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三章

三章


「さむっ!」

 目が覚めたぼくが、はじめに思ったことは、それだった。

 寒い。

 夏にしては、異常な寒さだ。

 ――いや、待て。

 なにか、おかしいぞ。

 全力で、体のすべてが、警戒信号を出す。

 我が家は、勉強部屋は個室としてあるが、家族みんなで川の字になって寝る。

 その大部屋の、障子を開けると、目の前には窓がついた戸がある。

 窓がついた戸。その窓の外。

 ちらちらと、白いものが降っていた。

 そのとき、叫ばなかった自分を、ぼくはちょっとだけ、ほめてやりたい。

 雪が降っていた。


 しんしんと降り積もる雪で、自分の家の庭がおおわれていくのを、少し放心した様子で見る。ぼくの肌に、違和感がある。

 パジャマ。パジャマ。パジャマだ。

 長袖の、厚手の、冬用の。

 くっそ、混乱の極みだ。

 時間。今はいつだ。

 新聞。新聞はまだ取り込まれていない。玄関を開けて郵便受けをのぞくのもおっくうだ。

 とりあえず、テレビをつける。

 チャンネル変更、チャンネル変更、チャンネル変更。

 ニュース。意味のないニュース。そういうニュースが見たいんじゃない。

 左上に表示される時計、今の時間が知りたいんじゃない。時間は知りたいけど、それじゃない。

 ぼくが知りたいのは――

 天気予報チャンネルになり、そこで、ぼくは今日の日付を見る。

 十二月。

 ははっ、十二月に雪が降るとは珍しいな。ふつう一月に入ってからじゃないか?

 なんとなく、そんなことを思ったあと、爆笑したくなった。

 理由は知らない。ただ、爆笑を抑えるために、体をひらがなの「く」の字に折り曲げて、「くくくくく……」と笑いをかみ殺している。自分がしていることはわかっている。

 寝よう。

 なにかの、たちの悪い、冗談だ。

 目を閉じて、眠ることができれば、ぼくは、この悪い夢から覚めるのだろうと思っていたのかもしれない。

 それとも。ただ単に、ぼくの心の容量を、あっさりと現実が凌駕してしまった、ただ、それだけの話なのかもしれなかった。


 冬の二度寝が、しばしばそうであるように、その眠りはとても心地よかった。

 そして、起きるのは、とても苦痛だった。

 ぼんやりと、うわの空で食事をすませ、新聞にちらりと目を通す。

 日付。西暦。くそっ、何が起こってる?

 かばんを見る。基本的に、前日に準備するタイプだったから、大丈夫だろう。

 三年生の教科書が入っているかばんを一瞥して、ぼくは家を出る。

 コートに、ブーツ。

 雪を踏みしめながら、考える。

 これは、現実なのか?

 これは、いったい、何なんだ?

 だけど、その疑問は、すぐに消え去る。

 なぜなら、ぼくは、そのとき、何も考えたくなかったからだ。

 何かを考えようとしても、すぐに思考がバラバラになる。

 うまく筋道だてて、ものごとを考えられない今の状態に感謝する。

 真っ白に染まる雪の街を見て、ぼくの頭も、こんな風に真っ白になりたいと思っていた。


 授業だ。

 この授業は、確かに聞き覚えがある。

 二度目の高校三年生の冬。

 それに、間違いはない。

 ぼくの席は後ろで、窓ぎわだから、とても寒さを感じる。

 窓をちらりと見ると、雪がゆっくりと降っているのが見える。

 指を窓に向かって伸ばす。

 金属の窓枠に触れると、ピリピリとした寒さが、指に感じられた。

 冬。

 葉っぱのない木の枝。空にむかって手を伸ばしている。

 雪が降っている。

 天気予報によれば、十センチくらい積もるようだけれど、この地方の冬では、ふつうのことだ。

 教室の前にあるストーブ。

 赤々と燃えているのはこちらからは見えないが、きっと円筒形の燃焼器にあいた丸窓から中を見れば、オレンジ色の光がゆらめいているに違いない。

 円筒形の燃焼器の上におかれた、金色に輝く、かなだらい。

 中に張られた水がお湯になり、水蒸気になる。

 空気が乾燥しすぎないように、という理由で置いているのだっけ。

 あまりにも子供のときからある風景なので、何の疑問も持っていなかったけれど。

 冬に加湿器ではなく除湿器が必要な地方にしては、珍しいやり方かもしれないなと思う。

 教室の前にあるストーブ。

 そこから、離れた後ろの席に、ぼくは座っている。

 寒い。

 指がゆっくりと感覚を失っていく気がする。

 先生の話をぼんやりと聞きながら、ぼくは、この「高校三年生の冬」について考える。

 このクラス。

 うん、このクラスは、あれだ、一回目の高校三年生のときのクラスと一緒だ。

 机の位置まで一緒だ。

 問題は、「ここ」が「いつ」なのかということだ。

 あるいは、「ここ」が「どこ」なのか、という質問の方が適切か。

 つまり、今現在、ぼくが存在している時空間は、いったい、どことつながっているのか? 平行世界があるとするなら、どの平行世界なのか?

