余章 昔ながら子どもながらあいつだから
(やじり知ってるか? “あるみにうむ”ってすげえんだぜーー)
あの日、あいつが言った言葉。
昔からいろいろなことを覚えさせられてきたから、私は大抵のことはほぼ完全なままの記憶で覚えている。その中でも割と頻繁に耳に蘇るあいつの他愛のない声。
私はきっとこの時のことを忘れない。
忘れようとしても、私の中のなにか大事なものが、それを忘れ去ることを決して許さないだろう。
だから私は自分を戒めるように、この言葉が蘇るたびに後悔と悔しさを咬み殺す。・・・この指輪と一緒に。
白羽家の敷地は清水市の邸宅の中では一番大きく、一番古くて立派だった。その起源を平安時代にまで遡ることのできる、由緒正しい家柄にして、日本魔法界屈指の名門。
そんな家庭に生まれてしまった者の宿命として、私は物心つく前から英才教育を施された。
文字の読み書きをはじめとして、外国語、魔法の基礎から応用、考えうる限りの魔法の知識、言の葉の真理や真言の理、言霊の扱い方についてだ。
母は身体の弱い人だったと聞いた。
私を産んでしばらくして、息を引き取ったと。
父は産まれた私が女児だったということもあって、後妻をもらうことを親族には強く勧められたらしいが、もとが一途な父はその悲しみから抜け出すことができず、後妻をとることをかたく拒んだ。
父は白羽一族本家の直系だったために、それは後々親族から後ろ指差されることになる失言となったためか、その分父は私に愛情と、同じだけの厳しさを注ぎ込んで育てることになった。
自分の娘は例え男の子ではなくとも、白羽家を継ぐに相応しく、また才能ある自分と今は亡き妻の娘なのだと、周囲や自分に、言い聞かせるみたいに。
そういう経緯で育つことになった私は、父の体裁を守るために、自分の立場を守るために、大変な努力をしてきた。いや、一番の理由としては、父に褒めて欲しかったのかもしれない。普段から厳しくて必要のない会話には耳も傾けない父に、少しでいいから自分を、まだ幼く甘えたい年頃の娘を、ちゃんと見て欲しかったんだと思う。
自分の無念を晴らさせる、道具としてではなく。
けれどそんなことを口にはできないままに、私たちの時間は過ぎていってしまって、見かねた乳母に勧められた私は逃げるように、幼稚園に入った。
そんな心の荒みかけたころだったわ。あの馬鹿に出会ったのは。
まだ魔法族との契約ができる年齢に達していなかった私は、使うこともできない魔法には半信半疑だったし、そのための魔法の勉強も別に楽しくなんかなかった。ただお父さんがやらないと怒るから、恐々やっていたくらいだった。
幼稚園という逃げ場所をつくっても、状況は思ったより良くはならなかった。
勉強の時間が減った分、帰ってからはより一層厳しくなったお勉強が待ち構えていた。
幼稚園にいる間だって、何も考えず遊んでいたら帰った時の尋常じゃない進み方をするスパルタ教育に追いつけないから、乳母がこっそり作ってくれたブックカバーでカムフラージュした魔法書を持っていって、ずっとそれを読んでいなければいけなかった。
子どもという生き物は可愛いようでいて、幼稚園にくらいの年齢に差し掛かると、芽生え始めた新しい感情や、家族やテレビか何かからの影響を受けはじめる。
それ故に私のような友達の輪に加わらない子がいると、周りの子たちは次第に私と友達になろうとしたり、遊びの輪に入れようとすることをしなくなっていった。
でも、それはまだいい方だった。
ごく一部の男の子たちなどは、私を取り囲んでからかい始めるようになった。
それでも私が無視していると、肩を小突いたり、おもちゃをぶつけたり、椅子を揺らしたりした。
私はそれが嫌でたまらなかった。どうしてそんなことをするの、と大声を出したこともあったが、男の子たちはその反応が嬉しかったようで、「だっておまえ、きもちわりいんだもん。ぶす」ともっと大きな声でまくし立てた。
私は悔しいとかそういう気持ちを通り越して、呆れ返ってしまった。男という生き物は、こんなにも低俗で醜く、意地の悪い生き物なのか、と子供心に驚いた記憶がある。
だからもう無視を貫くことにして、私は本に目を落として一ミリも上げてやるもんかと決意した
男の子たちはそれを見て、困ってしまったみたいだった。
ほんとうはそこで私が泣くか、先生に言いつけるかしてくれたら、男の子たちとしてもやりがいがあったのだろう。今になって思うことだが、あの子達はあの時少なからず私に興味があったのかもしれない。好きな子にはイタズラをしたくなる、そんな年頃のことだったから。
でも当時の私はその子達が邪悪で、ひどいことを言う、私の邪魔にしかならない存在だと決めつけていた。だからその子達がどんなに必死でアピールをしていても、私にはそれが分からなかった。
そのうちに我慢ができなくなったのか、私を囲んでいた子達の中で一番体の大きい、ガキ大将と思われる子が私の手から魔法書をひったくった。
私はびっくりして顔を上げた。その魔法書は今ちょうど勉強しているところで、とられては困ってしまうものだったからだ。しかしその様子を見た男の子たちはいいものを見つけたというように、本を持った手を上に伸ばして、私にとらせなくした。
「なんだよ、こんなわけわかんないほん、よみやがって。」
「だからおまえ、きもちわりいんだよ」
「かえして、かえして!」
私がぴょんぴょんと跳ねてとり返そうとしても、男の子は体がおおきかったから届きっこなかった。
むしろ男の子はちょっかいをだしたかった私が飛びついてくるのが嬉しくてたまらないみたいで、鼻息を荒くして更に背筋を伸ばす始末だった。
私は嫌気と嫌悪と悔しいのとで、泣きじゃくりながら男の子を叩いた。もともと貧弱な方だったから、男の子は痛くも痒くもなさそうだった。でも、いざ泣かしてしまうとばつがわるくなったのか、ちらちらと互いに目を見合わせて困った顔をしていた。
もうそろそろ返してやろうかな、と思っていたのに、引っ込みがつかなくなってしまった、というような感じだったのかもしれない。
