第四話 雪夜逃走
「いっ、ぅぅ……」
ヒエナが苦しげに身をよじった。
そのたびに、矢尻が食い込むらしく、眉間には深いしわが刻まれている。
俺は目を凝らして、真っ暗な樹氷の森を見た。
茂みの向こうで、影がいくつも動いている。
キラっと何かが光った。
とっさに上着を投げると、そこに矢が突き刺さる。
「走れ!」
俺はヒエナの脇の下に潜り、半ば引きずるようにして走りだした。
「テンセイ……。きっと、あの人たちは」
「言わなくていい」
皇女が命を狙われるとしたら、理由はそう多くない。
十中八九、皇位継承争いに端を発するものだろう。
その凄惨さは市井にも轟いている。
つい先日も、第四皇子が四分五裂でお堀の中に浮いているのが見つかったばかりだ。
継承順位第3位のヒエナを蹴落としたい者は多いだろう。
ビシュ――ッ。
耳元で風切り音がした。
矢がかすめたらしい。
「お返しだ!」
俺は二本指を後ろに向け、微々たる法力のすべてを注ぎ込んだ。
「御!」
夜の森が刹那、真っ白に染まった。
黒子のような装いの男たちが目を押さえてうずくまるのが見える。
何人か転んだが、逃げおおせるだけの時間稼ぎにはならないだろう。
俺はヒエナを背負い上げた。
ピュー、と指笛の音が響く。
気配が左右に広がっていくのを感じる。
包囲する腹らしい。
雪で動きにくいことに加え、ヒエナを背負っていては2分と経たずに追いつかれる。
「私を、置いて、いって……」
「腐っても武家だ。女の子置き去りにして逃げるくらいなら割腹してやる」
強がったはいいが、打開策は何もない。
法力は尽き、ヒエナを頼ろうにも息も絶え絶えな様子だ。
矢に毒が塗ってあるのかもしれない。
「……っ!」
「あ」
顔色を見ようと身をよじったのが災いした。
俺は足を踏み外して、雪の斜面を転がり落ちた。
「ヒエナ!」
「んぅ……」
完全なる闇の中、うめき声を頼りにヒエナを探し当て、背負い直す。
俺は前後不覚に陥りながらも足だけは止めなかった。
急に吹雪が吹き止む。
どうも巨木の樹洞にすっぽりと収まっているらしい。
「ここなら、見つからないだろう」
気休めを言ったが、向こうはおそらく殺しのプロだ。
雪にはくっきりと足跡が残っているし、間違っても取り逃がすようなヘマはしないだろう。
慣れない雪の上で、両脚は音を上げている。
逃げるのは難しそうだ。
「テンセイ、ごめんなさい。私のせいで……」
ヒエナの声は刻一刻と弱くなっている。
「あなただけなら、まだ逃げられるわ」
「どうだろうな」
皇女暗殺の瞬間を目撃されたとなれば、川原の小石をすべてひっくり返してでも奴らは俺を捜し出すだろう。
「せめて、俺にもう少し法力があればな……」
法学の勉強だけは人一倍やった。
こんなときに役立つ法術を十指に余るほど知っている。
でも、そのひとつとして使うことができない。
自分でも情けなかった。
「ある、わ……。ひとつだけ。あなたと私が助かる方法」
ヒエナはうわごとのように言った。
「さっき、テンセイ、言っていたでしょ? 私とあなた、足して2で割れたらいいのにって」
「ああ」
法力貧者と法力富豪。
平均を出せば、めでたく中流階級の誕生だ。
「だが、そんなこと」
「できるの。皇室に伝わる秘術を使えば」
皇室の秘術か。
いかにもな響きだ。
「よく聞きなさい、テンセイ」
ヒエナは体を起こして、俺の胸に触れた。
そして、言った。
「あなたに寵愛を与えます」
俺はよく聞いていたつもりだ。
でも、言われたことの意味をまったく理解できなかった。
俺はない頭を必死に回転させて、状況を分析した。
寵愛。
特別な愛。
愛。
アイ・ラブ・ユー。
シーはミーをラブ?
美姫寵愛的我。
……Oh。
つまり、それはこういうことか。
「俺は婿入りするってこと?」
お家追放からの電撃結婚だ。
それも、第三皇女と。
逆シンデレラストーリーである。
「こんなときに、ボケないで」
「いや、すまん。つい……」
ヒエナは少し笑ったようだった。
「知らなくても無理はないわ。『寵愛の術』は極秘中の極秘だもの」
なるほど。
法術の話か。
「この術を使えば、私の法力をあなたに分けてあげられるわ。でも、戦うのはあなただから」
「俺が決めていいわけね」
なら、迷うことはない。
俺はヒエナの手を取った。
「必ず助かろう。二人で一緒に」