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ヒーローのいない朝

掲載日:2026/03/09

 朝の通勤電車は、今日も満員だった。


 押し潰されそうな人波の中で、俺はつり革を握りながらぼんやりと広告を眺めていた。


 車内の天井からぶら下がるカラフルなポスター。

 どれもこれも、似たようなものばかりだ。


 新作アニメ。

 新作ライトノベル。

 スマホゲームのコラボイベント。


 そして、そのほとんどが――正義の物語だった。


 勇者が魔王を倒す。

 選ばれし少年が世界を救う。

 神様だか女神様だかからチート能力を貰った主人公が、悪党どもを薙ぎ倒してハーレムを築く。


 広告の中の主人公たちは、みんな同じ顔をしている。


 やたら整った顔。

 やたら綺麗な仲間。

 やたら都合のいい奇跡。


 俺は小さく息を吐いた。


 ――何と、馬鹿馬鹿しい。


 世界なんて、そんな風に出来ていない。


 正義が悪を倒す?

 悪党はみんな悪い顔をしている?


 そんなものは、物語の中だけだ。

 

 万人に好かれる笑顔で、ろくでもない事をする人間なんていくらでもいる。

 正義を掲げる人間が、都合よく誰かを切り捨てる場面を何度も見てきた。

 だからもう、正義という言葉そのものが馬鹿馬鹿しく思える。


 そもそも――。


 悪って何だ?


 山賊。

 魔王。

 世界を滅ぼそうとする狂人。


 物語に出てくる悪役は、いつも分かりやすい。

 理由や事情だって丁寧に説明してくれる。

 

 世界征服、酒池肉林、我田引水。

 

 しかしその言い分によく耳を傾けてみると、筋が通っている物もある。


 かつて人間に狭い魔界へ押し込められた配下の魔族の為に、領土を広げたい。

 世界を汚し食いつぶす人間(害虫)を滅ぼしたい。

 世界の崩壊の危機を、少しでも遅らせたい。



 ただし、その理想を掲げた悪役は、主人公に倒されるためだけに存在している。


 便利だよな、ああいうの。

 悪役がいれば、正義は輝くんだから。



 世界を守るためだとか。

 皆の笑顔のためだとか。

 そんな綺麗で無責任な言葉を並べて、最後には主人公が勝つ。


 多少の犠牲はある。


 仲間が死ぬ。

 街が壊れる。

 大切な誰かを失う。


 でも最後には決まってこうだ。


 『それでも世界を救いたいんだ!』


 そして奇跡が起きる。


 世界は救われる。

 みんな幸せになる。


 めでたしめでたし。


 ……実に素晴らしい。

 実に都合がいい。


 俺は窓の外を流れる灰色の街並みを眺めながら、口の端を少しだけ歪めた。




 子供の頃から、俺はそういう物語があまり好きじゃなかった。


 そら飛ぶパンの物語を見れば、何故か菌類の方が気になった。

 勇者と魔王の物語を読めば、魔族の事情の方を考えてしまう。


 

 正義の味方の耳触りの良い言葉よりも、悪人側の戦う理由が知りたかった。


 ご都合主義で勝つヒーローより、泥臭く努力を積み重ねたヴィランが、夢を語る瞳が好きだった。


 だからだろうか。

 俺はいつの間にか、正義という言葉が嫌いになっていた。



 綺麗すぎるから。

 便利すぎるから。


 そして何よりも――


 都合がよすぎるから。


 



 電車が駅に滑り込む。


 ブレーキのきしむ音とともに、車内の人波がわずかに揺れた。


 ドアが開き、人が入れ替わる。

 そしてまた、押し潰されるような沈黙。


 

 俺はつり革を握り直しながら、ぼそりと呟いた。

 

 「……正義なんて、全部ご都合主義だ」


 もちろん、誰も聞いていない。

 聞いていたとしても、きっと誰も気にしない。


 この世界には、ヒーローなんていない。

 勇者もいない。


 ただ会社へ向かう疲れた顔をした人間と、同じように疲れた顔をした学生。

 疲れた顔をして子守をする母親と、冷たい街だけがある。



 だからこそ、創作の世界ではヒーロー(ご都合主義)を求めるのだろう。





 電車が大きく揺れた。吊り革が一斉に揺れ、車内の人間が波のように傾く。


 ――次の瞬間。甲高い声が車内に響いた。


 「この人、痴漢です!」


 空気が止まった。

 それからすぐに、人の波が動いた。


 「おい!」


 「てめぇ何やってんだ!」


 俺の視界の端で、数人の男が一人の青年を押さえつける。


 スーツ姿の、まだ若い会社員だった。


 「違います!やってません!」


 青年は必死に首を振り、掴みかかる男達へ抵抗する。


 だがもう遅い。

 彼の腕は掴まれ、肩は押さえつけられ、逃げ場を失っていた。


 「言い訳するな」


 「見苦しいぞ」

 

