ヒーローのいない朝
朝の通勤電車は、今日も満員だった。
押し潰されそうな人波の中で、俺はつり革を握りながらぼんやりと広告を眺めていた。
車内の天井からぶら下がるカラフルなポスター。
どれもこれも、似たようなものばかりだ。
新作アニメ。
新作ライトノベル。
スマホゲームのコラボイベント。
そして、そのほとんどが――正義の物語だった。
勇者が魔王を倒す。
選ばれし少年が世界を救う。
神様だか女神様だかからチート能力を貰った主人公が、悪党どもを薙ぎ倒してハーレムを築く。
広告の中の主人公たちは、みんな同じ顔をしている。
やたら整った顔。
やたら綺麗な仲間。
やたら都合のいい奇跡。
俺は小さく息を吐いた。
――何と、馬鹿馬鹿しい。
世界なんて、そんな風に出来ていない。
正義が悪を倒す?
悪党はみんな悪い顔をしている?
そんなものは、物語の中だけだ。
万人に好かれる笑顔で、ろくでもない事をする人間なんていくらでもいる。
正義を掲げる人間が、都合よく誰かを切り捨てる場面を何度も見てきた。
だからもう、正義という言葉そのものが馬鹿馬鹿しく思える。
そもそも――。
悪って何だ?
山賊。
魔王。
世界を滅ぼそうとする狂人。
物語に出てくる悪役は、いつも分かりやすい。
理由や事情だって丁寧に説明してくれる。
世界征服、酒池肉林、我田引水。
しかしその言い分によく耳を傾けてみると、筋が通っている物もある。
かつて人間に狭い魔界へ押し込められた配下の魔族の為に、領土を広げたい。
世界を汚し食いつぶす人間を滅ぼしたい。
世界の崩壊の危機を、少しでも遅らせたい。
ただし、その理想を掲げた悪役は、主人公に倒されるためだけに存在している。
便利だよな、ああいうの。
悪役がいれば、正義は輝くんだから。
世界を守るためだとか。
皆の笑顔のためだとか。
そんな綺麗で無責任な言葉を並べて、最後には主人公が勝つ。
多少の犠牲はある。
仲間が死ぬ。
街が壊れる。
大切な誰かを失う。
でも最後には決まってこうだ。
『それでも世界を救いたいんだ!』
そして奇跡が起きる。
世界は救われる。
みんな幸せになる。
めでたしめでたし。
……実に素晴らしい。
実に都合がいい。
俺は窓の外を流れる灰色の街並みを眺めながら、口の端を少しだけ歪めた。
子供の頃から、俺はそういう物語があまり好きじゃなかった。
そら飛ぶパンの物語を見れば、何故か菌類の方が気になった。
勇者と魔王の物語を読めば、魔族の事情の方を考えてしまう。
正義の味方の耳触りの良い言葉よりも、悪人側の戦う理由が知りたかった。
ご都合主義で勝つヒーローより、泥臭く努力を積み重ねたヴィランが、夢を語る瞳が好きだった。
だからだろうか。
俺はいつの間にか、正義という言葉が嫌いになっていた。
綺麗すぎるから。
便利すぎるから。
そして何よりも――
都合がよすぎるから。
電車が駅に滑り込む。
ブレーキのきしむ音とともに、車内の人波がわずかに揺れた。
ドアが開き、人が入れ替わる。
そしてまた、押し潰されるような沈黙。
俺はつり革を握り直しながら、ぼそりと呟いた。
「……正義なんて、全部ご都合主義だ」
もちろん、誰も聞いていない。
聞いていたとしても、きっと誰も気にしない。
この世界には、ヒーローなんていない。
勇者もいない。
ただ会社へ向かう疲れた顔をした人間と、同じように疲れた顔をした学生。
疲れた顔をして子守をする母親と、冷たい街だけがある。
だからこそ、創作の世界ではヒーローを求めるのだろう。
電車が大きく揺れた。吊り革が一斉に揺れ、車内の人間が波のように傾く。
――次の瞬間。甲高い声が車内に響いた。
「この人、痴漢です!」
空気が止まった。
それからすぐに、人の波が動いた。
「おい!」
「てめぇ何やってんだ!」
俺の視界の端で、数人の男が一人の青年を押さえつける。
スーツ姿の、まだ若い会社員だった。
「違います!やってません!」
青年は必死に首を振り、掴みかかる男達へ抵抗する。
