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一章

一章


 鳳凰坂高校。

 そこでの三年間は、ぼくの上を、するすると通り過ぎて行った。

 その三年間は、きみに何かを残したのかと、だれかがぼくに聞いたなら、ぼくは「いいえ」と答えるだろう。

 鳳凰坂高校は、ぼくが住んでいる、冬に雪がたくさん降るこの地方都市で、御三家と呼ばれる、名門進学校のひとつだ。

 首都の方では、私立の方が、試験の偏差値が高い人間が入ってくるらしいが、地方都市では(少なくともここでは)、逆に公立の学校の方が、いわゆる偏差値の高い人間が集まるから、御三家はみんな公立だ。

 御三家のどこかに入ることは、それなりに名誉なことだとされている。

 ぼくに言わせれば、受験戦争とは、不必要な椅子取りゲームだし、勉強したい人間がみんな勉強できるシステムの方がいいと思っている。

 しかし、ともかく、ぼくも入学したときは、それなりに希望を持っていた。

 別に、御三家のひとつに入学できた名誉に酔っていたわけではない。

 そういうわけではなくて、新しい世界で、何か面白いこと、楽しいことに出会えるのではないかという、新生活に対する期待だ。

 一般的な期待じゃないか?

 つらい経験をいっぱいしたならともかく(そういう人間にとっては不安のほうがずっと大きいと思う)、そうでないなら、きっと新生活には、不安と期待がつきものだろう。

 だから、ぼくも、不安と期待をもって入学したのだ。

 さて、結果は。

 ――期待外れだった。

 それが、高校三年間、卒業式を迎えたあとの、ぼくの偽らざる結論だった。

 三月も終わりに近いころ。

 本日、卒業式を終えたぼくは、何もすることがなかった。

 友だちの何人かは、免許を取りに、教習所に行くようだ。

 ぼくは、大学に落ちたので、予備校に入ることになるだろう。

 そして、教習所に行く気力もない。

 免許くらい、「えいやっ」と、取ってしまってもいいのだろうけど。

 そういう気分にはなれない。

 ぼくは、けっこう、ひきずるたちなのだ。

 終わったことを、後悔しながら、ながめやる。

 何度も、何度もだ。

 終わってしまったことを、何度も頭の中で繰り返して、あのときはああしていればよかった、と思う。

 そうすることで、何かが変わるとでもいうように。

 反省することで、人は成長できるという人がいる。

 本当にそうだったらいいな、と思う。

 心からそう思う。

 だけど、反省しても、ぼくはまた、同じような失敗をしてしまう。

 直そうと思っても、うまくいかないことが、たくさんあるのだ。

 そういうときに、努力の限界とか、自分の限界、あるいは、自分の適性といったことを、どうしても考えてしまう。

 ひょっとして、どんな人間も、自分たち自身以外のものになんて、なれやしないんじゃないかな。

 ぼくは、大学に自分が落ちたという事実を、何度も心の中でながめる。

 それで、現在の現実が変わるわけではないのだが。

 これは、かさぶたを、自分からはがして、出血させるような行いかもしれない。

 心の中で、事実を転がしていくと、どんどん落ち込んでいくのがわかる。

 それが、どことなく心地よい。

 自分をかわいそうだという気持ちが、ぼくをなぐさめてくれる。

 世の中には、自分のことをかわいそうな人間なんて思ってほしくない、という人間がいるそうだ。

 また、自分に同情してほしくない、という人間もいるそうだ。

 ぼくは、そういう人間がいるということを、小説だか、テレビだかで、見かけたことがある。

 でも、ぼくは、その人たちの気持ちが、あまり理解できない。

 ぼくは、自分がつらい気持ちでいるときや、落ち込んでいるときに、かわいそうだと思ってほしいし、同情してほしい。

 できれば、大丈夫だよ、と言って、だれかに抱きしめてほしい。

 ぼくの人生は、失敗だらけだった気がする。

 もし、あのときに戻れるのなら、戻りたい。

 人生の中に、そういう地点は、いくつあるだろう?

 ぼくは、たくさんある気がする。

 実際に数えてみたら、思ったより少ないのかもしれない。

 ぼくは、勝手に頭の中でいろいろ考えて、妄想してしまうことがあるから。

 だけど、そういう地点が、たくさんある気がするのだ。

 もし、高校の最初からやり直せたらなあ。

 今とは違った生活を、送れていたかもしれない。

 でも、正直に話すと、どうすればいいのか、よくわからないのだ。

 あのとき、あの部活動に入ってさえいなければ、あのようなつまらないことに数年間も使う必要はなかったのに!

 そういう後悔であれば、やるべきことは明確だ。

 その部活に入らなければよい。

 あのとき、勇気を出してあの人に告白していれば、相思相愛になれていたのに!

