった。外国人の言葉に被さる翻訳の声のように、彼の口から発せられてから、一テンポ遅れて、別のところから意味が添加されたように。亜弥香の知らない、伝わり方。ノイズのないのにくぐもった、心地好い、はっきりとした、なのに響くことのない言の葉。
“聞こえるのに、聴こえない”。
亜弥香の頭は混乱していた。
そんな彼女の様子をさして気にするでもなく、朋尋は立ち上がる。説明は露草に押しつけることにする。眼鏡を完全に外し、繭を捉える。
「え、え、なにいまの」
「ん、どうやら、これは精神体の一部っぽいっすね」
戸惑う亜弥香を無視し、露草が足元の人影を指すのが、視界の端に映った。その様子も、はっきり見える。いや、視える。視えすぎるくらいだ。
「部屋の隅に積まれた人々は生きてるけど、床に置き去りにされたこれらに、生者の反応はない。生気は感じるけど、肉体はここにない。おそらく、本体は既にこのビルの外に排出されているのでしょう。ここに残っているのは、精神の一部にすぎないっす」
もちろん、そんなことは朋尋には判っている。説明するのは、亜弥香のためだ。
本来なら、亜弥香も捕らえられ、意識を失っていたほうが説明の手間は省けるだろうが。いままで調子に乗っていたぶん、露草にも働いてもらおう。
眼鏡を外したおかげで、視界から入ってくる情報量が倍増どころか、何乗にも増加する。目を細め、繭を観察する。息を吸う。新鮮で少し冷たい空気が肺を満たす。
「何者かが、いままで立ち入ることのできなかったこのビルに人を引き込み、精神の一部を切り取ってから再びビルの外へ戻した。だから、ビルから生還した人に外傷はなかった。けれど、奪われた分の精神が回復するまで、それまでとは状態が異なってしまった。物事に動じなくなったのはおそらく、ここに残されているのが感情の起伏に起因する部分だからでしょう」
「な、なんでそんなこと」
亜弥香の声は震えている。超現実的な光景を目の当たりにして、捕えられかけて、すっかり怯えてしまったようだ。……その当たり前の様子が、朋尋には羨ましい。
「そりゃ、あれのためっすよ」
露草が繭を指さす。先ほど“呟いた”おかげで、こちらに糸が近づいてくる様子はない。しかし、糸は床に転がる、透けた人型の思念の塊に触れ続けている。
露草は、手近な人の輪郭を靴の爪先で小突こうとした。足は輪郭をすり抜け、触れることはできない。
「あの繭は、こちらに触れることはできても、こちらから触れることはできない。完全な一方通行。つまり物理的なものではない。この世に存在しない虚像。だから、肉や脂からではなく、心から栄養を摂っているわけっすね」
糸が小突いていた、老人の想念がくずおれた。複数の糸が蠢きながら群がり、さらに解し、絡めとって繊維状になったそれを繭まで運んだ。繭の縁に触れると、瞬く間に溶け込んでいく。
「な、何のためによ!」
すっかり怯えた心を誤魔化そうと、亜弥香はどうでもいい質問を重ねる。
「そりゃ当然、成長するためっすよ」
繭の内側に居る何かは、ゆっくり、僅かに、しかし確実に律動している。生きるため、大きくなるため。生物の最も原始的な欲求のために、他者から栄養を吸収する。生き物なら誰もがやっていることだ。しかし……。
【悪いものだ】
「? ……そ、そりゃあ、人間の心を食べるなんて、悪いものに決まってるじゃない!」
会話は成立したかのように思われた。しかし実際には、朋尋の言葉は伝わらず、亜弥香は意味だけ汲みとって相応しいことを“述べた”だけにすぎない。彼女自身は気づいてないが、“答えた”わけではないのだ。意思疎通はできても、生の応答はできない。……朋尋の声とは、そういうものなのだ。
【いいや。異界ではなく、この世界の内側から発生した虚像は皆、精神を糧にする。それしか食べられないからね。そのなかでも今回のは、いまのところ誰も殺してないし、性質は充分良い奴だよ。でも】
紫色の光が、寄せては返す波のように瞬きながら、糸状の餌をカペッリーニでも食べるかのように吸収している。
