~比類なき剣士の誕生~
ようこそ、地下室の史料室へ。
私の名前はフランク・シュタイナー。
もちろん偽名である。このように、例えばミヒャエル・アンリといったような国籍不明な偽名を使わなければならない理由は後述するとして、重要な事から話しておきたい。
私の肩書きは、公には内務省国家安全保全局監査室室長である。
仕事内容は国内の政治犯を監視・検挙する役人を監視・懲罰すること。つまり、未来の英雄を摘む下衆野郎を監視する下衆なのである。野郎という人間を表す言葉を使うのも躊躇われるくらい糞虫なのだ。度々勘違いされることだが、未来の英雄が摘まれることを防ぐ仕事では断じてない。私はいつだって全てが終わった後にのこのこと出て行き、このやり方は正しかった、このやり方は不味かったと局員達のやり方についてのみ口をだし、裁かれた当の政治犯についての言及は私の仕事ではない。
したがって、心無き人々は私のことをフランク・ゲスイナーと揶揄する。……あぁ、この部分は笑ってくれて構わないのだよ。上手いこと言うなぁと感心してくれも構わない。もし、そのどちらも出来ない場合、それはこの本が出版された時の翻訳に不具合が生じていると考えられる。(注:~揶揄する。以下の文は初版では削除されていたが、翻訳者の正当なる権利を守るため増刷分より原文ままとしている)
この本についてであるが、これは私の母語で書かれることはない。つまり国内で販売されることは無いということである。全て翻訳者の肉体と精神を通して出版されているため、多少の齟齬が生じる可能性がある。
あるいはどことも断定できない文化圏のこの物語は、あなた方には御伽噺のように感じられるかもしれない。だが、これは御伽噺ではないのだ。現実に起こった歴史の話である。
ここまで話せば勘の良い読者は私が偽名を使う理由にお気づきかもしれない。
仕事柄、私の下には膨大な量の英雄と、英雄になりかけた人間の情報が入ってくる。それもこの国に限らず、近隣諸国の情報もこの地下史料室には並べてある。
つまり、この史料室は闇に葬られた世界の歴史館なのだ。
この部屋の情報を外に漏らすことがどのようなことかお分かりだろう。
しかし、私は敢えてこの危険に身を晒してみようと思う。
それはなぜか。
この本を手に取ったあなた方がどのような時代を生きているかは解らないが、私が生きている世界の現在では人々が失ってしまったものをこの暗い地下室で眠る史料たちは持っていた。それを私は多くの人間に伝えたいのだ。
なんてね。嘘である。そのような高邁な目的はない。
私の目的は金である。
金があれば働かなくて良いからである。
しかし、言っておこう。
私は別に怠惰な人間ではない。楽をしたくて働きたくないと言っているわけではないのだ。
楽をしたいならば、このように本など書かない。
私は耐えられない。
収められている史料に目を通す度に嫌なのだ。私の矮小さを感じずにはおられず嫌なのだ。私が職員達の不正を監視し問題があれば懲罰を与えたところでそれが何になる。
そんな下衆野郎共など後から後から蛆のように湧いてくるのだ。
こんな仕事、即刻辞めたいのだ。
だが、生きるためには金が要る。
そこで私は考えた。
どうせ金を稼ぐのならば、この狭い室内で一人ぼっちで働かされている私にしか出来ないことをやろうと。
私や局員と違い、取り締まられる側の政治犯たちは可能性がある。
未来を切り開く可能性が。
突破できる者は一握り、いや、一つまみかもしれないが、それでもその幾人かは確実に停滞した世界に風穴を開けることが出来た。
そして私は、その中でも最もこの史料室に相応しい人間である一人の男を主人公にすることにした。
彼は英雄にして政治犯。
再生と滅亡の象徴。
そんな彼の所業はこの国では広く知られているが、正規の歴史には描かれない歴史がここには眠っている。それを彼の事を知らない読者へ伝えたい。いや、伝えなければならない。真実を知らない我が国民、いや知ることの出来ない我が国民の代わりに、あなた方にぜひ聞いて欲しい。
予備知識として、彼が我が国の歴史でどう教わるか伝えておこう。
〝都市国家アナポーの簒奪者であったパンク・ダ・パンプは近隣諸国と戦争をすることによって国を立て直そうとしたが、王位について半年で退位する。それは無謀な戦線の拡大により、食料や戦力の補充がままならなくなり、敗戦が濃厚になったためである。
※なお退位とされてはいるが、パンク・ダ・パンプは戦争のさなか和平交渉に向かうと言い残し姿を消している〟
もちろん国名や人名など固有名詞は全て変えてある。
こんな果物や音楽ジャンルをもじった国も名前もない。
しかし、どうであろうか。
これだけを聞くと完全にただの馬鹿野郎である。愚かな執政者である。しかも、暗に逃亡したとまで言われている。
彼がなぜ王位を簒奪したのか、なぜ戦争へと向かったのか、なぜ姿を消したのか、そこにあったはずのドラマは全て省略されている。これが彼の人生と言えばそれまでだが、仮に読者のあなたが自らの人生を三行と※注で言い表されて納得するだろうか。
確かに現在の我が国の成り立ちから鑑みれば、彼は悪役であった方が都合がよい。
だが、私の目の前に並ぶこの史料に目を通せば、彼がいかに――いや、彼がどうであるのかは読者の判断に委ねるとしよう。
私の紡ぐ物語によって貴方達の見える世界が変われば、私はそれで幸運である。
このような人物譚の場合、結局最後にどうなるかが気になってページを後ろから捲る人がいるかも知れない。そのような人のために敢えて言っておこう。この物語の最後は彼が王位を簒奪し民衆の前で演説するところで終わる。つまり、和平交渉に本当に向かったかどうかはこの物語ではわからない。これは意地悪や続巻を待てというのではなく、その部分はこの『パンク・ダ・パンプ』という名の史料集には載っていないのだ。まぁ、それも当然で、王になった者の史料がここに送られてくるわけが無いのだ。だが、最初から最後まで通して読んで戴き、彼がどのような人物か知ってもらえば、きっとあなたにも想像できるだろう。
敗戦濃厚のさなか、彼ならどうするのかを。
それでは始めよう、地下室に葬られた英雄譚を。
『パンク・ダ・パンプ伝 Ⅰ』 ~比類なき剣士の誕生~
Ⅰ 武術大会 フルートゥ暦一三七四年 四月
都市国家アナポーは東に大森林、北に山岳地帯、そして南に海洋を備える外部からの侵略から抗するのに適した立地であった。主な産業は山岳地帯における林檎の栽培であったが、この国を豊かにしていたのは周辺諸国との海洋貿易である。
では、その国の文明度をはかる上で一番有効なものは何であろうか。
どのような政治形態をとっているか。
どれほどの人権が守られているか。
確かにそれらは有効かも知れない。だが、時代や思想の違いによっては曖昧になるものでもある。そこで、一つの時代に思想など関係なく、国と国との文明度をはかるには何がよいのか。その一つの目安として、軍事における主戦武器をあげてみる。
戦場では宗教や思想は関係なく、目の前の敵を殺すためだけに武器を選択し開発する。己の宗教を守るため牛は食べるが豚は食べないといったように、己の矜持を保つため剣は持つが銃は持たないなどと言っていては戦争にならない。決して『生き延びられない』ではないところがポイントだ。実際に戦う兵士が得物を選べるわけではないのだから。
パンク・ダ・パンプの生きた時代、兵士達の主戦武器はちょうど剣から銃に変わろうとしていた。その普及率は国によってまちまちであったが、彼の所属する都市国家アナポーでは未だ小型の銃は珍しく、艦船や城壁に大砲が装備されている程度であった。多くの兵士は剣や斧、槍を用いての近接戦闘と弓矢による遠距離攻撃を行っていた。
時代は緩やかに人間対人間の殺し合いから、兵器による大量殺戮に変わって行く丁度その狭間にあった。人々には剣が廃れるその最後の輝きとして、彼が見えたのかもしれない。
パンク・ダ・パンプが歴史に初めて姿を現したのは、彼が十六歳の時、四年に一度開催される国王主催の武術大会であった。
※※※
準決勝を終え、控え室への通路をパンクが歩いていると、彼の背中に観客から賞賛と応援の声が投げかけられる。お前は俺たちの誇りだ。絶対に優勝しろ。大会が始まる前は誰も彼を知らなかったはずなのに、今では平民代表のような存在となっていた。
しかし、パンクはその声援のどれにも手を挙げて応えたりしない。ただ、次の相手も大したことの無い相手だったらいいな程度のことを考えて歩いていた。
「次、お前負けるぜ」
不意に声援の中にそんな声が混じる。
パンクはそれも声援と同じように聞き流し行こうとした。だが、後ろで上がる怒声に振り向かずにはいられなかった。
「なんだとてめぇ! その格好――貴族か?」
「貴族が何言ってやがる!」
どうやらさっきの台詞を吐いた貴族を大勢で囲んでいるらしい。
「次の決勝で彼は負けると言ったんだ」
「俺たちのパンクが貴族の坊ちゃんに負けるわけがねぇ!」
「貴族なんて所詮一人じゃナイフも使えないんだろ?」
大きな笑い声が上がる。
「ほらほら僕ちゃん、お肉ですよ~――俺たちから巻き上げてぶくぶく太りやがって!」
貴族を囲む輪はどんどん小さくなり、今にも飛び掛りそうな殺気をパンクは感じる。
「ナイフも使えぬ貴族に従うのが嫌ならさっさと貴族なんて殺してしまえばいい。貴族から搾取されるのが嫌なら戦えばいい。それもできずに何を喚いているんだ? 俺には理解し難いね。ほら、どうした。俺は一人じゃ何もできないぞ? だから、なんだ? お前らだってそんな風に集まっても何も出来ないじゃないか」
輪の中心で発せられた貴族の言葉は、彼を囲んでいた者たちにはあまりにも苛烈で、自分達がどうしていいのかさえわからなくしてしまったようだった。
だが、パンクにはこの静けさの後どうなるか容易に想像できたため、彼らが行動を起こす前に見えない貴族に声をかける。
「私に何かアドバイスがあるなら控え室にきたらどうだ?」
「ご招待、有難く承ろう」
貴族を囲んでいた観客達の輪が二つに割れ、一人の男が歩いてくる。
「よぉ、俺の名はバロック・フォン・バッハ三世。お前が剣だけの男じゃなくて良かった」
聞いてもいないのに勝手に名乗るこの男を見たパンクの第一印象は、
(太いな。小奇麗な身なりをしているし、歳も私とそんなに変わらないのだろうが……どうしてそうなった?)
