汝、死の谷の陰を歩め【短編】
【魂祀篇 一節/始業 二項】
如何にして事物は始まるか、
また如何にして事物は終わりを迎えんか、
だれぞ知る。
「因」のむすぼれは遥か天高く鮮やかな二重螺旋、永遠の相似形を描きて、彼方の地平へ消えゆく。
そはなにものにも乱されることなく、
なにものにも犯されることなく。
天に輝する「因」こそは我らを統べる唯一の護法。
さても巡りゆく螺旋こそは天空を両断し、大地を照らしたまう、無二の則。
見よ、その荘厳な光明を。
見よ、霧雨の煙るこの限りなく広がる穢土を貫くあでやかな光の御柱を。
【魂麗篇 六節/詩篇 十七節】
人の子とは盲の赤子の謂。
生まれ落ちた時から、その精妙極まりない紋様に魅せられ旅にいでたつ。
もとより行末は知らず、いつか風化に飲みこまれる道に過ぎぬ。
千の海万の都市を通り抜け、ことごとく螺旋の国、かの地へと誘われん。
人の子は約束の地にたどりつく術を得んと、果てもなく彷徨い続ける。
かの者は犬儒を装い華美に埋没せんか、かの者は乞食に身を落とさんか。
如何にして我ら、朝に草露を含み、昼に木陰で安んじ、夜に星辰の眠りにつくを得んや。
その紋様、我らの喜びと苦しみを刻み、
その光、須臾が我らを照らし出し、
大地に影を濃く落とさん。
人の子よ、汝、ただ盲いた心に光を探し、ただ力なき手を虚空に差し出すのみ。
何となれば、はかなさこそが宿世、おろかさこそが我らの業。
ただそれ影のみが語ることの何ほどか持ち合わす、我らの表すことなかるべし。
果てなき地平に光は踊る、
天空にきらめく星のごとく、
わだつみの白い波濤のごとく。
久遠の光は根源にして極微、
八卦にして太一、
一の螺旋は百の螺旋へ、千の螺旋は無限の螺旋へ。
我ら橋を架け、塔を築き、道を敷く。
慈悲の名のもとに人は人を弑し、愛の名のもとに人は人を虐ぐ。
さあ、壮麗な王の車の如き世界を見よ。
愚者はそこに耽溺し、智者は執着しない。
――光は巡る、螺旋は巡る、ならば世界は巡り、絶えては生じ、産まれては消える。
【魂瞑篇 二十二節/カテドラル告白歌 三番】
二重螺旋はきらびやかな光を放ちて虚空を駆け巡る。
汝ら、気の遠くなるような時を経てなお螺旋に手を触れることかなわず、それ煌煌とまばゆいばかりの螺旋はいかばかりか彼方にあらん。
ついに人の子は立ち止まり天を振り仰ぐ。
黄昏の薄暮に煌くかの地は聖なる象徴ただそれのみに許されんか。
汝、死の谷の陰を歩むものよ、両目を抉るがよい。
路傍に不浄の体を横たえ、汝の生を彼岸に捧ぐがよい。
呪詛に満ちた声、怨嗟の風に乗りてあまねく響かん。
螺旋は巡る、世界は巡る、
土から出でて土に帰る、
我らはただ蜉蝣のごとくに滅びるものよりか。
――やがて時が満ち、螺旋が西の空に消えるとき、人の子にできることはただ粛然と頭を垂れることのみ。
☆
歴史上魔女狩りが始まったのは、一四八四年十二月五日にインノケンティウス八世の発布した「限りない愛情をもって要望する」という名で知られる教書に端を発している。
教皇が妖術と呪術に関して公式の文書を送るということはかつてなかったことで、世間には驚きをもって迎えられた。
このころライン渓谷に住みついたワルド派という異端者たちが異端審問官たちを悩ませていた。
「――マインツ、ケルン、トリール、ザルツブルグ、ブレーメンのいたるところで、彼らは妖術を駆使し、自らの霊の救済を忘れ、カトリックの信仰から逸脱し、インキュバス・スキュバスに身を任せてしまい(中略)、恥ずべき魔術を乱用して、人間や動物の子供、草花や木々の実り、大地の収穫を弱らせ、枯らし、絶やしてしまう」
教書は主に、妖術にふけるという評判の彼らを取り締まる権限を審問官たちに付与することが目的だったのである。