 やっと、感情的な衝撃から、頭脳が回復してきたらしい。

 それなりの回転で、頭が回り始める。

 可能性は、ふたつ。いや、たぶんみっつある。

 ひとつめ。第一回目の高校三年生と同じ世界。

 ふたつめ。第二回目の高校一年生の延長線上にある世界。

 みっつめ。どちらでもない世界。

 もし、平行世界というものがあるのなら、時間旅行というものがあるのなら、きっと、この中のどれかということになる。

 ぼくは、高校三年生まで、あの高校一年生の夏から、時間を飛び越えたのか。それが一番ありそうな気がするし、そうあってほしい。

 そうでないなら、そもそも時間移動する前の、「ふつうに生活していた世界」、これを「基準世界」とか「標準世界」と呼んでもいいが、その平行世界の時間軸上で、ぼくが高校三年生の十二月の時点に飛んだ、という説。これは、あまり歓迎したい説ではない。

 そして、たぶん一番やっかいであろう可能性が、自分のまったく知らない平行世界に飛んだ可能性だ。なぜやっかいなのかは、考えてみるまでもない。その場合は、この平行世界の事を、ぼくは何も知らないということなのだから。


 その日の授業で何をやったのか、よく覚えていない。学校の授業は、ぼくの上を通り過ぎて行った。ただ、雪が美しかったことだけを覚えている。

 家に帰ってから、過去の資料を引っ掻き回す。

 ぼくは、日記をつけていたはず。それから、高校一年生の春の時点での、部屋の写真を撮っておいた。それらを使って、この時間のイメージを強固にしておき、また戻ってきやすくするためだ。

 だが、日記も、写真もない。

 捨てた、という可能性もある。しかし、そもそも、あの高校一年生の時点の延長線上に、この世界があるわけではないということを示唆する、という可能性のほうが、大きいように感じられる。

 親に、自分が美術部に入っていたか、それとなく聞いてみるか。

「そういえばさ、ぼくって、選択芸術のクラスは、美術だったよね。スケッチブックとか、美術のときに使っていたものって、どこにあるっけ?」

 夕食のとき、母親にそう切り出した。

「ああ、それなら、物置の部屋にあったと覆うけど。どうしたの急に?」

「うん、ちょっと昔を思い出してさ。そういえば、ぼくが美術部に入りたいって言ったの、覚えてる?」

「ええっ? そんなこと言ったっけ? 何も部活に入らなかったのを心配してたんだから、そういうこと言ってたのなら、覚えてると思うけど――」

「そっか、ごめんね。記憶が、ごちゃごちゃになっちゃったかな」

 入ってなかった。

 この世界のぼくは、美術部に、入ってなかった。

 つまり、可能性のひとつめ、二回目の高校一年生の延長線上にある世界である――ということは、ありえない。

 どうする? どうなってる? ちくしょう、全然思い浮かばない。

 頭が、うまく働かない。

 風呂に入って、いちおう明日の準備をする、それくらいはできたけれど、そうしている間にも、どうすればいいか、考えている。考えても、何もアイデアが、でないし、ふらふらと頭の片隅で考えているだけだ。

 だいたい、なんだよ、急すぎるだろ。なんで昨日、先生とあんなに楽しく話して、こうなるんだ。先生。先生? そうだ、先生だ。

 柚木先生なら、なんとかしてくれるかもしれない。

 少なくとも、この状況を整理してくれるはずだし、先生なら信用できる。

 できるだけすぐに先生に会いたい。

 明日、美術室に行こう。

 そう思ったあとで、考えが止まる。待て、待て、美術室だって? 記憶が正しければ、先生は、三年性のときには、もう他の学校に行っていたはずだ。あれ、辞めたんだったっけ。だめだ、覚えてない。でも、鳳凰坂高校にいなかったのは確かだ。

 もし、ここが、自分のまったく経験したことのない平行世界で、しかも三年になっても先生が他の学校に行っていない世界だったらいいけど――そうでないなら、どうしよう?

