〜消えた剣士の噂〜
『パンク・ダ・パンプ伝 Ⅲ』 ~消えた剣士の噂~
ここから五年程のパンクの足取りは公的には謎に包まれている。
公的に謎というのは、彼が特殊任務に就き、公的文書に記録を残していないからだ。
では、裏の公的文書を扱う我ら内務省国家安全保全局はどうか。
残念ながら、この地下室の史料室にもパンク・ダ・パンプという名は残っていない。
しかし、これまで武術大会の控え室でのバロックとの会話や、ジャズとの青臭い髪留めのエピソード、皇太子との秘密のやり取りなどの当事者以外は知りえない情報を、ありえない粘着力で追跡してきた我が局員達の優秀さは読者の皆様も知るところだろう。
局員達はまずパンクがどのような特殊任務についたのか調べようとした。
だが、誰が任命したかもどのような任務に就いたかもわからない。
そこで、次にパンクと同時に消えた者を調べた。そこにはテクノの名前があり、同様に当時腕が立つとされていた者数名が消えている事がわかった。つまり、秘密裏に腕の立つものが集められ、暗殺集団がつくられた可能性が考えられる。だが、当時はビャーナナとの戦争も終わっていたのに加え、アナポーの貴族が暗殺されたという報告もなかった。貴族暗殺については〝不自然〟なほど記録がなかった。当時の歴史的背景からすると、宮廷内の要人暗殺は日常茶飯事と言えるほどではなかったが、何かにつけて貴族が姿を消してしまう事は少なくなかったというのに。
では、特殊任務とは貴族暗殺ではなく、逆に警護のことであったのか。
ここで、当時の国内情勢に目を向けてみよう。
確かにアナポー王国は荒んでいた。戦争は終わったものの、国内の害虫被害からの復興は果たせぬままにあり、貿易船が寄り付かなくなっていたため食料の供給に問題が生じていたのだ。旧来の国民と労働者として流入していた異国民は互いに反目し合っていたが、腹が減っては戦はできぬということもあり、戦時中に起こっていたような大きな暴動は起こらなくなっていた。
人々は疲弊していたのだ。
争うことにも、生きることにも疲れていた。
そんな市民たちに芽生える感情として、ある程度の豊かさを享受していた貴族達を妬む気持ちはあったかもしれない。しかし、暗殺をして憂さを晴らそうというほどの元気はなかった。飛び交う害虫の中、人々は路地裏で壁にもたれかかり、薄く目をあけて海軍と海賊の戦闘を何の希望もなく見つめる。
海賊が勝てば、今日の食料にありつけ、明日の食料を想う。
海軍が勝てば、明日の命も知れず、今日の我が身を想う。
ただそれだけの事だった。
あまりの空腹に気を狂わす者は東の森で栽培している大麻に手を出す。
喉の渇きに耐えられない者は、度数の高いアルコールで喉を焼く。
そうすれば、現実のつらさを少しは紛らわせた。
このような無産市民の上に立つアナポーの貴族を暗殺する価値があるだろうか。
そう考えると、パンクの任務は貴族の警護ではない。
確固とした証拠はついに出てこなかった。
だが、先輩局員達は後世の我らに〝不自然〟という名の報告書をまとめてくれた。
この報告書は一三九五年頃の局員が当時のパンクを調査する過程で出てきた証言を元に構成されている。そのため史料の信憑性に多少疑わしいところはあるが、この五年間のパンクを示す唯一の史料でもあるため採用する事とした。
Ⅰ 農業主の話『消えた山賊』
「ありゃ、一三八二年頃の事だったかのぉ――」
アナポー王国の北の山岳地帯には、今やこの国唯一とも言える他国との交易路が通っていた。しかし、飢餓の中で僅かに力を残していた者たちがこの交易路を放っておくはずはなかった。
彼らは実る林檎を腹の足しにし、運び込まれる交易品を奪っていた。
「奴ら、青かろうが腐りかけだろうが構わず採って食ってたよ。そりゃ、わしらも腹は減ってたがのぉ。林檎ばかり食っとるわけにもいかんじゃろ。綺麗な林檎を収穫して交易せにゃのぉ。わしらも我慢しとったとゆうのに」
もちろんこれに貴族達は兵を差し向ける。
そこでは死なないために剣を振るう賊と、生きるために剣を振るう兵士の戦いが繰り広げられた。
賊の数三百。兵士の数四百。
当初は兵士達の優勢で進められた争いも、時が経つにつれ地の利と食料補給に優る賊が次第に盛り返す。そのうちに街から新たに二百の飢餓市民が北へと向かい、兵士達は挟み撃ちにあってしまった。
兵士の中にはこの時点で賊へと身を堕とす者が多数でてしまい。これ以上の戦闘は不可能になっていた。しかし、不可能であろうと戦わなければ自分達が飢餓に苦しむ。
「山の上から見とる限り、兵士達は完璧に麓で囲まれてしまってなぁ。日に日にその数は減っとるようだし、正直もうだめかと思ったよ。このまま賊に荒らされちまえば、行商も来んくなるしなぁ。そしたら、わしらだけじゃのぉて、城砦にいる貴族様たちも終わりじゃからのぉ」
城砦内からの援軍は期待できなかった。これ以上の兵士を出せば、少なくなったとはいえこの期に乗じた市街での暴動を抑えきれなくなり、そうなれば今度は市街と北の山岳地帯により、城砦が挟撃されることになる。
