第十二話 どうなっているんだ
最近黒井の様子がおかしい。周りに関心のない倖にも、それだけは理解できる。
「倖」
下の名前で呼ばれてドキッとした。振り向くと黒井が背後に立っていた。
「くーろーいー。名前で呼ぶのやめて」
「サチッ」
私は犬か何かか?と、頭を抱えた。それでも尚、口を開こうとしている姿を見て口を押さえる。
「それ以上喋らないで!」
廊下まで黒井を連れていく。最近良く笑顔で話しかけてくるなとは思っていたが、今回はあからさまにおかしい。
「ねえ、悪いんだけど名前で呼ぶのはやめてくれない?」
「どうして?」
「どうしてって、皆苗字で呼び合ってるでしょ? どうして突然名前で呼ぶのよ」
「んー? 俺がそう呼びたいから」
あどけない表情で倖を見つめていた。
「お願いだから名前で呼ばないでね? わかった?」
そう言い残して、倖はフロアへと戻っていく。倖にくぎを刺されても黒井は微笑むだけだった。
「ふ、照れちゃって」
倖の姿を遠くから見つめていた。
黒井はこんな男だったっけか?
倖は首を傾げつつも、仕事を再開した。
黒井が熱い眼差しで倖を見ている事に気が付いていないのは、経理部の中では倖一人だけだった。
☆ ☆ ☆
ある日、残業を終わらせた倖は腕時計を見ながら、ロビーを足早に駆け抜ける。
「倖」
声のする方向をみると、黒井がロビーで佇んでいた。名前で呼ばないでって言ったのに。
「どうしたの? 帰らないの?」
気が付くと左腕を掴まれ、倖は走り出していた。というより黒井に引っ張られ、ロビーとは逆側の物陰に連れて行かれた。ふと視界が回り、背中を壁に打ち付けられて止まった。正面には腕を伸ばした黒井が立っていた。
「く、ろい?」
顔をあちらこちらへと向かせては何度も溜め息を吐いていた。
「……倖、あのさ」
「何?」
やっとの思いで黒井はその言葉を口にする。
「その、倖は好きな人、いるよね?」
「す、きな人?」
好きな人物と言えば、ゲームキャラである。多数のお気に入りキャラが頭の中で思い描かれる。今のところ好きと言えばあのキャラかな、なんて想像する。途端に顔の筋肉が緩む。
その表情を見た黒井は何かを悟ったかのように話し出す。
「その、自惚れていいのかな」
はっと顔を上げると、黒井の顔が急接近していた。そして腕を折り曲げながら距離を縮め、黒井の体が密着してくる。倖は咄嗟に両腕で胸元をカバーした。
「たっ、たんま!」
黒井の腕を掴んでそれを阻止し、しゃがんでその腕の中から抜けた。倖は後ずさりつつ、手のひらを見せ、来るなと示した。さすがの倖でもこの行動は何となく理解できた。
ゆっくりと首を振りながら倖は言葉を選ぶ。
「黒井、これはちょっと……」
伸ばしていた腕が引っ張られ、倖の体は黒井の胸へすっぽりと収まった。黒井は両手を回して倖の体を抱きしめ、肩に顔を乗せた。倖は胸元に空間を作るために、黒井の胸に腕を挟んだ状態で動けなくなった。耳元に唇を押し付けられ、倖は悪寒が走る。
「最近綺麗になったよね。それってさ、俺の事が好きだからって聞いたけどホント?」
倖はその言葉に度肝を抜かれた。誰だ、そんなデマを流している奴は……。
「違う、違うから。離して?」
「なんで嘘を吐くの? 俺の好みの服装まで聞いたりしてきたよね? ――俺も、倖の事……」
さらに力が篭り、倖は呻き声を上げた。
早くなる鼓動が倖の思考の邪魔をする。パニックになりつつも解かれない腕の中で倖は必死にもがいた。この年になってこんなハプニングがやってこようとは思わなかった。どうにか切り抜けるために必死に頭を回転させる。言葉の続きを聞いてはいけない。脳が危険信号を送り続ける。