わあわあ泣きながら男の子を叩きまくっている私を、男の子たちはなんだか困ってしまった顔で見ていた。
そんなところに、あいつはやってきたのだった。
「ふきとばせ、ヒヒゾルア」
ぱちん、と手を叩く音がしたのと同時に、幼い声が遊戯室に響いた。それとほぼ同時に、真っ黒い巨大な影が私の前に立っていた意地悪な男の子を殴り飛ばした。
ガシャアン、ものすごい早さで窓ガラスを叩き割って男の子は吹き飛んで行き、体ごとテラスにその勢いのまま放り出されて、カーテンの向こうへ姿を消していった。
私や他の男の子たちは、今目の前で何が起こったのか一瞬では理解できなかった。しかし、次第に現状を理解してしまうと、自分のすぐ脇にいる生臭い息をしている巨大な黒い影が恐ろしくなって、身動きがとれなくなってしまった。
ぺたり、と背後で足音がした。
先ほどの声の主だろうか、軽く小さいはずの足音なのに、その一歩は黒い影と同じ禍々しい重量感を感じさせた。周りの子達もそれを感じたのか、一ミリも動けず、まるで金縛りにあったようにそこに棒立ちになっていた。
ぺたぺたとその足音はそのままこちらに近づいてきて、ぺたり、と私の前で止まった。しかしその恐怖が染み付いてしまっていて、顔をみることはできなかった。
しゃがむような衣擦れの音、かさりと本を手にとった音。
私は声には出さないまま、あ、と思った。また私の本を狙っているの。こんな恐ろしい者までが、どうして・・・・。
私の肩に手がおかれるまでは、完全にその者を恐ろしい敵だと私は信じて疑わなかった。
でも、ぽんと私の肩に置かれた手は暖かく、声もあどけのない可愛らしいものだったから、一瞬私は違う人の声だと思ったの。
「ねえ、これきみのでしょ?」
でもそれはあの子の声だったわ。
あいつの声。あの人の声。間の抜けた可愛らしい、馬鹿っぽい声。
私はそのあまりの覇気のなさに、思わず顔をあげてしまった。そして見たわ。あいつの顔を。あいつの眼を。
それは整ってはいるけれどまだ未成長で、美しいわけではないけど均整のとれた顔立ちだった。あどけない頬は丸く微かに朱がさしていたし、くしゃくしゃの髪は触ったら指に絡んでしまいそうなほど乱雑にはねていた。
私は言葉もなくその子を見ていた。
その子の異様さを見ていたのね。
それはどこから見ても未だ幼さの抜けない、小さな男の子の姿だった。しかしその足元には、先ほどの恐ろしく俊敏で気味の悪い、黒い生き物がくっついていた。ーー小さくなって。
「きみ、ぼくとおんなじなんだね」
あはっと言って笑いかけるその顔はまるで天使のようで、私は一瞬恐ろしさや恐怖を感じていたのを忘れてしまった。その子が差し出した、ピンク色のタオル地のカバーのかかった魔法書をはっとして受け取ると、男の子は空いた手で私の頬に手をあてがった。そして、流れていた涙の跡を、丸みのある指で優しく拭った。
「いじめられちゃったんだね。もう、だいじょうぶだからね」
よしよし、と頭まで撫でられて、私はつい涙腺がまた緩みそうになった。何でなのか分からない。でもこの子は私を疎外しない、と心のどこかで感じとったのかもしれない。
「うん」とだけ、私はその子に言った。
その子も「うんうん」と言って、また私を撫でた。
ああ、この子は私に近しいものだ、と私はぼんやりと感じた。
その柔らかい表情も、引き連れる恐ろしい生き物も、温和なにおいも、わたしにはないものだ。わたしには根本的にないもの、そして前者は私が幼くしてなくしてしまったもの。
でも、何もかも違うこの子は、私にないものを持っていて、それでいて私と同じものだ、と直感から感じた。そして、この子は私に与えてくれる人だ、と思った。私の闇を壊し、光を与えてくれる人だ。
「“ヘブライ語呪禁新書・明かされた古代呪術の方法と実践”。こないだでたばっかりの、できたてほやほやのまほうしょだね。ぼくもそれよんだよ。けっこうおもしろかった」
その子はカバーがかかっているはずの魔法書の中身を、一語一句間違えず言い当てた。私はそれを聞いてびっくりした。この本は一般では売られていないものだったから。
魔法界のものは、非魔法界に見つかってはいけない。だから、魔法書を手に入れるためには、まず魔法使いであることが大前提なの。
私は水晶玉のヴィジョン・ネットワークを使って、魔法の通信販売(賢者の泉)から取り寄せたけど、それだって乳母にやってもらわなければできなかった。
だから、この子が知っているはずがない本なのよ。これは。
でもこの子はこれを知っていて、もう読んだと言ってる。理解もできてるみたいだし、なにより見たこともない生き物がくっついてる。
ということは、もしかして・・・。
「あなた・・・魔法使いの家の子・・・?」
私はまさか、と思ったけれど、それしか思いつかなかった。それに、男の子はきょとんとした顔をしたけれど、その様子ですぐに分かった。そうなのね。きっとそうなんだわ。
だって、違和感を示さないもの。
案の定、男の子は一呼吸おいてからこくんと頷いた。
「? うん。そうだよ。きみもなんでしょ? ぼくたちおんなじかんじがするもん」
当たり前じゃないの、と首をかしげるような調子で、男の子はあっけらかんと言った。
私は何とも言えない感覚が胸を覆って行くのを感じた。
今までは、家でも、外でも、一人ぼっちだったから。
家では厳しいお父さんに、憎まれているのかと思うくらいしごかれるし、幼稚園に来てもやることは結局一緒だった。友達はできなかったし、つくり方も分からなかった。
だって、私は魔法使いの家の子。
決して言えない秘密があるし、それを言わずに付き合う方法など分からなかった。そんな上辺だけの付き合いなんて、私は嫌だったし実のところうまくいった試しがなかった。
だけど今、この子は現れた。
この子は違う。この子は分かってくれるかもしれない。
私を、私という人間を、私の苦しみを、私の心をーー。
私の友達に、この子はなってくれるかもしれない!
