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月鬼桜  作者: 釉亜
第二章

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第二章 其の六

本作品では過激な表現が含まれる場合があります。

苦手な方はご注意ください。

ふわりとやわらかな温かい風が頬をなでる。

「柳。こちらへ」

そういって旦那様は手招きをするが、俺はぜぇぜぇと肩で息をつきながら膝に手をついて立ち止まる。

「旦那様、これはなにかの仕置きでしょうか?急にこんな山奥へとともに登ろうなんて。俺がなにかよくないことをしたのであればお話いただければきちんと聞きましたよ。」

ふわりと目を細めながら旦那様は小さく笑う。

「まさか。軟弱で悪いことなどできない柳にそのようなことはしないよ。」

それもそれでどうなのだ、と思わずじとりと睨む。

たしかにまわりに比べて軟弱であるのは認めるが、最近ようやく刀を学び始めた身として少しは体力もついてきただろうと自負していただけに少々傷つくものがある。

うなだれていてもどうしようもないので、ふぅと一息ついて先で待つ旦那様の後ろへと続く。そうして歩いている最中、急に開いた視界のまぶしさに思わず目を瞑り立ち止まる。

少ししてゆっくりと目を開いたその先には、日の光にきらめく広い海が広がっていた。


「う...わぁ...」


初めて見る海にそれ以上の言葉が出ない。

「海は見たことがなかっただろう?いつか連れてきたいと思っていたんだ。

 最近は少し体力もついたようだったから。」

片方の口角をあげて、少し悪い顔をした旦那様が俺を見る。

意地の悪いひとだ。

「この近くには桔梗が咲き乱れるきれいな場所もあるんだ。いつか君に大切な人ができたときに教えてあげよう。」

そんないつ来るかわからないような約束に呆れて横を見ると、自身の思い人を思い浮かべたのであろうその人は、優しくきれいに微笑んでいた。




...ふと頬の冷たさに目を覚ます。

懐かしい夢だ。最近は滅多に見ることがなくなっていたのだが、きっと昨日の出来事が原因だろう。

身体を起こし頬を袖で拭う。

傍らには医師が置いたのであろう薬と水が置かれていた。そういえばぼんやりとだが来ていたような記憶がある。ありがたく薬を口に含み、水で流し込む。

乾いていた喉にその冷たさがよく染み渡った。

はぁ、とため息をこぼす。あらためて昨日の自分の愚かさに情けない気持ちになる。鬼から助けてくれて、あまつさえ心配してきてくれた宗馬を傷つけるような言葉を投げつけるとは。

(わかっていないのは俺もそうじゃないか...)

頭に手をやり、ぐしゃりと髪を乱す。

宗馬は先代将軍と幼き頃からの友人で、屋敷に訪れている姿も何度も見ていた。

ふたりの接する態度からもお互いに信頼していることは明白だった。だというのに突然裏切られたのだと知ったときの心の抉られようは尋常ではなかっただろう。

常に背中を預け、同じほうを向いているのだと信じてやまなかった人がいなくなった辛さは俺になど到底計り知れない。

ぼんやりと定まらない思考のまま身支度を整えて仕事へと向かうために土間へと移動する。戸をひけば、雨は昨日よりひどくないもののまだしとしとと降り続いている。

俺は傘をさして少しひんやりとした寒空の下を歩きだした。


雨のせいか道行く人は少ない。

(あのときと似ているな...)

先代将軍が亡くなり、どうすればいいかもわからずただ無意味に日々が過ぎゆくのを待っていた俺に宗馬は声をかけてくれた。

その日もこんな風に雨のふる静かな日だった。

今思うとあのとき俺を訪ねたのは、謀反人として処刑された先代将軍のことを聞きたかったのだろうと今ならわかる。だが俺の様子をみてそれをしなかったのであろうことも。あのときから宗馬は自分に優しかったのだと気づくと、また泣きそうになる。

涙なんてとうに枯れたと思っていた。

(今日は駄目だな)

自嘲するように鼻で笑いながら雨の中を歩き続けた。


いつからだろう。

旦那様のことを思い、涙を流さなくなったのは。

いつからだろう。

旦那様とのことを夢に見なくなったのは。

いつからだろう。

旦那様と呼んでいたのが先代将軍へと過去のものとなったのは。


時が自分をそうさせたのだろうか。

あれほどまでに旦那様を罪人としたこの世を憎んでいたはずなのに、薄情な人間へと成り下がったものだ。いや、もともとは薄情な人間だったのだ。それが先代将軍に拾われたことでまともな人間になれていただけだったのだ。

重い足を引きずるように歩き続け、門をくぐり室内へと入る。いつも仕事をしている自分の机へと向かい、ゆっくりと腰を下ろす。

さて、と気持ちを切り替えるように筆をとるが、手を動かしている間もどうしようもなく頭の片隅でいろんな記憶が交錯する。刀を持つことなどとうにしなくなった。先代将軍亡き後は持っていた刀が筆へと変わり、ひたすらに文字を書くだけの日々だ。

そうやって一心不乱に文字を書いているうちに、いつの間にか集中できていたようでだれかに肩をたたかれた気がしてはじめて顔をあげた。

「柳殿、呼ばれておりますぞ。」

だれに?と思い、肩をたたいた男の視線を辿ると部屋の入口に、なんだか見覚えのある人が立っていた。


帝の侍従ではないか。

思い当たると同時に、声をかけてくれた男に礼を言って侍従のもとへと早足で向かう。そばへと来た俺に侍従は頭を下げながら小さく告げた。

「帝がお話をしたいと、あなた様をお呼びです。」

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