 ふと、自分の目が、壁に画びょうでとりつけられている紙をとらえる。

 あの紙は――緊急連絡網。

 三年生の緊急連絡網。うちのクラスのやつ。

 ということは――

 ぼくは、立ち上がって、その紙をめくりにいく。三年生の緊急連絡網の紙の下には、二年生のもの、一年生のものがあるはずだ。

 紙をめくる。二年生。一年生。どっちにも、先生の名前がある。一年生と二年生のときに、ぼくの副担任だったという点は、変わっていないようだ。

 先生の電話番号。ちゃんと書いてある。

 先生が、引っ越してでもいないかぎり、この番号にかければ、先生と連絡が取れるはずだ。

 ぼくは、その日、寝る前に日記をつけた。ある種のメモのように。

 二回目の高校生活のこと。一回目の高校生活のこと。これからのこと。現状について。

 目を閉じて眠るとき、ぼくは心から願った。

 目が覚めたら、「二回目の高校一年生の夏」に戻っていますように、と。


 残念ながら、ぼくが、「二回目の高校一年生の夏」に戻っている、なんてことは起きなかった。

 今日目覚めると、まだ、十二月だった。

 七月の次は、十二月。

 その日はもう、雪は降らずに、ただ寒いだけの日だった。雪の名残か、自分の家では、除湿機が動いているけど。除湿機が動いていると、冬だな、という感じがする。

 学校に行くと、昇降口で、七瀬さんを見た。

 むこうも、確実にこちらに気づいたはずだけど、そのまま歩き去っていく。

 ぐさりとくる。

 ぼくは、それを無視して、声をかける。

「な――南さん」

 七瀬さん、と言いそうになるのをこらえて、苗字で呼ぶ。

 さっきの反応。きっと、この世界で、ぼくらはそこまで親しくない。

「え、あ、ああ、おはよう」

 ちょっとおどろいたようにこちらを見る。

 もしかしたら、ぼくの苗字を、覚えていないのかもしれない。

「おはよう。ひさしぶりだね。あのさ、美術の柚木先生って、今どうしてるんだっけ?」

 にこやかな笑顔を浮かべて、一気に、しゃべりきってしまう。

 こういうのは勢いが大事だ。

 相手は、ぼくのことをよく覚えていないかもしれない。クラスメイトだってことぐらいしか覚えていないかも。でも、それで十分だ。それに気おくれする必要はない。ただの質問なのだから。そして、答えるのに躊躇するような質問でもない。だから、大丈夫。

 数か月前までは、きっとこんなときに、声をかけることはできていなかった。

 ある種の変化、なのだろう。もしかしたら、ぼくはまだ、ちょっとしたパニックの中にいて、気軽に、一年か二年程度話したことのない女の子に話せる精神状態になってしまっている、ということなのかもしれない。

「柚木先生? えーっと、たしか、儒艮滝にいるんじゃなかったかな」

 儒艮滝高校。

 鳳凰坂、鵺森と並ぶ、この地方で御三家と呼ばれる公立進学校のひとつだ。

 それにしても、だれだ、先生が学校を辞めたといったやつは。

 やっぱり、人のうわさなんて、あてにならない。

 だが、あるひとつの可能性に思い至って、ぞくりと震える。

 もしかして、ぼくが一番最初にいた世界では、本当に柚木先生は学校をやめていたのではないか? そして、イラストレーターだか、画家だか知らないが、その方面で生計をたてていたのでは?

 そして、今、ぼくが立っているこの世界は、そういうことが起こらなかった世界なのではないのか?

 ―――――わからない。わかりっこない。

 だって、ぼくは、一番最初にいた世界で、先生が、いったいどういう理由で、鳳凰坂からいなくなったのか、全く知らなかったのだから。柚木先生が、高校三年生の時点で何をしているのかを聞いたとき、その答えが、「学校をやめて画家になっているよ」でも、「儒艮滝高校にいるよ」でも、どっちの答えが返ってきても、それが、一番最初の世界の事実と一致するかどうかを、知るすべはない。

 でも、儒艮滝でよかった。

 画家になって、ドイツにでも行っていたら、連絡がつかないところだった。

「でも、どうしたの、急に? 確か、選択美術で柚木先生とは一緒だったけど、美術部だった私と違って、そんなに接点なかったよね」

 七瀬さんは、この世界でも美術部のようだ。

 それは、どことなく、安心できる話だった。

「うん、実は、ちょっと相談したいことがあってさ」

 そう言ってほほえむ。

 柚木先生が、ほめてくれた笑顔で。

「あ、ああ、そうなんだ」

 七瀬さんは、それ以上聞いてこない。「相談」という言葉が効いたのだろう。

 相談という単語には、プライベートというか、第三者が気軽に立ち入ってはならない領域であると、暗にほのめかすような、そんな雰囲気がある。

「ありがとね」

 そう言って、ぼくは七瀬さんに手を振る。

「うん、ばいばい」

 七瀬さんは、ぼくの名前を覚えていただろうか。覚えていなくても、調べてくれるだろうか、思い出してくれるだろうか。それは、ぼくにはわからない。

 でも、ぼくの名前を、ちょっとの間だけでもいいから、思い出してくれるといいな、と思った。


 ぼくは携帯電話を持っていないから、電話をこっそりかける、というのは、なかなか難しい。家に、ぼく以外がいなくなるのは、休日を待たねばならなかった。

 でも、儒艮滝にいるのなら、平日に電話をかけても、あまりつかまらないかもしれないので、それはそれでよかったのかもしれない。

 次の休日、ぼく以外がいなくなった家で、柚木先生に電話をかける。

 どうか、ひっこしをしていませんように。

 電話は嫌いだ。

 すごく緊張する。だいたい、目の前に人がいないのに、声だけ聞こえるというのがいけない。不気味だし、怖い。なんだか恐ろしいことをしているような気がする。ふつうじゃない。なにかとんでもなく悪いことが起こりそうな気がする。すごい失敗をしてしまいそうな感じだ。だから電話は嫌いだ。すごく緊張する。ぼくは、電話を使いたくない。