【人の精神は、とても複雑だ。男も女も、老いも若きも、ここまで複雑で、ときとして非合理的に考える種族はそんなにない。都会は特に気苦労が多いから。妬み、恨み、ストレス、プレッシャー……負の感情をまったく持たない人間なんていない。そういったものを吸収したせいで、もともとは無色だったと思うけど、いまはあまり良くないものに変質したんじゃないかな。このまま羽化させるのは、多分あまり好ましくない】
そもそも、ここに存在しないもの、何の影響も受けないはずのものは、透明や白のような、優しく汚れやすい色をしているはずなのだ。繭の色は……紫。すでに穢された証だ。良くないものを吸って、本来の在り方とは異なる、邪悪な存在へ変貌している。……駆除するしかない。無抵抗のうちに殺すのは少々、忍びない。しかし、いまはまだ羽化していないから、心の一部を奪うだけで済んでいるが、もしこれが解き放たれたら、人々は一方的な化け物の攻撃に、為す術もないだろう。廃人になるまで貪り尽くされてからでは遅いのである。
とっくに視終わってはいたが。敢えて、待つ。亜弥香がその疑問を口にするのを。
「でも、どうやって? 触れないなら、何もできないじゃん」
「そうっすね」
露草もまた、その問いかけを待ち望んでいたかのように。煌り、と薄く。嗤ってみせた。
「普通の人間に、アレをどうこうする力はないっす。一方的に干渉するものは、鏡の裏側に在るようなものっすから」
露草が、まるで鏡の向こう側、けして届かない世界を掴もうとするかのように、虚空に向かって手を掲げた。若干わざとらしい動作だが、幼い外見のせいか、それは無邪気で。どこか切なくなるような光景だった。
「アレには触れることができない。アレはこの世に既存のあらゆる法則から外れている。八は一よりも大きな数っすけど、八と鉢を比べることはできないっしょ。次元が、質が違うんすよ。だから、人間が考え出したどんな悲しい道具でも、アレを殺すことはできない。たとえ核爆弾でも、あの繭に傷一つつけることはかなわないでしょうね」
「そんな……まさか、さすがに、それほどすごいようには、見えないんだけど……」
と言いつつも、亜弥香の声には怯えが滲んでいた。その様子に気づいたのか、露草はくすりと笑う。外見にそぐわない、大人びた笑みだった。
「この界隈ではむしろ、見た目で判断しないほうがいいんすよ? 僕の知ってるものだと、とても可憐で思わず摘み取りたくなるけれど、近づくと地面が割れて根で人を食べる花だとか、ぬいぐるみみたいな見た目なのに中身は刃物がずらりと詰まってて、人を自殺に追い込んだりする怪物とか、むしろたいしたことのなさそうなものほどすごい力を持っているっす。けど、そういったものはしょせん、人が使える力、人の作った兵器でどうにかできてしまえるんすよ。あの繭は違う。人を傷つける力はないっすけど、代わりに人によって傷つけられることもない。ほぼ無敵っすね」
人にとってもっとも手強いものは、一度に何十人も何百人も殺せる怪物ではない。人によって管理のできない異質の存在こそ、人類にとって最大の敵である。たとえ外見や能力が人間より遥かに劣っていようと、それの行為に対して成すすべがなければ敗けるのだ。
「けれど、ね亜弥香嬢。世のなかには、たとえ目に見えない、触れることのできないものでさえ認識できる人間が、存在するんすよ。彼のようにね」
相も変わらず大袈裟な奴だ、と思いつつ、朋尋は少しだけ振り返る。きょとんとした亜弥香の顔。小気味いい。
「彼以外の東京担当は、けっこう条件が揃わないと力を発揮できないタイプなんすよ。触れないと無理だったり、すでに形が有ると無理だったり。けれど彼は“何でもあり”なんすよ。そのチートな能力の一つが“無差別の眼”。彼は、目に見えないもの、形の無いもの、触れないもの、音や臭いはおろか、原子、素粒子、思想や概念、構成、因果、摂理、真実、愛、あらゆるもの、本来存在しないものでさえ関わりなしに、世界の総てを――誇張ではなく、本当に総てを、視ることができる」
朋尋の眼には、常人には見えないものが、当たり前に視界に配置されている。周囲の情報が総て、視覚に置き換えられ、伝わってくる。それが何なのか、説明する余地もないほど、色や形と同様に、無差別に。この世を滅ぼす方程式でさえ、むしろ他の人間に見えないのが不思議なほど、鮮明に観測できる。