突然友樹の顔が脳裏をよぎった。
「い、言ってなかったけど私、彼氏がいるの」
「前に聞いた時はいないって言ってたよね?」
そう言う事だったのか……。
倖は青ざめた。たしかに以前、食堂でそんな話題になった事があった。その話題は黒井が持ちかけたものだった。
「彼氏がいるとか言いだしたのはさ、それを聞いて俺が簡単に諦めがつくほどの想いなのかどうかを試そうとしてるの? 俺、別に軽い気持ちや冗談で言ってるわけじゃ……」
「違うんだってば! ちょっとだけ時間頂戴」
その言葉に黒井は力を抜いた。倖は鞄から携帯電話を探す。僅かに手が震えていて、ボタンがうまく押せなかった。なんとか着信履歴から友樹の電話番号を探し出し、コールする。
――お願い、出て。
携帯電話を握りしめた。コール音が止まり、いつもの憎らしい声が聞こえてきた。
『なんだ』
「と、友樹? 今どこ?」
『……会社だ』
「お願いがあるの。ロビーまで来てくれない? 彼氏でしょ」
『今忙しい』
ブツッと相手から一方的に切られた。倖は携帯電話の通話終了時間を見届け、手が震えだす。
――この薄情者が~!
「!!」
背後から抱きつかれて、動揺した。腕が絡まってほどけない。
「ちょっ……とっ!」
「何、今から彼氏来るの?」
「こ、来れない……」
「それさ、電話するフリしただけじゃないの」
「ちがあう」
耳元で囁くようにして息を吹きかけてくるのはわざとなのだろうか。体をどうにか反転させ、黒井の体を全力で押した。腕が緩んだので慌てて後退するが、携帯を握っている腕が捕まり、再び胸の中へと引き寄せられた。
「勘違いしてるようだけど、私黒井の事は同僚としては好きだけど、そういった恋愛感情とかは無いから!」
「……倖」
「ちょっ、苦しいってば」
ますます腕の力を強めた。大きな胸の中で倖は黒井から『男』を感じて、ただただ恐怖だった。
黒井の真剣な眼差しは「好き」という返事しか待っていないような気がした。
「お願いだから、離して!」
「おい」
――この声は。
背後から声を掛けられ、倖は振り向いた。
息を切らせた友樹がそこに居た。髪が乱れていた。その姿を見て倖はほっとした。ふと力の緩んだ黒井から離れ、友樹の腕に絡みついた。が、友樹の腕はだらんと力が抜けたままだった。彼氏のフリをしてもらうために倖は友樹の手を両手で握るが、またしても反応が無かった。
どうやら友樹は倖の彼女のフリはしてくれないようだった。倖は友樹に期待するのをやめ、一人で演じてその場を立ち去る選択肢を選ぶ。
「彼が来たから、またね」
その場を離れようと友樹の腕を引っ張るが、彼は動こうとしなかった。友樹はずっと黒井を見ていた。
というより睨んでいる?
「倖、こいつは誰だ」
こいつ呼ばわりされた黒井は明らかにムッとしていた。
「お前こそ誰だ」
男同士の対峙する緊張感で、さらに空気が張り詰める。
黒井、社長に対してその口調はやばい。やばい事になってきている。省エネで暗くなっているロビーのせいか、黒井も友樹の正体に気が付いていない様だった。
とにかく二人を引き離した方が良さそうだと判断し、友樹の背中を押した。友樹は押された勢いで少しずつではあるが足が前へと進み始めた。
「黒井、じゃあね」
「待てよ倖、そいつ本当に彼氏なのか?」
「そうよ。今まで黙っててごめんね。社内恋愛なの。お願い、皆に言わないで」
倖が言い終わる頃、友樹の大きな手で肩を引き寄せられた。倖が顔を上げると同時に、友樹は唇を重ねてきた。
「ともっ……」
――私の時は頬にキスの真似事だったのに、いきなり唇!?
倖は混乱していた。
友樹は倖越しに、黒井を睨みつけていた。それは倖のほうから見ることはできなかった。