ドミニコ会に所属している二人の修道士、すなわちハインリヒ・クレーマーとヤーコプ・シュプレンガーは教皇の特許を手にして、ライン渓谷沿いのワルド派、フス派を初めとした、あらゆる異端者を迫害してまわった。
もちろん神に仕えることができる喜びを持って。
そしてこれが、その後二百年にわたる忌まわしい魔女狩りを支える特許状となったことであった。
☆
雪の夜には、自分がいるこの塔の最上階が地上から浮き上がって行くように思える。
灯りを消して黒い夜空を一心に見つめていると、雪が静止する。
遥かな高みを目指して、ゆっくりと自分が浮かび始める。
ヤドベクは身震いした。
昔そうしていた時は、降る雪を長く見つめ続けることができていたものだが、今はもうムリだ。年も取った。何より疲れている。
地下の部屋からここ最上階まで、異端者が拷問にかけられるうめき声が冷たい石の壁を這い上がってくる。昔はその声も、人間が人間として生まれ変わる産声のように聞いていたが、今は耐えられない寒さと同義だ。
ふた月ほど前、教会から出立する朝、まだ曙光さえも感じられないその寒い朝も、雪が降っていた。
わざわざ見送りに出てくれたカールは「なんてことはない。ライン渓谷沿いの異端者を改宗させるなど簡単なことだ。君の神への奉仕ぶりを見せればすぐに恭順する」と慰めるように言い、努めて明るく送り出してくれた。
教会の外を知らない自分をだますのは簡単だったろう。
陥れたのがまさにそのカールだったと知ったのは旅を始めてすぐのことだった。同僚たちの誰ひとり、自分をかばうことさえなかった、とも。
神の奇蹟を世にしろしめす職務以外に何の興味も持たない自分は、それほどに目障りだったのだ。
疲れているのだ、とヤドベクは思う。
教会への信頼と神への信仰心が揺らいでいるのを見ないようにしながら、それが日に日に強くなっていくのをどこかで納得している。入れ替わるように、神を理解しようとしている自分が姿を現しつつある。
――それは最も危険で、不遜なことだ。なぜなら、それができたら、自分が神になってしまう。違うだろうか。
異端審問官である自分が、まさに異端に滑り落ちるきわにいることをヤドベクは実感していた。
やわな異端審問官は必ずその陥穽の上を通る。
そんな時にこそ神に祈らねばならぬのに、彼の中の神はすでに輪郭さえぼやけてしまっている。
ヤドベクは本格的に身震いして、灯りをつけた。
☆
ベルを鳴らすと、ルシュカがドアの隙間からおずおずと顔を出した。
いつもと違い、村長から審問団のためにと献上された、毛糸で編んだ上着を着ている。恐らく台所を取り回しているマリーあたりが着せたのだろう。放っておくと何も望まない少女だ。雪が降ってきても長袖のシャツ一枚で震えている。
彼女もヤドベクの疲れの、いわば「証明」だ。
ルシュカは、前の異端審問をした村で火刑に処せられた人間の娘だった。
年のころは十二と聞いたが、栄養が不十分のせいかまだ未成熟なまま、幼女のような姿だった。
それでも村とすれば労働力や人的資源として確保しておきたいところだったろうが、ヤドベクが強く所望すると村長は下卑た笑みを浮かべて、どうぞどうぞ、とルシュカが汚い犬の子であるかのように突き飛ばしてみせた。
今頃何を言われていることか。
ヤドベクにしてみれば、事実小間使いが欲しかったのだったが……想像できる範囲は、奴隷か小児性愛かくらいならまだましで、慰み者にして殺す性的倒錯者扱いかもしれない――もちろん彼にそんなつもりはない。
ルシュカは両親が生きたまま火あぶりにされるのを目の当たりにして、その上で、共同体からは殺されることを前提として放り出されたのだった……にもかかわらず、なぜか一向に瞳に陰がささない。すべからく憎悪の眼を向けられてきたヤドベクにしてみれば、傍において話をしたい衝動にかられるのも不思議なことではなかった。
不思議ではない? 異端審問官と異端者の娘が? しかも親を火あぶりにしたのに?