「先天的とはいえ強力すぎるから、脳が焼き切れないように普段は特殊な眼鏡で視界を常人レベルまで制限してるんすよ」
露草が、朋尋から預かった眼鏡のフレームを持ってふりふりしてみる。念のため、スペアはいつも持ち歩いているが、なるべく壊さないでほしい。
亜弥香にはいまいち、その凄さが判らないようだった。想定内のことだ。朋尋が他の人間の視界を想像することができないように。他の人間に、朋尋の世界は理解できない。
「……でも、視るだけじゃ」
「そうっす。正体や弱点が判っても、視るだけで、認識するだけで、何にもできないんす。眼だけなら」
今度は自身の鞄から、使い捨てマスクを取りだす。
「彼は舌も特別製なんです。認識できるものならなんでも、“あまねく総てに語りかける”ことができる。それは一方的で、だから、相手には伝わらない。人が神の辞を理解できないようにね。わかっても、認識できない。人の認識では、発声されたことを理解できても、耳と脳で感知できない。ただ語りかけるだけの力。それ故に、何者も拒むことはできない」
繭は、その内側で蠢くものは、徐々に律動の間隔を狭めつつある。おそらく、羽化は近い。そろそろ説明も終わりだ。朋尋は軽く、息を吸い込んだ。
「彼に語りかけられたものは“絶対”彼の意図に従わざるをえない。言霊とは違うっすよ。言霊は対象が『自ら』変わるよう強制しますけど、彼の言葉は、『自ずから』変わるよう世界に仕向ける。たとえば、手を挙げたくないのにむりやり挙げさせる言葉が言霊。けれど、そう仕向けられたとは気づかず、虫が付いてたとかで、挙げざるを得ない状況が作られていたら、そう世界を改変するのが彼の言葉っす。まあ、それができるのは“無差別の眼”でもって因果や概念まで視認できる彼ならではなんですけどね」
とにかく、と、畳みかける。
「人呼んで“全視全能”。それが彼、春秋冬朋尋の、東京担当実力実績ナンバーワンたる所以っす!」
露草が言い終わると同時に、朋尋は口に出した。何人も逃れられない、世界の理を歪曲するという言葉を。しかも、凡そ考えうる限り、かなり乱暴で無慈悲な現象を願う、一言を。
【拉げ】
六十四方向から圧を掛けられたように、繭の形が歪んだ。一瞬前まで、きれいな楕円形を描いていたのに、いまは見る影もなく。あらゆる方向から、大気に、空気に、重力に、引力に、容赦無い力に押しつぶされて、まるで潰れることを、世界中から望まれているように。
繭は、廃品回収に出す前のアルミ缶のごとく凹み、さらに絞った雑巾のように捻れて、それでもまだ圧縮され続ける。崩れた形を持ち直そうと、糸は手当たり次第に未回収の想念の塊を取り込もうとするが、そんなもの間に合わないほど無惨に、あっけなく繭は縮み続ける。
「おぎゃあ、ぎゃあ、ぎゃああ」
胸を掻き毟るような悲鳴が響き渡った。ただ生きたいと、外に出たいと願ったものが、世界に断固拒絶され、苦しみの叫びを上げている。生まれる前に聞こえる産声は切なく、傍観者である亜弥香でさえ、罪の意識に苛まれるほどだった。
【諦めろ】
繭を見据える朋尋は、いまどんな顔をしているのか。判らない。この眼でさえも見えないものがあるとしたら、それは一握りの限られたものと、自分の顔くらいだから。
【おまえは、いてはいけない。出てくる前に死ななければいけないんだ】
そうして。ほんとうに諦めたように、産声が止んだ。繭が潰れるのを待たずして死んでしまったように。
「……言葉も強力すぎて、オンオフが利かないんす。それでも、意志の乗らない言葉、語りかけることを目的としていない言葉は問題ないんす。確認とか、質問とか、感嘆とかは。けど、うっかり口に出して取り返しがつかないことになるとアレなんで、普段はマスクで伝わらないようにするんす。断絶することが目的なんで、こっちは普通のマスクでもいいんすよ。電話越しとかでも効力はないっすね」