補給を断たれた前線の指揮官は下がる士気をなんとか盛り立てようと、最後の攻撃により城砦内への退路を切り開く事を決意する。何の成果もなく退却すれば騎士としての名誉を傷つけることになるが、この場に留まっていると命にかかわる傷を受けてしまう。これに残った兵士達は同意し、作戦は明朝日の出前と決定された。
「昼間によぉ、珍しく兵士達の意気が揚がってたからよ。きっと何かあるんだろうと思ったんだよ。ははっ。そんなもん素人にもわかるさ、あんだけ声をあげてりゃさ。だから、夜になってもずっと下の様子を見てたんだ。ずぅっとなぁ……不思議だったなぁ、ありゃ」
日の出前、兵士達はまだ相手の顔も判別できない暗さの中、城砦方面へ向け紡錘陣をとり一気に突撃をした。
しかし、そこに人はいなかった。
人であったものが転がっていただけだ。
指揮官は何かの罠かと察し、兵を反転させようとも思ったが、とにかく城砦内へと引き上げる事を優先させた。城砦へと無事帰還できた指揮官はすぐに城壁に登り山岳地帯の方を眺める。そこには追ってくる賊もなく、山の木々は静寂とともに朝日に照らされていた。
「ある瞬間にぽっかりと山側の松明の一部が消えたんだぁ。おかしいなぁと思って見てたら、たぶん賊の奴らもそう思ったんだろうなぁ。一つ二つとゆらゆらとした松明が消えた所によって行くんだぁ……そしたら、それもすぐに消える。音は……特にしなかったかなぁ。何か音がすれば敵襲と思って賊も一気に動いたんだろうけどよぉ、消えていく松明に気付いた奴が、ちょろっと様子見にいってみっかってなもんだからなぁ。うーん、三時間くらいかぁ、松明は半分になってたなぁ? それ以上は賊も寝てたようで、松明も動かなくなっちまったんだぁよ。んで、俺も眠くなって寝ちまったがよぉ、朝起きてみたら兵士達もいないんだもんよぉ。ほんにびっくりしたなぁ」
朝になり農業主が山を降りてみると、そこには夥しい数の死体があった。
しかし、彼におぞましさを感じさせたのは死体そのものではなかった。
地面を赤く染める大量の血であった。
それはただ身体から流れ出たというようなものではなく、体中の血を吸い出されたかのように大地に染み込んでいた。
「ちょうどわしが見に行った時に、何が起きたかわからない賊の残りもそこに集まっててなぁ、なんか口々に呟いてたよ」
その後、賊は逃げるように四散したという。
「まったく……死体の処理も大変だったがぁよぉ、染み込んだ血をどうすっかってさぁ。結局、地面削って骨の折れる作業だったなぁ。だって、赤い大地に立つ林檎の樹なんて気味が悪いだろぉ? あ? 賊が何を呟いていたかって? 単語としちゃ二つだけだったなぁ耳に残ったのは……一つは『現れた』そしてもう一つがあんた達の探しているあれさ『アンナチュリー』」
※※※
二百もの死体を音もなく短時間で作り出す。それはパンクの所業以外に考えられないことであったが、気になることもあった。
一つはあれだけの人数を殺傷した場合、パンクの剣は折れていてもおかしくない。しかし、どこにも銀の欠片は見つからなかった。
そして、もう一つ。
パンクが賊とはいえ、市民であった者達をあれほど無慈悲に殺害できたのだろうか。
もちろん後世の我らはパンクが残忍で卑怯な人間であると学んでいる。だが、初めて歴史の表舞台にたったあの武術大会から見ている読者諸君には、この突然の変容に違和感を覚えることだろう。
Ⅱ 裏酒場のマスターの話『大通りの掃除』
「そうだなぁ……一三八三か一三八四か、もっと後かもしれないし、もっと前かもしれないけど……まぁあの頃は暦なんて関係ねーからさ。どうでも良いっちゃ良いよな――」
アナポー王国の大通りには異国からのありとあらゆる品が並べられ、そこは世界をミニチュアにしたようで、ここで手に入らないものはそもそも世界に存在しないとまで言われていた。
しかし害虫の来襲以降、その世界は縮小の一途を歩み、裏酒場のマスターの話の頃にはここには世界中の災厄が集まっているとまで言われるようになっていた。
「もともと俺は表通りの人間だったわけよ。世界中からいろんな酒を集めてさ。そりゃ繁盛したね。ここは交易の中心、世界の中心だからな。いろんな人間がくるだろ? 結局みんな故郷の酒が懐かしいわけだ。世界を知らない見習い水夫だって、ここに来れば世界を感じられる。あぁ、自分の好みの酒に合わせて、乗る船を決める奴もいたよ」
だが、そのような華やかな街並みは害虫により蝕まれ、人と人との争いにより破壊しつくされた。
大通りを行き交う人はいなくなり、見かけるものと言えば、路地裏からふらふらと迷い出たアルコールと大麻で正気を保てなくなった人と呼ばれたモノだけになった。
「俺はそれなりに蓄えがあったからさ、あの頃でも結構自由に動き回れたんだ。海賊が分け与えてくれる略奪品を取りに海辺まで行けたしね。……ほとんど奴はそんな気力もなかったな。まともに歩けねーからそこら辺を這いずるように移動したり、もっと酷い奴は一日中同じ場所から動かなかったり。いや、別に本当に動けないわけじゃなかったと思うよ? だって、所構わずやるこたやってたしよ……ただ面倒になっちまったんだろう。あれ以来、何しても何も変わらなかったしさ……」