――バカバカしい。
異端審問官とは、聖書の一節をもとに書かれた輝かしき「魔女への鉄槌」をバイブルとして、純粋な信仰を持った聖職者にしかなし得ぬ、苛烈な職務を果たす生きながらの殉職者だった。であるゆえに、自らを最も厳しく戒めねばならない。
その最前線にいるヤドベクが、異端者の娘を連れていたらどんなことになるか、考えないでもわかる。
最悪、申し開きなしで火刑。
それでもなぜか、その時の自分には必要だと、強く思ったのだ。
「食事はいらないから、寝室の支度をしてくれ」
ルシュカは寝室、という単語に身体を堅くする。自分がやがてそこで蹂躙される、と未だに思っているのだ。
村人たちがあることないこと吹き込んだのだろう。
恐らくは善意で。
気に入られて少しでも長く生き残れるように、と。
「できてます」
ルシュカは村を出て以来、ほとんど話さない。必要十分な単語だけだ。
心をほぐそうとしても頑なに開かないで、ただ悲しみに満ちた瞳でヤドベクを見つめる。
「そうか。ではここの明かりを頼む」
ヤドベクが机を廻って、ドアの前に立っているルシュカの脇を通ると、彼女は必要以上に距離をとった。
ヤドベクはそれに気づかないふりをした。
☆
ヤドベクたち異端審問団は、ケルンから南下する先々で村を「教化」し続け、次の目的地はライン川沿いのコブレンツと定めた。
近辺ではそこそこに街と言える大きさで、一団にはここしばらくなかった浮ついた気分が漂う。
その中で、ヤドベクだけが沈み込んでいた。
彼はこの異端審問の責任者で、街ともなれば密告者も多いゆえに審問も数多く――数を片付けねばならないとなれば、当然かけられる時間も少なくなる。
異端かどうか、さらには魔女かどうか、納得するだけの審議もろくにできず、ただひたすら地下室の拷問が苛烈さを増していくのだ。
もっとも納得するだけの審議の時間と方法があったためしもなければ、そもそも密告を奨励している側なのだから、言うべき言葉など最初からない。
「まだついてきますよ。あの少年」
夕刻、宿に着く直前に、聖地巡礼騎士団の団長・ヴェルツが馬車に馬を寄せて話しかけてきた。
この異端審問の旅には聖地巡礼騎士団が護衛としてついていて、彼は職務としてはもちろんだが、それ以上にヤドベクに対して好意を示してくれていた。異端審問のやり方に情愛があるという。
皮肉な話だ。信仰がゆらいで初めて味方が増える。
「いえ、どうやら、ルシュカの村の少年らしいのです」
「ほう?」
言外に含まれる、脱走を不思議がるニュアンス。責務を放棄して村から出れば戻る場所はない。
「ようやく先日ルシュカから聞きました。彼はどうやらあの村では余計者だったようで、苦労はせずルシュカを追ってきているのですよ」
「……ふむ。追っ払いますか」
「危険がなければ、そのままにしてやってください。どうせ戻ってきますから」
ヴェルツは頷いて微笑んだ。
世の中ではとっくに朽ち錆びた騎士道精神を、聖地巡礼騎士団は持っている。
信者を守るためだけに暴力を使うことが許されている、贅沢な騎士団。
ゆえに笑顔に邪気はなく、それを向けられると何とはなしにきつく当たれなくなる。嫌われたくなくなる、奇妙な逆転。
御者席に同乗するルシュカには、今の会話は聞こえていないはずだったが、斜に振り返ったところを見ると聞こえたのかもしれない。
ふと、ヤドベクは馬車の窓から首を出した。
審問団と言ってもそれほどの大所帯ではなく、今いる者とコブレンツに先触れしている三人ほどを含めて総勢三十人程度で、これら丘を越えつつある自分たちの向こう、なるほど確かに頂上当たりにかすかに人影が見える。
隠れているつもりなのか、時々木の陰に身を寄せながらこちらを伺っている。
姿かたちは遠目で見ても未成熟な少年だ。地方の農村では、酪農が可能なところ以外では、どの子供も年相応に成長はできない。
彼には睨まれたことがある。
異端審問官と言えば全国に鳴り響く悪名であるのに、ルシュカを側付きに加えると言った時、火の出るような瞳で睨まれたのだ。もともとの赤毛とあいまって、その姿には文字通り燃え立つような迫力があった。
彼はルシュカの肉親ではなく、許婚や恋人だったとかいうことでもないようだった。それでは単に彼女を好きだったのか何か保護するべき対象だったのか、というとそうでもなかった。
ルシュカは確実に全てを話してないだろうが、少年は――シーファといったはずだ――炭焼き職人の雑用で、ほとんど彼女とは接触がない存在だったのだ。にもかかわらず、彼は自分以外の異端審問官だったら、ただちに捕縛されかねないほどの敵意を向けた。
――――上出来だ。
ヤドベクが感じたのは嫉妬だった。
いずれの理由にせよ、自分の全てを賭けたものを奪われる耐え難い仕打ちに、全身全霊で否を言うことができる、若い、若い魂。
それは、まさに今自分が失おうとしているものだったからだ。
☆
翌朝の宿に、職務からすればコブレンツで審問団を迎える用意をせねばならないはずの先触れの三人が到着した。
てんでに話し始める報告を大体まとめてみると……コブレンツでは黒死病が流行していて、すでに身分の高い者はあらかた避難を終え、現在、川境は住民が街を出る混乱のさなかである、とのことだった。
間もなく領主の私兵が街を封鎖するらしく、昨日からいよいよ混乱に拍車がかかっていて、その中を街へ入るには相当の困難が予想されると同時に、入ったら容易に出られなくなることも予想される、と。
彼らの報告を受けて開かれた審問団の会議で、ヤドベクは方針を再決定する旨の声を聞きながら、内心では安堵していた。
異端審問は、なしだ。
――任務はすでに日毎に彼の神経を苛み、審問ではなく聴聞している時でさえ、もたらすものはもはや苦痛でしかない、巨大な怪物に成長していた。
時には現実の苦痛を彼に与えつつあった。
たとえいっときでも離れられるのならば、他の選択肢を考える気にはならなかった。
「いずれ審問官のご決定に従いますが、コブレンツはその異端の輩の多さからすでに罰を受けていると考えられます。もはや教化さえ必要ではなく、とく次の街に向かうべきかと」
実務を統括する副団長、ベルガはなぜか勝ち誇ったようにそう言った。
罰………罰か。
異端であるならば仕方がないのだろう。それは生き腐れの罪に値するほどのものなのだろう。恐らくは。
ヤドベクはルシュカの瞳を思い出していた。純粋に悲しみのみを宿す、その瞳。
衝動的にヤドベクの口から言葉が走り出た。
「人々に神の慈悲を与えることが我らの真の目的である以上、コブレンツに入って人々を助けることも神の慈悲のひとつではあるまいか」
会議の中に動揺が広がった。
まさか、この団長は、黒死病のただ中に全員を投げ込もうとしているのか?