私は急に胸が高鳴ってくるのを感じた。この子は何者なんだろう。
どこから来たの?
なんでここにいるの?
ここの幼稚園の制服を着ているから、ここの子なのは間違いない。知りたかった。この子のことが。この子にも私のことを知って欲しいと思った。
「ぁの・・・あなたの名前は?」
私はどきどきしながら、しかし慎重な心持ちで聞いた。初対面なのだし、こういうところではきちんとしたい性分なのだったから。
「ぼく? ぼくはひずむ。 まがつき ひずむ。ひよこぐみ。きみは、はとぐみのなふだだね。おねえさんなんだ。きみのなまえは?」
「ぁン・・・私は・・やじり・・しらは やじり」
「やじりちゃんかあ。あんまりきかないけどいいなまえだね。ねえ、やじりってよんでいい?」
きらきらとした顔で男の子、改め、歪はニコニコした。友達を作るのには不自由しなさそうな、人懐こそうな笑顔だけど、それが自分に向けられたのは私にとっては初めてで、妙にドギマギしてしまう。
「い、いいよ。ひ・・ひず・・・まがつきくん」
名前を呼び合うのも家族や乳母以外でははじめてだし、しかもまさかの呼び捨て。
私は嬉しいような、恥ずかしいような、ふにゃふにゃした気持ちになってしまった。それなら私も下の名前で呼び合いたいのだけれど、理性が変に働いて失敗してしまった。
なにやってるのよ、わたし。
自分をポカポカ叩きたい衝動に駆られている私を横目に、男の子はふいに横を向いた。
あ、と思って私もそちらを向く。
そこには先ほどまで私をいじめていた男の子の子分二人が、へなりと座り込んで恐ろしげにことらを見ていた。吹き飛ばされていった男の子が戻ってくる気配はないし、曲月くんの足元でちんまりしていた黒い生き物は、曲月くんの表情がどこか残忍な笑みを浮かべた瞬間、めきめきと音を立てて再び大きくなった。
それは黒くて毛の生えた、手の長い猿のような生き物だった。でも異様なほど長い手は筋肉質で、それを覆う黒光りする毛並みは一本一本が針のように鋭く尖っている。
目に光はなく、怒りか狂気か、なにか激情に駆られたように歪む顔つきは醜くおぞましい。
悪魔だ、と私は思った。
ひよこ組ということは私より一歳年下のはずなのに、どうして悪魔を従えているのかは分からない。それどころか、魔力を供給するために魔法族とは契約し、契約時以外はその姿を現すことはないと教えられた魔法族を、この子は使役している。
この子は一体何者なんだろう。この歳で悪魔を使役するなんて、可能なの?
