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エピローグ

 

 翌朝、浜松町までの電車の中、そこからモノレールで海を見ながら、空港では待合スペースで、そして飛行機の中でも、僕は里香に何て切り出そうかずっと考えていた。浮かんできたシナリオを幾通りもスマホのメモに書き出して、推敲して、考え直して、書き換えて、……そんなことを昨晩からずっと繰り返している。

 それでも、きっと里香は僕の想定の斜め上の言葉を返してくるんだろうなと思う。そうなった時、僕の準備、こんなありきたりな言葉たちは、全然頼りにはならないのだろう。それでも僕は、無駄かもしれない思考をぐるぐると廻らせ続け、スマホにああでもないこうでもないとメモを続ける。

 離陸してしまえば、あっという間だ。落ち着かなくて北海道にやってきたという感慨も無かったけれど、窓から眼下のZ市を眺めて漸く実感が湧いた。考えてみたら、北海道は小学生の時に家族で旅行して以来だ。

 Z市は太陽が白っぽい印象の快晴だった。飛行機を下り、ターミナルビル内の到着ゲートを出る。閑散としている。そこにいるはずの人々がいないと、景色はどこか透き通って見える。

 フロアを見回し、さてと考える。Z市といっても、里香の家がどのへんにあるのかを僕は知らない。だから、ターミナルビルから電話してみることに決めていた。里香と会う約束を取り付けるのだ。うまく出来るだろうか。里香は会ってくれるのだろうか。僕やバイト仲間や、一緒に過ごした東京での日々までも含めて、全てを切り捨てようとした彼女に対して、僕はきちんと響く言葉を伝えられるのだろうか。――分からない。分からないけれど、やってみるしかない。

 不安を押しのけ、まずはビル内で落ち着いて電話をかけられそうな場所を探すことにした。僕はビルの案内図を参考にしながら、階段を上ったり下りたりした。階段は、Ⅹ市の郷土資料館の地下書庫や、児童公園へ至るうねりと歪みを思い出させる。でも、ここの階段はどこも直線的で、理路整然としていて、曖昧さはない。

 僕が電話をする場所に決めたのは、レストランや店舗のあるフロアの隅、周囲に人はいない。気配もない。別に聞かれては困る話をするわけではない。それでも、やはり誰もいない方が落ち着く。

 僕は息を整え――、そしてスマホのキーパッド上で、もう諳んじてしまった番号を慎重に入力していく。

 発信。

 コール。

 一回、二回……、初恋に落ちた幼い少年のように鼓動が高まる。

 あれこれ考えたたくさんのシナリオたち。それらはあまりにぐるぐる回りすぎて混然一体となって、もう見分けもつかない。使い物にならない。あー、どうにもならない。ならないなら仕方ない、後は出たとこ勝負だ。

 六回鳴ったところで、誰かが電話に出た。

「はい、綾瀬です」

 里香の声じゃない。とすれば里香の母親か。年配の女の、暗い声だ。

「あの、戸坂といいます。東京で、里香さんとはアルバイト、五島亭でのアルバイトが一緒で」

「ああ」

 母親は明らかに僕のことを聞いて知っていたような様子の声を出した。そこに、僕に対する敵意や警戒心のような色はなかった。むしろ、なぜだろう、強い安堵の色を感じた。とにかく、拒絶はされていない。僕はそれで少なからず安心して、畳みかけるように言った。

「里香さんは、いらっしゃいますでしょうか?」

 でもそこで間が空いた。間は一秒、二秒……、YESでもNOでもなく、ただ沈黙が続いた。そのまま、三秒、四秒、五秒と母親に言葉はなく、十秒まで数えて、――ずいぶん耐えたものだ――、でももう耐えきれなくなって僕は尋ねた。