「皆も知る通り、奇蹟は様々な形を取って現れる。ここに我々が巡り合ったのも神のお導きやもしれぬ」
ヤドベクはそう言ってから、それこそが自分の望みだと気づいた。
自分の信仰の強さを試したい自棄的な欲望と罪悪感、それに全員を巻き込む昏くて熱い快感。
彼は修道僧のような黒い法衣のはしを机の上に示した。
「これは神の遣わしめとして預かった法衣である。なぜ黒いのか。なぜ司教の法衣ではないのか……私が神の王国の一員足らんとする意志であり、すでに現世の住人でないことを示しているのだ。この審問団は、すべからくそういった意識を持ってもらいたい。我らはコブレンツに入り、黒死病の信者たちを、我らの本来あるべき姿として、神の国に送らねばならぬ」
反論を許さない毅然とした口調に、審問団の誰も論駁するものはなかった。最も若い神学校を出たての若い司祭だけが顔を上げて、わが意を得たりととばかりに頷き、騎士団ではヴェルツがあきれたことにウィンクしてみせた。
誰かが舌打ちをしたように聞こえたが、気にならなかった。
考えねばならないことは他にある。
☆
すでに街は見捨てられた様相を呈していた。
黒死病の猛威は誰もが聞いたことがあるが、実際に目にすることはほとんどない。目にして生き残ってる人間が極端に少ないからだ。
ヤドベクは街路に横たわっているものを収容し、廃棄された教会を簡易の野戦病院として陣取った。
野戦病院。
違いない。
それは、誰かを救うということだけを目的とした、この世に存在する数少ない善意の純粋な塊だ。
ヴェルツの活躍は目覚しいものだった。
わずかの間に、付近の医院から黒死病に役立つと言われる水銀と硫黄、そして膨大な量の湧き水を瞬く間に整え、教会の奥から順に重篤な患者を並べて、簡易の看護婦を手前側、信者たちを奥側の担当に振り分けたのだ。
中庭に掘られた、死者を葬る巨大な墓の掘り手が最も多くなるのが避けられなかったのは皮肉としか言いようがないが。
無様なことに、副団長以下の司教たちは高台の家から一歩も出ようとはしなかった。
この病気が感染することを知っている以上やむを得ないことだったが、ヤドベクは単に哂っただけだった。気にもならない。
結局、信教者たちが自分の中でもはや意味を持たない予想を証明するだけだったからだ。
みじめな信教者たち。神の国など、かけらも信じていない。
その家を出る時は心底嫌そうな顔をして、死者を弔う時のみだった。聖水を軽く、惜しむように、死者にかけて逃げるようにまた家に戻る。
去り際に、ここを出て行くべきだ、とか、百人にひとりしか感染者が助からないのだとしたら、全て焼き尽くして付近に伝播しないようにするべきだ、とか、真っ直ぐに見ると眼をそらすようなことしか言わない。中には本当にそれを実践しかけるものもいるらしい。ヴェルツが眼を吊り上げて怒っていた。
――でも、ここで信者を見捨てて、したり顔のまま、どこでこの教えを触れ回るのだろうか?
