第三話 お断りします
「呼び出したのは他でもない。恋人のフリを頼みたい」
「そのお話はお断りしたはずですが」
社長は視線だけで、倖を押し黙らせた。
「峯島、お前は独身だと聞いたが今、彼氏はいるのか?」
――いきなりスルーですか。
「いませ……、います!」
危うく正直に言ってしまう所だった。彼氏がいる事にするのが、断るには一番早い方法だった。
「そうか、いないのか。加藤課長の情報通りだな」
――課長、私の情報をどこまで流してるのよ……。
がっくりと項垂れた。
「どうして恋人のフリが必要なんですか?」
「俺は正直結婚に興味が無い。何度もそういっているのに近寄ってくる女性が後を絶たない。女に困っているわけではないし、恋人も今は要らないと思っている」
確かに女には困ってはいなさそうだなと倖も思った。
「なるほど。けれど恋人を演じるのなら、秘書の方でも十分なのではないでしょうか?」
「なんだと?」
不機嫌な感情をすごく表に出してくる男だった。
「あんなに綺麗な女性が身近にいらっしゃるなら、あの方々でも十分役割を果たしてくれるのではないかと思いまして……」
社長は深い溜め息を吐いた。
「他の奴らに頼まないのは、そのまま本気になられても困るからだ。秘書のやつらなんて、玉の輿を狙って香水をぷんぷんさせてるんだぞ? あわよくばと考えている奴らにこんなこと頼めるか」
「もしも私が協力して、本気になったらどうするんですか」
倖の言葉に、社長は鼻で笑った。
「お前は、ゲームにしか興味がないと聞いている」
――おっしゃる通りでございます。
倖は脱力した。
そんな情報まで流しているのか、課長は……。
顔を覆わずにはいられなかった。
「それと経営の事を他人に口外しない、秘密を守れるやつでないと困るんだ」
「……ああ、それで口の堅い人を探していたんですね。ではプロの方でも頼んで下さい。では!」
倖には『断る』という選択肢以外は考えられなかった。退出するために扉に体を向ける。
しかし社長の足は長かった。倖はあっさり捕まり、体を反転させられた。
「何ですか」
「お前は分かっていないようだから教えてやろう。これを見ろ」
ばっと目の前にA4の紙を広げて見せる。
それには契約書と書かれていた。つらつらと書かれた文章を、瞳だけを動かして読んでいく。
どこにも、断ったらクビとは書かれていなかった。倖はほっとした。
けれど最後のほうに『完璧に演じることが出来た場合、報酬有。金一封・二百万円也。受け渡し方法…一時金として給与に上乗せ』と書かれていた。
「ほっ、報酬!?」
「これはビジネスだ。悪くない話だろう? さっさとこの書類にサインをしろ」
お金に目が眩んだ。なんて中途半端な金額なんだと思いつつも心が揺れる。マイホームを手に入れるためにはまだまだお金が必要だった。
ポケットから電卓を取り出し、ガチャガチャ鳴らしながら数字をはじき出す。
「はあー……」
倖は首を横に振った。一時金で受け取ると税金が引かれる事に気が付いてしまった。そして恋人のフリを完璧にこなす事自体に無理がある。恋愛なんて学生の頃にしたきりだ。
「この話は無かったことにして下さい」
「この額じゃ不満だというのか!?」
両腕を掴み、社長は諦めない。倖は逃れるために必死にもがいた。
「違います! 一瞬目が眩みましたけど、私には無理です。美しい、つりあう人を探して下さ……痛っ」
顔に社長の肘があたり、倖の大事な眼鏡が飛んだ。お金を切り詰めて買った安物の眼鏡が。厚みのあるレンズの表面は傷が付きやすかった。
「眼鏡が……」
メガネメガネと絨毯に手を這わせる。あった。
持ち上げると特段傷も無ければ壊れてもいなさそうだった。ふかふかした絨毯のお蔭だった。立ち上がりながら眼鏡を掛けようとしたところに、社長に眼鏡を奪われた。
「ちょっと、何するんですか」
社長が驚いた様子で倖を見ていた。
「?」
「驚いたな」
髪の毛のゴムをぴんと取られ、毛を手で梳かすように頭を撫でられた。
ぞわぞわっとした。
「お前これを見て何とも思わないのか?」
鏡の前に立たされ、倖は目を細めた。
「近眼なので良く見えません」
よくみろ! と顔面を掴まれ、鏡の真ん前に押し出された。
「これが何か?」
普段から見慣れている自分の顔を見ても倖は何とも思わなかった。
はあ~、と社長は溜息を漏らす。
「お前に頼みたい。口の堅さも加藤課長のお墨付きだしな」
「いーやーでーす! 面倒な事に巻き込まれるのは嫌なんです」
「逃げる気か、峯島!」
眼鏡を取り返し、社長室を出て扉を閉めた。
ふう、と息を漏らす。
ふと視線を感じた。秘書の面々が倖を見ていた。
――そうか、このだらしない格好のせいか。
眼鏡を掛け、身なりを整えてその場を後にした。