でも悪魔は非常に曲月くんに懐いているようだし、曲月くんの表情に陰りはない。もしかしたらこの子は、なにかすごい存在なのかもしれないと私は思った。
「おまえたち」
と、曲月くんはあどけない声とは思えないほどドスの効いた声で言った。
「これからもし、やじりをいじめることがあったら、つぎはおまえたちもぶっとばしてやる。きょうからヒヒゾルアをやじりにつける。やじりにちょっかいをだしたいなら、こころしてかかるんだな。ぼくもそのときはようしゃしないぜ」
幼い顔をいびつに歪め、ニヤリと笑う。男の子たちは恐ろしげにそれを聞いて、一生懸命に首をぶんぶん縦に振って必死に無抵抗を表現している。
「わかったらいけ。とっとときえろ」
ぱっと曲月くんがうっとおしそうに手を降ると、ヒヒゾルアと呼ばれた悪魔が身の毛のよだつような雄叫びをあげて、男の子たちに迫った。
男の子たちは狂わんばかりに悲鳴をあげて、泣きながらテラスの方へ走って逃げて行った。曲月くんはそれを見て面白そうにくっくっと笑って、くるりと私に向き直って笑いかけた。
「これでもう、だいじょうぶだからね。」
しゅうう、と手乗りサイズくらいに縮こまったヒヒゾルアを抱き上げて撫でながら、天使のような笑顔で私に優しく言った。
ドキン、とその時私の胸が高く跳ねた。
かあっと顔が熱くなって、きゅっという音を立ててその笑顔に心を掴まれたような気持ちになった。
鼓動が早くなって、目の前の知り合ったばかりの男の子に視線の全てが吸い込まれるような心持ちになる。慌てて吸い込んで吐き出した息が熱い。
「あ・・・あの・・あ・・」
「ん?」
「あう・・」
私は何か言わなければ、としどろもどろになった。
助けてくれたお礼。本を取り返してくれたお礼。あと、お友達になってください、とも言いたい。それにこの・・・膨れ上がる気持ちを・・・伝えたい気持ちが募る。
でも曲月くんはなにか察してしまったようで、得意げな様子で手をひらひらと振って私の言葉を制した。
「いいよお。おれいなんて。ぼくたちもう、ともだちでしょ」
照れたように可愛らしく笑う。
その言葉は嘘偽りが全くないのが私でも分かって、私ははずむほど嬉しいような、でも何でかちょっぴり悲しいような、複雑な気持ちになって口の中でむにゃむにゃと言葉を飲み込んだ。
(おれいだけじゃなかったのに・・・)
でも「ともだち」と宣言されたことが嬉しくてしょうがなくて、ついつい口もとが緩んできてしまうのを抑えられなかった。二マリとして、ハッとして口をきゅっと結んで、でもまた嬉しくてゆるゆると笑いがこみ上げてしまう。
そうやって表情を忙しく変えている私を尻目に、曲月くんはポケットに手を突っ込んでごそごそとまさぐり始めた。
そしてそのうちになにか目当てのものを探り当てたらしく、ぐいっと握りしめた拳をポケットから引っ張り出した。私はそれまでほっぺたを押さえて、にやけてしまう表情筋のしまりのなさと戦っていたけれど、ほら、と言って曲月くんが広げて見せた手のひらの中のものに目を向けたら、びっくりしてそれどころじゃなくなってしまった。
曲月くんが手のひらいっぱいに持っていたもの。
それは色とりどり、形も種類も様々な指輪だったんだもの。
キラキラと磨きたてなのか眩く光を反射させる指輪の数々。あるものは宝石がはまり、あるものは髑髏をかたどり、あるものはシンプルな作りに何かの紋様を彫り込んである。
それらの一見して立派な指輪を、曲月くんはニッコニコしながら私に差し出したのだった。
「な、なにこれ。こんなにいっぱい、ようちえんにもってきてたの?」
驚ききってしまった私は目をまんまるにして尋ねた。曲月くんはチャラチャラと小気味良い音をさせて指輪を持ったまま、笑顔で首を横に振った。
「ちがうよお。こんなのもってきたらおこられちゃうもん。たったいま、もってきたんだよ」
「もってきた?」
私は文字通り首をひねった。え? だって、今ポッケから出したじゃない。
でも曲月くんは何でもないように頭をぽりぽりとかいた。
「ぼくのポッケは、(ポケットルーム)ってまほうがかかってるの。ぼくのポッケはぼくのおへやとつながっていて、ぼくのおへやにあるものなら、いつでもどこでもとりだすことができるんだ」
えへへー。と得意げに笑って曲月くんは言った。そんな魔法は聞いたことがなかったので、私は不思議に思って眉をひそめた。そういえば、この子は悪魔だって連れてる。どんな魔法使いの家柄なのかしら。特殊なのは間違いないわ。
一変して怪しいものを見る目で見はじめた私には気づかなかったようで、曲月くんはさっきから差し出している指輪の山を私の前で振って見せた。
「ねえー。はやくえらんでよう」
「え? えらぶ? く、くれるの?」
「そうだよお。なのにさっきからぜんぜんえらんでくれないんだもん。いらないのかとおもっちゃったよ」
「な、なんで? どうしてわたしにくれるの? しかも、ゆ、ゆびわなんて」
私は驚いてまたほっぺがかっかしてくるのを感じた。指輪をもらうシチュエーションなんて、夢見たことはあってもまさかこんなに早くやってくるなんて思わないじゃない。だってしかも、気持ちがこんなに揺さぶられてしまってる、この子からもらうだなんて。
あまりの急展開に、わたしは軽いめまいを覚えてしまった。
でも目の前の純真無垢な男の子は、残念ながら私の甘い幻想なんて全く気づきもしないできょとんとしている。しかも口を開いたと思ったら、とんでもないことをいいだしたりしたんだから。
「なんでって、ヒヒゾルアをきみにあげるからだよ」
「・・・・・・・っえ?」
聞き間違いかと思った。
「だから、ヒヒゾルアをきみにあげるためだってば」
「は・・・はい?」
聞き間違いじゃなかったッ。
「ひ、ヒヒゾルアって・・・このあくまのこと・・!?」
「うん。そうだよお」
わたしはギョッとして曲月くんの足元でゴロゴロとノドを鳴らしている(またいつの間にか小さくなってる)悪魔に目を向けた。
しかし小さくなると、不思議と先ほどの殺意にも似た威圧感が感じられなくなっていて、あれっと私は拍子抜けしてしまった。
真っ黒な目はくりくりしているし、小さな体は手のひらに乗ってしまいそうなほどだ。ちっちゃな親指をしゃぶりながら、少し長めの尻尾をふりふりしているその様子を見ていると、なんだかあの忌まわしい生き物なのだとはにわかには信じられない。率直に言えば、赤ちゃんのテナガザルか何かにしか見えないくらいだった。