むしろ驚くべきはルシュカだった。
彼女は軽症の患者も重篤な患者もわけへだてなく接した。
献身、と言うのが最も相応しい形容で、患者たちの身体に手を触れるのを厭わないばかりか、手づから食事を患者に食べさせ、下の世話もすすんで行っている。
野戦病院の設立当初、ヤドベクはルシュカがよく働いているのは、自分の役立つ場所を見つけたため、くらいに思っていたのだった。
だが、慣れない水まわりを担当している最中(体力も実際の治療の心得もないヤドベクができるのは単純作業くらいなものだったのだ)、ルシュカが患者の身体を拭く姿を見たのだ。
彼女は一点の曇りもない笑顔、それは奇妙に哀しい肌触りを残すものだが、死そのものと言える患者たちを恐れずに抱きかかえていた。
――――美しい姿だった。とても、美しい姿だった。とてもとても。異端者の娘のはずなのに。
そして、ルシュカがもはや食べられないほど衰弱した患者に、ほとんど口移しのようにして食事の世話をしているのを見て、ヤドベクは衝撃を受けた。
この病気は、確実に経口感染するのだ。
いくつも彼はそれを見てきた。夫婦の愛が強いばかりに双方共に死んでいく。最悪の場合は生き残ったほうが愛の強さなど置き去りにして、死んだ連れ合いにつばを吐きかけて死んでいく様を。
患者たちは彼女をおがむようにして、満足そうに、わずかに申し訳なさそうに死んでいった。患者たちを送るルシュカの姿は、まるで、聖書のことほぎにある聖母マリアの姿を髣髴とさせた。
この世に生まれた者への深い悲しみと諦観、そしてこの世を去る者への祝福と圧倒的な慈愛……まったく逆なのかもしれない。
でもそれはほとんど等価であるように思えた。
そしてそう思えることに、何か言いようのない喜びが感じられた。
にもかかわらず、いやむしろ、そうであればなおのこと、湧き起こる疑問がヤドベクにはあった。
ルシュカは今も、旅立ちそうな重篤な患者を胸にかき抱いている。
ヤドベクは思うのだ。
ではそれほどまでにして、ほんとうに、何をルシュカは望むのか?
自分は、そして神は、それに応えられるのか?
聖母マリアは、その本来の姿に似つかわしくない、幼い啜り泣きの声を漏らした。
☆
実際にはほとんど看取ることしかできなかったが、コブレンツで治療活動を始めて五週間が経ち、死者が二百人を超えた頃、ルシュカが倒れた。
黒死病だった。すでに黒い斑点が顔に出ていた。
栄養状態も水も悪いから抵抗力もなく、消毒さえ民間伝承にしかない時代、自棄的な献身を続けていれば、感染は時間の問題だったのだ。
すでに野戦病院のベッドは満床だったが、軽症の男が自らすすんでベッドを譲った。ええ、かまいません。ルシュカ様のためなら、私が床に寝ます。当たり前でしょう――重症の患者さえも同じことを言い、ヤドベクは黙らせるのに苦労した。
「ヤドベク様」
うたた寝をしていたようだ。
危篤に陥ったルシュカの夜番をしていたヤドベクは瞬時に目覚めた。
ささやくような言葉を目線で追うと、ルシュカが例の悲しい眼でこちらを見ていた。
「お体に障ります。私のことはどうぞご放念くださって、ご寝所にお戻りになってください」
「いいのだよ。もはやあまり眠れないのだ」
連日の重労働と精神のストレス、死が身近を疾風のように過ぎ去っていく中で、神経だけが昂ぶるのに反比例して、自分がやつれていくのがわかる。自分の死期も近いのかもしれない。
「いけません。私はもはや先のない身なのですから。ヤドベク様はこれからも人々を救わねばならぬ身なのです。ご自愛ください」
ヤドベクは哂った。むしろ我が身を。
「救う価値のある人間などそれほど多くないのだよ、ルシュカ。私にもまた救われる価値はないのだ」
そうだ。せめて聖母マリアを看取るくらいしかいる意味がない。素直にそう思っていた。
「いいえ。短い間でしたが、ヤドベク様がどんな人間にもわけへだてなく教えを説いてくださるのを私は見ていました」
「それは習慣に過ぎないのだよ。司祭であれば誰でもあれくらいはする」
「……私はいい従者ではなかったと思います。両親が火刑になったことを納得が出来ないままに、ヤドベク様を受け入れることもできませんでした」
深夜、皆が寝静まった時間、ロウソクの炎がゆらめいて壁にふたりの影をデフォルメして映し出す。
ルシュカはヤドベクの眼を見つめたまま、とつとつと話し始めた。見つめられているとヤドベクはなぜか怖くなって眼を伏せた。
「それは当然のことだ。私にもなぜあれほど強く、従者に請うたのか未だにわからない。お互いに苦しいだけなのに」
「……私は父親に毎日犯され、母親はそれを知らなかったのか、知らないふりをしていたのか……だから彼らが火刑になったのも仕様がないことなのだ、と思っています。むしろ地獄がひとつ終わった、という意味では、よかった、と」
「……!」