 そして、この待っている間も嫌だ。りんりんりんりん呼び出し音が鳴っている間に、ぼくの緊張は、どんどんどんどん高まっていく。

「はい、もしもし?」

 ばくんっ、と心臓が跳ね上がる気がする。

 この、もしもし、もいけない。

 なんで、りんりんりんりん呼び出し音がなったあとに、突然もしもしと来るのか。わかっている、電話はいつ取られるかわからないのだ。それがよくない。現実世界で話していれば、だいたいいつ話しだすかわかるし、相手が近づいてくるのだって見える。話をはじめる、最初のひとことがいつ発せられるか、わかる。電話にはそれがない。りんりんりんりん、もしもし、だ。それがよくない。心臓に悪い。ぼくは嫌いだ。

「もしもし、ぼく、流川といいます。あの、柚木悠里先生はおられますか?」

「あ、はい、わたしが柚木悠里ですが」

 声で本人かなぁと思ったら本人でした!

 こういうのもよくない、たぶん本人だろうと思うんだけど、確証がないから聞かなくてはいけないし、それも緊張するし、しかも、世の中にはよく似た声の人がいるという。実際に会って話してみれば、だれがしゃべっているかわかるというのに、こうやって確認を取るまで、自分がだれと話しているのかわからないのはよくない。しかも、嘘をつかれたらわからないかもしれない。かといって、テレビ電話で顔が見えるのも気持ち悪い。なんだかプライバシーというか、個人の領域を侵されている感じがする。やっぱり電話はよくない。ぼくは電話が嫌いだ。

「あ、もしもし、あの、覚えてませんか、流川です、あの、選択美術のときに、一年生のときに受け持ってもらってました。それから、一年生と二年生のとき、先生が副担任をしていたクラスにいました」

「ん、んー、ちょっと待って。ちょっと待ってね、流川くん、流川くん…………今、思い出すよ、あのクラスだろ…………うん、うん、わかる、わかると思う、うん、うんうん!」

 後になっていくたびに、どんどん言葉に力がこもっていく。

「やあ、流川くん、ひさしぶりだね! いったいどうしたんだい?」

 ひさしぶりの再会だからか、先生が少し興奮気味な気がする。

「あの、先生。実は、折り入って相談があるんです」

「相談?」

 先生の声が、ぐっと真剣みを帯びる。

「はい。その、ぜひ、先生に相談したくて、いつでもいいんで、会って話してもらえないでしょうか。その、本当に、今日これからでもいいんで」

 電話が、沈黙する。

 これも嫌いだ。電話は、しゃべらないと、いやな感じの沈黙になってしまう気がする。それがよくない。ふつうの会話なら、ふつうに他人と一緒にいたら、しゃべらなくても大丈夫なときもけっこうあるのに、電話していると、常に話し続けなくてはならない感じが、嫌いだ、よくない。

「もしかして、緊急の用件?」

 先生の頭が、何を考えているのかはわからない。

 でも、おそらく、緊急事態を知らせるランプが先生の頭の中にあるとしたら、赤信号とはいわないまでも、黄色信号にはなっている、そんなことを思わせるような声だった。

「緊急、というわけでもない、ですけど」

 正直、自分でも、どこまで緊急なのかわからない。

「わかった。すぐ会おう。場所はどうする?」

 キビキビとした声で、先生が言った。こういう先生の声は、あまり聞いたことがない。ぼくの見るところ、かなりの臨戦態勢じゃないだろうか。こういう生徒思いのところ、好きだ。

「あの、ぼく、携帯持ってないんで、絶対に会えるところがいいんですけど、そもそも、先生ってどれくらい遠くに住んでるのかわからないし、車があるかどうかによってもふさわしい場所は変わるかなって……」

「うん? あ、ああ、そうだね、場所は気にしなくていい、車はある。市内どこでも駆けつけるよ」

 ちょっと意外だ。先生は、車を運転するイメージがない。

 緑色の自転車をこいで、エコロジカルに移動するイメージだ。

「えーっと、それじゃあ、瞑想崎学院って、わかりますか? ぼく、そこの近くに住んでるんですけど。その近くに、コンビニがありますよね。そこの駐車場で待ち合わせってことでどうですか」