「か、かわいい・・・」
ぽろりと本音が漏れてしまう。だって今の見た目はちっちゃくて可愛いんだもの。
「でしょー。こいつあくまのなかではだいたい、したからかぞえたほうがはやいくらいのやつなんだけど、でもかわいいでしょ。じったいかできるのも、こっちのせかいだとれんぞくいちじかんがげんかいっていう、しょぼいやつなんだけど、ようじんぼうにはちょうどいいよ。あと、“あくうかん・かんしょう”っていうまほうがつかえるから、こいつのおかげで(ポケットルーム)がつかえるの。けっこうこれもべんり」
にこにこする曲月くんの笑顔をみて、はっと取り返しのつかないことを言ったことに気づく。慌てて弁解しようとしたけど、その純真なキラキラ光線を浴びたらなんだか言葉に詰まってしまった。うう、なんだかこの笑顔を見るとどきどきしてうまくしゃべれなくなるよ。なんでだろう。
「ぼくはちょっとへんなたいしつにうまれてるから、あくまがよってくるんだ。でもよってきたあくまたちはぼくのことがだいすきだから、ぼくのいうことはぜったいにまもるよ。ヒヒゾルアとはきょねんくらいからのつきあいだけど、しんぱいはいらないよ。こいつにんげんじゃなくてバナナがこうぶつだから」
ねー。とヒヒゾルアと呼ばれた悪魔に向かって曲月くんがしゃべりかけると、くりくりした目を輝かせて子ザルは甲高い声で応えた。
「うむっ。ニンゲンなんて別にうまくもないっ。魂は汚れてりゃ不味いし、汚れてなかったら我輩には毒だっ。よってバナナに勝るものはないのだっ」
妙なしゃべり方をする悪魔だが、くりくりの目でそう言われるとやはり有害には見えない。
それでも私はまだむにゃむにゃ言い訳を探していたが、曲月くんは話は決まりだ、と言うように手に持った指輪の中からしばらく何個か選びとって、そのうちに何か頷いてその中のひとつを取り、残りをまたポケットに突っ込んでしまった。
そしてまだ煮え切らないままの私の手をとって、持っていた指輪を右手の中指にそっとはめた。
「ーーーーッ」
私は突然のことにぼっと真っ赤になった。
なななな、なにをしているの?
汗がぶわっと噴き出し、唐突な出来事にばっと身を引こうと筋肉が硬直する。でも・・何故かその手を振りほどきたくない。指を滑っていく金属の感触が、心地よくも淫らな冷たさを伝えて、言葉にしたいことが出てこない。
曲月くんが私の指にはめたのは、わりと太めで銀の光沢を放つ外周に蔦のような模様の刻印が施された、赤い宝石がはめ込まれた指輪だった。 粗いつくりで、形もどこかいびつだ。なのに私の指にはぴったりと隙間なくおさまった。
「うん、やじりにはこれがにあうとおもったんだ」
「え、いや、ああああのあのあの、その」
私は少し混乱してきていたせいか、もしくはこの子のせいで心が乱されっぱなしになっているからか、すぐに指輪をとることができなかった。そんな中、泡を食っている私の手を握っていた曲月くんは少し真面目な顔つきになって、あのね、と握る手にこめる力を少しだけ強めた。
「ぼくたちまほうつかいは、まほうつかいじゃないひとたちからしたらきけんなんだ。いじめられるし、ばあいによってはころされちゃう。ぼくのいとこは、きょうかいの“ごくひぶもん”にころされた。だからぼくはみをまもるためにあくまをつれてる。ぼくはしにたくないもん。それに、やじりにもしなれたくない。ぼく、まほうつかいのなかまにあったのはじめてだよ。やじりのこと、もっとしりたい。もっといっしょにいたい。だから、しんらいのおけるしもべをあずける。きっとやじりをまもってくれる。ぼくがまもってあげられないときだってあるから、そのときのために。ね、おねがいだよ、やじり。どうかうけとって」
あどけない顔は真摯な願いを私に訴えかけるとともに、その底で言葉の通り私の身を案じる不安が見て取れた。
私は浮き足立っていた気持ちを落ち着けて、その深い色の瞳をじっと見つめてみる。失った従兄弟への悲しみも、迫害されることへの恐怖も、そしてそれをもたらす見えない敵へ立ち向かおうとする強い意思も、そこには淀まずにめらめらと燃えている。
ああ、この子は私を守ろうとしてくれているんだ。
不意に心が暖かくなる。この荒み切った環境の中で、私は居場所もなく支えのないままに、押し潰されそうになってた。さっきのようないじめにも、きっとこれからもあうのだろう。でも、その薄暗い未来から、この子は私を守ろうとしてくれてる。それが嬉しかった。
「ほんとに・・・もらっていいの?」
私は悪魔への恐怖とか、指輪への心の高鳴りとかを全部一旦置いて、静かに尋ねた。このあどけなく、敵意のない、心からの好意を、私は本当に受け取っていいの。
それだけは聞いておきたかった。
答えは分かってる。この子が何て言うかは、私ちゃんと分かってるつもり。でも、聞きたいの。この子の口から。
私は一呼吸だけ待ったわ。
その子の目をじっと見つめて。
そしてすぐにその子は答えた。
こぼれるような笑顔で。
「もちろん。だいじなともだちだもん。これからもよろしくね」
私は涙が溢れそうになった。だって、見つけてしまったから。私の大切なもの。心のよりどころにできる人を。
でもそれを言葉にはしなかった。いずれ必ずする。でも、今日は友達でいたい。初めての友達ができた、今日くらいは。
曲月くんがゆっくりと頷いて、私の手を両手で包む。話を聞いていたからか、それともすべきことは分かっているのか、ちっちゃくなったヒヒゾルアは曲月の体をするすると登ってきて、触れ合った私たちの手の上まで来た。
それを確認して、曲月くんは私の目をちらりと見た。“準備はいい?”と言っている目だった。私はそれに目をゆっくりと伏せて返した。“いつでもいいよ”と。
それを見て彼は満足そうにヒヒゾルアに目を移すと、大仰な口ぶりで言葉を放ちはじめた。次第に抑揚をつけるその声に従って、私の指にはまった指輪の紅い宝石が燃えるように輝きはじめる。
「我と血の盟約を結びし魔の眷属よ。我ここに汝に命ず。我が友やじりを護らんと誓え。いついかなる呪いからも、刃からも、邪なる視線からもやじりを護りぬかんと誓え。その身にかえて。その名に誓って。さすれば我は汝に与えよう。一年のうち一度、汝が欲するであろう我の生き血を、盃に一杯必ずや汝に与えよう。」
私はびくりとした。血を・・・与える?