 そういう後悔であれば、やるべきことは明確だ。

 その人に告白すればよかったのだ。

 何をすべきか、何をすべきでないか。

 それがわかっているということは、原因がわかっているということだ。

 自分の不幸の原因が。

 自分の不幸の原因がわかっているなら、次、同じようなことがあったら、うまく立ち回れるかもしれない。

 それは、すばらしい。

 でも、原因が、はっきりと、わかっていなかったら?

 少なくとも、うまく言葉で表現できなかったら?

 そう、たとえば、ぼくのように。

 なぜ、高校三年間が、楽しくなかったのか、自分でも、納得のいく理由を見つけられていなかったら?

 それは、あまりすばらしくない。

 そこには、ただ、不幸だけがある。

 分析できない不幸だ。

 しかし、分析したからといって、不幸は不幸のままあり続けるのだ。

 だから、不幸を分析できないからと言って、悲しむことはないのかも。

 こんなことを考えていても意味がないのだから、さっさと考えるのをやめるべきなのだろう。

 いやな気持ちのときは、思い出さえもが暗くかすんでみえる。

 今の気持ちを反映して、思い出にも、影が差すのだ。

 だから、ぼくは、つらいときには、昔のことは思い出さないようにしている。

 せっかくの思い出が、悲しみの色に染まるのを見たくはない。

 もし、ぼくに美しい思い出があるのなら、それは美しいままにしておきたい。

 悲しい気持ちのときに、悲しい思い出を特に思い出しやすくなるとするなら、喜びの思い出さえ、悲しみの色をたたえてしまうのなら、ぼくは、悲しいときには、何も思い出したくない。

 つらいときには、つらい考えしか、出てこなかったりする。

 そして、不幸は、いくら分析しても不幸だ。

 だから、ぼくは、考えるのをやめたほうがいい。

「だいじょうぶ、りっぴーが、そばにいるよ」

 そう言って、りっぴーが、ぼくを抱きしめてくれる。

 もちろん、りっぴーなどいない。

 この女の子は、ぼくの空想の産物だ。

 ぼくの周りの世界が、ぼくを傷つけるものしかないのなら、ぼくは自分のために、優しい世界を、自分の心の中に創る。

 自分の居場所は自分で作るものだ、と先生も言っていた。

 ぼくの居場所は、ぼくの心の中にある。

 三月ともなると、もうずいぶんと暖かくて、ぼくはとても、うきうきした気持ちになる。

 だけど、三月は、ぼくの頭をおかしくさせる。

 不思議と、死んでしまいたい気持ちになってしまうのだ。

 四季の中で、春に自殺する人が一番多いらしい。

 ぼくは、その気持ち、わかる。

 なんだか、ものすごく情緒不安定になるのだ。

 これは、もののはずみで死んでしまってもおかしくないと思う。

 自殺が、理性的な選択の結果だとは、ぼくはまったく思わない。

 そういう風に、理性的に自殺を選択できる人間は、おそらくほとんどいないと思う。

 きっと、だれもが、ふと、境界線を越えてしまうのだ。

 別に越えたくて越えているわけではなくて。

 自殺しようと理性的に選択して、自殺しているわけではなくて。

 もう本当に死んじゃいたいなという衝動が襲ってきて、ふいと最後の一線を越えてしまうのだと思う。

 それは、きっと、睡眠欲や性欲や食欲のようなものだ。

 睡魔に負けて、がっくりと寝てしまうように。

 性欲に負けて、我慢していたオナニーをしてしまうように。

 食欲に負けて、食べないでおこうとしたおいしいものを食べてしまうように。

 死なないでおこうと思うのに、その衝動に負けて、つい自殺してしまう。

 そういうものなのだと思う。

 だから、ぼくも気を付けないと。

 情緒不安定なのはあいかわらずだけれど、死なないように気を付けて、ぼくは外に出る。

 人がたくさんいるところで自殺するのは難しいから、ぼくは図書館に行くことにする。

 この街の図書館は、ぼくにとっては十分充実している。

 最近は、あまり読みたい本もなくなってしまって、困っていた。

 そういうときに、ぼくは古典を借りる。

 数百年前の人が、ぼくと同じことを考えていたことがわかる。

 これは、かなり勇気づけられるものがある。

 図書館の中は、冷房も暖房も入っていない。

 年々進む異常気象のためか、三月の半ばでも十分暖かい。

 いや、三月の中ごろで暖かいのはふつうだったっけ。

 気候がおかしくなっていて、夏に暑すぎたり暑くなさすぎたり、冬があまり寒くなかったり、かと思えば冬が滅茶苦茶寒かったり、ふつう雪が降る地域で雪が降らないのに、あまり雪が降らない地域で雪が降ったり、洪水や地震や竜巻や台風が起こったりしている。