彼のように少しでも元気のある者達は、二つの人種に分かれた。悪党になり、力なき者から奪うものと、海賊からの御恵みを他の者に分け与えたり、栽培した大麻を配って回ったりして、人々の痛さや辛さを和らげることに手を貸す者とに。
ある意味、この時代ほど無償の善意というものが広まった時代はないだろう。
多くの人々は助け合い、慰め合った。
もちろん後世の我らから見ればそれは間違っているのだが、それを間違っている、間違った善意だというのは、そこに居なかった者の勝手な押し付けであるとも言える。
多くの人間が飢餓や不衛生からくる簡単な病で死んだ。
多くの死体はそのまま放って置かれ、それが新たな病を生んだ。
そんな時代に間違っていようと、助け合おうとする想いを否定することが出来るだろうか。
「んで、いつものように海辺へ向かおうとしたらさ、大通りに人がいねぇんだ。まぁ、そういう日もあるだろうと思って、最初は気にしなかったんだけどな。案の定、次の日には道の隅で寝転がってる奴が何人かいたし。でもよ、それから定期的に誰もいなくなる日があるんだ……そう〝不自然〟にな。言ったように最初は気に留めてなかったから、それがいつ始まったかわかんねぇんだ。だから、正確な暦もわからねぇ……」
ある夜、彼が中央地区から東南地区への大通りを歩いていると、月夜に照らされた影が見えたという。
影は立っているものが二つ。そしてその二つの影が何かを引き摺るような動きをしていた。
彼はそれを追い剥ぎと思い近くに身を隠し、二つの影が去るのを待った。
しかし、影は引き摺る何かを路地裏へと運ぶと、すぐに大通りに戻ってきて片隅に固まる次の何かを引き摺りだす。
その作業は彼の進行方向に沿って延々続けられる。
「俺はその場から動かず見てたんだけど、ただ運んでるだけなんだよな。いや、引き摺ってるものが人間だってことにはすぐ気付いたんだけどよ。何も奪ってる様子はなかったんだ。大通りから路地裏へ運んでるだけ……そう見えただけなんだけど」
二つの影とある程度の距離が開いたのを確認して、彼は道に転がっていたものが運び込まれた先の路地へと飛び込んだ。そして、それに駆け寄り確認する。
「いつも通りっちゃいつも通りだったな。死んだように動かなくて……まぁ、死んでたんだけど……暗くてよくわからなかったけど、首元に触ると生温かいぬるっとしたものを感じたからさ」
彼は海辺へ行く予定を変え、自宅へと戻った。
二つの影はその場では運ぶ以外の何かをしていたようには見えなかったのに、運ばれた方は死んでいた。ランプに照らされた自分の赤く染まった手の平がそれを証明していた。
それから大通りに人がいなくなった日は、近くの路地裏に入ってみる事にした。すると、そこには決まって死体が転がっていた。殺され方は様々だった。首元を斬られたものもあれば、眉間に小さな穴が空いているものもあった。
「素人目に見ても、瞬殺されたことはわかったね。きっとやられた方は自分が死んだ事にも気がつかなかったんじゃないか? それ程見事なものだったよ」
その後も夜中に大通りに向かう時は何度か二つの影に遭遇した。
「でも、最中に遭遇することはなかったんだよな。うーん……なんだろう。きっと好奇心なんだろうな。それを見る度になんとか現場を押さえてやろうって思いが大きくなってさ。別にどうこうするつもりもなかったんだけど……」
影はいつも街の中央から外側へと進んでいた。
大通りから人がいなくなる時期に規則性はなかったものの、彼は海辺に向かう時間を夜ではなく昼間に変え、略奪品を持ち帰るのを夜にした。そうする事によって影の前を行く何者かに出会えると思ったのだ。
しかし、出会うことは出来なかった。
昼間に別の通りを調べたところ、他の通りでも同じ事が起きている事はわかったが、となると中央地区から東南地区への大通りだけを張っていても出会う可能性が低い事も同時にわかった。だが、通りを変えて待ち伏せるのはさらに効率が悪いと思ったため、海賊が海辺に来る日以外も待ち伏せる事で出会える確立を上げる事にした。
そして、ついにその日は来た。
「いや、出会ったというわけじゃないだよな……声を聞いただけなんだ」
彼はいつものように積荷を荷車に載せ、夜の大通りを東南地区から中央地区へと帰っていた。数年前のように並ぶ家々から嬌声や怒声が響くこともなく、荷車の車輪が石畳を蹴る音だけが寂しく辺りを支配していた。
不意に、何かが背後に静かな着地音とともに降り立った音が聴こえる。
彼は不思議に思い振り向こうとした。しかし、それは叶わなかった。
「だってよ、振り向こうとした俺の顎と肩の間に剣の切っ先が見えるんだもんな。うごけねぇさ。ん? どんな剣だったかって? 特別変わった剣にゃ見えなかったな。鋼鉄製の両刃の剣さ。んで、こう言うんだ『今夜、この通りは掃除をしなければならない。君には申し訳ないが裏路地を通ってくれないか』ってね」
掃除と言われすぐに何を意味するか理解した彼は、恐怖で震える身体をなんとか押さえつけ、何故あのような事をするかを聞いた。