だった。
二人が控え室に入るとすぐに大会の者がきて、本日予定されていた決勝戦を明日に延期すると伝えていった。
「ほらな」バロックがニヤリとする「お前みたいな奴が突然現れたりするもんだから、運営側は大慌てさ。きっとどうやってあっちに勝たせるかで今夜は眠れないだろうな」
パンクも妨害が入るであろうことはなんとなく察していた。きっと自分が若すぎるために今まで放っておかれただけだ。しかし、今更どうこう言う気も、する気もなかった。
「けど、お前強いな。別に相手を殺しちゃっても構わないのに、寸止めで相手に負けを認めさせるなんてよ。観客は人が死ぬのを見にきてんだからさ、もう少し興行に協力しろよ」
パンクには目の前で豪快に笑う男の真意がわからなかった。
「この国の生まれか? 見たところ我流だが親は何をしている?」
「なぜ私に構う?」
「……当然だな。警戒しない方がおかしい」
「貴様、貴族なのだろう?」
「そう。俺はバロック・フォン・バッハ三世子爵。いずれは親父の侯爵を継ぐ身だ」
バッハ侯爵家はバロック一世の頃には諸外国との繋がりが深く、この国の外交・貿易を牛耳っていたが、バロック二世は政敵との政争に破れ、今となっては港湾における一部の利権にさえ影響力を持たないほど落ちぶれてしまった。貴族の間では三代目バロックがバッハ家を潰してしまうのか、はたまた復興させるのかがちょっとした賭けの対象となっていた。
「それが?」
パンクは興味もなさそうに問う。
「まぁ、継ぐと言っても名ばかりの侯爵家などいらんがね。城内で老醜どもと政争を繰り広げる気もない。俺は軍人になりたいんだ」
「勝手になればいい。私と何の関係がある?」
「戦場にでれば身分は関係ない。力が無ければ殺される。そうだろ? だが俺を見ろ。どう見ても強そうではないだろう? その通り。だから、強力な戦友探しをしているというわけだ」
「どうして戦場に出たいのだ?」
「退屈なのは好きじゃない。人殺しに興味は無いが、殺されるかもしれないスリルには興味がある。生きている感じがするだろう? あと、城勤めになると毎日あの山の中まで出勤しなきゃならないんだぜ?」
「別に歩いていくわけじゃないだろう」
「そうだけどな。俺は海が好きなんだ。お前こそこんな大会に何しにきたんだ? 自分の腕が試したかったなんて言うなよ。お前のやり方はそんなものじゃない」
無邪気に笑っていたバロックが表情を変えた。
「貴様に教えてやる義理は無い」
「優勝者には陛下から直々に褒章を与えられる。それが狙いか? 全て寸止めといっても、お前の太刀筋は暗殺者のような容赦ないものだ。だからこそ、わざわざこんな大会に出てくる力自慢どもが白旗をあげるんだ。その刃を陛下に向ける気か?」
「……そうだとしたら、貴様はこの部屋から生きて出られないことになるぞ?」
「……ぞくぞくするね」
パンクの目の前でバロックは恍惚の表情を浮かべる。
「そんなに嬉しそうな顔をするな、豚野郎。豚を斬るのは肉屋に任せてある」
「ぶぶぶ、豚野郎!?」
「で、何かアドバイスがあるんじゃないのか?」
豚野郎と呼ばれる事にいまいち釈然としていない様子のバロックだったが、パンクが警戒をといたのがわかったらしく、部屋の外に声が漏れぬよう声を低めた。
バロックの情報はアドバイスと呼べるほどのものではなかった。
次の対戦相手が軍部において影響力を持っている貴族の子弟であること。この大会で結果を残し軍部で要職に就き、その一派の権力を増強しようとしていること。これまでの対戦相手には相応の金を払うか、事故に遭ってもらったことなどである。
つまり、気をつけろという程度のアドバイスだった。
その夜、パンクは言われた通り襲撃に備えるため、実家ではなく市街の宿をとった。
パンクの家は外壁の外で鍛冶屋をしていたとされている。鍛冶屋と言っても刀身などは叩いておらず、食器作りが専門で銀を溶かしナイフやフォークを作っていたらしい。そんな職人の父親は全く武術に素養がなかった。ただ、彼の作るナイフの切れ味は素晴らしいとの評判であった。おそらくだが、パンクの強さは斬るという事の本質を父親から教わっていたためであろうと考えられる。一般的に剣で斬るとは言うが、実際には叩きつける、もしくは突くと言うのが正しい。そのため鍛冶職人たちはいかに刀身を重く頑丈にするかや先端を尖らせるかを競い合っていた。だが、パンクの使用していた剣は特注であった。斬ることに特化させたため片刃で、刃と斬る対象物がぶつかった瞬間にうまく衝撃を逃がすことの出来るよう刀身が緩やかに反っていた。しかも、刀身には軽量化のため刃に沿っていくつもの穴が空いていたという。つまり、刀身が合わさった瞬間、パンクの剣は砕け負けが決定する。負けとはこの場合死を意味するのだが、誰もその意味をパンクに教えた者はいなかった。
おそらくこの剣はパンクの父親の業によるものだが、それはごく一部の者しか知らない事で、一般的にはパンクの父親は一介の食器職人である。しかし、そんな父親を理不尽な暴力に巻き込むかもしれないというパンクの心配は杞憂に終わった。襲撃はなかったのだ。そして、金の話もないまま昼を迎えた。
「どうやら生きているな。なんの接触もなしか? まぁ、無駄だと思ったんだろう。お前が強すぎるから……それにしてもこの肉なんだ? 魚と鳥の中間みたいな感じだが……」
大会会場の近くでパンクが昼食を取っていると、フリカッセをむしゃむしゃとかきこみながらバロックが近づいてきた。
「しかし、交渉すらもなかったのだとすると、何か仕掛けがあるのかもな」
「仕掛け?」
「闘技場に落とし穴が掘ってあるとか」
「……まともに戦っていないという事だったが、実際のところ腕の方はどうなんだ?」
「さぁな。最近まで外国にいたらしいからな……で、この肉なんなんだ?」
「おい、豚野郎。貴様、昨日からなんの役にも立ってないぞ? 将来的には私に命を守って欲しいのだろう」
バロックは料理から顔をあげ、不思議そうに首を傾げる。
「こんな所で死ぬような奴に、守れる命なんてあるか?」
バロックは店員を呼び、自分が食べていたものの正体を知ったが、特に驚きもせずおかわりを頼んだ。
「カエルだってさ、カエル。お前ももっと食っておかないと負けちまうぞ」
パンクは顔をしかめる。
「まぁ、なんだ。俺が出来るアドバイスといったら、後はあれだな」
「もはや期待してないが」
「死ぬなってことだ。こんなつまらん大会で命を懸けるなんて馬鹿げている。ここまできたなら、生きてさえいればそれなりの褒美は貰えるだろうよ。お前が何を望んでいるかは知らんがな。あと、あれだ。相手は殺すな。ルール上は殺しても構わんが、殺して偉い――いや、偉そうな貴族に目をつけられる必要もないだろう。そんな価値はない。……で、カエルってなんだ?」
闘技場には貴族も平民もたくさんの市民が集まっていた。
鐘が鳴り、ざわついていた観客が静まると、司会者らしき人物が声をあげる。
「これより第二十三回武術大会決勝戦を始める! その前に全員起立! 国王陛下の御なりである!」
観客が立ち上がり拍手をすると、客席正面上段の貴賓席に国王が姿をみせる。国王は片手を挙げ民衆に応え、そのまま水平に手をかざして拍手を静めた。
「ここでは貴族も平民も関係ない。強き者こそ正義である。九十年にわたり続いてきたこの由緒正しき武術大会に新たな歴史を刻む者を、我等の目にしっかりと焼き付けようではないか」
歓声があがり、王が椅子に腰をおろすと司会者が進行する。
