第十五話 調子に乗りすぎると嫌われる
しばらくして仕事の依頼があった。倖はどんな顔をして会えばいいのか分からずにいたが、友樹は普段通りの不満げな表情で姿を現し、それを見て安堵した。
いつも通りに会話を楽しみ、そのひとときは終わろうとしていた。
会計を済ませる為に倖と友樹は立ち上がる。突然友樹が倖の耳元に顔を寄せた。
「倖」
「ちょっと、顔が近いっ」
耳に吐息がかかり、むず痒かった。倖はびっくりして肩を押そうと手を掛ける。
「後ろ。取引先の社長たちがこちらを見ている」
倖は友樹の肩越しに、視線を向けている男性陣を見つけ出す。彼らの一人が立ち上がり、こちらへやってくる。
「今晩は。やっぱり谷川社長でしたか」
「ああ、合崎社長。こんばんは。今日はこちらで接待ですか?」
白々しく友樹は返事をしていた。友樹の手は倖の肩を捉えたまま離さない。倖はそれを振りほどきたかったが、フリが開始された合図とも取れ、諦めることにした。友樹の肩から二の腕へと手は滑り落ちた。
社交辞令的な挨拶もそこそこに合崎と呼ばれた男は、親しげに見える倖に視線を向ける。
「そちらの方は?」
「私の未来の妻ですよ」
――妻!?
倖とその男は同時に友樹の顔を見た。友樹は幸せそうに答えていた。
「ああ噂はかねがねお聞きしていましたが、交際されているというのは彼女でしたか」
「初めまして、峯島倖と申します」
友樹を突き放し、倖は条件反射で挨拶をしてしまう。
――失敗した。何してるの私! 名乗る必要なんてないのに。
友樹の言葉に動揺して、まともな行動がとれなくなっていた。倖は頭が上げられなかった。
「あ、申し遅れました」
相手の社長は名刺を差し出し、挨拶を返す。互いに気恥ずかしさを見せて微笑み合う。
倖はボロが出ないように一歩下がり、友樹の陰で大人しくしていた。
二人は当たり障りのない話をした後、立ち話が終わる。
「お幸せに」
最後に合崎社長は倖に向けて言葉を掛けた。倖は微笑み、会釈をする。
合崎社長は二人が店を出るまで頭を何度か下げて見届けた。
「思っていたのと随分違うタイプの女性だったな。だが……、どう見ても谷川社長のほうが彼女にぞっこんだった。あれではうちの娘が入り込む隙間は無いはずだな」
目尻とほうれい線に深いしわを作り、観念したかのように笑みを零した。
友樹はわざと倖の髪を手悪戯で弄びながら店を出た。倖は緊張から解かれ、友樹を押し離す。
「寒っ」
温度差で身震いさせた倖の体を見て、友樹はコートの前を開け、背中を向けていた倖を胸の中に包む。
「何しちゃってるんですか」
「寒いって言ったから」
倖はふりほどくことが出来なかった。友樹の懐が温かくて心地が良かった。
「外ではもうフリはいいんじゃないんですか?」
「念のために、もう少しだけ。倖も、倖の方からも恋人らしく振舞ってくれよ。俺ばっかりだと変だろ」
「んむぅー」
倖は反転させて友樹の体に納まった。見上げると友樹は優しい瞳で倖を見下ろしていた。
心臓が一度だけ強く打ち、くらりと眩暈がした。意識が飛びかけたのでそれを防ぐために力一杯目をつむり、そして目を開ける。
――こ、これは。
倖は目を見開いた。
ゆっくりではあるが友樹の顔が大接近していた。
唇に視線がいってしまい、倖は先日の出来事を思い出してしまった。冷たい空気とは裏腹に途端に耳は熱くなる。
「……顔が近いですってば」
肩に顔を押し付けて、倖は逃げる。が、突然視界が戻された。
「?」
友樹に片手で体を支えられ、もう残りの手で頬を持たれて顔を上向きにさせられていた。友樹は何かに耐えるような表情でさらに顔を近づけ、瞼を閉じていく。
――ちょっと何なに!?
「だめっ!」
フリでもキスをされてはたまったものではない。前回のキスだけでもフラッシュバックが凄すぎて、ただでさえ生活に支障をきたしていた。
倖は咄嗟に友樹の顎を押し上げた。
友樹はその手を掴み取り、倖の口元に唇を押し当てた。柔らかくて温かい感触を味わう。そして倖の体を抱きしめ、顔を緩ませる。
愛おしい、と思った。胸の奥が温かくなる。
寒がっている倖を抱きしめた時、抵抗されなかった。そして突然目を瞑られ、その顔を見た途端無性にキスがしたくなっていた。
「いいだろ、キスの一つや二つ」
「一つや二つじゃありません! これで三つ目なんですからっ!」
倖の表情が見たくなり友樹は顔を覗き込む。そして固まった。倖は涙目だった。
――もの凄い口の形だ。
倖は『への字口』をしていた。唇を僅かに震わせながら。
心臓を掴まれた気分だった。なんて不快そうな顔をしているんだ。
友樹は静かに倖から離れた。
「悪かった。そう怒るな」
友樹はエンジンをかけ、暖房を入れる。助手席に身を預けた倖の頭を撫でるが反応がなかった。
倖は助手席側の窓から外を見ていた。背中は明らかに怒っている。友樹は倖に聞こえない程度の溜め息を漏らし、車を走らせた。
女の方から愛想を尽かされたり、嫌われるのは慣れていた。だが倖にされたこの態度に対し、友樹の心は深く傷ついていた。調子に乗りすぎたか、と少しばかり涙がでそうだった。
空気が息苦しく、心を落ち着かせられそうなBGMを探して掛ける。
無言のまま、倖の自宅前に到着した。
「今日はすまなかったな。お疲れ様」
「……お疲れ様でした」
倖は友樹の顔を見ようともせず、シートベルトを外して静かに降りて行った。
友樹は脱力してシートにもたれた。
鼻声、だった。
――そんなに嫌だったのか。
それもそのはずだ。フリで相手に本気になられては困ると言ったのは自分だろう。その通りにしてくれている相手に、俺は一体何をしているんだ。
嫌われた、と気が付いた途端胸が苦しくなる。
手のひらを見つめ、抱きしめた倖の温もりを思い返していた。