第十八話 放っておいて
残業中、倖は目の前で鳴り続ける電話を睨み付けていた。この電話を掛けてきているのが友樹からだと直感した。
恐る恐る受話器を取り、耳に当てる。
「はい、経理課です」
『倖か? 仕事を頼みたいのだがいいか?』
予感が的中し、倖は脱力した。
「今日は無理です」
『なぜだ』
いくら仕事とはいえ、しばらく友樹に会う気分になれなかった。断ってもそう簡単に引く相手だとは思っていなかった。
今日は残業している人間が多く、ここで電話を続けるのは難しいと判断した。断る理由を考える時間も欲しかったので、倖は携帯電話から掛け直す事にして通路へと移動した。
頭の中で理由を復唱しながら発信ボタンを押す。ワンコール目で友樹が出た。
「今日はそっち系の服装じゃないので今度にしてもらいたいんですけど」
『や、格好は気にしなくていい』
嘘よりも正直に話した方が早いかもしれない。倖は携帯電話を左から右に持ち替えた。
「というより、気分が乗らないんです。仕事なのにすみません」
頭を軽く下げた後、終話ボタンを押した。無意識に体の力が抜ける。
――寂しそうな声を出してたな。
断ることが出来て、倖は気が楽になっていた。
出ばなをくじかれ、友樹は愕然とした。今までなら必ず呼び出しに応じてくれていたのが、今回に限ってまさか断られるとは考えもしなかった。
プレゼント作戦を決行するためにわざわざ雰囲気の良さそうなレストランの予約まで取っていた。少しずつでもいいから自分に好意を持ってもらう為に。
手元に置いてあったリングケースを両手で握りしめ、そのまま額に押し当てて唸り続けていた。
☆ ☆ ☆
「寄り道でもしようかな」
口元から吐き出された白い息が、ふわりと消えていく。
それを見届けていると、視界に見慣れた車が飛び込んできた。途端に体温が上昇した。友樹の車に似ている。それだけでいちいち心臓が反応する。
今は関連するものを見たくない。気晴らしに駅方面へと足を向ける。
突然その車からクラクションを鳴らされ、驚いて振り返ると運転席から男が出てきた。その姿を見た瞬間、倖は目を逸らした。
――うわっ、友樹だ。
自然と顔が歪み、胸の奥に不快なものを感じた。
「倖? おい、待て!」
倖は無意識に走り去ろうとしていた。その腕を既に掴まれていた。
「送るから乗れ」
「いいです、送らなくて! 社長がたかが平社員に何しちゃってるんですか。とにかく今日は放っておいて下さい!」
「なんだ、その言いぐさは」
倖は俯いたまま、顔を上げようとしなかった。
様子のおかしい倖に気が付き、友樹は手の力を緩めた。
「具合でも悪いのか?」
「悪いです。とっても」
「それはすまなかった。だったら尚更送る。乗れ! 社長命令だ」
「……嫌です」
――あの女性が乗った助手席になんて乗りたくない。
「一人で帰れますから。社長も仕事で疲れているでしょうからたまには直帰したらどうですか」
「つべこべ言わずに乗れ。顔色が悪いぞ」
助手席のドアを開けられ、押し込められそうになった倖は車の縁に手を掛けて抵抗した。
「乗りたくないんですってば」
「具合が悪いやつを放っておけるか。乗れ。じゃあ後ろのシートで横になっていいから。とにかく送る」
無理やり後部座席に倖を押し込むと友樹は車を走らせた。
「気分が悪くなったらすぐに言え?」
「……はい」
具合なんて悪くないのに。それすら否定するのもどうでも良くなっていた。下手に言葉を発してしまうと何を口走るか自分自身でもわからなかった。
――もう、具合の悪いフリでもしよう。
倖は鞄を抱きかかえて、シートに横になった。
友樹が心配そうに倖に声を掛けた。
「俺のうちで寝るか?」
「……結構です。自宅で安静にしていれば良くなると思いますので」
「わかった」
感じが悪い態度を取っていると自分自身でも思った。友樹と一緒にいるだけで口が勝手に憎まれ口を叩いてしまう。
――最悪。