「それではこれより決勝の舞台に勝ち進んできた両名にご登場願おう。まずは、突如現れた無名の若き剣士パンク・ダ・パンプ!」
向かい正面の平民側から応援の声がかけられる。
「次に、異国放浪を終え帰ってきた流浪の男、ライナー・フォン・リヒテンシュタイン男爵!」
左右の貴族席からパチパチとまばらな拍手が上がる。
「それではルールの確認をする。一、得物は自由。二、勝者はどちらかが降参、又は戦闘不能状態に陥った場合に決定する。これには当然、死亡も含まれる。たったこの二つである。これ以外のルールが最強を決定するこの舞台に必要であろうか? 否! 必要ない! では、両者ルールに則り正々堂々戦われぃ。始めぇ!」
大歓声の中パンクはそれまでのように無造作に剣を抜き、構えるでもない構えをとる。そして、視線の先にある男爵の隙を探る。隙と言っても場所でない。場所は既に決まっている。パンクの剣を砕かず一撃で決められる場所はいつだって一つ、首筋なのだ。あとはタイミングさえ見極めればいい。相手の首筋に切っ先を突きつけるタイミングを。
観客も準決勝までのパンクの戦いを見て勝負が一瞬で着くことを知っているため、上がった歓声もすぐに消える。
誰もが息を呑みその瞬間を待っていたが、パンクの視線の先にある人物だけが奇妙な動きをしていた。
リヒテンシュタイン男爵はパンクが剣を抜くのを確認すると口元だけで薄く笑い、腰にかけていたワインボトルを取り出し、ゆっくりと口をつける。そして、口の端から零れるワインを拭いもせず、大きな声で笑い出した。
「くははははは。くっはっはっはっは」
大げさな笑い声が静まった闘技場に響き渡る。
「皆、一瞬だと思っておるね。そう。一瞬だ。一瞬でカタはつく。だが、それではせっかく御足労頂いたのに申し訳ないと思うのだよ、私は。ところで、ワインを指してこれは私の血であると誰かが言ったというのを知っておるかね? 私はね、それは違うと思うのだ。違うと思うのだよ。これは血でなく、ワインだ。葡萄だよ。そうだろう? ただね、これを血に変えることも私には可能だ。ワインを血に変える。では、一つ余興をお見せしよう」
男爵はそう言うとワインボトルを高く放り投げた。
観衆の目はその放物線を描くボトルを追う。
誰の目にもワインボトルはパンクの後方に落下し、砕けると思われた。
だが、ボトルはそれより早く、パンクの頭上高くで砕け散る。
そして、パンクには中身のワインと砕けたボトルの破片が降り注がれた。
「くははははは。くっはっはっは。ほらね。血塗れだ。血も滴るいい男の出来上がりだよ。きゃっはっはっは」
ボトルを追っていた場内の誰にも何が起きたかわからなかった。
ボトルが投げられ、それが空中で突然砕け散った。パンクはワイン塗れになり、慌てて男爵に目を移すと彼の手に何やら細い筒状の物が握られている。
場内の混乱をよそにパンクは冷静に事態を把握し、そのためにより冷静に自身の危機を察知できた。
(なるほど、小銃か。以前に一度、その弾丸の鉛を受注に来ていたな。あんなものがあるから何も接触がなかったというわけか)
無感動な表情のパンクを気に入らないらしく、男爵は不機嫌そうに言う。
「皆、驚いてくれているのに、どうやら君は違うようだね。でも、いいんだ。こんな大会お遊び前の準備だからさ。おもちゃ箱をひっくり返すみたいなものだよ。さっさと終わらせてもっと楽しい遊びをしよう。ほら、どうせ無駄だけど、せめて走り回るくらいはしなくちゃ」
十数メートル先から投げたボトルを撃ち落とすのだから、確かに逃げても無駄なのだろうがパンクは男爵の周りを走り始めた。
それを見て愉快そうに男爵もパンクに向かって撃ち始める。
観客たちは男爵の手元で乾いた炸裂音が響いたかと思うと、闘技場の壁に何かが弾かれるという現象を見て、やっと自分達の目の前で起こっていることに気づき始めた。壁際で身を屈める者も出始める。
数発撃ったところで男爵は構えを解き、パンクに声をかける。
「あのさぁ、これもうあと一発しか残ってないんだよね。だから、当てちゃいたいんだけど、動き回られるとさ変な所に当たっちゃうよ? 急所を外すとさ、鉛の玉が身体に残ってそこが化膿し始めて腐りだしちゃうかも。君も若いのに不自由な身体にはなりたくないだろう? だからさ、もう決めちゃおうよ。心臓を一発で貫いてあげるから」
これはパンクにとっても不利な申し出ではなかった。玉が一発残っている限りパンクは動きをとめることはできない。ルール上、時間制限があるわけではないためいずれは体力が底をついてしまう。そうなると勝機は消える。だが、立ち止まって正対し、心臓をしっかりと狙わせ、あとは引き金を引くタイミングさえ外さなければ、避けるもしくは――。
(叩き切ることも……)
パンクは立ち止まり男爵に向き合うと、左手の親指で心臓を指し、剣を鞘に収める。
それを見て、男爵は狙いを定める。
「いいねぇ、狙いやすいねぇ。でも、本当は避けようとか思ってるんだろう? かっはっはっは。無理無理。無理だよ。腕の筋肉の動きなんか見てたって一瞬なんだから無駄さ。逆に避けちゃうと、さっき言ったように変な場所に当たっちゃうんだから止めておきなよ……でもでもでも、それじゃつまらないからさ。君がただ死ぬのを見るのなんて処刑と同じじゃないか。そんなのつまらない。だから、カウントしてあげよう。3・2・1で撃つよ。1で撃つからね。避けられるものなら避けたらいい。ただ、2で動いた場合、君は一生不自由な身体になるから。そこのところヨロシクね。じゃあ、やろうか?」
パンクは刹那の動きに懸けるため全身の力を抜き、胸を指していた腕を下ろす。
「観念したのかな? いや、その目つきは違うね。諦めとは違う。開き直った目だ。では、カウントだ。
3
2
1」
0のタイミングで火薬の弾ける音は鳴った。と、ほぼ同時に金属がぶつかる音も響く。
観客の目がパンクに集まる。
パンクは剣を抜いた姿で、剣を上方へとかざしていた。
「……な、な、な……なぜだい? どうしてそんな事が……タイミングは外した。それに狙いも胸から眉間に変えていたのに……どうしてわかった!? いや、それがわかったとしても、そんなことは常人には……ありえない……」
男爵は驚きと怖れのあまり腰を地面に落としてしまう。
束の間の静寂のあと、観客達が近くの者と目の前で起きたことを確認し始めたため、場内は騒然となる。
その中をパンクはゆっくりと男爵へと近づいていく。
(……助かった。抜刀じゃなければ、太刀筋に眉間は入らなかった。おそらく0で胸を狙われていても、1で眉間を狙われていても死んでいたな)
パンクはそんなことを考えながら、自分の間合いに男爵をおさめた。
「私の勝ちだ。まだやるか?」
男爵はパンクから目を逸らし俯く。だが、笑い声とともにまた銃口をパンクに向けた。
「くわっっはっはっは! まだもう一発残って――」
しかし、男爵は言いたい事を言い終える前に、右手首を切り落とされる。
「っがぁ――!」
「本気でやりたければ、ああだこうだ喚かず引き金を引くんだな」
男爵が転げまわるのを背に、パンクは大会司会者の方へ合図をする。
司会者はそれを受け立ち上がり、勝者の宣言をする。
「しょ、勝者パンク! えっと…無名の剣士は……これにより…我が国随一の……使い手となった! 勝者に盛大な拍手を!」
おそらく司会者は男爵一派のものだったのだろう。予想外で用意していなかったために、言葉に詰まりながら勝者を称える口上を述べた。
しかし、観客は誰も拍手どころか歓声もあげない。
異変を察知したパンクの身体が考えるよりも早く動く。
「ばぁ~――」
(しまった!)