ヤドベクは思わずルシュカを見つめて身震いした。
この娘の眼に浮かぶ悲しみは、本当に深い深いところから生じているものなのだ、と理解した。道具としての存在しか肯定してもらえない子供。
「ヤドベク様、私いつも思ってたんです」
「……何をだね?」
「それでも、毎日こうして生きていけるだけでまだましなんだって。神様はこの世界を動かすのに忙しくって、私みたいな力も頭もない人間を見ている時間なんてないんだなって」
「……神は全てしろしめすのだよ?」
「そうですね。でも知っていてもできないことってあるじゃないですか。今だって、私がいくら頑張ってもみんな死んでしまうように」
「いや……神は、そういうものでは……ない」
「いえ、いいんです。私は神様に見ていてほしいわけではないんです。これ以上ご迷惑をかけるなんてできません……自分にはほんとうに力がなくて、大事なものを背負う力もなくて、だから全部捨てて生きていくんだって、そういうものなんだっていつも思ってたんです」
「ルシュカ……」
言葉が継げない自分に、ヤドベクは驚いた。
「自由に生きていけたら、と私も思ったりはするんです。でもそれは力がある人や頭がいい人だけに許されるぜいたくなんでしょう?」
「………」
それはルシュカの本音だったのだろう。
顔色はすでに土気色になっているのに、珍しく饒舌な彼女を見ながらヤドベクはどうしようもなく切なくなった。
自分は信教者の上滑りする言葉しか持っておらず、自分の従者のどうしようもなく”常識的な”言葉を真っ直ぐに否定することさえできない。
彼女を救うことさえできない。
「だから、シーファと出会えた時は本当に嬉しかったんです」
「あの少年かね?」
「はい。私の境遇に泣き出すくらい怒ってくれて、いつか自分が何とかする、て言ってくれたんです」
「……そうか」
ヤドベクは身裡をかきむしるような強烈な感情を覚えた。
嫉妬だ。
少年より優位に立っていると、なんとはなしに思っていたことだったが、やはりそれは陽炎のような幻だった。動揺を表に出さぬようにヤドベクは続きを促した。
「彼と会ったのはたった二回だけなんです。言葉を交わしたのは一度だけ」
ルシュカは、ほう、と笑った。
「自分でもわかってるんです。たぶん、好きになったわけではないんです。ただ……」
「……ただ、何だね?」
ルシュカは眠るように途切れ途切れに言葉を発していた。止めなければならないのをわかっていながら、ヤドベクはもう少し先を聞きたかった。
ルシュカはもう一度、ふふ、と笑った。
「ただ、嬉しかったんです。何もない、誰の眼の中にも入らない私を必要だって言ってくれて」
ルシュカはそれだけ言って力尽きたように寝入った。
この娘の命の炎はほとんど燃え尽きようとしていた。
人は言葉で多くのものを飾る。
元のものが見えないくらいにミスリードし続け、ついには韜晦する意味自体を失うくらいに。
言葉は積み上げていくうちに力になり、年を取るに従って誰もそれから逃れられないようになる。少年と少女だけが未だその鎖から自由だ。
必要だ、のひと言でいい。
突き詰めれば、触りたい、のひと言でいいのだ。
多すぎる言葉は人も物もゆがませる。
抱きしめたい、と言われることでどれだけ多くの人間が救われるか、ルシュカはそれを証明したではないか。
誰もが汚いもののように避ける患者たちをその手で抱きかかえ、微笑みで送ってくれた彼女のために、死神の袂に覆われた患者たちがどれだけ犠牲を申し出たか。
それを「愛」という奇蹟以外の何と呼べようか。
ヤドベクは静かにむせび泣いた。
信教者になってから初めて、人のために祈り、泣いた。
永い間忘れていた涙は、ルシュカの色を失った右手に落ちた。
夜明け前、ルシュカは息を引き取った。
直前の一瞬だけ、悲しみをわずかに残した、澄んだ瞳をヤドベクに向けて、
「大丈夫です。幸せでした」
と言った。
☆
ヤドベクはふと眼を覚ましたようだった。
ルシュカの葬儀(と言っても中庭に埋めるだけだが)を自ら執り行なって、倒れるように自室に戻ると、久しぶりに寝入っていたのだろう。
片側に大ぶりで簡素なベッドしかない室内は暗幕を引いたために暗かったが、窓からわずかばかり昼間の光が漏れ入っているので、完全な暗闇ではない。もらい受けてきたルシュカの髪止めが枕元で光を反射している。
ふと気づくと、ベッドと逆の片隅にぼんやりと誰かが立っているように見える。
「誰か?」
応えはなく、首をめぐらせるとどうやら死者らしかった。さまよった誰かが救いを求めてやってきたのかもしれない。
ヤドベクは起き上がった。
「恐れることはない。望むことを言うといい」
ルシュカだったらむしろ嬉しいことだと、一瞬ヤドベクは思った。
まさか、そんな年でもあるまいに。
部屋の隅に立っていたのは、ルシュカではなく、自分だった。