 「次で降りろ」


 目の前で、正義が始まった。

 大義名分付きの、気持ちのいい暴力だ。


 その顔は妙に晴れやかだった。

 やっと役に立てる機会が来た、とでも言いたげに。



 俺は黙ってそれを見ていた。


 電車が揺れた瞬間。

 俺は偶然見ていたんだ。


 青年の両手は吊り革を掴んだままで、揺れた瞬間も必死に圧に耐えていた姿を。


 彼の手は女性の体に触れてなんていない。

 ただ、電車が揺れて慣性により身体が押し付けられただけなのだ。



 でも、俺は何も言わない。


 


 ——面倒だからだ。




 もし口を出せば。

 事情聴取。

 警察。

 証言。

 会社への連絡。


 

 面倒なことが山ほど増える。

 俺には何のメリットもない。ただこの青年の人生が、ほんのちょっぴり救われるだけだ。


 その代わりに俺は会社に遅刻し、上司に激怒されるのがオチだ。

 そんな俺へ冷たい視線を送る同僚の姿もセットで思い浮かぶ。



 つまり、割に合わないのだ。



 周囲を見渡す。


 誰もが、青年を悪人として見ている。

 誰もが、女性を被害者の可哀想なヒロインとして見ている。


 そして青年を取り押さえた男達は、誇らしげなヒーローの顔をして目を輝かせている。

 


 それ以外の誰もが、どうでも良いと温度の無い視線を向けていた。



 誰も真実を確認しようとはしない。


 必要ないのだ。

 須く、どうでも良いのだから。




 電車が駅に滑り込む。


 ドアが開く。


 「駅員呼べ!」


 「逃げんなよ!」


 「降りろコラ!」


 男達に囲まれた青年が、ホームへと引きずり出される。


 「待ってください! 僕はやってません! 誰か助けて!!」


 最後までそう叫んでいた。

 まもなくドアが閉まる。


 電車が再び動き出す。


 さっきまで騒いでいた車内は、嘘のように静かだった。


 誰もその話をしない。

 誰も気にしない。


 ただ、半笑いでスマホを操作している。


 俺はつり革を握ったまま、窓の外を見た。


 そして、小さく笑った。

 

 正義なんて――

 面倒くさいだけだ。


 だからみんな、誰かがやるヒーローの物語が好きなんだろう。



 電車は何事もなかったように走り続けていた。


 ついさっきまで怒号が飛び交っていたとは思えないほど、車内は静かだ。


 誰もその話をしない。

 誰も気にしない。


 ただ、スマホの画面だけがやたらと明るい。

 


 誰もが何かを見ている。

 でも誰も正しい真実を見ていない。


 都合の良い、興味の湧くものだけを食い入るように見つめ、耳の痛い文章やどうでもいいものは、すぐにスワイプして消してしまう。


 

 

 俺はぼんやりとそれを眺めていた。


 さっき青年を押さえつけていた男の一人は、今はスマホゲームを操作している。

 画面をなぞる指先。攻略サイトをなぞる視線。


 彼はきっと、自分がさっき「本物の悪」を倒したと信じている。そして今、画面の中で「偽物の悪」を倒して報酬を得ている。どちらも彼にとっては、朝の退屈を紛らわすための、等価値で気持ちの良いコンテンツに過ぎないのだ。


 画面の中では、鎧を着た勇者が巨大な魔物と戦っていた。

 勇者の必殺技が炸裂する。


 派手な演出と共に魔物へいくつものダメージが入っていく。

 画面の上には大きく文字が表示されていた。


 『正義の一撃』


 思わず、鼻で笑ってしまった。


 なるほど。

 確かに、こういうのは分かりやすい。


 勇者は正しい。

 魔物は悪い。

 

 だから勇者が勝つ。


 誰も悩まなくていい。

 誰も責任を取らなくていい。


 ただ、画面の向こうのヒーローを応援していればいい。


 それだけだ。



 電車が次の駅へ近付き、揺れと減速する音が響く。


 窓の外にホームが見えた。


 ふと、さっきの青年の顔が頭をよぎる。


 彼は必死に叫んでいた。


 「やってません!」「誰か助けて」


 そう言っていた気がする。



 でも……まあ、仕方ないじゃないか。

 誰もヒーローじゃないんだから。


 俺だってそうだ。


 

 電車が止まり、ドアが開く。

 人の流れに押されるようにして、俺はホームへと降りた。


 外の空気は車内よりも冷たかった。




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