 そういうことは、わかるけれど、ふつうの気候というものがどういうものだったのか、ぼくはすっかり忘れてしまった。

 慣れというのはこわいな。

 気象庁のウェブサイトでも、あとで見てみようか。

 今までの統計資料もあるかもしれない。

 そんなことを考えながら、ぼくは書架の間を歩く。

 きちんと、分類わけされた書架。

 本の背表紙に張り付けられた、三桁の番号に対応して、書架がきちんと置かれている。

 たしか、000番代は書誌とか情報で、100番代は、哲学や心理学や超常現象だ。

 昔は、900番代の、物語のところに、一番よく行っていた。

 940番代。

 ドイツ文学の書架の前に、ぼくはふらりと立つ。

 エンデ、カフカ、ケストナー。

 五十音順に従って、作者ごとに本が並べてある。

 ぼくは、適当に本を取って、ページをぱらぱらとめくる。

 別に何か読みたい本が特にあるわけじゃない。

 図書館に、何も考えず、ふらっと入って、面白い本はないかな、と探す。

 これが、ぼくのささやかな楽しみなのだ。

 本屋さんは、流行のものが置いてあることが多い。

 それもそれで面白いけれど、ぼくは図書館の、古いものが置いてある、この雰囲気が好きなのだ。

 もちろん、図書館も、みんなが歩いて本を探せる開架とは別に、図書館職員しか基本的には入れない閉架書庫がある(国立国会図書館などは、閉架書庫しかないらしいけど)。

 そして、古くてあまり読まれなくなった本は、閉架のほうにひっそりとうつされる。

 それは、ちょっと悲しい。

 もちろん、閲覧表に書誌情報を書いて、司書さんに提出すれば、閉架から探して見つけ出してくれるのだけれど、自分の目で見るわけじゃないから、偶然のよい出会いを期待することはできない。

 それは、ちょっと悲しい。

 昔に読んで、題名を忘れてしまった本も、もし閉架書架に入ることができたなら、見つけることができるかもしれない、なんて思う。

 今では、インターネットで質問すれば、だれかが答えてくれるのかもしれないけれど。

 ぱらぱらとページをめくり、戻す。

 こんな単純作業なのだが、なかなか止まらない。

 つい、どこかの本の、どこかのページから目が離せなくなって、十ページくらい軽く読んでしまう。

 いかんいかん。

 他にどんな本があるか、調べられなくなってしまう。

 ぼくは目をあげる。

 フランクル、ヘルダーリン。

 ふっ、と、その二つの名前が目に入る。

 別に並んでいたわけじゃないけど、たまたま目に入って、ちょっとした違和感。

 数秒考えてから、本の位置を直す。

 ヘルダーリン、フランクル。

 五十音順。はひふへほ。ヘルダーリンのあとにフランクルだ。

 ごくたまにこういうことがある。

 ごくたまにしかない、というべきなのかもしれない。

 ぼくは、ドイツ文学の棚を離れて、別の棚にいく。

 930だ。

 英米文学。一番棚が多いのは日本文学だが、ここもかなり大きい。

 それがなんとなくむかついてしまう。

 大英帝国が世界各国を血と鉄で蹂躙して植民地化したために英語が支配言語になって、イギリスとアメリカに経済的文化的メリットを送り込んでいる証明なのではないか、なんてことまで考えてしまうくらいだ。