「いや、ホントに斬られたっておかしくなかった状況で、よく聞けたよなって自分でも思うよ。でもさ、声だけ聞くと別になんだろうな……ほら、よくいるだろう? 典型的な悪党って感じの喋り方の奴。そんなのじゃなかったんだよな。普通にどこそこに行きたいのですが教えてくれませんかって感じのトーンで喋るから、聞いちゃったんだな。そしたら『掃除をしなければあれは新たな死を運ぶ。それに昼夜を問わず、一日中道に転がっている物体を人と呼べるのか』っていうんだ」
彼はその言葉の意味を考えた。
その時間は秒や分で表せるほど長くはなかったが、その一瞬の思索の間に辺りから人がいる気配は消えていた。
「……確かにそうなんだけどさ……あの頃は仕方なかったじゃないか、それで……しっかりと目を開けてたって、見るべきものなんて何もなかったんだから……」
※※※
パンクが姿を消した一三八一年から一三八六年の間には、この裏酒場のマスターの証言以外にも同じような証言を記した史料が数多く残っている。
マスターの見た剣はパンクの愛用していた剣ではなかったが、特殊部隊にはパンク以外の人間も所属していたし、理由は不明だがパンクがあの剣を使用しなくなった可能性もある。
パンクは何故このようなことをしていたのか。
古くから独裁者がやるように劣性遺伝子を排除する事によって、国全体の活力を高めようとしたのかもしれない。
だが、何のためにこのような事をやっていたかより、誰がこのような事をさせていたかの方が重要である。私フランク・シュタイナーの私見を述べさせてもらえば、パンクがこのような事を自ら考え行ったとは思えない。なぜならば、パンク・ダ・パンプが人を斬り殺したという公的な史料はどこにもないからだ。もちろん、この地下室には今取り上げた二つの話のようにパンクらしき人間が人を斬っているようにはなっているが、表舞台にいるパンクは公私問わずに人を殺していない。これだけでは根拠として弱いかもしれないが、うちの局員がその現場を見かけていないというのは大きな根拠になるだろう。パンクは自ら進んで人殺しをするような人間ではないのだ。
では、誰がパンクにこの任務を与えたのか。
当時、軍の中枢にいたのはサンマリノ侯爵であったが、パンクの後ろ盾であるカール公爵との間には緊張関係があり、彼がパンクにこのような任務を与えられるとは考えづらい。彼はこれまで出来る限り前線からパンクを遠ざけるための人事を行ってきた張本人であるし、このような記録にも残らない任務を与えることによって自分の命を狙われることも考慮しただろう。
カール公爵のパンクについての想いは手記が残っている。
『陛下の気紛れともとれる配慮により取り立てられたこの青年は、いずれ我が国の宝剣となるであろう。故に、その素直で純真な魂は決して汚してはならない。伝家の宝刀は血塗られてはならないのだ』
つまり、カール公爵はパンクの中に何か見るべきものを見つけ、それが国を支える何かになると期待していた。そのように考える彼がパンクに大通りの掃除を頼むだろうか。
この二人が命令したのでないとすれば、あとはアナポー王直々の命によるものだとしか考えられないが、王は害虫襲来後、失政による国民からの批難のため、精神的な負担から病にふけっていた。病状は年々悪化し国政すら重臣達に任せていた中、パンクにこのような命令を下せるわけがない。
となれば、やはりパンクの独断によるものなのか。
だが、とりたてて武勲も挙げていない若者が、勝手に軍の腕の立つ者を集め部隊を編成する事など出来るはずがない。やるとすれば除隊し、私兵として活動することだが、この特殊任務の後、パンクが出世していることからしてその線も薄い。
まぁ、私が数世紀前のことを史料もないのに詮索しても意味はない。とにかく今はこの時期におけるパンクが関連したと思われる〝不自然〟を集めよう。
Ⅲ 海賊水夫の話『密航と飢餓』
「そうでげすね、あっしが海賊になって三年くらい経ってのことでげす。だからぁ……一三八五か一三八六か……その辺でげすかね。そのころにはもう『アンナチュリー』については誰もが知るところになっていたでげすよ」
水夫は餓死寸前でなんとか海賊からの施しを受けようと、海辺を転がっていたところある海賊団に拾われた。
その海賊団はアナポー王国南の海を越えた地方から来ており、近隣諸国から略奪してきた品々をアナポーにおろしていた。
「最初はあっしなんかを拾ってどうすんだって思ったでげすがね、結構若い集団でさぁ……世間知らずというか、理想に燃えているっていうか……いや、ただ馬鹿なだけだったのかもしれないでげすがね。ホント、あの頃流行ってた義賊を地でいってたでげすよ」
当時のこのような海賊は、陸に上がるのは略奪のため倉庫を襲うときだけで、それ以外を船上で過ごしていた。
そのように義賊を名乗る海賊団は互いに連絡を取り合い、いつどこを襲い、いつどこに寄港して積荷を降ろすかを取り決めていた。そうする事によって、アナポーの市民や郊外に住むいくつかの集落の人々は命を取り留める事ができた。