「瞑想崎学院の近くのコンビニ? ああ、わかる、大丈夫だ。車だと、そうだね、十分か十五分くらいで着くと思うよ。じゃあ、そうだな、今から準備して、うん、十分後には出ると思う。じゃ、今から二十分後くらいにそこで、大丈夫?」

「はい、大丈夫です」

「オッケー、それじゃ」

 がちゃん、と電話が切れる。

 そのあとのツーツーツーも、ぼくは好きじゃない。関係性が断ち切られた音がするから。でも、今はそんなことを言っている場合じゃない。

 準備して、柚木先生に会いに行こう。

 柚木先生よりも、ぼくの方が、待ち合わせ場所に、先についた。

 時間にわりとルーズなぼくとしては、珍しいことかもしれない。あまり、人と待ち合わせなんかしたことないから、よくわからないけど。

 十二月の空気が、ぼくの体を冷やしていく。

 ぼくの体も、その寒さに適応していく。

 ここまでの道のりでは、たいして体はあたためられなかったから、適当に足をあげたりさげたりして、少しでもあったかくなるようにする。

 空が青い。

 つい最近知ったのだが、ぼくのいる地方は、全国的に見ても、かなり曇り空が多い地方らしい。でも、ぼくは生まれたときからこの街にいるし、ここではこれがふつうだから、曇り空が多いなんて思ったことはない。曇り空が多くって、憂鬱になる、なんてこともない。むしろ、曇り空は、しんどい心のときには、寄り添ってくれるし、押しつけがましくなくて、嫌いじゃない。むしろ好き。

 でも、青空も悪くない。

 こういう寒い空気に青い空は、なかなかオツなものだよな、と思う。

 なんだか、透明なナイフを、地上から空へたくさん投げられるような感じがする空だ。

 柚木先生に、こういうたとえを言ったら、ちょっとだけでも伝わるだろうか。

「流川くん?」

 そのとき、先生がぼくを呼ぶ。

 駐車場に車がとまっている。ぼくは、車のことは詳しくない。でも、ふつうの乗用車という感じじゃなくて、ちょっと変わった形だった。

「よし、じゃあ、どこで話そうか?」

「えーっと……ええ、本当にどこでもいいです。先生が嫌じゃなければ、公園とかでもいいし……」

 こういう話をするとき、どういう場所がいいか、全然わからない。

「そうだな。これが夏なら公園とかでもいいかもしれないが、寒いからな。いやじゃなければ、わたしの家とか、どうだろう? ああ、もちろん、警戒する気持ちはわかるし、他の場所でも全然かまわない」

「いえ、家で、大丈夫です」

 今が冬でよかった。

 夏から冬に来て、夏に戻りたいと思っていたぼくだが、これに関しては、まったくのところ、冬に感謝せざるをえなかった。

「わたしは、テレビは見ないんだ」

 非常に殺風景に思える部屋、たぶん居間――に通されたとき、突然、先生はそう言った。

「よく聞かれるんでね。テレビはないのかって。先手を打って答えさせてもらったよ」

 そう言って、にっこり笑う。

 かわいい。

「それは――知りませんでした」

 殺風景、といったが、それはものがない、という意味じゃない。

 確かにテレビはないが、大量の絵と、机と、ソファと、椅子がある。

 ぼくが、この部屋から受ける印象は、「ストイック」だ。余計なものが一切ない、そういう印象を受ける。

 大量の絵があると言ったが、それは美しい絵が、この部屋にやってきた人間を迎えてくれるという意味ではない。なぜなら、そこにある大量の絵は、すべて裏返しになっていて、何の絵がかいてあるのか、全然わからないからだ。

 ここは、人をもてなすための部屋じゃない、と直感する。もともとは、応接間としても使えるような場所なんだろうけれど、今のこの部屋は、なんというか、すごく個人的なものを感じる。

「どうしたの? ソファ、座っていいよ」

 この部屋に隣り合った台所で、飲み物を用意してくれている柚木先生が、ぼうっと立っているぼくを見て、そう言った。

「あ、いや、なんで絵が裏返しになっているのかな、って思ってしまって」

 そう言いながら、ソファに座る。

「ああ。集中したいときには、絵が見えていると邪魔になるし、ゆっくりしたいときには、絵が見えていると、どうも落ち着かなくてね」

 絵が見えていると落ち着かない、という感覚は、ぼくにはよくわからないが、それはこの人が、絵に親しんでいる人だからかもしれない。

 ぼくは本が好きだが、集中したり、リラックスしたりする部屋を作るとしたら、そこには本を絶対に置かないだろう。文字がぼくをひきこんでしまうから。

「はい、おまたせ」

 先生がおぼんを持ってくる。

 あたたかい紅茶が、湯気をたてている。

「この香り――ミントティーですか」

「お、よくわかるね。うん、ちょっとした自家栽培」

「すごいですね。ぼくは全然、そういうの、栽培したことがないから」

 よく見ると、おぼんの上には、紅茶だけがのっているわけではなかった。クラッカーに、あと、もう一つ皿がある。

「先生、これ、なんです?」

「セロリを細かく刻んだものに、マヨネーズをあえたもの。これに、のりしおのポテトチップスをまぜてもうまいんだが、塩味のクラッカーにのせて食べるのが、わたしはけっこう好きでね」