でもそれは、私のために・・・。
私を守らせるために曲月くんが契約の改定に生じる代償を聞いて、私は青くなった。今更やめられない。ここまでしてくれている想いを、踏みにじりたくなかった。
本当は、できるなら私の血を差し出したかったけれど。
その強い言葉に促されるようにして、むくむくとまた大きくなったヒヒゾルアは膝をつき、首を垂れ、服従の意を示した。
「仰せのままに。我が主」
ヒヒゾルアがうやうやしく言葉を返すと、私の指にはまった指輪の赤い光が爆発した。音はないが、紅い光が洪水のように遊戯室を包む。その光は壁に当たると屈折して跳ね返り、全方向からヒヒゾルアに集まっていった。
丸い光の繭に包まれたヒヒゾルアは、圧縮されるように小さくしぼんでいき、指輪にはまっていた宝石と同じくらいの大きさまで縮んだ。そしてそのままふわりと浮き上がると、私の前までゆっくりと漂ってきた。
指輪の宝石の真上まできたヒヒゾルアは、小さく私にだけ聞こえる声で一言小さく囁き、ひゅっと宝石に吸い込まれた。ぼうっと一瞬乱反射した宝石の光は、そのまま次第に消えていってしまった。
「同じ人間を愛する者よ。その心はよく分かる。譲るつもりはないが、我輩とは目的が異なるからな。せいぜい頑張るといい」
甲高い、どこか面白がっているような、でも優しい声だった。
今度は私は赤くならなかった。
その言葉を受け止め、心の中に大切にしまった。ありがとう、とも言いたかったが、あえて言わないことにする。どうせこれからずっと一緒になる悪魔なんだから。言わなくてもきっと分かってる。
曲月くんはふうっと疲れたような息を吐いて、私の手をそっと離した。手が離れる瞬間、もの寂しいような気持ちになった。でも私は気持ちを取り直して考え直す。ううん。そのうちまたつながせてやるもん。だから大丈夫だもん。
自信たっぷりに、私はにっこりする。灰色だった世界が、急に鮮やかに見えるわ。不思議。たった一人、好きな人ができただけなのに。
曲月くんは光が完全に消えたのを確認してから、どうだとばかりに私に話しかけた。自慢気な、少し疲れを含んだ、愛おしい声で。
「はは。これでおしまい。いやー。つかれた」
ふうふうと息を荒くするその様子がなんだかおかしくて、くすくすと私は笑った。指を見ると、いささか大ぶりな指輪が鈍く光り、どっしりした重みが心弾ませる。
そういえば、悪魔を封印するだけの器であるこの指輪は、一体どれだけの希少金属なのだろう。見た目には雑なつくりで、そんなに高価なものには見えないけど。
じろじろとあらゆる角度から眺めてみるが、見れば見るほどそんなに大したものには見えない。はまった宝石は結構大きめだけど、それだってあんまり綺麗な方でもないしはめこみ方も粗雑だ。
「ねえ、ま・・まがつきくん。このゆびわってたかいもの?」
私は思い切って質問してみる。
高いものなのだとしたら大切に扱わなくてはいけないし、実は安価なものなのだとしたら、悪魔を封じ込めるにはそんなに高価な容れ物を用意する必要はないということになる。
興味本位ではあったが、知識欲の高いやじりにとってはかなり聞いておきたいことだった。
でもすぐに後悔したんだけど。ああ、聞かなきゃよかった。
「ああ。それ、“あるみにうむ”でできてるやすものだよ。」
ガーン、と音が響き渡るくらい、私はショックをうけた。
あ、アルミ・・安物・・。
私のときめきって一体・・・。
あからさまに落胆する私だったが、曲月くんはそんなことお構いなしにずいっと身を乗り出した。どうやら、この話がしたくてたまらなかったみたいに。
「なあ、やじりしってるか? “あるみにうむ”ってすげえんだぜ。ねつにもでんきにも、ここまでりそうてきなでんどうりつをもってるきんぞくはすくないんだって。と、いうことは、もしかしてまりょくのでんたつりょくもおなじく、たかいんじゃないかとおもって、ぼくがためしてみてみつけたんだ」
新しく買ったオモチャをじまんするみたいに、きらきらした目で曲月くんは説明した。その様子からは何の説得力もなかったけれど、私は少し考え込んでしまった。
(そんな話は教わったことないわ。まだ習ってないだけ?それとも曲月くんが見つけた、本当にまだ知られてない未知の情報なのかしら?)