 高校で世界史をやると、あまりイギリスが好きじゃなくなる、というのは、ぼくだけの経験ではない、と思うのだが、どうか。

 まあ、それでも、面白い作品は面白いのだ。

 いい作品は、いい。

 それが何語で書かれていても。

 ぼくは、その棚では、ジャック・フィニィの作品を借りた。

 そのほかにも、いくつかの作品を借りて、家に帰った。


    *


 ジャック・フィニィの作品は、けっこうおもしろかった。

 だが、その作品自体よりも、ある発想のほうが、おもしろかった。

 この作品に書かれてあるアイデア。

 それは、ぼくが今まで考えたことがないものだった。

 タイムトリップ。

 時間旅行と言われるそれを聞いて、いったい、どんなイメージを思い浮かべるだろう。

 ウェルズのタイムマシンみたいに、なにか機械に乗ってどこかに行く、というのが一般的なイメージじゃないだろうか。

 そうでなければ、なにか事故みたいなものにあって、時間移動してしまうタイプ。

 こっちの事例は、タイムトリップではなくて、タイムスリップと呼んだほうが正しい言い方なのかもしれない。

 だけど、このジャック・フィニィのアイデアは、催眠術だった。

 自分を自己暗示にかけることで、時を飛び越えるというものだ。

 面白い。

 まず、催眠術というのがいい。

 この、うさんくさくも神秘的な技術、あるいは現象に、ぼくは以前から、少々魅せられていた。

 ぼくが、ちょっと情緒不安定だったのも理由かもしれない。

 催眠療法という、精神科治療もあることだし、自分の精神を安定させるのに、なにか役に立つんじゃないかと思ったのだ。

 もちろん、ぼくが魅了された理由は、それだけではない。

 ブライアン・イングリスの本、「トランス」に書いてあるような、不思議な現象。

 そこでは、現実に存在が確認されている催眠という現象が、限りなく魔術や超常現象に近い領域にまで到達する。

 この、まるで境界線を超える潜在能力を持っているかのような雰囲気。

 世界の掟にしばられない、そこからの解放をともなう一種の宗教性、あるいは、スピリチュアリティ、すなわち、精神性あるいは霊性。

 世界の不幸の元凶である邪悪なルールを打ち破る力。

 ぼくは、それらに魅了された。

 メスメリズム。ブレイド催眠。フロイトやユング。エリクソン催眠。

 合理主義と神秘主義が奇妙にまざりあったそれに、ぼくは、本当に心惹かれている。

 合理主義だけでは、その冷たさに、心が引き裂かれるようだ。

 頭では完璧に納得ができても、心がついていかない。

 神秘主義だけでは、そのうさんくささを信用できない。

 心がなぐさめられても、頭が納得してくれない。

 合理主義と神秘主義のカクテル。

 催眠。トランス。ヒュプノ。

 もし、催眠によって、時を超えられるのなら、ぼくは、時を超えたい。

 何をすればいいのかわからなかった高校三年間だった。

 今でも、よくわかっていない。

 ただ、つらかったわけではない。

 いや、ある意味つらかったのだが、それは、いじめられたとか、いやな先生がいたとか、あるいは、言葉にできる理由はなにもないけれどつらかったというものじゃない。

 つまらなかったのだ。

 つまらなすぎて、ちょっとつらかった。

 ただ、本当にただ、空虚に時が過ぎていって、それをぼくはどうしようもできなかった。

 ダイヤモンドを燃やして炭にしているみたい。

 そう思っていた。

 でも、なにも有効な手段を思いつかず、ぼくは何もできないままだった。

 今、ぼくが、時をまきもどったら、何をするだろう。

 あいかわらず、はっきりとしたものは思いつかない。

 いじめがあったなら、だれかに相談しようとするだろう。時間を巻き戻せるなら、いくらだって徹底抗戦する気力も出てくるだろう。だって失敗することなどありえないのだから。失敗したらやりなおせばいいのだから。

 いやな先生がいたのなら、選択する教科を変えて、その人がいないクラスに入ればいい。未来の情報を知っているなら、その先生に当たらない、少なくともあまり当たらないクラスに行くことはたやすい。

