第二話 呼び出し
通常業務に戻り、テンキーで数字を入力していると内線が掛かってきた。
「はい、経理課です」
受話器を肩にはさみ、右手でペンを持とうとした時だった。
『お前は誰だ』
低く、冷たい声で男は言った。倖は開口一番のこの言葉に苛立った。内線でいきなりこんな事を言う人間が社内にいたとは。言葉の語尾に力が入る。
「失礼ですがどちら様でしょうか?」
『谷川だ。お前の名前は?』
「峯島です」
知らない名前だなと思いつつも、名乗ってくれたのでこちらも返事をした。
『……貴様、「断った」な』
はっとした。
首だけを動かし、課長の席に視線を送る。
左手に受話器、右手にハンカチを握りしめたまま、ぐったりとデスクに横たわっていた。まるで戦いに敗れた戦士の様に。
それを見て血の気が引いた。
――ま、まさか。
『今すぐ社長室に来い』
豪快に電話を叩き切る音がした。耳が痛かった。
無視しよう、そう思ったけれど課長の姿を見てしまうと、課長にも更に迷惑が掛かる気がした。
こういう時は直接会って断るべきである。
意を決して立ち上がり、フロアを出た所で倖は立ち止った。
――む、社長室になんて行った事が無い。
フロアに戻り、大股でターゲット先へ向かった。
「課長」
「み、峯島」
課長の体がびくんと跳ねた。たらりと額から流れる汗をハンカチで拭う。
人に話を聞かれると厄介なので、机の両端に手を置き、課長にずいっと近寄った。
課長はハンカチを握りしめ、身構えた。
「社長室はどこですか?」
社長室は最上階だった。
言われたとおりに足を運び、社長室の前に辿り着く。
扉をノックし、声をかけると室内から上品な声で応答があり、扉が開かれる。
「経理部の峯島です。社長にお会いしたいのですが」
「伺っております。どうぞ、お入りください」
扉を開けてくれた女性はとても艶やかで、綺麗な人だった。
他にも目の保養になりそうな美女が数名いた。秘書というものは有能かつ顔で選ばれるのだろうか、などと考えた矢先、倖は自分の服装がなんだか恥ずかしくなった。
秘書室を抜けると奥に社長室の扉が見えた。秘書が優雅な動きでその扉を押し開ける。
「どうぞ」
倖は秘書に会釈をして、社長室に足を踏み入れた。
「失礼します」
倖が部屋に入ると、中にいた秘書は全員席を外した。
「お前が峯島か」
低い声が窓際から聞こえてきた。その瞬間部屋の空気が張り詰めた。声だけで威圧感が凄かった。
昨夜の必死な声とは大違いだった。
課長から、社長の簡単なプロフィールを聞いてきた。社長の名前は谷川友樹三十七歳。エリート大学卒業後、海外の企業で経営学を学んだ後に、親の経営しているこの会社へ入社。数年で社長に、元社長は会長に就任した。
倖は聞いたことはあったが、興味がなかったので記憶から抹消していた。そもそも経営者に関心がなかった。それを課長に言ったら怒られた。
社長はぎしりと黒い革製の椅子を鳴らして立ち上がり、倖を見た。上から下までじっくりと。
「昨日は助かった。礼を言う」
「いいえ、お礼は結構です。……よく、私だと分かりましたね」
「退社時間から絞り出した」
倖は俯いてぽつりと呟いた。
「職権乱用」
「なんだと?」
「いえ何でもありません」
地獄耳め。
倖は社長を改めて観察する。社長は背が高く、体はがっしりしていた。年齢の割に貫録があった。端正な顔立ちで、はたから見れば格好いい部類だろう。だが倖の好みではなかった。
「呼び出したのは他でもない。恋人のフリを頼みたい」
ほらきた。
倖はさっそく戦闘態勢に入った。