「もちろん略奪は命懸けでげしたけど、死ぬかもしれないって感じることで初めて生きてるって実感できるもんでげすよ。んで、略奪したら今度はアナポー海軍との海戦でげすけど、海軍はある部隊以外は見てみぬ振りしてくれたんでそんなに危険って感じはなかったでげすね。それよりも、陸で『アンナチュリー』に出会わないこと。これこそがあっしら義賊が事を成すか成さぬかの最大の障害でげしたね。今こうやってあんたに話してられるのが奇跡って奴でげす。話に聞いても生きて帰って来る奴なんかいないんでげすから。全部想像の噂話でしかなかった『アンナチュリー』について聞けるなんて、あんた超ラッキーでげすよ。あるぇ? 生きて帰って来た奴がいねぇならなんで噂になってんだろな……? まぁ、とにかくあの日の事は忘れられねーって事でげすよ」
それは白昼堂々と行われた。
密航などというものは深夜か明け方にされるのが常であるものの、得体の知れない死刑執行人が待ち受けているとなれば、多少海軍の目に触れやすくなろうとも、陽の光の中で作業を行う方が生存確率が高いと判断したのだ。
水夫の所属する海賊団は沖合に船を停泊させ、積荷を載せた小舟を三隻だして岸へと乗り入れた。
すぐに辺りの茂みから、飢餓民が二、三人這って出てくる。
海賊は積んできた木箱の中からすぐに口に出来るものを分け与える。
本当ならばすぐに引き上げたいところであるが、ただ積荷を置いていくだけでは湾岸警備隊に徴収されてしまうか、すでに人と呼べるかも怪しい数人の飢餓民たちに食い散らかされてしまう。そのため、市街でこの略奪食料を配布してくれる者を陸で待っていなければならなかった。
もちろん、ただぼんやりと立っているわけにはいかないので、積荷は茂みに隠し、自分達も飢餓民のように振舞って海岸に寝転がる。
傍から見れば馬鹿馬鹿しいのだが、現れるかどうかもわからないアンナチュリーという観客のためだけに、このような芝居をうつ必要があるほどその存在は怖れられていた。
水夫はぐちゃぐちゃと支給品を口に入れる飢餓民の隣で横になり空を見上げていた。
暑い日差しを遮るように分厚い雲がいくつも通り過ぎていく。
「何を考えるって、正直言って別に何も考えないでげすよ。雲の数を数えてみるくらいでげすかね。こうしている間にも、アンナチュリー以外でも海軍に船が拿捕されるかもしれないでげすし、湾岸警備隊が現れるかもしれないげすけど、そんときゃそん時げすよ。逃げられるわけないげすから、戦うしかないでげしょ? 勝つか負けるかなんて運でげす」
何度目かの雲の日陰が身体を覆うのを感じると、風が吹いた。
風が吹いたような感覚に陥った。
ひんやりとしたものが肌をなでる。
眼球だけを動かして隣の飢餓民に目を向けると、先ほどまで貪りつくように動かしていた口が止まっていた。
ただ事ではない気配を感じ、起き上がろうとするも、身体がうまく動かない。首から下が、誰か他の人間のものに入れ替わったかのように言う事を聞かない。
明らかな異変が起こっている。
それは分かるが、目を開けておくのもしんどくさせる重い圧力が身体全体にのしかかっていた。
「……なんげすかね……何がどうってわけじゃないんでげすけどね……頭の中でもうダメだ。ダメだ。ダメだって言葉だけが繰り返すんでげすよ。耳を閉じたくても腕が上がらない。目を閉じたくても目蓋が下がらない……身体が動いたのはつんざくような大砲の音が聴こえてからでげす」
岸辺の様子は船上からも視認されていた。
大砲を撃ったのは船長の命令ではなく、砲撃手の判断であったらしい。
「うちの砲撃手はロックって奴がしてましてね、腕がえらい良いんでげすよ。普通大砲なんてのは艦対艦で横に向かってかなり近くで撃つもんで、狙うというよりも玉を入れて火薬を詰めてってのがどれだけ早く出来るかが腕の良さを示すんでげすが、そいつは動いている相手の艦のマストを狙ったり出来るんでげすよ」
ロックという砲撃手は岸に現れた異様な雰囲気を持つ人物めがけて三連射した。
鉛の砲弾は正確にその人物の方へと向かう。
「まぁ、どんなに狙いが正確だろうと、あの距離から撃てば避けられるんでげすけどね。あっしの視界の端に映る影は動いたようには見えなかったでげすよ」
大砲の腹の底に響く射撃音とは違い、乾いた軽い炸裂音が二度響くと砲弾が砂浜にめり込む音が二つ聴こえた。
そして最後の一発は激しい金属音とともに真っ二つにされた。
「いや、あの音は二度と聞きたくないでげすよ。肩から首元にかけてぞわぞわーっと何かが這い上がってくるような感覚でげす。あっしは迷いましたでげす。大砲がこれ以上撃たれるなら、砲弾がこっちに飛んでくるかもしれないんでげすから。それくらいあっしとその影は近くにいたでげすから」
しかし、水夫は砲弾が当たるよりも、砲弾を斬りおとす影から逃げ切れる確率の方が低いと判断した。
水夫がそのまま微動だにせず転がっていると、辺りを数人が歩き回る気配を感じた。
その中の一つの気配が木箱を隠している茂みに近づく。
「木箱さえ見つからなきゃ、上陸前や受け渡し後と思ってくれる可能性もあったんでげす。でも、見つかっちまったら最後、飢餓民にあっしら海賊が紛れてるとばれちまう」