うーんと頭を働かせるが、知らないことは分かりようがない。
少なくとも私にくれた指輪が、アルミ製の別になんてことはない安物だったってことくらいしか、分からないわけよね。
どことなく泣きたい気持ちになるが、まさか本当に泣いたりはしない。例え何でできていようと、好きな人が私にくれた、しかも私を守らせるために悪魔をも閉じ込めた、大切な宝物だもの。そう思って自分を戒めることにする。
「“魔法金属大辞典”にも、“魔法と鉱石の相性及びその利用法”にものってなかった。ぼくのいえのほんはあらかたさがしたけど、そのどこにもそんなことかかれてなかった。でも、ヒヒゾルアにきいたら、すごくいごこちがいいんだって。ぼく、だいはっけんしちゃったのかなあ」
恍惚として語る曲月くんは、まあるいほっぺたを膨らませてすごく嬉しそうだ。私もこんな話ができる相手はずっといなかったから、「うん、そうなのかも」と話に乗る声がピンク色に染まる。
発見の話題からお気に入りの魔法書の話題へと変わっても、私たちは話し疲れるどころか大いにのめり込んだ。夢みたいな時間だった。初めての理解者を得るって、こんなに素敵なことだなんて思いもしなかった。
その日はあっという間に時間が行き過ぎ、幼稚園から帰る時間になったのは、本当にそのすぐ後に感じた。
お迎えに来てくれた乳母を見たとき、私は全力で曲月くんにしがみついて、「帰らない!」と思い切り駄々をこねたらしい。
い、今となってはそんなこと覚えてないんだけどね。
そのうちに泣き出してしまった私を最終的になだめたのは、やはり他ならぬ曲月くんだったというのも後に乳母に聞いた。
「またあしたもあえるよ。またあそぼ」
そういって私の指をちょっとずつはがしたから、私は渋々了承したのだと言う。でも、もちろん、明日も来てね、絶対来てね、絶対だからね、と何重にも念を押して。
それからは私、ずうっと曲月くんにくっついていた気がする。
幼稚園にいる間は片時も離れず、先生にはどっちが年上か分からないわね、と笑われた記憶もある。
小学校も当然同じところへ上がった。
二年生になり、私が七歳になると、私はヒヒゾルアと正式に契約を交わした。ヒヒゾルアは長年一緒にいたからか、契約の代償には本当に些細なものしか要求しなかった。一日一本のバナナ。たったそれだけ。
私の幼い恋もすぐそばで見ていたからか、よく冷やかすけど曲月くんの鈍感さには一緒になって呆れてくれた。私にとっては、よきパートナーであり可愛いペットでもあるようになっていた。
そして、その頃から、私はこれまでになく曲月くんに熱をあげたわ。曲月くんの他に類を見ない異様な特質は、(魔力を持つ生き物に、抗えないほどの魅力を発する)ことだとそれまでに聞いたことはあった。
でも、それはまさに信じられないほどの誘惑を私に与えた。禁断の果実に抗えなかったイヴのように、その魔力は抗えば脳がとろけそうになるくらい私を狂わせそうになった。
その次の年には、曲月くんも私と同じく魔力を得た。
その日を待ちわびていた魔法族が小学校に海のように押し寄せ、校舎は私たちからみたらとんでもない数で埋め尽くされた。曲月くんはその中から慎重に厳選し、一番強力で愛の深いルルゴンドルンを選んだ。そしてその日解禁になったばかりの、身体に浮かび上がる契約の紋様の中にルルゴンドルンを受け入れた。
でも、 曲月くんの肌の中に吸い込まれるように消えて行く悪魔を隣で見ていて、私は嫉妬が煮えたぎるのを抑えきれなかった。こんなのまともな感情じゃない。それは分かってる。でも悔しかったんだもの。見ているだけの私は。
私はそれから猛勉強をしたわ。
このままじゃ釣り合わない気がして、怖かったから。幼くして桁違いの力を持つこの愛しい人は、そのうちに私じゃなくもっと相応しい力の強い女の子を見つけてしまうかもしれない。
そんなのは嫌。考えたくない。
ずっと隣にいるのは、私がいいんだもん。
駄々っ子みたいなのは自分でも分かっていた。だけど、頑張らない理由にはならなかった。私でもこんなにおかしくなりそうなのに、他の魔法使いの女の子が食いつかないはずがない。
それを恐れて、私は修行に励みに励んだ。小学校の最高学年になる頃には、スペルマスターにまで登りつめるくらいに。
覚えた呪文を組み合わせ、強力な魔法を作り出すことができるようになると、私はそれを曲月くんにも、曲月くんに群がる他の女どもにもかけるようにもなった。
もちろん、魔法の見せ合いっこと表面上は言っていたし、他の女の子には怖い目をみせる程度にしておいた。
私のことを見て欲しかったから。他の女の子じゃなく、私を見て欲しかったから。
でも曲月くんはそんなもの難なく打ち壊してしまった。
もちろん、それで死なれては困るんだけど、なんの造作もなく私の気持ちを砕かれるのは、つらく心が裂ける思いだった。
私たちの関係はそうやっていつしかヒビが入っていったわ。
彼は相変わらず私に接してくれるけれど、私はどうしても素直になれなくなっていった。初めて会った日に言いたかった二文字の言葉は、次第にスペルマスターの私さえも口にできない呪文になっていて、それが私の心を余計に縛った。