「あの、里香さんは」

 母親は僕の言葉に被せて、

「いなくなってしまったの」

 つかえを吐き出すように言った。

「え?」

「だから。娘はいなくなってしまった」

「どういうことですか?」

「私にも分からない。ただ、姿を消してしまった。私が仕事で東京まで三泊で出張に出て、戻ったら里香はいなくなっていた」

「家出、ですか?」

「痕跡ごと無くなっていた」

 話すうち、母親の声に当惑の色が増してくる。

「里香の服も家具も写真も、何もかも、無くなっていた」

「――出張に出ている間に、引っ越していってしまったということでしょうか?」

「そうじゃないの。それだったらまだ良かった。そうではなくて、里香が存在していたという痕跡そのものが無くなっていた。マンションの部屋は、初めから里香がいなかったかのように家具が配置され、アルバムにも里香が写った写真、里香と私が写った写真はすべて最初からなかったように写真が貼られていて、――そんなことって、ありえないでしょう?」

 ありえない、普通ならば。

「里香はもう二十歳だし、こんなふうじゃ、家出かも分からない、っていうか、私がどうかしてしまったんじゃないかと本気で思い始めていて」

「里香さんがいなくなったのは、いつのことですか? あなたが出張に出たのは、いつ?」

「Z市に戻ったのは一昨日です」

 一昨日か。僕が里香の電話番号を知ったのは昨日だ。だから、すぐにかけていたとしても間に合わなかった。その時、里香はもういなくなっていた。ほんの数日の差だ。数日だけれども、僕は二度目のチャンスに間に合わなかった。

 ――いや、もしかしたら真実はそうではないのかもしれない。僕が昨日電話番号を手にすることになったからこそ、それに先んじて里香がいなくなってしまったのだ。僕と里香はまだ再会できるタイミングになっていないのだ。バカな妄想かもしれないが、これも、あり得ることのように感じられた。

 母親は堰を切ったように続けた。

「何の冗談かと思って。でも里香は、こんな手の込んだいたずらをするタイプでもないし、いや、そもそもこんなこと出来るのかって、何かもう訳が分からなくて、でも仕事に出ないわけには行かないし、仕事から戻れば里香の痕跡のないこの部屋で一人でじっとしていると、おかしくなりそうで。でも誰かに相談したら、やっぱり自分がおかしいってことがはっきりしてしまいそうで。だって、こんなことってないでしょう? 里香一人じゃ、とてもで出来ないでしょう? 古いアルバムって、貼り跡が残るから貼り直したら分かると思うんだけど、もう全っ然分からないし、そもそも里香と一緒に写したはずの写真が私一人になっているし、ありえない、こんなのありえない」

 話しているうちに母親はパニック気味になっていく。不思議なもので、そうすると僕は冷静になれる。僕にとっても全然想定外だったのだけれど。僕は出来るだけ静かな、落ち着いた声で尋ねた。

「里香さんを知っている誰かに、連絡は取りましたか?」

「大学には連絡しました。綾瀬里香という学生は、在籍していないと言われましたけど」

「他には?」

「里香の友人関係の連絡先なんて、私そもそも持っていないし」

「親戚はいませんか? たしかおばあ様がいらしたと」

「母はこちらに転居する数か月前に亡くなりました。里香から聞いているかもしれないけれど、夫はもう何年も前に亡くなっていて、それに他の親戚は……、何人かいることはいるんですけど、完全に縁を切った状態で」

「そう――、ですか」

「戸坂さん、って、おっしゃったかしら?」

「ええ、戸坂です」

「里香は、いたでしょう? いましたよね?」

 母親は縋るようにして聞いてきた。

「勿論です」

 僕は、この自信がうまく母親に伝わると良いと願いつつ、出来うる限り力強く答えた。

「里香さんはいました。間違いなく、いました。僕と一緒に五島亭でバイトして、映画をみたりバーベキューしたり、忘れることなんて絶対にありえない、そういう一年を過ごしたんです」

 僕は里香のことが、明るい里香だけじゃなく、明るさを装う里香まで含めて大好きだったし、今も大好きなんです。そこは口には出さなかったけれど。でもその先の部分は、はっきりと母親に告げた。

「僕が里香さんを探します」

 今晩なら時間が取れるというので、夜、里香の家を訪れることにした。痕跡が無くなったとはいっても、何かヒントになるものがあるかもしれない。電話を切るとすぐに、里香の母親とSNSのアドレス交換をした。それで僕は周りを見回す。相変わらず閑散としたターミナルビル。歪みなく、厳然とした、あるべき世界。そこから切り取られた里香。