自責の念が浮かぶ。咄嗟の事に手加減できなかった。人を殺すことに躊躇いはない。しかし、身を守るためとはいえ、無意味に、誰の得にもならない人殺しはしたくなかった。
男爵の首は宙に飛ぶ――はずだった。
それを回避したのは剣の脆さだった。元々、頚動脈のみを切断し、致死に向かわせるためだけの剣である。それが鉛玉を弾き、手首を切り落としたのだ。頚椎にぶつかって砕けても不思議ではなかった。
しかし、それで十分だった。男爵は声を出すことも出来ず崩れ落ちる。気絶してしまっていた。普通これだけの裂傷を負えば痛さで気絶できないのだろうが、男爵は切っ先が首に触れる瞬間、自分の首が飛んでしまうというショックで気絶できてしまったと史料にはある。
もちろん場内の観客も男爵が死んでしまったと勘違いした。そのため首から吹き上がる血しぶきをみて完全に沈黙してしまう。
「救護の者を」声は場内最上段の貴賓席からする。
「皆の者、押し黙っている場合ではないぞ。この若者をみよ。彼こそ我が国に誕生した比類なき剣士である。称えよ。私の知る限り、彼ほどの剣士は歴史上おるまい。その姿を目にする事の出来る幸運を、その姿が我が国に在る幸福をかみ締めよ!」
パンクの後方から平民の歓声が津波のように押し寄せる。さらに左右からもまばらに拍手が起こる。それは男爵一派と対立した貴族のものだった。
その中心でパンクは――
(……拍手なんてしてないで、早く彼を助けなければ死ぬぞ……?)
と考えていた――かどうかはわからない。
Ⅱ 王との謁見 フルートゥ暦一三七四年 四月
こうしてパンク・ダ・パンプの名は、比類なき剣士として歴史の表舞台に出た。多くの者はそれを喜び、それ以外の少数の者は嘆いた。嘆いた者達の多くを占めたのは由緒ある武術大会で初めて平民に優勝されてしまった事であったが、一部の者はそもそも何故食器職人の息子がこのような大会に出てきたのかという戸惑いを含んだ嘆きであった。
フォン・リヒテンシュタイン男爵を出場させた貴族達が狙っていたように、この大会の優勝者には軍の要職に就くどころか、爵位すら与えられるほどの褒美が出る。自らの保身と栄達にしか興味のない貴族達にはパンクの狙いがわからなかった。ただ腕を試したかったなどという理由は、権謀術数蔓延る貴族社会では思いも寄らぬものだった。
そのため、大会から二日後の褒章式典まで、そのような貴族達は眠れない夜を過ごすことになった。
パンク・ダ・パンク――彼は何故出場し、何を求めたのか――。
※※※
都市国家アナポー王国は、湾にある軍商両用港の周りの貿易街と、丘の上にある小さな城砦都市内とに平民と貴族がわかれて居住していた。その二つの地域は半円状の外壁により、共に外敵からの侵入を防いでいる。さらに、その外壁の外側には農民や職人が点在して住んでおり、パンクの実家もそこにあった。
「剣は直ったか?」
式典の朝、バロックがパンクの家まで迎えに来ていた。
「どうして貴様が迎えに来るんだ」
「ところで、まだ朝飯を食ってないんだが……」
「会話をしろ、豚野郎」
「おい、これはなんだ?」
バロックが炊事場の方へ向かうと、奥から声がする。
「それはウサギの燻製ですよ、貴族様」
「燻製? ウサギは狩りたてのものの毛をむしって丸焼きが一番だろう」バロックは燻製を手に取り匂いを嗅ぐ「で、奥にいるのはもしかしてお前の父君か? ならば、挨拶をしておかねばな」
「おい、やめておけ」
パンクの言葉を無視してさらに奥の部屋へ入ったバロックであったが、すぐに戻ってきた。
「――っがぁ!熱いではないか。どうして食器職人の家にあんな大きな炉があるんだ。必要ないだろう」
バロックは一瞬で汗だくになっている。
「はっはっは。燻製は燻製で独特の味わいが出るものですよ、貴族様」
「あの炉で燻製を作っているのか? グルメ過ぎるじゃないか」
「貴様は本当にバカヤロウな豚野郎だな」
「じゃあ、なんのためにあんなものをおいているんだ」
パンクがバロックの質問に答えないでいると、奥からまた声がする。
「知らない方が良いことも世の中にはあるのですよ、貴族様」
バロックは一瞬だけ眉をひそめる。
「……まぁ、いい。食いモンがないならさっさと街に行こう」
「まぁ、待て。王と謁見するんだ。あれがなければ格好つかんだろう」
パンクがそう言うと奥でジュウっと皮膚に熱した鉄を当てた時の音、もしくは高温の石に水をかけた時の音がした。
「なんだっ!?」
驚いてバロックが奥の扉の方を振り向くと、しばらくしてコツッコツッと音がなり部屋から無精ひげを生やした男が出てくる。
「出来たてだよ、パンク」
手には銀色の刀身を持つ剣。
「……銀だったのか?」
バロックは輝く剣から目を離せないままポツリと呟いた。
「このままでは何も斬れんがな」
「ペーパーナイフくらいにはなるぞ」
パンクの言葉にすねたように父親が返す。
「今日はペーパーナイフで十分だな。柄だけでも良かったくらいだ。では、行こうか豚野郎」
バロックに連れられてパンクは初めて城砦都市の城門をくぐった。門の中には貴族のための本当に小さな街が広がる。この時代、一部の商人と貴族、あとは近衛兵や親衛隊などの兵士以外でこの城内に足を踏み入れる事が出来る平民はいなかったと言われている。
初めての城砦内を見てまわりたい気持ちはパンクにもあったであろうが、バロックの先導するまま式典の行われる大広間の前まで通される。
「まじめな顔も出来るじゃないか、豚野郎」
パンクの軽口にバロックは険しい顔つきで応える。
「俺はここまでだ。言っておくが、俺だから許されるのであって、間違ってもそんな言葉遣いを中の貴族様方にするなよ。いくらお前が強いと言ってもこの国の兵士全てを相手にはできまい?」
最後に口の端だけで冗談とも本気ともいえる笑みを浮かべてバロックは立ち去った。
大広間への扉の前でパンクは一人残される。しきたりや作法について何も知らないパンクがどうしていいかわからず途方に暮れていると、槍を持った兵士が二人きて踵で一度、槍の石突きで二度床を鳴らした。
「入られよ」
中から声がし、扉が開く。
大広間の中は何が置いてあるわけでもなかったが、真紅に金色の縁取りがしてある絨毯や室内を明るく彩るシャンデリアはパンクにもその品の良さが感じられた。しかし、式典を催すような雰囲気はパンクには全く感じられなかった。音楽や踊り、豪華な食事を期待していたわけではなかったが、目の前に広がる光景が重臣であろう貴族二十名弱が左右に整列しているだけだとは完全に予想外だった。四年前は盛大にお祭り騒ぎをしていたのを覚えているのだ。
(それともあれは市民が勝手に催したものだったのか……?)