 そう言って、スプーンで、そのセロリとマヨネーズをあえたものをすくって、クラッカーにのせる。そして、ぱくり。食べた。

 むしゃむしゃ、にっこり。

「うん、おいしい。友だちから教えてもらったんだ。わたしは、お酒はのまないが、つまみにもいいとか言ってたな」

 ぼくも、先生のまねをしてみる。

 クラッカーにのせて、ぱくり、むしゃむしゃ。

 にっこり。

「おいしいです」

 ぼくも先生も、紅茶を一口飲む。

 味は、正直言って、よくわからない。でも、かおりは、すごくいい。

「かおり、すごくいいですね」

「ふふっ、ありがとう」

 雰囲気が、ずいぶんリラックスしている。もしかして、先生は、これを狙っていたのかもしれない。

「あの、先生」

「うん?」

 あくまでも、リラックスしたまま――少なくとも、ぼくにはそう見えた――ままで、先生は返事をする。その目は、ぼくを見ているような、見ていないような、不思議な感じだった。緊張させたくないから、直視しない、ということなのかな。

「実はですね」

 そして、ぼくは、今までに起こったことを話す。

 それは、まるで、ほんの数日前に、高校一年生の夏に、柚木先生に話したあの出来事みたいで、なぜかちょっと泣きそうになった。

 全部話し終わったあと、先生は言った。

「その話が、本当だとして――。同じパターンになると思うが、流川くんは、自分の言っていることの証明は、できるのかな?」

 その目は、半分真剣で、半分面白がっているように見えた。

 なんだか、ずいぶん落ち着いてる。

 ぼくは、深呼吸する。そして、思い出す。

「柚木悠里先生。好きなものは、バスク語の音楽。外国の人と触れ合うこと。けっこうインターナショナル。エスペラント語が趣味。ベルリンに留学していたことがある。描きたいものとは違うタイプの絵の人気がでてしまったので、日本に帰って来て先生をやることにした――こんな、感じですか?」

 正直、ちょっと自信がない部分もある。特に最後なんて、けっこうあやふやだ。

 だが、それは、確かに、先生に衝撃を与えたようだった。

 目を、びっくりしたように、というかびっくりしたのだろう、大きく見開いている。

「うーん、ベルリンに留学していたことがある、というのは、何人かに話したことがあるから、知っていてもおかしくはないが、詳しい理由までは話してないはずだ。バスク語の音楽が趣味、というのは、こっちに来てから、人に話した覚えはないな。エスペラント語は、微妙だな。生徒には言ってないはずだが、話が伝わるということはある。外国の人と触れ合うのが好きというのは、知っている人は知っているが、生徒はあまり知らないだろうなあ。でも、まあ、けっこう、信憑性は、高いかな」

 先生は、ゆっくりと紅茶をすする。

「百パーセント信じたわけじゃない。だけど、信じない理由もない」

 そして、にっこり笑った。

「信じて困るようなことでもないしね。とりあえず、暫定的に信じることにするよ」

「よ、よかったです」

 知らないうちに緊張していたのか、がくっと急に体から力が抜けていくのがわかる。

「それで?」

「え、それで、というのは?」

 先生の予想外の質問に、ぼくはちょっとたじろいだ。

「うん、そのことをわたしに伝えて、何をしてほしいのか、ってことなんだ。たぶん、何か理由があって、わたしに言いに来たわけだろう?」

「いや、それが、ですね。なんといったらいいのか……」

「いいよ、ゆっくりで。ちゃんと聞くから。自分のペースで話してみて」

「とりあえず、ぼくは、『二回目の高校一年生の夏』に戻りたいんです。ぼくが、前にいた、あの時間に。でも、どうすればいいのか、よくわからなくて。というか、今、この世界が、一番最初にぼくがいた世界かどうかもわからないし、どうすればいいのかわからなくて、本当に、だれかに助けてほしいって思ったんです。そう思ったら、先生の顔が浮かんできて、それで……」

「なるほど。そうだな、この世界がどこなのかは、わたしも断言はできない。でも、今見ているかぎりでは、一番最初にいた世界と、同じなんだよね」

「はい、今のところ、そうです」

「ならば、ここは最初にいた世界なのだ、と暫定的に決定してもいいんじゃないだろうか。もしかしたら、微妙な変化はあるのかもしれないが、自分が気づかない範囲であれば、実際に君が行動するときには、なんの問題もないはずだ。――違うかな?」