 ぼくは、そういうものは持っていない。

 でも、ひとつだけ。

 ひとつだけ、時間を巻き戻せたら、やってみたいことがある。

 ある先生がいた。

 美術の先生。

 柚木悠里。

 ウェーブのかかった髪。病的に長い指。吸血鬼みたいに白い肌。絵の具がつかないようにするためか、黒いコートみたいなものをいつも羽織っていた。

 細い目に、うすい唇。美人の先生なら、なにか話題になることもあったのだろうけれど、ぼくの知る限り、そういう話はなかった。

 若くてかわいい先生、というわけじゃない。

 そもそも、年齢もよくわからない。

 存在感があまりなくて、噂や話題にもあまりのぼらないタイプの先生。

 でも、ぼくは、たぶん、先生が好きだった。

 あんまり、たくさん先生と話したことはない。

 選択美術の授業で、少しだけ。

 あと、一年生と二年生のときの副担任だったから、そこでも。

 今思ったけれど、もしかしたら、学校全体で見れば、ぼくは、けっこう柚木先生とは、話したほうなのかもしれない。

 自分ではあまりしゃべった気がしないのは、もっとしゃべりたくて、しゃべりたりなかったからなのかも。

 先生は、あまり具体的な話をしなかった。

 いつも、抽象的で、よくわからない話をしていた。

 たぶん、言葉で説明するのが苦手だったんだと思う。

 あるとき、元気ですか、と聞いたら、朝焼けを見ていたら、きつねの嫁入りになって、雨と朝日を見ているときのような気持ちだ、と返事が返ってきた。

 ぼくは、だまってにっこり笑うしかなかった。

 なんとなく、言いたいことはわかるような気がする。

 だけど、ぼくは、それが元気なのか元気でないのか、いまいち確信が持てないのだ。

 ぼくは、その光景をきれいだな、って思う。

 でも、先生は、せっかくの朝日が雨でけぶって残念な気持ち、という意味で言ったのかもしれない。

 一事が万事でこんな調子だった。

 でも、先生の、抽象的でよくわからない話を、ぼくは少しだけわかる気がした。

 わかる気がしたし、自分にとって大切なことを言っている気がした。

 そこに客観亭で言語的な証明はない。

 主観的で感覚的な直感があるだけだ。

 でも、先生と話していると、ぼくはどこかにつながっている気がした。

 先生とつながっている気がしたし、先生だけじゃなくて、他のだれか、あるいはなにかとつながっている気がした。

 話していて、そういう気分になる女の人には、会ったことがなかった。

 男の人でも、そういう経験はない。

 先生は、ぼくにとって特別だった。

 たぶん、柚木先生は、ユニークな人だったのだろう。

 ぼくは、先生に惹かれていた。

 うぬぼれじゃなければ、先生も、ぼくのことを、少なくとも嫌ってはいなかったと思う。

 挨拶すると、にっこり笑って手を振ってくれる。

 そう、先生は笑うのだ。

 当たり前の話だけれど、あまり先生と話したことがない友だちと廊下を歩いているときに、先生とすれちがって、挨拶した。

 その友だちは、あまり先生が笑うイメージがなかったらしく、あの人笑うんだね、と言っていた。

 そう、笑うんだよ。

 そのとき、もしかして、ぼくは先生のあまり知られていない笑顔を知っているのかと思ったら、ちょっとうれしくなってしまった。

 虚栄心だろう。

 ともかく、ぼくは、先生にもう一度会いたい。

 会って、もっと話がしたい。

 先生は、何があったのかよくわからないけれど、ぼくが三年生になるときに、学校からいなくなった。

 イラストレーターになるだとか、画家としてうまくいきそうだとか、なにかそんなことを言われていた気がする。

 あれ、それとも、他の学校に行くということだったっけ?

 正直、ぼくは、それを聞いて、つまり先生がいなくなってしまうということを聞いて、不覚にも動揺してしまって、正確に何を言われたか覚えていない。

 あのとき、どうすればいいのかわからなくて、ただ時が流れるにまかせていた。

 でも、ぼくは、できれば、できるなら、あの人に好きだと言いたい。

 きっとふられるんだと思う。

 でも、言いたい。

 きちんと言葉にしないと、決着がつかない。この心に決着がつかない。

 三年生になってから、先生の出てくる夢を六回は見ている。

 たまに、ふらっと顔を出すのだ、ぼくの夢に。

 古典の授業で、昔の日本の人は、夢にだれかが出てくると、それはその人が自分を想ってくれている証だと信じていたらしい。

 それが本当ならいいと思う。

 心からそう思う。

 それから、ぼくがふられたとして。そして三年生の時に先生が学校からいなくなるとして。

 せめて、きちんとさよならを言いたい。

 それが、ぼくのやりたいことだ。

 いや、やってみたいことはもうひとつだけあった。

 ちゃんと、やりなおしたい。

 すごく、抽象的で、あいまいな「やってみたいこと」だけど。

 高校生活を、ぼくはやりなおしたい。

 具体的な目標を設定すると、具体的で想像できる範囲にしか到達しない。しかし、抽象的な目標を設定すると、思いもかけないゴールに到達することがある。

 そんな言葉、本当かどうかわからない。

 でも、もし、本当だとしたら、ぼくは高校生活をやりなおして、自分でも想像していないどこかにたどり着きたい。


    *


 どこかにたどり着きたいと思う。

 そう思ったことが、何度もある。

 でも、どこにもぼくはたどり着かなかった。

 今までの人生もそうだったし、今もそうだ。

 ジャック・フィニィの話では、移動したい時間にも存在していた建物に行き、そこでまさしく自分がその時代にいるのだと錯覚するほどに強く、確信するほどに強く、自分に暗示をかけることで、実際に時間を超えていた。

 ぼくは、そのやり方ではダメなのだ。

 だって、そんなやり方をしたら、過去に自分が二人いることになってしまう。

 だから、ぼくは、自分が、未来の記憶を持ったまま、過去にいるのだと考えることにした。

 つまり、今見ている現実は現実ではなく、現実とは過去のことなのだと、強く暗示をかけ、そして自分にとっての現実がそうなるときに、まさしく時間移動をすることにした。

「大丈夫、君ならできるよ!」

 りっぴーが、ぼくを応援してくれる。

 存在しないものを、存在しているかのように錯覚する技術は、この三年間でみがいてきた。

 孤独の中で、ぼくは自分で友だちを作ったのだ。

 自分にしか見えない友だちが子どもにはいたり、タルパという霊的な存在を作り出したり、ということが人間にはできるらしい。

「がんばろっ!」

 りっぴーは、にっこり笑う。

 彼女の栗色の髪が、肩のあたりで、ふぁさりと揺れる。

 くりくりっとした目が、ぼくを楽しそうに見つめている。

「うん、がんばるよ」

 ぼくがりっぴーと話していると、他人は頭のおかしい人を見るような目で見るのかもしれないし、あるいは幻覚を見ていると思うのかもしれない。

 だけど、ぼくは知っている。

 文化人類学の論文や本を読めば、精霊と話す人の話が、くさるほど出てくるということを。

 実際に、その人たちは幻覚を見ているのだ、というのだろうか?