絨毯の先にある玉座らしき椅子にはまだその主人の姿はない。
「武器はそこで兵士に預けよ」
パンクは隣の兵士に今朝打ち上がったばかりの剣を預ける。
「では、進まれよ」
言われるままにパンクは広間に足を踏み入れ歩を進める。なんとなく失礼な気がして、左右に並ぶ顔を見る事は出来ない。
「どこまで進まれるのだ!? そこで停まられよ」
まだ、広間の半分にも来ていない所で制止させられた。
「膝を着きそこで待たれよ。陛下の御なりであらせられる」
パンクは両膝を着き、王を待つ。
「片膝でよいのだ! 片膝で……あぁ、頭は下げていよ。それから陛下が語りかけられても決して目を合わせてはならんぞ」
(なるほど。色々と規則があるのだな。バロックめ……くだらぬ情報などよりこういう事を教えてくれていれば良かったものを)
そんな事を考えながら、言われた通りにすると、周りからささやく声が聴こえる。
「……まだ子どもではないか……」
「……作法も知らぬ下民をここに入れるとは……」
「確かに。サンマリノ侯のおっしゃる通りだったわ」
「えぇ、近隣の諸侯を呼んで大々的にやっていたら、いい笑い者になっておったのう」
パンクに隠す気のない陰口がちらほらとあがる。
「控えよ! 陛下の御なりであるぞ!」
一番奥にいる貴族の声が室内を威圧する。
「まぁまぁ、それ程大声をだすな、カール。それにしてもどうにかならぬものかのう? 余の方が先についているのだから、先に椅子に座らせてくれても良いではないか。年寄りを労わらないしきたりとは、これは歳を取ったものを早めに逝かせようということか?」
穏やかに微笑みながら大柄でふくよかな老人が玉座に座す。
「陛下、そのような事は……」
「まぁよい。今日はお前とお喋りしている暇はないからな。先に言っておくが、お前は今から一言も喋ってはならんぞ?」
「……かしこまりました」
「では、パンク・ダ・パンプと申したな。顔を上げよ」
パンクは言われたとおり顔を上げる。
「目を合わせるなと言ったであろう!」
カールと呼ばれた貴族に言われ、すぐに目を伏せる。
「ちこう寄れ」
パンクは言われたとおり玉座の方へと歩み寄る。
「寄り過ぎだ! 二歩でいいのだ、二歩で!」
カールと呼ばれた貴族に言われ、すぐに歩を止める。
「……カール…カァール…カァールゥ……。余の命より作法が大事か? ならば、この国に王などいらぬではないか。んん? そうであろう?」
カールと呼ばれている貴族の顔は蒼白になっていくが、周りの貴族達は堪えきれずふきだしてしまう。
「何を笑っておる! 陛下に向かって不敬であるぞ!」
「笑われているのは余でなくお前だ。勝手に余を笑い者にするな。それから……黙っていよと命じたはずだが。まだ二歳のメロウの方が聞き分けがよいな」
カールと呼ばれる貴族が一歩下がると、周りの貴族達の笑い声もやむ。
「さて、まずはおめでとうと言いたいところであるが、その前に謝らねばならぬ事があるな。それは、祝賀会だというのにこのような日のあたらぬ場所でこっそりと行わなければならない事……」王の多分に毒を含んだその物言いに重臣貴族たちの顔が曇る「申し訳ない。本来ならば国をあげ、近隣諸侯を呼んでの祝賀になるはずだったものがのう……こんな老いぼれどもに囲まれて、女も酒もないものになってしまうとは」
「いえ。こうやって城砦内へ入れていただき、陛下に拝謁できただけでも恭悦至極であります」
今度は顔を上げずパンクは応えた。
「ふむ。そう言ってくれると余も助かるが、本心ではこう思っておろう? 貴族の伝統や格式のせいで平民の優勝者は遇されないのかと」
事実、パンクはそう感じていた。貴族であるバロックが外壁を越えわざわざ家まで迎えに来たのも、大広間に兵士がいない事も王なりの配慮であることはわかるが、この扱いはやはり平民が優勝する事を良く思わない人間が城砦内を占めているのだと知らしめられた。
「パンクよ。余はそなたが優勝してこう思った『あぁ、やっと我が国に真の剣士が現れた。今までの大会は不正があったのだな』と。確かに平民より貴族の方が時間を持て余している分、剣術を磨くことができるであろう。しかし、九十年以上貴族しか優勝していないなどというのは馬鹿げておる。私はそう思い、そなたの登場を嬉しく思った。だが、伝統や格式を重んじる貴族達はそうは思わない。それはわかるな? 生まれた時から特別である自分達が平民などに劣るはずがない。そう考える者がほとんどだ。そのような、そなたに敗れて口惜しい思いをした者達、これは余としても放っておいても構わない。しかし、平民が優勝したと外国で聞く者たちはどう考えるであろうか?」
「……それは……」
外国というものを特別に意識した事のないパンクは答えられない。
「アナポー王国の騎士たちは平民にさえ勝てないのか」王の言葉に室内がどよめく「そう思われるのだ。そして、それはそなたが証明した真実だ。貿易で外貨を得ることによって国を成り立たせている我が国は、諸外国に弱みを見せるわけにはいかん。積荷の代わりに兵士を送られぬようにな。よって、今回のそなたの優勝は国を挙げて祝うわけにはいかなくなった。本当にすまぬな」
顔の上げられないパンクは声色だけで王の沈痛な思いを受け取った。
「そのように気をかけてくださるだけで十分であります」
そう答える以外に思い浮かぶ言葉が浮かばなかった。平民の誰もが幼い頃から聞かされていた王様像と全くかけ離れた印象のこの王様に、パンクは困惑を覚えたが、それ以上に親しみを感じていた。
パンクが深々と頭を下げていると、衣擦れの音が耳に入ってきた。
「なりません!」
カールと呼ばれた貴族の声がしたかと思うとカツカツと足音が聴こえ、周囲の貴族達もざわつきだした。
「なりません、陛下!」
「良いか悪いかなど余が決める。それにこの者が仮に刺客ならば、我等はとっくに死んでおるぞ。何せこの国で一番強いのだからな」
パンクの視界に差し出された手が入り、顔を上げると手の届く距離に王が立っている。
「さぁ、堅苦しいのはここまでじゃ。余はそなたに聞きたい事が山ほどあるぞ」
そう言うと王はパンクの腕を掴み立たせ、王座の前まで歩きながら近くの者にパンクの座る椅子を用意させた。
王座は台座の上に据えられ、パンクと目線の高さこそ違ったものの、作法の知らぬパンクでさえこれがどれほど破格の扱いかはわかった。
「さて、大切なところからいこうかのう。褒美は何がよい?」
「なんでも良いのですか?」
「そう言われると怖いが、余に叶えられるものなら何なりと申せ」
「では、若い食器職人見習いを一人」
パンクの返答に王は首を傾げる。
「職人を? はて、話がみえぬな」
「私の父は食器職人をしております。しかし、私にはどうやらその才能がなく、父は私に跡を継がせる気がないのです。そこで、職人見習いを一人与えてくだされば我が家の食器技術を失わずに済むということであります」
「ふむ。では、そなたはどうするのだ? 職人にならぬのならばそなたは何になる?」
「私は兵士にして貰おうかと思っております。元々、私は兵士になりたかったのですが、私が兵士になると跡継ぎがいなくなるので迷っておりました。そこでこの武術大会で優勝して、私の代わりとなる後継者を授かろうと思ったのです」
「父親は知っておるのか? そなたが勝手に弟子を連れてこようと思っている事を」
「はい。父は常々弟子を取らないと申しておりましたが、私が優勝したならば弟子を取るという条件を了承しております」
「そうか。では、探してみよう。ところで、なぜ兵士になりたいのだ?」
「私には食器を作る才能はございませんでしたが、人を殺す才能には恵まれました」
広間内に緊張が広がる。
「……兵士は人殺しの集団ではないぞ?」
「しかし、人を殺して誰かを幸せに出来る職業が他にあるでしょうか?」
パンクのあまりにも明け透けな物言いに、王はもとより、その場にいた全員が絶句してしまった。
「国民は父の作る食器で暖かな食卓を笑顔で囲みます。私はその笑顔を守りたいのです」
「………そなたは人を殺す以外に人を幸せにする方法を考えた事はないのか?」
「考えてはみましたが……私のような人間にそれほど多くの事はできないと思い至りました。それならば手の届く範囲で出来る事をしようと思うのが普通ではないでしょうか。私も人を殺すことは本意ではありません。しかし、現実に毎年多くの兵士が争いによって死に、その家族が悲しみに沈みます。私が戦場にでれば一人でも多くの仲間を死なせずに済むのです。そのためならば、私は人を殺すことを躊躇いません」
「そなたが一人殺せば、相手の国に嘆く家族を一つ増やすのだぞ?」
「目の前にある悲しみを放って、彼方の国の安らぎを願うことができましょうか? それに、それは陛下がさせておることではありませんか」
「無礼であるぞ!」
カールと呼ばれた貴族が後ろからパンクの肩を掴む。
「進めと言われた兵士に、進む以外の術があるのでしょうか?」
「陛下! この者を不敬罪で処刑すべきです!」
王はカールとパンクをそれぞれ一瞥し、溜息を吐いた。
「いや……この者の申す通りだ……だが、まだ学ばねばならん事も多いようじゃな。そなた、どうせ兵士になるのなら、騎士学校に行ってみぬか?」
