は?
アキラが二度と戻ってくる気がないことは、1つ2つと確実に消えていく荷物で自覚した。
企画が取り上げられてしまったことは、会議に呼ばれないことで自覚した。
アキラからは部屋の鍵を返してもらうべきだし、上司に抗議して何らかの見返りを得るべきだと、ナツコは分かっていた。
だがナツコはあまりに疲れていた。
重い体に入っている心まで、固くて重くて沈んでいて、正しさや変化を自分から求める気になんてとてもなれない。
自分で動くのが嫌だ。動きたくない。
日常はいつもと同じように過ぎ去っていく。
どうにかこうにか生きている。
生きている?
かろうじて生きてはいるよね?
ナツコは自分に問いかける。
ゆらゆらと揺らめきながら歩く自分に最後の炎を揺らす残り少ない蝋燭のイメージが重なるけれど、まだ死なないだろうとナツコは思う。
そのことが有難くもないと思う自分を感じつつ、今日も通勤ラッシュを乗り越えて会社へ向かい仕事をこなした。
生きて働いている自分を褒めてあげたい、けれど無理。
そんな矛盾が腹底で渦巻く。
明るすぎる夜道を辿り駅につけば、疲れ果てた顔の会社員やご機嫌な酔っ払いが行き交っていた。
「よぉ、江戸川。いま帰りか?」
聞き慣れた声に振り返るナツコの視界いっぱいに驚愕の表情を浮かべた佐々木の姿が広がった。
「え?」
「お前……酷い顔色じゃないか。大丈夫か?」
「ん……」
「あぁ、もう。心配だから家まで送るっ」
「えっ? なに? 佐々木君」
気付いた時にはナツコは酒と煙草の匂いが染み込んだ佐々木の逞しい腕の中にいた。
「電車、こっちで合ってるよな?」
「ん、合ってるけど……え?」
戸惑うナツコにはお構いなしに、佐々木は彼女の肩を抱いて歩きだした。
上背があって筋肉もしっかり付いている佐々木に対して、ナツコの体は華奢だった。
肩を抱かれているというよりも、すっぽりと体を包まれているようだ。
逞しく温かな体で守られるようにして歩くのは、こんなにも安心感があるものなのか。
ナツコの固くて重くて沈んでいた心が少しほぐれて浮き上がる。
佐々木の横で席に座って電車に揺られながら、ナツコは自分の心と体が心地よくほぐれていくのを感じていた。
◇◇◇
ナツコはいつの間にか眠っていた。
それはそれは心地よく気持ちの良い眠りだったのだが、なぜ自宅のベッドで寝ているのだろうか。
目の前に佐々木が何故いるのだろうか。
彼女には状況がイマイチ掴めなかった。
ココまでどうやって来たのだろうか?
電車の乗り換えや自宅までの道は、誰が教えたのだろうか?
部屋の鍵は誰が開けた?
ナツコの中に疑問は渦巻くが、佐々木には答えを与える気はないようだ。
佐々木は、ベッドの横で膝をついて彼女の手を握って言う。
「実はずっと前から好きだったんだ」
「……え?」
友人には佐々木はヤバいから気を付けろ、と言われていた。
確かにヤバいかもしれない。
「ねぇ、付き合ってくれない?」
「……は?」
でも、ヤバいからなんなのともナツコは思う。
佐々木の大きな手に包まれた右手が、温かくて気持ちが良いと感じているナツコもヤバいかもしれないではないか。
安全安心な人生なんてどこにもない。
ナツコに忠告していた友人だって、早々に出来ちゃった結婚をして子育てにかかる費用を嘆いている。
嘆いてはいても、不幸ではない。
100%安心安全で幸せな人生なんてないけれど、0よりマシな生き方はいくらでもある。
「いや、いっそ結婚して」
「……はぁ⁉」
気付けばナツコは、同棲の痕跡が生々しい部屋のベッドの上で佐々木からプロポーズを受けていた。
器デカすぎない?
度量広すぎない?
でもヤバくない?
ナツコの中に渦巻く困惑などには気付くことなく、頬を赤く染めた佐々木が言う。
「江戸川と一緒に暮らしたら、絶対に楽しいと思うんだ」
「……ナツコだよ」
「え?」
今度は佐々木が驚く番だった。
「私の名前は、ナツコ」
ナツコは時としてチョロい。
自分から求めなくても変化が向こうからやってきたのだ。
自棄を起こすくらいなら佐々木で良い。
「結婚するなら名字が同じになるのよ。だから、名前で呼んで」
正しくなくても佐々木が良いと、ナツコは思った。