ヤドベクは戦慄して立ち上がった。
「……!」
霊はおもむろに首を振って、座るように、と手振りで指し示した。
「そうです。私はあなたです。ですから、そう緊張せずともよいかと思います」
話し方まで自分と似ている。
ヤドベクが黙ったまま座り直すと、霊は話し始めた。
「黒死病のために死が重なり合ったりすると、時にこういうことがあります。個々の人の想いがしこったために、偏差として私のような存在が生じます。恐らく我々の知らない、世界の補完作用なりと関係があるのでしょう……そして、その場に受け皿があると、当人に最も受け入れがたい姿を模して現れるようになっているのです」
――よりによって、最も受け入れがたい姿が自分か。
ヤドベクは一転して、奇妙に平静な気分で霊の言葉を聴いていた。
奇蹟と呼んでいいようなものではなかったが、何かを届けに来てくれたにしろ、それとも死を宣告されるにしろ、もはや自分にはどちらでもよかったことに気づいたのだ。
「先の村で火刑に処されたルシュカの母親が言った言葉を、あなたは覚えているはずです。
――私たちはカソリックを信じてきたのに、それがある日突然異端で魔女であるとなぜおっしゃるのでしょう。正しいカソリックというものを教えていただいたこともないまま、気づけば私は火刑になろうとしている。司教様、教えてください。主イエスはおひとりではなかったのですか?――
あなたは、覚えているはずです」
「覚えています。主はひとり子イエスをこの世に遣わされ、ゆえにその教えをゆがませることは神を冒涜することにほかならない、と」
霊はゆっくりとうなずいた。仕草まで自分に似ていた。
「そう答えたことが、今私がここにいる理由なのです。誰がゆがませたのでしょう。ルシュカの母親ですか。村長ですか。それとも、顔も知らない他の誰かでしょうか?」
ヤドベクは、じわり、としこりのようなものが腹の底に生じたのを感じた。
一瞬、目を伏せていた何かが眼底の奥で立ち上がる幻を見たような気がして、頭を振り払った。
「因果は廻りまわって、罪だと知ることさえかなわない人々が報いを受けます。それが世の摂理です。誰もそれを止めることはできない」
霊は、淡々と続けた。
「……あなたの存在する理由は、遍く正義をもたらすということです。考え得る最も難しい命題のひとつが、村々を回って誰かを火刑に処すなどということで達成されるほど易しい、ということに、あなたは疑問を持ちませんでしたか?」
ヤドベクの中で、今やしこりはまるで蛇のような形を取っていた。
それは鎌首をもたげ、自分の信教の元とも言える教会の教えを、森厳な礼拝堂の空気を、「神学大全」や「魔女への鉄槌」の革張りの表紙を、噛み付き、引きちぎり始めた。あまりの痛みに、ヤドベクは身をよじった。
「ゆがませたのは、覚醒していない信教者なのです。それはあなたも含まれていたかもしれない。そして、あなたは気づいてしまった」
ヤドベクは目をつぶって身動きもできなかった。
聞きたくなかった。
そうか。
自分は司教としてもはや意味のない、ただの人間になってしまったのだ……そうだ。わかっていた。知っていた。
ルシュカも、それどころか、誰も救えない自分。
霊は痛ましそうに、気遣うように、ヤドベクを見つめた。
「……荒療治で申し訳ない。あなたが、あの二重螺旋の向こうに行けるかもしれない聖職者だというだけで、苦しみを与えなければならないこの身を遺憾に思います」
「二重螺旋?」
「……ええ。誰もが行き着く先とする、約束の地です」
「……」
聞いたことがある。いつか異端として破棄された教え。
霊は少し黙り、続けた。
「あなたはルシュカを失いました……思い出してください。あなたはあの時、人の身の悲しさを考えました。生きていくことが苦痛と同義であるほどの彼女はでも、慈悲をもって人々を送りました。あなたはそれを見ながら、神は我と共に在り、同時に、決して我の中にあってはいけない、と思ったのです。覚えていませんか?」
「……」
霊はヤドベクの沈黙を肯定するように、ゆっくりと深くうなずいた。
「……私は人ではありませんが、ルシュカがあなたを覚醒させるために存在していた、ということにはとても意義があり、でも同時にとてもとても哀しいことだ、と思っていました」
霊は、確かにルシュカを悼んでいた。
ヤドベクが目を開けると、彼はルシュカによく似たような目をしながら静かに消えつつあった。
暗い部屋の中、ヤドベクは霊に向きなおり、頭を下げた。
そしてもう一度眼をつぶり、ありがとう、と今度は口に出して言った。
☆
それからの二週間は、ほとんどコブレンツの後始末に費やされた。
わずかに生き残ったものたちが小さな山に隠れることを決めると、再びヴェルツが陣頭指揮をして隠れ家を造った。