異形とはいえ、一つの生物が悲惨な目に遭っているのをよそに、露草はお茶でも飲みながら話すかのように説明している。……莫迦な奴だ、と思うと同時に、恐ろしい奴だ、とも思う。
潰れて、潰れて、文字通り“拉げた”というのがふさわしい状態までぺしゃんこになって、やっと繭は止まった。
あっさりしていた。おそらく、ここまで成長するのにたくさん、たくさん心を食べてきたはずなのに。そのエネルギーを無駄にして、踏みにじって。ほんの数秒で。ただ、一言で。
搾取するものが消えたせいか。残留思念の余りは、繭の残骸と共にふわりと解けた。桃色の、薄青の、淡緑の、白の、薄紫の紐がばらけて、散って、羽毛のように舞い上がって空に昇っていく。ついに翅を生やすことのなかった何かのぶんまで。
【……きれいだな】
言葉と共に吐息が漏れた。斯くあれと願うことに、世界が沿うその言葉で、当たり前を謡う。
その極端な力は、ただ事実や感想を述べるときだけその効力を発揮しない。故に言葉を選べば、日常で困ることはないのだがそれでも、はずみで意志の乗った「呪い」を吐かないために。彼の小さな世界を守るために、彼は声を遮断する。……意志と言葉より、怖いものはないのだから。
【ツユクサ、マスクくれ。あと眼鏡も】
言うと、小さな身体がちょこちょことやってきた。いずれにしろこれは、露草自身もしようと思っていたことなので、世界改変の影響は少ない。
視界から、余計な情報が遮断される。ガラス越しに水中を見るように、複雑すぎて却って曖昧な世界が整頓され、落ち着きを取り戻す。マスクを掛け、ゴムを整える。なるべくレンズが曇らない位置にしたいのだが、いつもこの加減が難しい。顔の凹凸が少ないのだとしたらショックだ。
* * *
数時間までは想像もしなかった非現実の数々を目の当たりにし、まだ夢のなかにいるような亜弥香を伴い、倒れ伏したままの四人を何回かに分けて担ぎ、エレベーターまで運ぶ。全員運び終わると、亜弥香の最寄り駅の場所を聞き、マスクを外してエレベーターを呼びだす。ほどなくしてやってきた箱のなかに五人を乗せた。
「あなた達は……」
五人のなかで唯一意識を持ち続ける亜弥香が、朋尋と露草に問いかける。二人は顔を見合わせ、まだすることがあるから、と断った。
「はーふぁはん」
「はい?」
再びマスクを掛け直した朋尋の言葉が聞きとれず(結局、マスクをしてようがしてなかろうが聞きとれない声を出す男である)、亜弥香は首を傾げる。端末のメモ帳を開き、打ち込んで見せた。
『怖いようなら、忘れさせることもできるけど、どうする?』
「…………」
亜弥香はしばし黙り込んだ後、微笑んだ。
「ありがとうございます。優しいんですね、春秋冬さんて。でもいいです。忘れるって、なんか損ですもん。それに、繭が弾けるところ、とってもきれいだったから」
ほう、と一息入れた後。扉が閉まり、
「さよなら!」
よく通る声の反響を残して、エレベーターは去っていった。
「……」
「……さて」
くるりと踵を返す露草。いつもながら切り替えが早い。
「“建物の起点”判りましたか?」
「うむ。ひおんふぁ、」
早くもお手上げ、という顔を見、筆談に切り替える。
『基本は、重要な配置物の上、下、横。けど、ビルの外壁にあるとは考えづらい』
「了解。ところで」
露草はくるり、と再び回転。
「重要な配置物って、繭すか? エレベーターっすか?」
朋尋は、相手に見えない目で露草を睨んだ。実年齢より五歳は若く見えるこの男は、時折朋尋以上に物事の本質を穿ち、敢えて手遅れになるまで放っておく節がある。……それを意識せずにやってのけるのが、さらに厄介だ。
幸い、“事務所”上層部からの指令であるからか、いや、むしろ指令だからこそ、敢えて指摘したようだった。
「……」
相手に何かさせるより先に。マスクを取り外す。
【今回の指令は、“閉鎖ビル”に人が引き込まれる現象を調査しろ、だろ。まだ調査は終わってない】
宣言によって、退路を塞ぐ。
【……とりあえず、繭のあった、下の部屋から】
結局、繭のあった部屋やエレベーターの周囲に穴を開けまくったのは、徒労に終わった。肉体労働させられた、見た目十三歳だが実年齢は大して変わらない少年に視線で詰られ、若者は大いに気まずかった。