 確かに、そりゃそうだ。違いが認識できないのであれば、それは、自分の認識としては、一番目の世界と同じこと。神の視点があれば、もちろん別の世界になるのだろうけれど、ぼくの視点からみたら、違いがわからない同じような世界として扱っても、たぶんそんなにひどいことは起きないだろう。(この議論は、ぼくに、「人がだれもいないところで木が倒れたとしたら、はたしてそのとき音がしたといえるのか」という話を思い起こさせた。ちなみに、ぼくは、音がしたといえると考えている。たぶん、ぼくは、客観というものが存在していると、つまり「神の視点」というものが存在していると、どこか素朴に信じているのだろう)

「そうですね。プラクティカルな次元では、特に問題は起きないと思います」

 ぼくは、ちょっとかっこつけて、実際的というところを、プラクティカルと言った。思ったよりも、その単語は、舌になじんだ。このままでは、外来語を気取っていう凡俗になってしまう恐怖がわきあがってきて、なるべく横文字は使わないようにしようと思った。

「ふむ。それでは、とりあえず、今のところ、一番目の世界を、少し巻き戻ったと仮定してみようじゃないか。それで、流川くんは、『二回目の高校一年生の夏』に戻りたい、というわけだね。さて、前の時間に戻る方法、それはもう、ひとつっきゃないんじゃないかな」

 それは、ぼくも、うすうす感じてはいた。

「実は、ぼくも、パニックが、だんだんおさまってから、そのことは頭にあったんです。でも、ぼく、どうしても、この世界が、夢みたいに思えてしまって」

 先生は、だまって、優しくぼくの話を聞いている。

「つまり、先生は、また、催眠術で、戻ればいいと言っているんですよね。催眠術で、時間をさかのぼればいいと」

「そうだね」

 思えば、最初から、これ以外の選択肢なんてあっただろうか。

 時間をさかのぼるなんて超常現象を起こすにはどうすればいいですかなんて、人に相談しても、答えが簡単に返ってくるわけじゃない。

 簡単な答えを返すことができるやつがいるとすれば、時間をさかのぼったことがあるやつだけだ。だって、そいつなら、答えを知っているんだから。

 そして、ぼくの知る限り、それに該当する人物は、一人しかいない。

 言うまでもなく、ぼくのことだ。

 そして、ぼくが、時をさかのぼるのに使った方法は、催眠術、暗示、そういうたぐいのものだ。ならば、今回も、同じ方法を使うというのが、一番成功確率が高いのではないか?

 少なくとも、そう考えるのは、かなり妥当な推論に思える。

「そう、ですね……やっぱり、それをやるのが、一番いいんでしょうね」

「だと、わたしも思うよ。そして、先生らしいことをひとつ言わせてもらえば――いや、むしろ、これはお説教に聞こえるかもしれないんだが、気を悪くしたら、先に謝っておく」

「聞かせてください」

「うん、実は、過去に戻れなくても、それはそれでいいんじゃないかと思っている。もともと、人生はやり直しがきかないものだし、うまくいったらめっけもん、というくらいでいいんじゃないかな。たとえ過去に戻れなくても、いいかい、たとえ過去に戻れなくても、手遅れなんかじゃないし、まだやれることはあるはずだ。そうだろう? 過去に戻ることを否定しているわけじゃない。うまく行ったらそれでいいし、過去のわたしによろしく言っておいてほしい。でも、たとえそれがうまくいかなくても、大丈夫。一番最初の人生で、とても悩んでいたみたいだよね。それは、きっとつらいことだったんだろうし、もちろん繰り返したくないんだろうし、わたしも、繰り返さずにすめばいいと思うよ。でも、たとえ、そうなったとしても、大丈夫なんだよ。それで人生が終わりになるわけじゃない。いつだって、何かできることはある。もしかしたら、わたしは、間違っていることを言っているのかもしれない。わたしも人間だからさ、間違うことはあるよ。よくある。もし、卒業したあとで、つらい気持ちになっていたら、また話そう。卒業する前でもいいよ。つらい思いをしたとしてもね、生きていてくれたら、先生はうれしい。生きていてくれるだけでね、うれしいよ。人生に『成功』なんてわたしはないと思ってる。君が、自分の人生は『失敗』だったと思っても、わたしはそうは思わない。『失敗』だとも『成功』だとも思わない。そういうことは、わたしにとっては、何の意味も持たない。わたしが思うのは、君が幸せでいてくれるといいなあってことと、つらいことがあまりなければいいなあってことと、たとえ不幸でつらいことだらけでも、君の価値は全然なくなったりなんてしないってことだ。君の人生を君自身がどう判断するにせよ、ただ、生きていてくれるとうれしいし、はっきりいえば、君ぐらいの子は、何をしたって美しい。ほんとだよ。何をやったって、さまになっちゃうんだ。ほんとに。信じられないくらいに。君は美しいよ、本当に。今だって。――ああ、話しているうちに、わけわかんなくなっちゃったな、自分でも。混乱させちゃったらごめんね。わたしも、混乱してるかも」