「陛下、騎士学校は貴族の子弟のみが騎士の称号を叙勲するための場所。平民が通うような所ではありません」
「別によいではないか。大会の優勝者には爵位さえも与えられるのだ。優勝して貴族になったと言われるより、ちゃんと学校に通って騎士になったと言われた方が聴こえも良かろう。それにこの者は兵士になると申しておるのだぞ? 誰がこの者の上官になるのだ」
軍部を取り仕切る列の貴族がざわつきだす。
「嫌であろう。比類なき者はそれなりの立場に身を置かなければ、秩序が保てなくなるものじゃ。そのためにまず騎士になり、爵位はなくとも貴族の一員とならねばならん。まぁ、この制度もいずれは変えねばならんじゃろうが……どうじゃ二年ほど学んではみぬか?」
「私は一兵卒で構いません。二年という月日も無駄に感じられます」
「今のところ我が国は安定しておる。海賊や山賊などとの小競り合いはあっても、国家間の大きな戦はないじゃろう……いや、余がそうはさせん。それにそなたには学んで欲しいのじゃ。殺すだけが戦ではないことも。そして、いずれはメロウを守ってやってくれ」
※※※
歴史の教科書にあるように、パンクは王座に就くと戦線を無駄に拡大した。つまり、この時アナポー王に諭された事を理解できなかったという事になる――表面上の歴史では――。
Ⅲ 騎士学校時代 フルートゥ暦一三七五年 八月
この時代、貴族の子弟は十二歳になると幼年学校に入れられた。そこで四年間、歴史や哲学など貴族としての教養を身につけ、政治や経済など支配者としての実践学問を学ぶ。その生活と親の代から続く派閥の中から、将来自分の味方となる者を探し出すのだ。
幼年学校を卒業すると家督を継ぐ者は城内に入るが、それ以外の者は騎士学校へ進み騎士になるか、諸外国へ駐在弁務官という名の人質に出される。
騎士学校では自らの鍛錬の他、戦場での兵士の運用から大局的な戦争の有用性まで学び、軍事的側面から将来家督を継ぐ兄を支える騎士をつくることが目的とされていた。
ここでパンク・ダ・パンプは二年間学ぶ事になる。
そして、ミュゼット・デ・ラ・クルスという二歳年長の人物と出会った。彼は外国からの優秀な留学生で、軍事技術の交流をするためにやってきていた。
では、パンクが誰かを殺して別の誰かを幸せにするという、言っている事がまともなのかまともでないのか、少々精神的に問題はありそうな彼がどのような学校生活を送ったのか、一つのエピソードを紹介しよう。
※※※
ある日パンクは一人城砦内の食堂で夕食をとっていた。
「おい、バカヤロウ」
「なんだ、豚野郎」
パンクが顔を上げると、バロックが立っていた。その横にはミュゼットもいる。
「なんださっきの答えは?」
バロックは先ほどの歩兵戦術講座での討論について聞いているらしい。
「その通りだろうが。敵は我が方の三倍。それを中央、右翼、左翼にバランス良く配置し、半包囲状態にある。他に有効な戦術があるか?」
「お前の意見は戦術と呼べるものじゃないだろう」
バロックは溜息をつきながら、ドカリとパンクの横の席に腰をおろす。
「しかし、実現すればこの状況ではもっとも有効かもしれん」
そう言いながらミュゼットがパンクたちの対面に座る。
「実現すれば? おい、子牛を持ってこーい。一対三や二対六の話じゃないんだぞ。千対三千の話をしているんだ。こいつ一人で敵の中央を足止めにしている間にどちらか片翼を討つなんてできるか。だいたい、運よくこちらの全軍対相手の片翼の勝負に持ち込めたとしても、そこで打ち破れるかは別問題じゃないか。あの講義の要点はそこじゃない――」
「よく喋る豚だな。そもそも私が百人いれば平和なのだ」
「そもそもの使い方を間違っているんだよ! 実現性のない事象を物事の根幹におこうとするな。ミュゼットからも言ってやれ」
神妙な顔をしてミュゼットは口を開く。
「……確かに、パンク百人隊とは戦いたくないな……それにしても、このアクアパッツァとはなんだ?」
「俺だけか? まともに講義を受け、この国の力になろうとしているのは俺だけなのか?」
「貴様は海軍に配属されることが決まっておるのだろう? なぜ、歩兵戦術講座を受けておるのだ……寂しいのか?」
「寂しくないわ! 一番上に立つ者は全てを身につけておかなければならんだろうが」
「それで腹にもそんな肉を身につけているというわけか。次の馬上槍術にもでるのだろう? 馬が可哀相だとは思わないのか」
「貴族はこれくらい貫禄があった方がいいんだ」
バロックは顔を真っ赤にしながら店員を呼びつけ、頼んだものの催促をした。
「お前こそ、馬に乗れるようになったのか?」
「戦場で馬を狙われたらどうするのだ。私は自分の剣の届く範囲しか守れない」
パンクはバロックが自分の皿へ伸ばしたフォークを払いながら答えた。
「お前がまともに講義を受けているのを見たことないぞ。陛下の肝煎りで、カール公爵の援助も受けているのだから、それなりに成績を残さねば。ミュゼットを見習え。どの講義でも優秀じゃないか。留学生で肩身も狭いというのに成績で周りを黙らしている」
今度はミュゼットから伸ばされたフォークを払い答える。
「剣技では私の方が優秀だ」
「その剣技の訓練だってサボってばかりじゃないか」
「あんな形だけの訓練に意味はない。もっとやる気のでる内容の講義はないのか」
その言葉にバロックは鼻から息を漏らす。
「そう言えば……宮廷舞踏の講義は熱心らしいな」
「ところで、ミュゼットはもう決めたのか?」
「話を逸らすな。いや、俺は嬉しいよ。お前が女にも興味があるのがわかってな。女と触れ合えるのはそういう時だけだからな。いやいや、喜ばしい」
バロックはぐふぐふと笑い声をあげる。
パンクはそんな彼を殴りつけたい衝動に駆られたが、それをすると自分が女目当てであると認めてしまうことになりそうでやめておいた。
確かに宮廷舞踏にパンクは熱心だった。それが剣技に通じるものがあったからか、女性目当てであったのか正確にはわからないが、おそらくその両方だったのだろう。
「おい、決めたのか、ミュゼット」
無表情を取り繕おうとしたパンクだったが、それに失敗して妙に語気を強めてしまう。
「俺は……このプッタネスカとはなんだ?」
ミュゼットはなんだか申し訳なさそうに声を潜め、バロックに訊ねる。
「いや、そうではなく、叙勲した後だ。国へ帰るのか?」
パンクの問いに、ミュゼットはしばらくメニューから目をそらす。
「……いや、俺は帰らないな…。俺の国は寒いし、この国で一生を終えるだろう」
「貴様のように優秀な者が帰らないとなれば、あちらの国は大した損害だろうな」
「あのなぁ……貴族には色々と事情があるわけよ。帰りたくても帰れなかったり、帰りたくなくても帰らなければならなかったり。政治的な思惑も絡んでいるわけだ……ところで、プッタネスカだが……」バロックは声を潜める「なかなか良い情報を手に入れたんだが、今夜行ってみないか?」
後に得た店員の証言によれば、あきれた顔をしたパンクと、意味がわからずきょとんとしたミュゼットを強引にバロックが連れ出したように見えたとされている。
その日の夜、三人は外壁内でもっとも治安の悪いとされる東南地区へ来ていた。国の東側に大森林が広がっているため、街のそちら側は門からの人の出入りは少なかった。しかし、正規の港からは離れていても海には隣接していたため密売船の隠れ港となっていた。
三人はバロックがどこかで手に入れてきた襤褸を纏い、薄暗い夜道を歩く。
「なんだか臭わないか?」
ミュゼットが口元に手を当てながら、声を潜める。
「……これが人間の臭いだ……」
バロックは微妙にうわずった声遣いで答えた。
「なぜ、ここらの家は明かりをつけていない。それに遠くから聞こえてくるこの声はなんだ? 一体どこへ向かっているんだ、バロック」
「どこへ向かっている? プッタネスカを知りたいんだろう? よく耳を凝らせ」
ミュゼットは道の両脇に並ぶ家々の向こう側から聞こえてくる奇声に耳をすます。
「貴族の来るところではないぞ、豚野郎。それにあまり声を震わせるな。貴様の性癖を知っている者ならば、この状況を貴様が喜んでいるのは知っているが、一般的に見てそんなおどおどした態度でいる奴は襲われるからな」
「比類なき剣士と優秀な戦士がついているのに何をビビることがあるっていうんだ?」
バロックはいくつかの角を曲がると、一つの家屋の中に足を踏み入れた。
部屋の中に入ると中には初老の男がいた。
バロックが片手をあげると、男は口も開かず三人を顎で家屋の裏口へと促す。
扉の向こうは――。
※※※
当時の局員のレポートには、
〝そこには剥き出しの快楽という欲望を無遠慮に、そして乱暴に混ぜ合わせたような世界が広がっていた。陽の光の下では衛生的に耐え難いものであったであろうが、この閉ざされた狭い世界ではそれも気にならなかった。ここは地上の楽園であるとともに底無しの地獄でもあった〟
と、記されている。
このレポートを読んだとき、私――フランク・シュタイナーは激しい怒りを覚え、同時代に生きた局員ならば必ず懲罰を与えてやると憤ったものだ。しかしその後、この局員の自宅から発見された新たなレポートがこの地下室に仲間入りした。おそらく彼自身にも当時の記憶がおぼろげで忘れてしまっていたのだろう。それは三人の会話を速記した所々解読困難なメモのようなものであったが、多くの局員の手によって彼らの素直な心情を把握する事ができた。