チン、とエレベーターが停まった。おそらくは内側から閉じられている建物の、その原因を探すためには、地道に床や壁を抜いていくしかない。しかし、けっこう壊しまくったおかげで、建物に仕掛けられた術式に綻びができたようだ。「もう起点が別の階にあるならエレベーターで行きましょうよ」という意見を受け、“全視全能”で向かった先は最上階だった。
扉から出てすぐの空間に、探し求めるものはあった。
床一面に描かれた同心円。その内側にヘキサグラム。その中心からやや離れた場所に、一重円とギリシア文字のφに似た印で構成された、比較的小さな陣。陣上に散らばった文字と図形の配置から、術式系統を割りだす。修得した魔法は“語りかけること”一つだけだが、それはあくまで実演に限った話であり、朋尋とて一通りの魔導教育を受けた魔法使いなのだ。床に敷かれた術式を易々と解読し、しばし逡巡する。
【……ここに仕掛けられているのは二重術式だ。ビルを閉鎖する術式に、別系統の術が上書きされている。おそらく、エレベーターだけ外部と繋がるように】
こつこつと陣の縁を靴の爪先で叩く。
予想はしていた。空間閉鎖術式が物理的に作用するのに対し、人の想念に干渉するあの繭は非物理的存在だった。“悪魔”とは違い虚像のまま存在していたので、異界から喚びだされたのではなく、世界の内側のどこかから流れ着いたか、運ばれてきたのだろう。二つの魔法陣に使用されている塗料も術形式も筆跡も異なっている。まずビルを密封した何者かがいて、それを利用しようとした別の誰かが上書きした、と考えるのが妥当だ。
疑問が幾つも頭を過ぎる。
【……まず、上書きした奴はどうやってここへ来たのか。繭が住み着いたのはそいつの都合なのか、そうだとしたら何のために……人の思念を、集めるためだろうか? だとしたら、】
一世代前までは、良質で膨大なエネルギーは“外側”からもたらされるという考えが主流だった。それを利用しようとするものは皆、悪魔や幻獣、異界の扉を捜し求めた。そのせいで、いまでは絶滅危惧種に指定された異界生物もいるほどだ。
しかし最近では、必ずしもそうではない、という考えが浸透しつつある。特に、他の生物よりも複雑な思考をする人間の精神は、ときに肉体を凌駕し、世界を動かす大きな流れに干渉することさえある。
自分では動けない繭は、餌のほうを呼び寄せようとした。それを利用し、何者かが大勢の人から少量ずつ、精神の一部を回収していたとしたら。
【まさか】
朋尋は額を抑えた。少し、考えが飛躍しすぎたようだ。このビルのことを知っていたとしても、内部に入るのは容易ではない。まして、“ここにあるのにここにない”あの繭のような生き物を運びこむことなどなおさらだ。それができるとしたら、朋尋のように先天的特殊体質を備えた魔法使いか、もしくは術の影響を受けない生物くらいのものだ。そしてそのどちらも、そうそういるものではない。
【逆に、繭のために人を引き寄せた、とかかな】
あくまで自分の思考を述べたに過ぎない口調になるよう気をつけながら、考えを話す。
「なるほど。目的は人ではなく繭だったと」
【ということは……】
口元を抑えこむ。考えたくないことまでどんどん浮かんできてしまうが、思考が止まらない。
【……あの繭は、邪悪だった。羽化させるわけにはいかなかった。けれど、“事務所”としては、羽化してくれたほうが都合が良かった、かもしれないな】
「……その口で、憶測を語ってはいけませんよ」
グレーゾーンに突入した空気を察知し、露草が嗜める。
【ああ、けれど……ツユクサ、今回の指令は“事務所”上層部から下ったんだったよな?】
「はい、間違いないっす」
【怪異発生を予期していなかったのか? いや、おれが“七不思議”解決に乗りだした、そのタイミングでまさに“七不思議”調査の指令が来たのはなんでだ? ……そもそも、“事務所”はなぜ、エネルギーを回収、】
そこまで言ったところで、朋尋は押し黙った。ここから先に――露草の前では――踏み込むわけに、いかない。二人の関係は、他の二組とは違う。確かに相棒であり、助手である。しかしある理由により、……朋尋は、露草のことを完全に信頼することはできない。そしてそれは、露草も承知のはずだ。