 そういう人もいるだろう。

 でも、ぼくはそうは思わない。

 シャーマンにだけ特別に見えるというものもあるが、そうではなく、複数の人間に見える精霊だっているのだ。

 集団幻覚? 信じないね、ぼくは。

 それに、ぼくは、集団幻覚というものの実在を、少し疑っている。

 精霊や幽霊は、存在する。

 ぼくは、そう思う。それは、石や人とは違った存在の仕方かもしれないが、確かに存在するし、しかも自分だけの現実ではなく、共有可能な現実であり、その点では石や人と変わらない、とぼくは思っている。

 だから、りっぴーがぼくにとって現実であるように、過去の世界が現実になり、ぼくは過去に行けるはずなのだ。

 はずなのだけど、ぼくの信じる力が足りないのか、最初にアイデアを思いついてから一週間、いろいろがんばってはいるものの、何も変化は起こっていなかった。

 寝る前に、ここは高校一年生の四月だと思いながら寝るのだが、何も変化がないのだ。

 そして、朝が失望の色と共にやってくる。

 ぼくは、あいかわらず本を読み、軽く現実逃避をする。

 あるいは、瞑想をする。瞑想、つまり何も考えない。

 何も価値判断をしない。ただ、事実を事実として受け止めるだけの行為。

 瞑想をやったことがある人ならわかるだろうが、人間というものは本当に、いろいろなことを考える。

 たとえばこんな感じだ。

 今日は春なので陽気な天気だな楽しい気分だ遊びに行きたいなでも遊びに行く友達なんていないしなさびしいなだれかかわいい子がやってきて大丈夫って聞いてくれてごはんつくってくれてところで今日の晩御飯ってなんだろうきのうの晩御飯はおいしかったなああなんだかいやな気分だないやな気分といえば昔あいつに

 雑念。

 自分のおなかのあたりにイメージした水晶の玉に意識を集中させる。

 何か雑念が出るたびに、「雑念」と心の中でとなえ、もう一度、自分のおなかの中にイメージした水晶の玉に意識を集中させる。

 これを繰り返す。

 おそろしいくらいの引力で、雑念にひっぱられていくのがわかる。

 ぼくも慣れるまでは、五分と水晶に意識を集中させていることができなかった。

 勝手に雑念があふれてくるのだ。

 あのテレビ番組おもしろかったよなでもテレビってあんまりみたくないしまた見てしまって自己嫌悪テレビ捨てたい気分だ……とかなんとか。

 嘘だと思うなら、試してみるといい。

 もし、簡単に雑念を追い払えるなら、きっと瞑想の才能がある。

 瞑想には、座禅のように動かずに行うサマタ瞑想と、歩いたり動いたりしながら行うヴィッパサナー瞑想の二つがあるらしい。

 ぼくがやったのは、サマタ瞑想になるのだろう。

 だが、ヴィッパサナー瞑想ではないにしても、体を動かしながら、雑念を振り払う方法はある。

 走るのだ。

 春になると、妙に走りたい気分になる日が、一日くらいはある。

 そういう日は、体の欲求にしたがって、走ることにする。

 自分の体がしてほしいことは、自分の体が一番よく知っている。

 間違っているだろうか?


 たいして体力もないけれど、走りたいときに走るのは、気分がいい。

 やっぱり、体が求めているのだろう。

 とはいえ、ぼくは体力がないので、全然大した距離を走らないうちに、走るのをやめる。

 だいたい歩いて五分以内にいける距離を、走って歩いてまた走って、と繰り返すだけのランニング。

 でも、気持ちいい。

 それが大事なことだと思う。ぼくには、これくらいがきっとちょうどいいのだ。

 今日は、いつもと違って、少し遠出する。

 遠出といっても、大した距離ではない。

 散歩も兼ねているから、ちょっとランニングだけのときよりも遠くなるだけ。歩いて三十分かかる以上の場所に、行く可能性はゼロだ。

 少し走る。気持ちいい。

 疲れる。歩く。疲れが心地よい。歩く。回復していく。

 また走る。気持ちいい。あまり人通りもないから、人目も気にしなくていい。

 人目を気にする自分をかっこわるいと思う。自分が走りたいなら、人目を気にせず走ればいい。人目を気にしているようじゃあ、正しいことはできない。正義の味方は、みんなが反対しても、正義を実行する。