※※※
明け方――東北地区、港を見下ろせる丘陵――
P「……最悪だ……」
B「初めてだったのか? もしかして、初めてを愛した者にとっておいたのか? 意外とピュアなんだな。だが、そうだとしたら謝っておこう。すまん」
P「何も思わないのか、貴様は?」
B「世の中には斯くも素晴らしき世界があったものだ」
P「ふざけるな。あいつらがどうやってあのような宴を催しているか知らないのか。不当にあの区画を占拠し、不法な密輸入を繰り返している。輸出品は盗品ばかりで自分達は何も生産しないのだ。まだ門外で大麻を育てている奴らの方がマシだ。自らの手で何かを生み出す努力をしているのだからな」
M「盗みを働くのも命懸けだろう」
P「ミュゼット! ……あんな糞野郎共の宴に交じるなんて……日々をまともに暮らしている人たちに申し訳ないと思わないのか」
B「そんな事を言ったら、俺は生まれた時から申し訳ないね」
P「あぁ?」
M「まぁまぁ。人には出来る事と出来ない事があるのじゃ。何も出来ない人間も居るかもしれないし、悪知恵しか働かない人間もいるかもしれない。生まれた家が貧しかったり、親の愛情を十分に受けられなかったり、事情は様々あるのじゃ」
P「何を賢者のような……。何も出来ない人間は努力が足りないだけなのだ」
B「だったら、お前も努力して一流の食器職人になればよかったじゃないか。才能に任せて人を斬ってないで」
P「おい……なんだと? もう一度言ってみろ、豚野郎。私が才能に任せて剣を振るっていると言ったのか? では、確かめてみるのだな。私の剣技がなんの修練も積んでいないかどうかを」
B「本当にバカヤロウだな。お前は何も見えていない」
P「私が何も見えてない? 貴様よりはよくわかっていると思うがな。確かに個人の才能の差はあるだろう。家が貧しいというのもあるだろう。だが、どこからスタートしたとしても、どこまでいけるかは自分次第だ。それをあのような吹き溜まりで悪事を働くことしか出来ないのは罪ではないか」
B「だったら貴族はどうなる。なんの努力もなく、生まれながらに裕福だ」
P「それは……そういうものだから、仕方ないではないか……」
M「運よく裕福な者が仕方ないのなら、運悪く貧しい者も仕方ないな」
B「さっき言ったな。外で大麻でも作っている方がマシだ、と。じゃあ、何故そんな奴らは捕まって、あそこにいる奴らが捕まらないかわかるか? 外で大麻を作られ密売されても税の徴収はできないからだ。しかし、あそこでの密売は黙認されている。海軍に密売船を拿捕させようとすれば簡単なはずなのにそれはしない。それは裏で港湾利権に絡む貴族や軍を取り仕切る貴族と繋がっているからだ。上納金を払っているから見逃して貰えるんだ。つまり、貴族は一般民衆から税を徴収しつつ、さらにその盗品からも税を徴収している。これが仕方ないことか? 正すべきは彼らか、それともこの国の貴族社会か?」
M「……まぁ、だからと言って、捕らえてはい終わりと済む話ではないがな。どの国でも大なり小なりそういうのはある。それにああいう底辺が見える形でそこにあるからこそ、ああならないようにと一般市民が生活水準を保つための努力をするというのもある」
P「……だったら、どうすればよいのだ……?」
B「知るか。自分で考えろ」
※※※
この会話文の後に、筆者である局員の苦悩がああだこうだと書いてあったらしいが、それはこの史料室にある今現在、真っ黒く塗りつぶされている。
数ある歴史史料の中で現在も存在し、公にされているものが一体どれほどあるのか。現代のこの国に、パンク・ダ・パンプがこのような事を考え苦悩したと想像できるものがどれほどいるのか。パンク・ダ・パンプと言えば残虐非道の愚かな執政者。それ以上の事は考えない。
彼を元にした芝居もいくつか作られた。しかし、それらの多くは栄枯盛衰や諸行無常をテーマにしている。教科書にある※注の部分は、必ずと言っていいほど逃げたパンクが人知れず敵の兵士に殺されるという結末で描かれる。最も好意的に書かれているストーリーでさえ、和平交渉に向かったとはされず、城門から去っていくパンクの後姿で終わる。
つまり〝パンク・ダ・パンプは戦争のさなか和平交渉に向かうと言い残し姿を消している〟と書いてあるにも関わらず、彼は逃げたとしか思われていないのだ。
おそらく、皆さんの世界の歴史でさえ、そのような事はあるだろう。歴史の中の人物であっても、私達と同じように飲み食いし、嫌いな講義をさぼり、異性との触れ合いに心躍らせるのだ。
Ⅳ 襲来 フルートゥ暦一三七六年 九月
その年は気候も良く、近隣の農耕地帯では大豊作だったらしい。秋には貿易の中継地であるアナポー王国にも多くの積荷が運ばれてきた。
だが、いつの時代も豊かである事がイコール平和であるわけではない。
貯まりに貯まった富は近隣のハイエナにとって格好の餌である。
アナポー王国より西方にあるビャーナナ侯爵領は、鉱物資源の産出で富を築いた。しかし、鉱山発掘で掘り返された領内は近年荒れ果て、食料自給が困難になっていた。そこで、ビャーナナ侯爵はアナポー王国にその矛先を向ける。
アナポー王がパンクとの約束を守っていたのかどうかは不明だが、パンクが騎士学校に入り二年が経っていた。その年の夏、彼は叙勲を終え、外壁警備隊に配属されていた。
※※※
ある日の休暇、パンクはバロックに呼ばれ港へ来ていた。
「おお、来たか。どうだ、俺の船は?」
「もう何度も紹介された。で、休暇の私に何の用だ、三世」
バロックは希望通り海軍に配属され、すぐに艦長となっていた。そして、そんな彼をいつまでも『豚野郎』と呼ぶわけにもいかず、パンクは百歩譲って『三世』と皮肉を込めて呼ぶ事にしたらしい。
「お前も知っているだろう? 好景気のせいで入港する商船が増えている。だが、我が国はビャーナナと戦争間近だ。そのためにスパイが紛れ込まないように検閲が必要なんだ」
パンクの肩を抱きながらバロックは囁く。
「――いや、実際すでに多数入り込んでいるという話もある」
「バロック艦長。出航の準備が整いました」
二人の後ろから、二人より随分と年長の航海士が報告した。
バロックはパンクから離れ航海士に指示を出した後、パンクに向き直る。
「まぁ、練習だ、練習。俺を守る、な。任務の後になにか旨いものでも食わしてやるからさ。ちょっと付き合ってくれ」
パンクの配属された東南地区の外壁は、壁の内側でこそ犯罪が多いが、壁の外側に目を向けても時折鳥達が飛び立つ姿くらいしか見られない。市街の警備はまた別の警備隊の役割なのでパンクには手が出せない。
そのためパンクは日がな一日森を見て過ごしていた。退屈や沈滞は平和な証として是とするが、悪事に背を向けていなければならない立場にストレスは溜まる日々。
そのストレスを解消してくれるのが『バロックを守る練習』だった。
パンクにとってはありがたい申し出で、休暇だろうと嬉々として船に乗り込みたかったが、バロックに何かを頼むのは癪に障るので、いつも先程のようなやり取りをするのが決まりのようになっていた。
パンクはその日も船に乗せてもらい、いくつかの密漁船でいつものように大暴れした。
「ご褒美な」バロックはパンクにソーダ水を投げ渡す「随分と手加減を覚えたな。それとも鈍っただけか?」
パンクは食道のむかつきを炭酸で洗い流しながら、二人で港区のレストランへ向かう。
正直に言ってパンクは船が苦手だった。何度乗せてもらっても胃からの逆流液を止める事ができない。だが、それでも、バロックのこの『厚意』に甘えていた。
二人はおよそ貴族が食事をするとは思えない庶民的な店に入る。
店員はバロックやパンクが騎士である事を知らないのだろう。ただの若い兵士を相手にするような気安い感じの挨拶で二人を迎えた。
それを二人は気にすることなく席に着き、バロックはラムをパンクはシェリーを頼んだ。
「海の男はラムだろう」
「毎回言うんだな、それ。私も毎回同じ答えで申し訳ないが、別に海の男ではないのでね」
酒とともにいくつか料理が運ばれてくる。トマトにチーズをのせただけのものや、キュウリを塩漬けにしただけのもの、ナンと呼ばれる小麦粉をこね焼いたものに様々な香辛料を効かせた茶色の液体。テーブルの上に多種多様な文化が広げられる。
それらを適当につまんだ後、バロックが思い出したように話を振る。
「戦争になると思うか?」
明日雨が降ると思うか、と同じような訊ね方をバロックがするのでパンクは一瞬言葉につまってしまう。
「……格好だけのような気もするが……」
「お前も世の中が解ってきたな」
「今、戦線を開いてもお互いそれほど益はない。向こうが切羽詰っているのならまだしも、征服欲にかられての事ならば、もう少し時機を見計らうだろう」
「そうだ。こちらにしても鉱物資源を輸入する当ては他にもある。戦力的には若干我が方に不利だが、あちらの侯爵様の暴君ぶりは知れ渡っているからな。いざ戦争になったとしても貿易国からの援軍も期待できる」
