職場で上手く立ち回れない私
人生に100%など求めていない。だとしても現状は何%なのだろうか。
「はぁ……」
江戸川ナツコは会社のプリンターに右手をつき、軽快な音を聞きながら大きな溜息を吐いた。
彼女は疲れていた。
連日のように最高気温を更新していく暑い夏。
オフィスビルの窓は真っ暗な夜闇を映しているというのに、暑さが手を緩めることはない。
生きているだけで体力を削られていくような日々の中で、彼女には更に仕事があった。
ナツコはギリギリ滑り込むようにして新卒採用された会社でバリバリと働き続けている。
平日にはラッシュで混み合う電車に1時間ほど揺られて職場に辿り着き、帰りは終電、もしくはその一本前の電車に乗って帰るのだ。
いわゆる社畜と呼ばれるタイプの人類である。
28歳の彼女はアラサーとはいえお局さまと呼ばれるには早く、新人と呼ばれるには遅い微妙なお年頃だ。
同棲中の彼氏はいるが独身。
年齢も立場も年収も微妙なことこの上ない。
ナツコは印刷が終わった書類を整えると、疲れの溜まった体を引きずって上司のデスク前に立った。
「ようやくできたか」
「はい。では、説明させていただきます……」
ナツコは書類の束を広げながら企画についての説明を始めた。
時は令和。感染症による自粛から抜けて急激に経済活動が戻って来たタイミング。
社員たちは会社から好機を逃さずに稼ぐことを求められていた。
上司の視線が書類上で止まり、一箇所を指さしながら苛立った耳障りな声をあげる。
「ここは、どうなってるんだ?」
「はい、ここはですね……」
ナツコも苛立ちを覚えたがそれを隠して冷静に説明した。
上司が業績の悪化を理由に上層部から尻を叩かれているのは知っている。
出世に響くことを恐れているから、当たりがきつくなっているのだ。
そのくらいのことは分かっている。
28歳の彼女は上司以上に立場が微妙なのだから。
ナツコには上司の進退に関わる大事な計画を取りまとめる役目が与えられていた。
上司の進退がかかっているが、この計画が上手くいってもいかなくても、ナツコの給与には影響がない。
それでも必死にやるしかないのだ。
「分かった。我々の今後がかかっている。迅速に進めてくれ」
「……分かりました」
上司の言うことはもっともだ。
会社としては今がチャンスで、儲けが出れば社会であるナツコにも恩恵がある。
基本給はジリジリと少しずつしか上がらないが、ボーナスは業績に合わせて大きく変動する。
恩恵がなかったとしても、ナツコの給与は下がらないのだから良いことなのだろう。
儲けがなかった時には、速やかに影響が出る。
それはマズイ。
ナツコも頭では分かっていた。
頭では分かっていても、こう体が重くては全身の機能が上手く働かない。
闇に沈むオフィスビルは、ナツコの所属する部署のフロアだけが明るい。
経費節減が叫ばれているというのに煌々と灯りがついた部屋は、働け、働けとナツコに迫ってくるようだ。
だが、今日は体が重くてどうにもならない。
暑さが体に重くまとわりついて疲労を更に深めていく。
とても仕事が出来るような状態ではない。
「はぁ……帰るか」
ナツコはつぶやいた。
自宅に持ち帰ることができる範囲の資料を手早くまとめる。
帰宅したからといってノルマから逃れられるわけではない。
いったん自宅に帰って仕事の続きを進めることにした。
職場は地価の高いビジネス街にあっても、それに見合った給料を貰える事は少ない。
ナツコのように女性であればなおの事。
手取りに見合った部屋を借りれば、ちょっとした旅行の距離を移動することになるのは当たり前だ。
「もう帰るのか? 女は楽でいいな」
「お先に失礼します」
上司の嫌味を浴びながらナツコは会社を後にした。