だが、その場の緊張感に耐えられなくなったのは、食料を求めて這ってきた飢餓民の方が先であった。
彼らは言葉にならない言葉を喚き散らしながら、木箱の隠された茂みの方へと駆け出す。そして、乱暴に木箱に飛びつくと蓋を開け、中身を無秩序に口へ詰め込む。
水夫の耳に人が殺される音は聴こえなかった。
聴こえるのはがたがたと木箱がぶつかる音と、先ほどまでは耳の隣で聞こえていた汚い咀嚼音だけだ。
ここで水夫はまた迷う。
「あっしも木箱向けて走るべきか、それとも死んだ振りしておくべきかでげす。けど、走り出すには遅すぎたでげす。今更狂った振りして行っても、奴らにゃ見抜かれちまうでげす。だからと言って、死んだ振りが通用するとも思えないんでげすがね……」
水夫には不思議な事に、異様な気配を漂わせる集団は飢餓民たちを木箱から引き剥がすことも、死んだ振りをしている海賊を斬りつけることもしなかった。
互いに何か言葉をやり取りする事もなく、ただ様子を見守るように立っていた。
そのうちに飢餓民たちも、これ以上腹に何も入らなくなるほど食料を詰め込み、あとは動きを止めれば何かされるという恐怖から口元に食料をぶつける作業を続けるのみになっていた。
だがそれも、久しぶりの満腹感と急な摂取による胃痙攣により続けられず、飢餓民たちは木箱に寄りかかり座り込んでしまった。
「……あぁついに終わりかと思ったげす。どうせ死ぬなら最後に腹いっぱいにして幸せを感じさせてからにしてやろうという優しさでげすね。その後、腹いっぱいにする事もできず、砂浜で干からびていく振りをしているあっしらにとどめをさしてくれるんだと思ったげす。でも、違ったんでげすよ。あっしらに振りかざされたのは剣ではなく言葉だったんでげす。
『で、どうする?』
とね」
その言葉に水夫は顔が熱くなるのを感じた。
どうするもなにも、王や貴族たちがどうもしないから、自分達が命懸けで奪ってきた食料を運んで分け与えているのだ。そのようなどうにかしようとしている自分達の邪魔をし、取り締まろうとする立場の人間に『で、どうする?』などと言われる筋合いはなかった。
だが、水夫がその怒りをぶつけようと起き上がるより先に、木箱に寄りかかっていた一人の飢餓民が立ち上がり猛然と視界の端に映る影に向かっていくのが見えた。
彼の口から零れる言葉は、どうしようもない現実に無力な自分を嘆き、希望のない未来に無慈悲な世界を呪い、報われない想いに無抵抗な人々を憂うものだった。
「あっしも海賊に拾われなきゃ彼らと同じでげしたからね。気持ちはよくわかったでげすよ。仕方ない。どうしようもない。ただつらく苦しいものばかりが目の前に転がっていて、それを掴むか死ぬか、そのどちらかを毎日選んで生きていくんでげす。でも、奴らはこれっぽっちもそんな想いをわからずに繰り返すんでげす。
『で、どうする? そうやってどこかの誰かが口にするはずだったものを奪って生きていくのか? 貴様のつらさを世界にばらまいて、それで満足なのか?』
って。あっしももう黙っていられなかったでげす。怒りが恐怖を上回ったでげす」
水夫の想いは他の海賊達も同じだったのか、一斉に影へと飛び掛った。
しかし、海賊達は影へは近づけなかった。
何か物理的な力が働いたわけではない。
沸点を超えた怒りを急速に冷ましてしまう冷たさを感じたのだ。
これ以上一歩でも近づけば、首と胴が離れてしまう。
それを五感全てとそれ以外のもので理解できた。
「鳥肌が立つとか、冷や汗が出るとか、逆に汗が一瞬でひくとかそんなもんじゃねーんでげすよ。自分が動物であることをあれほど認識したことはねーでげす。本能に訴えかけるんでげす。取り囲んだもののなにも出来ないあっしらにそいつは言ったでげす。
『……覚悟はあるのだな?』
と。でも、それだけじゃなかったんでげすよ。その後に何か続けようとしていたんでげすが、ちょうどその時、大砲の音がまた鳴って掻き消されたんでげす」
水夫は驚きその場を飛び退きながら海上へと目を向けたが、砲弾は岸へ向けて放たれたのではなかった。
海賊船に軍艦が砲撃されていたのだ。
海上の二隻は砲撃戦へと入る。
水夫達はこのままではこの岸辺に置き去りにされてしまうと思い、影への包囲を解き急いで乗ってきた小船へと駆け出した。
「……これで終わりでげす。確かに〝不自然〟でげしたね。砲弾を銃弾で弾いたり、剣で斬りおとしたり人間離れしたその力もそうでげすけど、やろうと思えばいつでもやれたあっしらを見逃したりして。あんな問いかけする必要なんてなかったでげすよ……あんな、人を馬鹿にしたような……そう言えば、走り出したあっしらの後ろで最後にこんなやり取りを聴いたでげす。
『バロック様の船です』
『……そのやり方では駄目だ、豚野郎……』
『動きますか?』
『いや、先ほどの砲撃手が相手ではそう簡単にはいかないだろう。次へ向かうぞ』
『かしこまりました』
って。何かひどくイラついている声でげしたね」
※※※
最後のやり取りにより、一連の〝不自然〟がパンクの所業として分類されているのだが、バロックを豚野郎と呼んでいるのを聞いただけでは証拠としては不十分だろう。