だがもう遅い。
彼の腕は掴まれ、肩は押さえつけられ、逃げ場を失っていた。
「言い訳するな」
「見苦しいぞ」
「次で降りろ」
目の前で、正義が始まった。
大義名分付きの、気持ちのいい暴力だ。
その顔は妙に晴れやかだった。
やっと役に立てる機会が来た、とでも言いたげに。
俺は黙ってそれを見ていた。
電車が揺れた瞬間。
俺は偶然見ていたんだ。
青年の両手は吊り革を掴んだままで、揺れた瞬間も必死に圧に耐えていた姿を。
彼の手は女性の体に触れてなんていない。
ただ、電車が揺れて慣性により身体が押し付けられただけなのだ。
でも、俺は何も言わない。
——面倒だからだ。
もし口を出せば。
事情聴取。
警察。
証言。
会社への連絡。
面倒なことが山ほど増える。
俺には何のメリットもない。ただこの青年の人生が、ほんのちょっぴり救われるだけだ。
その代わりに俺は会社に遅刻し、上司に激怒されるのがオチだ。
そんな俺へ冷たい視線を送る同僚の姿もセットで思い浮かぶ。
つまり、割に合わないのだ。
周囲を見渡す。
誰もが、青年を悪人として見ている。
誰もが、女性を被害者の可哀想なヒロインとして見ている。
そして青年を取り押さえた男達は、誇らしげなヒーローの顔をして目を輝かせている。
それ以外の誰もが、どうでも良いと温度の無い視線を向けていた。
誰も真実を確認しようとはしない。
必要ないのだ。
須く、どうでも良いのだから。
電車が駅に滑り込む。
ドアが開く。
「駅員呼べ!」
「逃げんなよ!」
「降りろコラ!」
男達に囲まれた青年が、ホームへと引きずり出される。
「待ってください! 僕はやってません! 誰か助けて!!」
最後までそう叫んでいた。
まもなくドアが閉まる。
電車が再び動き出す。
さっきまで騒いでいた車内は、嘘のように静かだった。
誰もその話をしない。
誰も気にしない。
ただ、半笑いでスマホを操作している。
俺はつり革を握ったまま、窓の外を見た。
そして、小さく笑った。
正義なんて――
面倒くさいだけだ。
だからみんな、誰かがやるヒーローの物語が好きなんだろう。
電車は何事もなかったように走り続けていた。
ついさっきまで怒号が飛び交っていたとは思えないほど、車内は静かだ。
誰もその話をしない。
誰も気にしない。
ただ、スマホの画面だけがやたらと明るい。
誰もが何かを見ている。
でも誰も正しい真実を見ていない。
都合の良い、興味の湧くものだけを食い入るように見つめ、耳の痛い文章やどうでもいいものは、すぐにスワイプして消してしまう。
俺はぼんやりとそれを眺めていた。
さっき青年を押さえつけていた男の一人は、今はスマホゲームを操作している。
画面をなぞる指先。攻略サイトをなぞる視線。
彼はきっと、自分がさっき「本物の悪」を倒したと信じている。そして今、画面の中で「偽物の悪」を倒して報酬を得ている。どちらも彼にとっては、朝の退屈を紛らわすための、等価値で気持ちの良いコンテンツに過ぎないのだ。
画面の中では、鎧を着た勇者が巨大な魔物と戦っていた。
勇者の必殺技が炸裂する。
派手な演出と共に魔物へいくつものダメージが入っていく。
画面の上には大きく文字が表示されていた。
『正義の一撃』
思わず、鼻で笑ってしまった。
なるほど。
確かに、こういうのは分かりやすい。
勇者は正しい。
魔物は悪い。
だから勇者が勝つ。
誰も悩まなくていい。
誰も責任を取らなくていい。
ただ、画面の向こうのヒーローを応援していればいい。
それだけだ。
電車が次の駅へ近付き、揺れと減速する音が響く。
窓の外にホームが見えた。
ふと、さっきの青年の顔が頭をよぎる。
彼は必死に叫んでいた。
「やってません!」「誰か助けて」
そう言っていた気がする。
でも……まあ、仕方ないじゃないか。
誰もヒーローじゃないんだから。
俺だってそうだ。
電車が止まり、ドアが開く。
人の流れに押されるようにして、俺はホームへと降りた。
外の空気は車内よりも冷たかった。