 走る。気持ちいい。疲れる。歩く。歩く。回復する。また走る。

 図書館に近づいていく。

 図書館の近くには、鳳凰坂高校がある。

 実は、ここらへんで、同級生に会ったことが、一度もない。

 不思議と、街を歩いていても、同級生には会わないのだ。そういうものだろうか。

 あまりぼくも出歩くほうではないけれど、街を歩いていて知り合いに会うことがまずないのだ。

 繁華街に出かけていかないからかもしれない。

 あるいは、高校生だと、行動範囲が広がるので、遭遇率が減るのかも。

 だから、その人とぶつかったときに、本当におどろいたのだ。

「ごふぁ」

 何か変な声が、ぼくの喉からもれて、うしろにぶざまにすっころぶ。

 ごちん、と軽く頭を打つ。痛い。

 とりあえず、体を起こして、顔を前に向ける。相手の顔を確認する。

 ぼくは、この顔を知っている。

 笹部さやか。

 ぼくの一個下だ。つまり、今、高校二年生だ。

 肩あたりまで伸びた髪は、ストレートパーマでもかけているのか、少し茶色がかかっている(もちろん地毛でそういう色なのかもしれない)。

 ジャージといえばいいのか、体操着のような服を着ているが、とりあえず学校の体操服ではないのは確かだ。

 もう春だからか、半そで半ズボンで、きれいな足が二本、ぼくの目の前になげだされている。

 きれいに受け身を取ったのだろう、しっかりと両手を地面について、体を支えることができたようだ。反射神経、いいんだな。

 こちらを少し心配そうに見る目が、ぼくの目と合う。

「あ、先輩じゃないっすか」

「あ、ども」

 反射的にお辞儀する。

 なにが、あ、ども、だ。もっと、おはようとか、こんにちは、とか言って笑えばいいものを、何も考えずに、ぼくは適当な挨拶をして、真顔でいる。

 そのことが失敗に思えて、いやな気持ちだし、どういう話をすればいいのかも思い浮かばない。こんな発言は、失敗でもなんでもないという人がいるかもしれない。

 しかし、ぼくは、知り合いにあったときに、もっといい感じのあいさつをしたかったのだ。

 結局、ぼくは他人によく思われたいだけなのかもしれない。

 虚栄心。

「先輩もトレーニングですか?」

 気さくに笹部さんは声をかけてくる。

 たしか、陸上部だったはずだ。ぼくが通っていた英会話教室で一緒だったのだけど、そのときにそう言う話をした記憶がある。

「トレーニング?」

 思いもかけない言葉に、ぼくは思わず聞き返してしまう。

 トレーニング。ぼくとは縁遠い言葉だな。

「いや、違うよ。単に――ああっと、きばらし、かな」

「気晴らしで走ってるんっすね! いいですねー、走るの、あたしも好きです!」

「たまにね、走りたくなるんだ」

 ぼくは別に走るのが好きじゃない。でも、「走るの、あたしも好きです」と言ってくれた人に対して、「ぼくはそんなに好きじゃないんだ」とは、あまり言いたくないのだ。ぼくが言いたいのは、そういうことじゃない。ぼくは、自分が走るのが好きかどうかについて話したいわけじゃないんだ。

 だから、ぼくは、「たまに走りたくなるんだ」という。ほんのちょっとだけ、話題をそらす。走るのがあんまり好きじゃないということを言わないために。そして、議論を避けて、楽しくおしゃべりするために。

 ぼくは、人としゃべるのが好きだ。そして、ぼくは、楽しくおしゃべりするために、人と話すときはしばしば、こういうことを考えている。

「ところで先輩、最近どうです、元気ですか」

 笹部さんの質問に、「まあまあだよ」と答える。

 本当は、あまり気分がよくないし、元気でもない。

 でも、そういうことを口に出してはいけない、となぜかぼくは思ってしまう。

 ぼくは、自分が元気じゃないときは、元気じゃないと言いたい。でも、元気じゃないって言ったら、言われたほうが困ってしまうんじゃないか、どうしていいかわからなくなってしまうんじゃないかと思って、言えない。

 それに、元気じゃないよと言ったら、なんで元気じゃないの、って聞いてくるだろうし、そうすればもう、それは挨拶じゃなくて相談になってしまう。

 ぼくは、この子と「ある程度は」親しい。けれど、さすがに相談できるほどには、この子と親しくない。

 だから、ぼくは元気ですかと聞かれたら、元気ですと答えてしまう。

 でも、そういう「常識的な」(といっていいのか、正直にいえば疑問だ。常識的なんじゃなくて、単に、ぼくが自分の心を見せるのに臆病なだけじゃないか?)ふるまいに、多少、うんざりしているのも事実だ。