水夫の話の中でパンクは飢餓民、海賊に問いかけている。
腹を満たしてどうするのか。
死にかけている者を延命させてどうするのか。
大砲の音に掻き消されてしまった言葉は何だったのか。
飢餓民や水夫達にいったいどのような覚悟をパンクは期待したのだろうか。
Ⅳ 元教団員の話『宗教の蔓延』
「あれは一三八六年でした……間違いありません。間違いようがありませんよ。その翌年のクロッカスの月、王様が崩御なされたんですから。あの年の夏はもう害虫も少なくなっていました……そりゃそうですよね、群がれるものと言ったら死体くらいしかありませんし、その死体もどういうわけか腐敗したものは街からはあまり見られなくなっていました。路地裏で見かけても体中の水分を抜かれたような乾ききったものばかりでしたね……あれはどういうわけなんでしょうか。今でもわかりません。しかし、害虫がいなくなっても、私達はすでに生きる希望を世の中に見出せませんでしたから……そんな時です――」
アナポー王国は国教というものがなかった。
中継貿易を生業とするため、特定の宗教を奨励する事も迫害することもなかったのだ。
そのためいくつもの宗教が、根付く事もなくその時々の流行のように、流布しては消えていった。
害虫被害後、戦争も終わって人々が絶望を肴に煙や酒を呑むようになる頃には、信じる神も忘れさられていた。
「いや、私も何かを信じるなんて力はとうに失っていましたよ。でも、なんでしょうね……耳元で囁かれればそれを鼻で笑う力もなかったんですよ。もちろんみんながみんなってわけではありませんでしたが、歩く体力が少しでも残っている人間はその教団に入信したと思いますよ。別にそれで損するわけでもなかったですし」
その教団は一三八六年を境に爆発的に蔓延した。
教団の名前は『自然回帰教』といい、教義の中で最も重要なものは生の謳歌であった。
儀礼として決まっているものも特になく、個々人に教義内容の実行は委ねられていた。
この自然回帰教が急速に広まった理由は単純だった。
海賊と繋がっていたのか、それともどこかの海賊が流行らせたのか、この教団には市民に食料を供給できる体制が整っていたのだ。
ほとんど全ての入信者は教義に共感したわけではなく、ただ腹を満たすためだけにこの教団に囲われた。
「食べ物を提供されたからといって、何かを強要されたりはしませんでしたよ。言った通り、別に損になるような事はなにもなかったんです。私達は道端に転がって煙を燻らせ、酒が呑みたくなれば教団が空き家にこしらえた酒場に向かい、腹が減ればそこでパンも食べられた。教会なんてものはなかったですよ」
もちろんこの教団を取り締まろうと貴族たちは兵を差し向けるが、教団が酒場を開く空き家は毎日違っていて効果は薄かった。
市民達は教団のおかげで腹を満たすことが出来た。
しかし、それでまた以前のように働こうと思う者はいなかった。
慢性的な薬物とアルコール中毒が原因とされるが、それより人々のやる気を損なったのは目の前に広がる絶望的な廃墟であった。
街を再生させるのにはやる事が多すぎて、何から手をつければ良いかわからなかった。そのような人々を導くことの出来る貴族もいなかった。
多くの貴族は亡命し、残った貴族たちも城砦の中で、林檎の交易によってわずかに得られる外貨を奪い合い、自らの家紋を守る事に必死であった。
この貴族たちの争いは当然その子弟達が統括する軍部も巻き込み、もともと各々の私兵集団だったのだが、当時はその色をさらに濃くしていた。海賊船の駆逐や教団の制圧が進まなかったのもこのためであった。
「で、腹が膨れると人間どうなるか知ってます? 腹が減ってると何も考えずに寝転がってることも出来るんですがね、腹が膨れると寝転がってるだけってのがつらいんですよ。エネルギーが有り余ってるって程でもないんですが、何かをしたくなるんです。でも、だからと言って土木作業や鍬を持ったり、竿を持ったりはしたくなかった……自然回帰教……まさに私たちはその信者でしたよ……」
人々はわずかに得たエネルギーで時を選ばず、所構わず交わりあった。
陽の光だろうと月の光だろうと、路上であろうと空き家であろうと生を謳歌したのだ。
だが、それは人々に活力を与えるものではなかった。
そのような行為によって愛が生まれるわけでもなかった。
逆に人々の中にあった他者に対する敬愛や尊敬、思いやりといった感情はことごとく破壊された。
人が人であるための理性を失ってしまった。
睡眠欲は満たされていた。
食欲を満たすことが出来た。
そして、性欲も満たされた。
他に何か望むものを探したが、それを叶えるためにはその前に多大な労苦を強いられる。
ならば、その三つだけ満たしておけば――。