 ぼくは、先生の言ったことを、感じ取った。

 理解したか、わかったか、どうかは、よくわからない。

 ただ、なんとなく、優しい言葉だなと思った。

 たぶん、先生は、優しい気持ちをこめたのだろう。

 それは祈りだ。

 そして祈りは美しい。


 それから、先生の家で、まだちょっとだけ雑談をして、連絡先を交換した。ぼくは、連絡先を忘れないように、頭にたたきこんだ。紙に書くだけじゃ、もしまた時間移動をしたときに意味がなくなるから。

 柚木先生は、ぼくに、もしまた時間移動をして、先生の力が必要になったときのために、まず間違いなくタイムトラベラーだと信じてもらえるような、いくつかのちょっとした秘密を話してくれた。それは、ぼくに話せる程度のことなので、そこまで大したことではなかったが、秘密の共有というのは、どことなく神秘的な親密さをかもしだしていて、うれしかった。

「ついでに言うと、わたしの趣味はフリーゲームだ。これは、まず誰にも言ってないから、もしまた時間移動して、わたしに信じてもらいたいときには、それを使うといい」

 帰りがけに、先生はそう言った。

 フリーゲーム。

 コンピューターでやる、無料でプレイできるゲームのことだ。

 インターネットの中には、そういうものを創っている人たちがいる、くらいのことは知っていた。でも、先生の趣味がそれだったとは、知らなかったな。

 しかし、考えてみれば、先生は美術教師だし、何かを創ることに興味があるのだろうから、案外、先生の興味と、近い分野なのかもしれない。

 先生の意外な一面を知ることができて、ぼくはうれしい。


 冬。

 高校三年生の冬。

 それは、ぼくが一度通過した季節。

 時間移動のできないまま、時は流れていった。

 この世界は、ぼくの記憶のとおりに動いていく。

 いちいち、会話の内容なんて覚えちゃいないけど、やたらデジャヴを感じる。

 デジャヴ。既視感。すでにこれを見た、という錯覚。

 錯覚?

 たぶん、ぼくのこれは錯覚じゃないんだろう。

 たぶん、本当に、ぼくはこれを経験している。すでにこれを見た、というのは、錯覚なんかじゃなくて、本当に、「すでにこれを見ている」。

 記憶のとおりに、一月は、センター試験がある。

 それは当たり前か。センター試験が一月じゃない平行世界は、きっと過去の教育行政に変化があった平行世界だろう。

 高校三年生は、しばらくやっていなかったけれど、もしかしたら、前よりは勉強が上達したんじゃないかと思っていた。だって、高校一年生を数か月やってきたわけだし。

 ぼくは、センター試験の自己採点の結果を覚えていなかったので、センター試験の結果について、明確なことを言うことはできない。一回目よりもよかったのか、悪かったのか。それはわからない。

 ただ、一回目では現代社会を選択していたが、今回は倫理を選択した。倫理は習っていないが、ぼくは倫理でやっているような内容は好きだし、そこで教えられている内容は、すでに自分が知っているものが大半だということが、あとでセンター試験の解答を見てわかったからだ。

 学校で習った現代社会よりも、学校で勉強していない倫理の方が、点が取れる自信があった。

 そのせいかどうかはわからない。

 でも、たぶん、そのせいもあるのだろう。

 ぼくは、大学に合格した。

 ぼくの今までの経験が、活きた。まず間違いなく、第一回目の失敗が活きている。このために、現代社会を回避し、倫理をためらいなく取ることができたのだから。そして、もしかしたら、第二回目の高校一年生の復習も、効果を発揮したのかもしれない。

 だけど、ぼくは、なんだか、ずるをしたような気持ちになって、すっきりと自分の大学合格を喜べない。

 一回目の世界で、ぼくが感じたような痛みを、ここでもだれかが感じているのだろうか。

 柚木先生は、こういう事態はイレギュラー中のイレギュラーなのだから、あまり気に病まなくてもいいんじゃないか、と言ってくれたけど。

 それでも、罪悪感はある。

 季節は、冬から春へと移り変わっていく。

 ぼくは、新居を親と一緒に見に行って、契約して、そして四月から、ここに住むことになるのだ。

 新しい生活。どうなるのか、見当もつかない。

 罪悪感も消えない。

 そして、ぼくが、この世界のだれとも違うような気がする。

 疎外感。

 かろうじて、柚木先生だけが、ぼくの秘密を知っている柚木先生だけが、ぼくをこの世界につなぎとめている。

 なんにせよ、これからは、今までの経験が通用しない。

 高校生ではなくなってしまうのだから。時間移動で繰り返した世界じゃないのだから。

 大学生は、ぼくにとって、まったく未知の領域だ。

 ぼくは、三月三十一日、自宅のふとんの中で、目を閉じた。

 まだ見ぬ世界に向かって、眠りに入る。

 なんとなく、納得できないものを感じながら。


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