その他の重篤な患者たちは確実に死んでいき、最後のひとりは、ルシュカが亡くなってから一週間程で息を引き取った。
審問団はルシュカと若い司祭のふたりだけを失い、再び審問の旅を始めることになった。
生き残ってしまった信教者の残骸たち。
患者たちを診ていたわずかな司祭たちは、のろのろと足を引きずりながら出立した。
家にこもっていた司祭たちは元気に歩き出した。あきれたことに少し太ってしまった、などと話し出すものもいる。
ヴェルツが振り返って舌打ちすると静かになった。この男も頬がこけている。
誰も救えなかった。
それどころか、ルシュカを失い、信教者たる根底も失った。
世界は冷酷に、残虐にできていることだけを理解したふた月だった。
☆
街外れ、入ってきた側とは逆の、渓谷を渡る吊り橋にかかった時のことだ。
馬車の屋根にこん、と石の当たる音。
もう一度。
ヤドベクは馬車から顔を出した。
山側を見上げると、シーファがこちらをひたすらに見ていた。
切羽詰ったような表情。
彼に伝えねばならぬことがあったことを思い出して、思わずヤドベクは微笑んだ。
いまや親近感が湧き上がりつつあった。
ヤドベクは馬車から降りて、止まった審問団に先に渡るように指示すると、この団長の突飛な命令に慣れた一団は危なげな吊り橋を渡り切った。
ただひとり、ヴェルツだけが少年の来訪に気づき、どう言ってもヤドベクの側を離れようとしなかったが。
シーファが山肌を滑り降りて、吊り橋の向こう側からゆっくり歩いてくる。
ヤドベクと、その後ろに警戒した姿勢のヴェルツは橋の真ん中で待っていた。
初めてまじまじと見るシーファは見目良い少年だった。ルシュカが心を預けた少年にヤドベクは再び子供のような嫉妬を感じた。
「形見」
ぶっきらぼうにシーファは口を切った。
「ルシュカが、君にありがとう、と言っていた」
「……なら、余計にオレに形見をくれないか」
「そうだね。君が持っているのがふさわしいと私も思う」
ヤドベクは傍らの小物袋を探り、ルシュカの髪止めを取り出した。
ふと名づけようもない感情が湧き起こり、彼は手を止めた。なぜか祈る時の気持ちに近かった。
「……ひとつ、試してもいいだろうか」
「何?」
シーファは警戒してヤドベクを見た。いつだって身なりのよいヤツはオレ達を騙す。
「どう思われようと、私もルシュカを大事に思っていたのだ……だから、これをただ君に渡すのが口惜しい」
ヤドベクは淡々と自然な感情のままに話していた。
「下を見てごらん。川が見えるだろう……増水期だから、川面が半分、石が半分くらいに見える」
シーファは恐る恐る下を見た。
渓谷は深く、下までは三十メートルほどありそうに見えた。
「今から私はこの髪止めを投げる。欲しかったら取るといい。いいかい?」
――街外れは丘陵に挟まれ、両岸には人の身の丈ほどの草が青々と一面に生い茂り、深い渓谷に渡された頼りない吊り橋ばかりが人の住む場所だとかすかにわかる証左、下には雪解けの水が急流となって碧い流れと淵を形作る。
朝まだき、もやが川面をすべるように生じ、点景のごときにその真中に初老の男と少年だけが立つ周りは、この世とあの世の境のようないっそ幻想的な風景だった。
そしてそう――――そのふたりは、確かに一人の少女を愛していた。
ヴェルツは不思議そうに見ている。
ヤドベクは笑った。
「運がよければ君は助かるだろう。悪ければ死ぬ。でも私にとっても大事なこれを渡す以上はね……」
シーファは彼を見つめたまま、微動だにしなかった。
尖ったその瞳にゆっくりと諒解の光がきざし、それが奇妙な温かさに変わっていくのを見ていられなくて、ヤドベクは顔を伏せた。
「では」
ヤドベクは何の予備動作もなく、髪止めを放った。
シーファは何のためらいもなく飛びついて、落ちていった。
ヤドベクの喉からかすれ声が漏れ出た。
敗北。
でもそれは、心地よい敗北だった。
若い魂だけがなしうる、夾雑物の一片もない純粋な「意志」。
ヤドベクは橋の欄干に身を乗り出して下を見ようとするヴェルツに首を振り、身振りで耳をふさぐように指示した。
なぜか、自分はその結果を知ってはいけないように思い、彼は耳をふさいで決して下を見ないように橋を渡り始めた。そして、見ないままに、自分はその結果をよく知っているように思った。
シーファは自分の旅をしたのだ。それは彼の旅で、彼の戦いだった。
自分の戦いは他のところにある。
華やかな終わりも、惜しまれる別れも、大司教の祈りも望むな。最期まで、自分の戦いを戦えばいい。
いつか、ルシュカの悲しみに澄んだ瞳と、シーファの察してくれた温かい瞳を思い出す時が来る。
その時に自分は、必ず自分の生を肯定する。
それが、たったひとつの望みだ。
ヤドベクは遥かに高い蒼穹を振り仰いで、眼を閉じた。
我知らず涙がこぼれ、ヴェルツに見えないようにして、そっと人差し指で拭いた。