早く一人きりになりたかった。数分足らずで自宅周辺の風景が窓越しに飛び込み、ようやくアパートの前に到着した。倖は車が停車したのを確認してからゆっくりと体を起こした。
「倖、着いた」
その声と同時に後部座席のドアが開かれた。
「ちょっと!?」
友樹は倖の体を引き起こし、手荷物を取り上げた。友樹は自分のコートを倖に羽織らせて、アパートへ同行しようとしていた。
「自宅は目の前なので、もう大丈夫ですから!」
「家に入るまでは安心できない。辛そうな顔をしておいて何が大丈夫だ」
友樹の瞳が『見届けるまでは帰らない』と言っている。ここで押し問答をするよりはさっさと自宅前まで送ってもらった方が早そうだ。倖は友樹を無視して、歩きはじめる。アパートの部屋の鍵を取り出して玄関の電気を付けた。
「もう大丈夫ですから。有難うございましったぁあ!?」
突然友樹に肩を押されて、足がもつれた。友樹も玄関に入り込んで扉を閉めた。
「なっ、なっ……、え!?」
「さっさと寝間着に着替えろ。台所を借りるぞ」
靴を脱いだ友樹は振り返ることなく、台所を物色した後、何かを作り始めた。
「お、送るだけじゃなかったんですか!?」
「早くしろ!」
剣幕にあおられ、倖は死角となる部屋の隅っこで言われるがまま着替えを済ませ、台所を覗き込む。大きな背中をこちらに向けながら、小さな台所で何かを火にかけていた。
「倖、こっちを見てないで部屋をさっさと暖めておけ。終わったら定位置に座って待ってろ!」
声に驚いた倖は飛び跳ねて、部屋のエアコンをつけて、いつもの定位置にちょこんと座る。
――なんでこんなことになってるの?
首を傾げていると、友樹が皿に何かを入れて運んできた。
「味には自信がないが、これを食べて早く寝ろ」
手渡された皿の中には卵粥が盛られていた。視線を友樹に戻すと、むっとした顔をした。
「なんだよ、その顔。一応料理は出来るっていっただろ」
食を誘う香りが漂う。倖の胃袋が反応し始める。
倖が皿をぼーっと眺めていると友樹がその皿を取り上げ、スプーンを手に持ち、構えた。
「食べさせてもらいたいのか?」
「違います! いただきますっ」
お皿とスプーンを友樹の手から奪い取り、ゆっくりと卵粥を口に運んだ。それはとても美味しかった。具合が悪いわけではないのに、友樹がそう信じているのだと思うと心苦しかった。
友樹は倖の顔を見て微笑んでいる。緩みきった表情に、心が恋の病に冒されそうだった。深い傷を負っていた胸の奥が、みるみる癒されていく。スプーンを口にくわえて、にやける顔をごまかした。
「見られてると食べにくいんですけど」
「ああそうか」
テーブルについていた肘をはずし、もう片方の肘を乗せて違う方向に視線を逸らしてくれた。その隙に倖は卵粥を冷ましながら味わった。
「美味しかったです。ごちそうさまでした」
お礼を言うと友樹は笑顔で応えた。そして立ち上がり、倖のベッドの布団を剥いでみせる。その行動に倖は目をぱちくりさせていた。
「寝ろ」
「……え?」
倖は正座をしたまま友樹の顔を見上げた。
「横になれと言っている!」
ぴょこんとベッドに飛び乗り、横になると友樹は倖に布団を掛けた。
横になった倖を見て安堵の溜息を漏らし、友樹は倖の頭をひと撫でした。愛おしそうに見つめられ、倖の体は熱くなる。
「顔が赤いな、熱があるのかもしれない。沢山寝て、早く元気になれよ。あ、寝かせておいて何なんだが、戸締りだけはしっかりしろよ」
友樹は、そう言葉を残して静かに部屋を出て行った。
戸締りだけでなく、コンタクトレンズも外したいし、化粧を落としてお風呂にも入りたい。けれど布団から出ることが出来なかった。
倖は布団を更に顔まで持ち上げ、撫でられた部分に触れていた。
「何なの、あの行動」
――優しくしないで。
そう思う反面、嬉しさが込み上げる。体は気持ちに正直で、耳と頬を紅潮させた。心は確実に病に冒されていた。
ベッドの横に置いてある友樹が取ってくれたぬいぐるみを手に取り、それを抱きしめた。