 でも里香は死んでしまったわけじゃないのだ。きっと何処かにいる。


 母親との約束の時間までの数時間、時間潰しに市内を回ることにした。里香の蒸発で、さすがに観光地めぐりをするような気分でもなかった。向崎マミ子探しは綾瀬里香探しとなり、ステージは変わった。また振り出しからだ。僕は町を気まぐれに歩いた。白い太陽に照らされて、歩けば歩くほど町は白くなっていく。漂白、いや脱色されたように。

 スマホが鳴ったのは、市内中心地から少し外れた住宅地を歩いていた時だった。

「久しぶり、沢崎です」

 テキパキとした調子はいつも通りだが、声のトーンが今日は少し曇っている。

「どうかしました?」

「いや、うん。――ねえ、戸坂くん、私たち、Y池に行ったよね?」

 沢崎氏は、ちょっとの逡巡の後でそんなことを言い出した。

「ええ、勿論、行きました」

 僕は少し空元気気味に強く応じた。

「ものすごい濃霧の中、池から小さな川を下って、向崎マミ子が住んでいた小屋に行ったよね?」

「はい、行きました」

「ありがとう。――実は、あの小屋から持ち帰ったタブレット端末が無くなってしまって」

 打ち捨てられたような小屋、しんとした薄闇の中、一つぽつんと置かれていた端末機器。

「村瀬記者の動画だけじゃなくてタブレット端末ごとですか?」

「そうなの。あの端末、私にとっては小屋に行った唯一の物証だったから。それに、無くなるってこと自体が状況からみてどうしてもあり得なくて」

 タブレット端末が消えても僕がいる。僕たちは助け合うことが出来る。

「物証はなくなっても証人がいますよ。僕は沢崎さんにとっての証人だし、沢崎さんは僕にとっての証人です」

「うん、そうだね。だから戸坂くんに電話をしてしまった」

 それから沢崎氏は、声に元気を付け足して尋ねた。

「そういえばあの人面猫、私たちを案内してくれた猫はどうしたかな」

「人面猫ですか? いますよ、ここに」

 僕はそれで、ポケットから例の猫のフィギュアを取り出そうとして。

 ――え?

 フィギュアが無かった。

 まさか。万一にも落とすことのないように、フィギュアのお尻についている小さな穴にナイロン糸を通し、ベルト通しに結びつけてあったはず。それがナイロン糸ごと無くなっている。

 綾瀬家から里香に関するものがすべて消え、沢崎氏のところからタブレット端末が消え、そして僕のところからはフィギュアが?

 人面猫のフィギュアが?

 あれは僕と里香を繋ぐ生命線――。

 その時だった。何かをつぶやくような、猫の鳴き声がした。前をみると人面猫がいた。あの人面猫だ。人面猫は、「さ、付いてこい」とばかりに一瞥をくれて、それで前に向き直ってすたすたと歩き出す。

「戸坂くん? どうかした?」

「いえ、どうもしません」

 僕はスマホで沢崎氏と話をしながら、人面猫の後を追って歩き出す。

「人面猫はいます、ここにいます」

 人面猫はコンビニの前を通り過ぎる。コンビニのロゴは、どっちのロゴだ? 違和感があった方? なかった方? なんだかもう、どっちがどっちだかよく覚えていない。

 世界が本当は曖昧なのか、あるいはあくまで厳然としているのか、その辺のことは、なにしろ僕たち自身が曖昧な存在でしかないからよく分からない。けれどいずれにせよ、世界は僕たちの言いなりなってくれはしない。僕たちは時に想像を絶するような酷い目に遭い、多くを失い、里香は突然僕の前からいなくなり、それでも僕は里香のことが忘れられず、それで人面猫が案内をしてくれるのであれば、もう後を付いていくことしか出来ることはない。それがおそらくは最大限だ。もうこれ以上、失わないための最大限だ。

 僕の前でまた人面猫が鳴く。遅いよ、お前は、というように。それで僕は小走りになって猫を追う。



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