バロックはそこでキュウリの漬物をパキパキと前歯だけで噛み千切る。
「何をイラついている? 戦争などないほうがよかろう」
「言っただろう? スパイが忍び込んでいる。しかも、我が国の貴族の中に内通者がいる……らしい」
政争に疎いパンクにはにわかには信じ難かった。貿易国とはいえ、自国を売り物にする輩がいるとは思えない、という単純な理由しか持っていなかったが。
「それで、裏切り者というのは誰なんだ?」
「……それはまだ判らん。俺もまだ推測の域を出ないからな」
パンクは眉に皺を寄せバロックに続きを促す。
「林檎くらいしか輸出品がない我が国が貿易国として成り立つのは、立地と安全が優れているからだ。代々近海最強の海軍を備え、どの部隊より厳しい規律で秩序を保っている。今日のように巡航して東南地区に入る密輸船の拿捕も一応はしているしな。まぁ、多少の洩らしはあるが、それがなければあの地区にいる連中が餓死してしまうし、ある程度は仕方ない……」
そこでバロックは一息つき、フィッシュフライを頬張る。
「……だが、最近正規港から入る商人の数が増えた」
「それは積荷が増えているのだから当然だろう」
「以前は入港許可証を港で検査していた。しかし、港だけでは捌ききれなくなった為、海上で立ち入り検査の後、許可証を発行するようになったのだ。もちろん、ちゃんと機能していればそれで問題ないだろう。だが、入ってくる船の中に、明らかに積荷の数に合わない水夫を乗せているものがある」
「そういう事もあるだろう。海上ではなにが起こるかわからないし」
パンクにはバロックが何を気にしているのかわからない。
「軍船ならば問題はないが、商売しに来ているのに余剰の船乗りを乗せるか? 一枚でも多く金貨を稼ぎに来ているのだぞ? まぁ、考えすぎなのかもしれんが」
バロックの言っている事はもっともらしくはあったが、本人も認めるようにそれは推測の域を出るものではない。貴族が内通している証拠も無かったし、なによりまだ何かが起こっているという気配がパンクには感じられない。
その後はパンクが外壁から見える森の話をし、バロックがそれを退屈そうに聞き流すという感じで食事を終えた。
店を出て、次の休暇の話をした後、別れ際にバロックがパンクを呼び止めた。
「そう言えばな、城じゃ戦に備えて様々な作戦が立てられているらしいんだが、その中心にいるのはサンマリノ侯爵とミュゼットらしいぞ」
勤務日のパンクは変わらず外壁の上に立ち森を眺めていた。
ぼんやりと考える事は飛び立つ鳥の種類であったり、それが同じ種類であったならばそれが昨日と同じ鳥であるのかどうなのかであったり。飛び立つ時刻に規則性があるのかどうかであったり、ミュゼットの事であったり。
ミュゼットは叙勲した後、本来ならば帰国しなければならないはずであったが、本人の意思とサンマリノ侯爵の取り立てによりアナポー王国に残った。サンマリノ侯爵はパンクが武術大会で戦ったリヒテンシュタイン男爵の伯父で、軍部に大きな力を持った有力貴族であった。さらにパンクを援助してくれているカール公爵とは犬猿の仲でもあった。
戦争になれば前線に出たいという気持ちはあったが、作戦立案段階ではパンクにお呼びがかからないのはわかっていたし、今回の戦をサンマリノ侯が主導しているのならば、おそらく前線にも出られないだろうと諦めもしていた。
休暇の度にバロックの船に乗せてもらい、数週間が経った。
変わらぬ日常のはずが、港に向かう毎にある違和感が募った。
最初は自分の鼻がおかしくなったのだと思った。
東南地区は非衛生的で臭いがきつい。それを外壁の上で毎日嗅いでいるのだから、自分の身体に少々異変があっても仕方ない、と。
だが、少々の生臭さはあるものの、港では今までそれほど気にならなかったのだ。
バロックに聞いても、港の倉庫の許容量を越える積荷が運ばれてくるため、悪くなる食物類が増えたのかもしれないとしか言わない。
確かに港は腐臭に満ち、ハエが飛び交っている。
(しかし、これほど衛生面が悪化した港で商売が成り立っているのか? 入れてすぐに出せるならば問題もないだろうが、腐らせてしまうほど入れてしまっては……需要と供給が成り立っていない……なにかがおかしい……)
そう思ってはいても、具体的に何をどうすればよいかわからず、実際なにか思いついていたとしてもパンクにそれを行使する力は無かった。
パンクが異変を感じてから、一月半が経った。
城壁の上に立っているのがつらい季節となる。
その日、パンクは初めて夜間警備を命じられた。上官から、最強ならば一人でよいだろう、といわれ一人で外壁に立つ。
暗闇以外に見るものもなく、夜の冷気はパンクに寒い以外の感想を抱かせなかった。
しかし、不意にパンクの身体が反応する。
パンクの五感で異変を一番に察知したのは鼻だった。
日中なら東南地区の吹き溜まった悪臭は、海風によって外壁を越え森へと抜ける。それが、その日ばかりは何も臭わない。森から風が吹いているらしい。それは陸風循環で特別な事ではなかったが、しばらくするとその風に何か焦げたような臭いが混じる。
パンクは漆黒の森へ目を凝らす。
しかし、月明かりだけでは森に煙が立ったとしても見つけるのは困難だった。それに、もし森が焼けていたとしても、それをどう対処すればよいのか見当がつかなかった。
小一時間ほど報告に行くべきか、しかし、持ち場を離れてよいものかと悩んでいると、次にパンクの耳から異変が察知される。
焼けた音に耳を澄ましていると、近くでカサカサと何かが蠢くような音がした。それは音だけでなく、肌で感じる気配としてもあった。
足元に目を向ける。
蜘蛛だ――それも大量の。
驚き外壁を見渡す。すると、奇怪な模様を描くようびっしりと蜘蛛が移動している。
その圧倒的な光景にパンクは動けなくなる。
無意識のうちに剣を抜いてみたものの、自問してしまうだけだ。
(……こんなもので何が出来るというのだ……?)
自答出来ない自問に自嘲してしまう。
その時、外壁のすぐ近くで声があがった。
「うおっ! なんだ、これ!」
「ひゃ! 気持ち悪い!」
東南地区の家も持たぬ路上生活者達が異変に気づいたのだ。
それは蜘蛛の速さとともに地区内に伝播していく。
普段は暗闇に覆われた東南地区に、松明の明かりが広がっていく。
混乱の中、何人かが同じ事を考えたのだろう。
到る所で火の手があがった。
密集した蜘蛛に次から次へと火が燃え移り、朽ちた家々にも飛び火をする。
風は森から市街を抜け海へ。
毎夜、狂乱の宴を催していた住人達は、改めて狂乱の宴という言葉を再認識した。
誰もが蜘蛛と炎の恐怖に怯え、火を消さなければならないと解っていても、その術を知らないまま広がる炎に逃げ惑う。
そして、最後の災厄が飛来した。
パンクは背中にぞっとするものを感じる。
月明かりというものは熱を与えてくれていたのだろうか、それとも第六感的な何かのために冷たさを感じたのだろうか。
燃える街からもう一度森へと視線を戻す。
空が赤かった。
手が届きそうなほど低い空だった。
剣を振るうと切り裂ける空だった。
切り裂いた空から見えたのは月夜の空。
しかし、それは一瞬でまた赤い模様のついたタペストリーのような空へ戻る。
パンクはそれが何か認識すると、決して低くは無い外壁から飛び降りる。
頭上で可聴域ギリギリの高い音が鳴る気がした。
その日空を覆い、その後永きに渡って港に、そして王国に壊滅的な被害を与え続けたもの――それは蛾であった。
※※※
ビャーナナ侯爵は周到であった。
バロックが考えていたように、まともな戦いになればアナポーとその連合軍を相手にするのは分が悪い事を知っていた。
そのため、自らの同盟領にも計画に参加してもらい、アナポーを輸入超過状態にした。そうすれば、余った食料品は腐りだす。そこにはウジがわき、ハエが集る。
十分に餌を撒いた所で、今度は森を燻す。焼き払うような大げさな事はしなくていい。そこまでするとやりすぎで、事態が急転しすぎてしまう。
森からは燻された昆虫類が出てくるだろう。中でも蜘蛛はハエを餌にしている。
混乱した人間が昆虫に火をつけることは容易に予想できる。
そして、仕上げは闇夜に炎で蛾というわけだ。
港に放火するよりも、害虫での被害は根が深い。あらゆるところに卵を産み、被害を二次、三次へと拡大させる。
衛生面での悪化はこの中継貿易国に致命的なダメージであった。
では、政治を担う貴族はどうしたのか。
アナポー王は害虫駆除のため、港一帯を焼き払おうとした。ここで一時の損失を受けようと、また再建すれば海上貿易の要地であるこの地ならばやり直せると考えたのだ。しかし、害虫の被害は港だけに留まらなかった。港を焼き払ったところで、別の地区からまたわいて出る事が考えられる。当然、街全体を焼くわけにもいかず、そのうちに港の利権に絡む貴族からの圧力も大きくなり、結局のところこの件に関しては何もしないという無策に陥る。
さらに、貿易国からの信頼を失ったアナポーに、ビャーナナが宣戦を布告してきた。
これには不利な戦いであろうと、アナポーに受けて立つ以外の選択肢はなく、国民の不満を外に向けさせるためにも利用された。
かくして、アナポー王国は終焉への歩みを始めた。