「――動物ですよ。獣と何ら変わりません。でもね、私達に何が出来ましたか? 目の前の景色が……目の前の街並みが、私達の知っている一番華やかだった頃と全く違うんですよ。私たちだって害虫の襲来以来、毎年毎年石を積み重ね木を組み立て、少しずつ少しずつ復興させようとしました。けど、ダメだったじゃないですか。積み上げては壊し、組み立てては焼き払い……挙句の果てには同じ人間同士で争い合って……どこで間違ったんですか? 誰が間違ったんですか? 何も望まないのがそんなに悪い事ですか……とね、あの頃の自分を言い訳するならそんなところです。けどね、こんなに言い訳しても自分自身を慰める事は出来ないんですよ……私達は一年後――正確には十ヶ月後のプラムの月の頃、さらなる深い絶望に沈みました……いえ、壊れてしまったのです」
一三八七年、国王崩御から二ヵ月後、城砦内では新たな王が誕生しようとするその矢先の事であった。
男は切って貼ったかのようなテンプレートな毎日を、その日も朝の陽光の中で繰り返すのだと思っていた。それを不満に思うこともなく、だからと言って受け入れるわけでもなく、大きな時間の中で流されるまま身を委ねていた。
切れかかったアルコールに頭を悩ましながら、男は今日の酒場を探すために街をさまよう。ふらつく足を支えるために家屋の壁にもたれかかりながら、なんとか通りの端を歩く。
眩しい朝日と足にぶつかる瓦礫が男を苛立たせ、頭の痛さを倍増させる。
頭の中身が締め付けられるようなギュンギュンとした音が聴こえる。
それでも男は酒場を見つけるために、壁に沿って前へ進む。
そうやって歩いているうちに不思議な感覚に陥った。
何かが変だ。
何かが違う。
「……壁は崩れ落ちていないんですよ……」
男は壁に背を預け、朝日に手をかざして通りを見渡した。
通りにはいくつもの丸い物体が転がっていた。
柔らかそうで、温かそうな。
それらが辺りに蝉時雨のような鳴き声を撒き散らしていた。
「……最悪です……生きている限り、あれほど最悪な光景を目の当たりにすることはもうないでしょう。私はたぶんその場で膝をつきました。一歩も動けなかったと思います。いや、もしかしたら逃げ出したのかもしれません。けれど、街中で同じような光景が広がっているであろうとすぐに想像出来るのに逃げ出すでしょうか……わかりません。どうしてこのような曖昧なことしか言えないのかといえば、私にはその日から一ヶ月程の記憶全てが曖昧だからです。その一ヶ月をどうやって生きたのかわからないのです。気付いた時には大通りも路地裏も綺麗に片付いていました……片付くなんて表現が適当でないのはわかります。しかし、片付いていたのです。綺麗に。さっぱりと。……その中を新たな女王陛下が誕生したというので、多くの兵士が行進していました。女王の姿がどうだったか、私にはわかりません……そこにいたのか、いなかったのか。いなかったのは私なのか、女王陛下なのか。何もわからないのです。申し訳ないですが、私の話はこれで終わりにしてよろしいでしょうか?」
※※※
この男の話にはパンクは登場しなかった。
〝不自然〟という単語も記載されていなかった。
この話は全て自然の摂理にしたがっていたのだから当然である。
腹が減るから食物を求めた。
腹が満たされたから何かをしたかった。
何かがしたかったが何もする事がなかった。
高まる欲求を満たすため手軽な方法で処理した。
無計画な性交の結果、新たな命が誕生した。
しかし、芽吹いた命を育てる術がなかった。
ただ、それだけの事だ。
まともな世の中ならば予見できたであろう。
だが、自らの明日をも知れぬ人々に予見など必要であったであろうか。
このような惨事を未然に防ぐことを求められるであろうか。
〝不自然〟もなく、パンクも登場しないこの話をパンク・ダ・パンク伝に挿入したのは当然これにパンクが関わっていると想像できるからである。
パンクはどうしてこの惨事を防ごうとしなかったのか。
およそ一年もの間、人々はこのような暮らしを続けたのだ。その気になれば教団を壊滅させることもできたはずである。どんなに教団が酒場の場所を変えようと、神出鬼没さこそ特殊部隊『アンナチュリー』の専売特許である。
しかし、当時の局員達がどれほど聞き込みをしようと、パンクや『アンナチュリー』が現れたという証言は得られなかった。
だとするならば、考えられるのは二つである。
一つ目は、この時期パンクがアナポーの地より離れていた可能性。
確かにいくら神出鬼没と言えど、その地にいなければ現れる事は不可能だ。だが、一三八六年頃には先で述べたように、大通りの大掃除も行われていたし、浜辺での目撃例もいくつかある。
そこで、二つ目の可能性を考える。
それは『自然回帰教』というものが、パンクと繋がっていたのかもしれない。
もしくは、
『自然回帰教』=『アンナチュリー』
なのかもしれないという考え方だ。
そう考えれば、自分で広めたものを自分で取り締まるはずがないのだから、パンクが現れないことも納得できる。
しかし、理由が納得できるものだからといって、結果までも納得できるとは限らない。
だが、もはや私見を述べるのはやめよう。
歴史とは結局、多くの史料の中から何を抽出するかによって変わってしまうものだ。
私はこの地下室の史料庫にあるものを公開するだけだ。
パンク・ダ・パンクがどういった人物であったかは、読者の皆様の手に委ねよう。