静かに、息を吐きだす。軽く吸って、また、吐きだす。大きめのコートに覆われた肩が、上下に動く。
【……あの繭は、自然発生の怪異じゃなく人為的なものだった。だから仕方がなかった。そう報告してくれ。ともかく、術式を破壊すれば指令は遂行したことになる。それで終わりにしよう】
「はい……はれ」
何かに気づいた露草が、間抜けな声を上げた。いや、声の具合はどうでもいい。この少年が気づいた、というのが問題だ。身構える。朋尋も体格が良いほうではないが、露草程度ならわけもない。
「あなた……術式壊せるんすか」
ずっこけた。アニメかコミックのようにオーバーアクションで床を滑っていった。
「だって、語ることしかできないじゃないっすか!」
本人は大真面目だ。仕事は丁寧で組織に忠実だが基本、天然なのを失念していた。
【……知識があれば術を敷けるし、壊せるよ。……ってか何度か見たことあるだろ、おまえ】
床から起き上がると。眼鏡を掛け、マスクを装着した。
* * *
壊れた鍵がちゃりんと落ちた。長らく開けられていない錆びついた扉を、体重をかけて押し開く。当然のことながら、屋上には誰もいなかった。
屋上だけでなく、朋尋の周囲すべてが静謐だった。まるで、世界が彼を置き去りにしたように、人の営みから、光から、天と地から切り離された場所に、彼はひとり立っている。
閉鎖されたビルの周囲は、普通に人が暮らし働く場所だった。こんないかにもな廃墟があっても気づかなかった、あるいは意識されなかったのは、それも術の効果だろう。この建物は、完全に外とは切り離された、誰かの箱庭だったのかもしれない。その人はどこに行ったのだろう。自ら閉じた空間のなかで果てたのか。それとも朋尋の気づかなかった抜け道があるのか。
術式を乱したため、ここはすでに怪異ではなくなっている。そう遠くないうちに発見され、取り壊されるだろう。
ビルから出て、一旦、露草とは別れた。“事務所”の事務員同士はわりと、依頼のないときは離れているものなのだ。それから、思いついたようにビルに戻り、設備を一部壊しつつ、わざわざ屋上に上がった。
彼は遠くを見ている。そちらの方向には赤い塔。新たに名所となった塔が建てられてからもなお、東京の象徴で在り続けるその姿は、煌々と飾られ、曇り空の下にあっても明るい。彼は、元は東京の人間ではないので、その塔に思い入れも愛着も、或いは憎悪もないが。まるで知らない場所で、少しでも知った姿があるとやはり嬉しい。これで帰るとき、方角に迷わずに済む。
遙か彼方というほどでもないが、霞む夜景を見ながら。ふと、頬に当たる何かを感じた。
見上げると、ぽっ、ぽっ、と一滴ずつ。さらに、篩にかけたようにばらばらと。……激しくなる前触れだ。
すぐにざああああああぁぁぁ……と、泣くのを我慢していた子供が母親の胸でぶち撒けるように、降りだした。ビルの下で、景色の向こうで、次々と鮮やかな色の傘が咲く。その様子を見、また空に目を戻し、彼は。
いきなり、マスクを毟り取り。乱暴に眼鏡を外す。三秒間、どしゃぶりの雨を、予防接種に堪える小学生のように顔をしかめて受ける。そっと目を開くと、冷たく優しい春の雨が顔を打ちつける感触に、吐息が漏れた。
雨足は弱まることを知らない。容赦なく愚か者の体力を奪い。彼の髪も、服も、もはやずぶずぶでこれ以上濡れる余地が無いが、それでもさらに水を蓄える。
【……ぁ、はぁ、はぁ】
白い息が口から漏れ、雨粒が口に入る。
冷たく痛いほどに篠突く雨はまだまだ止む気配がない。目を開き続けられるのは、その激しさに慣れてきた故だろう。
そのなかで、彼は呟いた。
すきだよ、と。
【この世界が、この街が、ここで暮らす人々が、】
……だから、守りたい。世界の外側から。そこから来るものから。内側を喰い破ろうとするものから。残酷な自然の摂理から。傷つける意志を持たない兵器から。
そう、願った。
春雨の降りしきるなかひとり、朋尋はいつまでも雨に打たれていた。
〈了〉