しかもそれに拍車をかけるように、高校に入った私はついに恐ろしい現実に直面させられることになる。
同級生に魔法使いの、しかも同性がいたのだ。
その子は影は薄いが顔立ちは美人で、慎ましやかな大人な女の子だった。しかも一人称は「ぼく」という、あざとい感じの。
その上同じ部活まで曲月くんを追ってくるし、私が必死に一生懸命牽制しながらも一年彼を守って学年を上げると、今度は超積極的な後輩の女の子が入ってきた。
彼女はなんの疑問も持たず曲月くんに好意を寄せ、曲月くんはあろうことかその子を可愛がり出すようになってしまった。
一方で、こじれてしまった感情をコントロールできず、私は想いを伝えられなくなっている。
これはもう、絶望的なのかと私は思い始めた。もうこの恋は実ることはないのかもしれないと、半ば本気で考えるようになった。
そんな毎日だった・・・・。
でも・・・何故今になってそんなことを思い出すのかしら・・。
そういえば身体が軽い。
重さがないみたい。
古い記憶を懐かしむような趣味はなかったのに。でも、あの頃の記憶は暖かい。最近の私は、曲月くんに会う前に戻ったみたいだったのかな。それは、つらいわけよね。
目をつむったまま、ふわふわした頭で考える。
何だろう。さっきまで怒りで頭が割れそうだったのに、今はそれから解放されたみたい。なにがそんなに嫌だったのだっけ。
ああ、また曲月くんが女の子とデレデレしてたんだわ。
それで、私は・・・。
(大丈夫だぞ)
広く包み込むような優しい声が、不意に頭に響く。
この声は・・誰だろう。知らない人の声。
でも耳障りじゃない。不思議な感じがする。黒いものがぽろぽろ剥がれ落ちて行くような心地。
柔らかい波に揺られているような気分になっていると、私が感じていることが分かっているのか、声はその柔らかな手触りのまま私の中に降ってくるようだった。
(歪がわらわにそなたに巣食った魔を食うように言ったのだ。だからわらわは遠慮なくそなたの闇を食ったが、そなた、相当に思いつめておったのう。まったく、歪も罪な男よ)
くつくつと心底おかしそうに声は笑う。曇りのない声。でも同じものを感じる。わたしと同じ気持ちを。ああ、そう。あなたもなのね。
穏やかな気持ちで共感を感じることが不思議で、でも何故か納得がいった。
あの時と同じ感じがするわ。ヒヒゾルアが契約間際に言ってくれた、優しい言葉と同じ香りがするんだわ。
遠い記憶に残る大切な記憶。それを呼び起こす力がこもっているような、そんな懐かしい声だった。
(そなたには悪いが、そなたの闇はまこと美味であった。もう先ほどのように取り込まれることはあるまいが、そなたにはその方が良かろう。またあの頃のように、歪にくっついてゆけるぞ。夢にまで見ておった、あの幼い日々のようにの)
さらり、と額を大きな手が撫でる。指の細い、しかし大きな手。
幼い日々。あれは夢でも見ていたのかと思いはじめていた。今ではもう遠すぎて、胸の痛くなる黄金の時間。
また戻れるの? 本当に?
あんなことをした私でも・・・?
(さあ、もうじきに目が覚める。そなたが壊したものはもう何もない。他の者も全て忘れておるよ。ただ一人、歪だけは除くが。だがその方がきっと良いであろう? 思い出が増えただけだ。二人だけの思い出、そなたの思いのたけがちゃんとぶつけられた思い出よ)
すっと手が額から離れる。その瞬間、まぶたの向こうから光が差し込んでくる。眩しい。なに。この光は。
あまりの光量に目を覆いたくなるが、腕が持ち上がらない。同時に、その光は思わず目を背けたくさせるくらい、純白な光だった。まるであの頃の記憶みたい。天使のような笑顔の、こぼれるような穢れのなさ。
(闇のないそなたがどうなってゆくのか、わらわは少し興味がある。せいぜい頑張れ。応援はせぬが、その気持ちは分かってやれる。そなたの愛しいものの側から、わらわはそなたを見ておるよ)
光が目の裏で爆発する。
優しい声が耳に残り、まぶたが開きたくてしょうがなくなる。
ああ、はじまるのね。
私は働かない頭で、しかし間違えようもなく確信する。
またはじまるんだわ。あの日々が。
正体の分からない靄がなくなった、晴れ晴れとした気持ちで、私は生まれ変われるかしら。
曲月くんに言えるかしら。あの日言えなかった、たった二文字の言葉を。
言えるといいな。
いいえ、きっと言ってみせる。
魔法なんて使わない。だから、きっと応えてね。
ふふ、と音はなく笑ってから、私はのんびりと目を開いた。
嫉妬もひがみも嫌悪も敵意も、今は何故だか感じない。
久しぶりに、魔法書の貸し合いっこからはじめようかな。
私たち、これからよね。
そうだといいな。
曲月くん・・・ううん。歪。
光がふっつりととぎれるその瞬間、私は十年ぶりに狂おしさから解放されていることに、少しも未練を感じなかった。
ただこれからどうやってこの気持ちを言葉にしようか。
それだけで頭がいっぱいだったから。
続く




