第五話 寵愛之術
「これより、『寵愛の術』を経始します」
ヒエナは巨木の根に背を預け、肩で息をしている。
今にも倒れそうだが、目をつむると空気が一変した。
両手で組んだ印相を中心に、青い光が広がっていく。
俺も結跏趺坐を組み、ヒエナと向かい合った。
「……」
「……」
そのまま、何事もなく静かな時間が過ぎていった。
周囲を走り回る追っ手の気配が秒刻みで大きくなり、雪の冷たさで四肢がこわばってくる。
焦燥感だけが募った。
声を掛けようかと迷っていると、ヒエナはようやく目を見開いた。
その瞳の奥は光って見えた。
「我仏天在、我仏天在。此処、皇真王氷鳴、在拝。尊仏御名下、賜法力譲与候。天誓立候」
氷のような声でマントラを唱えると、ヒエナは俺を見つめた。
胸の中を見られているような空恐ろしい感じがした。
「爾、名此処示」
爾の名をここに、か。
「武張天誓、在候」
俺も仏の言葉でそう唱えた。
「テンセイ、我が目の奥に御仏の光が見えるか。爾は今、御仏の前にいることを理解しているか」
ヒエナが冷めた口調で問うた。
俺は居住まいを正して、深く頷いた。
「爾の欲するもの、これ、法力に相違ないか」
俺はまっすぐ目を見たまま頷いた。
目をそらしてはいけない気がした。
「爾は不敬千万にも、諸天にあまねく名を轟かす大尊偶の御力を欲しているのだ。真に相違ないか」
三度、俺は頷いた。
ヒエナは瞬きすらしなかった。
「ならば、氷賢円諦峰大救世菩薩に久遠の誓いを立て、爾の持つ私するところのすべてを大雪峰の彼方に放下しなさい」
「……煩悩を捨てろということであっているか?」
質問すら許されない空気だったが、どうしたものかと俺は尋ねた。
ヒエナは氷のような表情のまま首を縦に振った。
俺は息を止め、目をつむった。
瞑想する感じでいいだろう。
真っ暗な視界に父の顔が浮かんできた。
俺を見下してきた数々の知人友人も走馬灯のように蘇る。
腹立たしい思いだった。
だが、俺はその気持ちを紙にくるんで放り投げた。
無――。
ひたすら、心を無にしていく。
こうしている今にも矢が飛んでくるかもしれないが、それすら甘んじて受け入れるつもりで何もかも無の中に投げ打った。
どれだけ、そうしていただろう。
不意に、猛烈な冷気が吹き付けた。
ブリザードの中に放り出された気分だった。
凍りそうなまぶたをこじ開けると、そこには、一面の銀世界があった。
果てしなく続く氷の平原だ。
真っ白な地平線の先に、巨大な山がそびえ立っている。
それを長く見てはいけない気がした。
「テンセイ、こっち」
ヒエナが手を振り、微笑んでいる。
死に装束のような白一色の衣を羽織り、その肩に矢傷はなかった。
「ここは?」
「私の仏道よ。本来、あなたが来てはいけない場所なの」
よく意味はわからなかったが、信仰の道なのだと俺は解釈した。
この道は険しい。
だが、ヒエナが一人で歩いていかねばならないものなのだ、と。
「術の続きをしないと」
促されて、俺は再び結跏趺坐を組んだ。
ヒエナは言った。
『返照せよ。自らを照らし、自らを省みなさい』
声が二重って聞こえる。
ヒエナの声と、それから、もうひとりは誰だろう?
地の底から響くような、天から語りかけられるような、およそ人間の声とは思えなかった。
だが、なんとなく、遠くに見えるあの山が語りかけてきたような気がした。
俺は瞑目し、自分を振り返った。
父には殴られ、妹には見下され、さんざん笑いものにされた情けない二度目の人生。
後悔はたくさんある。
でも、ゲームのようにリセットして、始めからやり直したところで結果は変わらないだろう。
ならば、今を受け入れることが大切だ。
そんなことを、たしか釈迦も言っていたと思う。
強い光を感じて目を開くと、体が凍っていた。
指がひび割れ、そして、崩れ落ちた。
手首、肘、肩とひび割れが広がっていく。
悲鳴すら上げられなかった。
『恐れることはありません。あなたは私するところのすべてを手放したのです。崩れた肉体は、もはやあなたのものではないのですよ。あなたが怯えることはありません』
それは、もはやヒエナの声ではなかった。
頭の中に直接響き、脳細胞をひとつ残らず凍らせていくような、そんな声。
「……」
俺の前にいつの間にか小刀が浮遊していた。
氷から削り出したがごとき白鞘の刀だ。
『爾、ここに清き御魂を捧げ、誓いとしなさい』
俺はそのようにした。
小刀はひとりでに動き、俺の胸をなでる。
観音開きになった胸の奥から現れたのは心臓ではなく、勾玉のようなものだった。
ヒエナの胸が裂けて、同じものが姿を現す。
二つは合わさり、ひとつの円を描いた。
『ここに、偽りなき誓いが立てられました。その誓いの潰えぬ限り、仏道による正しき柵をここに授けます』
景色が光の速さで遠ざかっていく。
気づけば、俺は暗闇の中にいた。
雪を踏みしめる無数の足音で、森の中に戻ってきたのだとわかった。
ヒエナの無事を確かめて、俺は少し安堵した。
ただ、追っ手はすでに目と鼻の先まで迫っているようだ。
「……っ」
こんなときだが、腹がひどく痛む。
冷えたせいだろうか。
もう漏れる寸前だ。
でも、これは腹を下している感覚とは少しばかり違う気もするが。
――法力が溜まりすぎちゃって、お腹がはち切れそうな私の気持ち、わかる?
ヒエナのそんな言葉が思い出された。
「法力か……」
俺は両手のひらを見つめた。
小さな火がともった。
火は瞬く間に膨れ上がり、俺を大いに慌てさせた。
力で押さえつけると、手の中で小さな太陽になった。
だが、圧縮したことで反発力はさきほどとは比較にならないものになった。
球形が徐々に崩れ、今にもドカンといきそうだ。
俺は太陽を空に投げ上げた。
光の尾を引きながら、打ち上げ花火のように上がって行き、それは爆ぜた。
目がくらむ。
夜の森に昼が落ちてきたようだった。
これほどの大法術を使ってなお、法力は腹の底に有り余っている。
「よかった、うまくいって……」
ヒエナは辛そうに片目だけ開けて言った。
「私の馬鹿法力、全部使っていいから。でも、殺さないであげて」
それっきり、目をつむってしまった。
「殺さないで、か」
心根が表れた言葉だと思った。
仮にも皇女殿下のお望みだ。
善処しよう。
俺は刺客たちの前に静かに歩み出た。
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