 つらいときにつらいと言って何が悪いのか。

 相手がびっくりしたっていいじゃないか。本当のことを話すべきでは? ぼくが元気ですかと聞く立場だったら、元気じゃない人に元気だよと言われてもうれしくない。やっぱり、できるなら力になりたいと思う。

 ぼくは、「まあまあだね」と笹部さんの質問(あるいは挨拶)に答えたあとに、自分のことについてあまりしゃべりたくなかったので、すばやく「そっちはどう?」と聞いた。

 すると、元気で幸せそうな答えが返ってきた。

「あたし、今、けっこう絶好調なんっすよね! もしかしたら、春の大会で、けっこういい成績残せるかもしれないんですよ! やっぱり、陸上競技は、寒い冬よりも暖かいときのほうがいい成績残せるんで、正直、我ながら期待してます。英語の方はあんまり成績よくないけど」

 そう言って、てへへ、と笑う。

 それは、本当に楽しそうな笑顔、心から楽しそうな笑顔に見えて、ぼくは少しだけ落ち込む。ぼくは別に、今楽しいわけじゃないので、なんというか、自分の心と、見ているものとに差がありすぎて、なんといったらいいか、ちょっとつらい。

 落ち込んだときには、幸せな人のいるところには行きたくなくなる。すっきりとした晴れの空よりも、曇り空に親しみを感じるようなときだってある。

「そっかあ。がんばってるんだね。じゃあ、今、走っているのも自主トレ、みたいな?」

「ええ、春休みの練習は、休みですけど、自分でやらないとなまっちゃうっていうか、むしろ走りたい、みたいな」

 本当に走るのが好きなんだなあ。こっちまで楽しくなってくるような笑顔に、ぼくはなぜか、ちょっとついていけないものを感じる。そして、そう感じた自分が、ちょっといやになる。

 そういえば、進学校は、あまりスポーツが強くない傾向にあると思うが、陸上部や、珍しい運動部に関しては、けっこういい線いく場合もたまにある気がする。チームプレイじゃなくて、個人プレイの割合も多いから、ある程度才能ある人間がいれば、結果が残せるからだろうか。

「あっ、っていうか、あたし走らないといけないんで、すんません、では!」

 びしっ、と手をあげて、後輩は、走り去っていく。

 陸上のことはよくわからないけれど、なんだか走り方が違う気がする。あれが、きれいなフォームとか、陸上やっている人のフォームとかいうやつなんだろうか。

 なんとなく、世界中の幸せから取り残されているような気がして、ぼくは家に帰った。おおげさだな、と後から振り返ると思わないこともない。でも、落ち込んでいるときにすごく幸せな人に下手に会うと、こういう気持ちになることもある。

 もし、うまく出会えば、きっと、こっちにも幸せをわけてもらえるんだろうけど。


 家に帰るとき、世界が色あせて見えるのに気付いた。

 なんだか本当にがっくりして、世界がだんだんと色を失っていく気がする。

 昔、だれかが言っていた。好きな人とはじめてつきあったときに、本当に世界が色鮮やかに見えた、と。赤がより赤らしく見える。青がより青らしく見える。世界が黄金色に輝く、虹色に輝く、という比喩表現は、比喩でもなんでもなかった。本当に、そう見えるのだ、と。文字通りの意味で、世界が輝いて見えるのだ、と。

 ぼくは、この感覚は、よくわからない。

 そして、こうも言っていた。その好きな人にふられたときは、本当に世界が色を失ったのだ、と。世界が灰色に見えるというのは、比喩表現でもなんでもなくて、本当にそう見えるのだ、と。赤を赤だと頭では認識できるが、赤に赤っぽさがあまりない。頭では、この色が青だとわかるのに、あまり青だと感じられない。文字通りの意味で、世界が色あせて見えるのだ、と。

 でも、こっちの方の感覚なら、わかるかもしれない。今の状況に、少しだけ似ている気がするから。

 すごく落ち込んでいるわけじゃない。でも、なんだかこの世界が、自分から遠のいている気がする。ある種、世界が自分と無関係な(無関係だと思おうとしている防衛機制か?)ものに思える。離人症の症状って、こんな感じなんだろうか。ここにいる自分も、なんだか嘘くさい。


 もう、なんだかいろいろとイヤになって、家に帰ったあと、ぼくは横になる。

 昼寝だ。ふて寝だ。

 まぶたを閉じると、ぼくはいつの間にか意識を失った。

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