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第7回 香典と過去は無くなり、得られたもの

   1


 光が網膜から退いていき視界が回復してくると、ここが児童公園であると分かった。吉村先生の家から人面猫についていって辿り着いた、あの児童公園だ。僕はそこにぽつねんとして立っている。公園には僕以外誰もいない。小学生の里香もいない。

 ここもまた無人のがらんどうか――。

 太陽の場所や様子から、今は昼下がりだと分かった。今日は曇天だったはずが、見事な快晴だ。それに、郷土資料館に入ったのは午後遅めの時間だった。あれからおよそ二十時間が経過し、翌日になったということだろうか? でも時間の流れが歪められているような感覚もある。いや、それよりも何よりも、空間が歪められている。辰巳庵近くのバス停からバスに乗り、二十分は揺られて着いた郷土資料館。その地下深くのドアを抜けると、いきなりこの公園だなんてあり得ない。それに、それに……。

 僕がくぐってきたドアは消滅していた。どこをどう見てもそんなドアはなく、いや、公園にそんなものがあるわけないのだ。しかも僕のヘンリーネックのシャツは、もとの綺麗な浅黄色を取り戻していた。血の汚れなどどこにもなく、染み一つなく、チノパンも濡れてなどおらず。あれほど心身を打ちのめしていた疲労の痕跡も、筋肉痛の気配も、まったく感じられなかった。

 あの殺戮、人形の殺戮は本当にあったことなのか――、一瞬そう思いかけて、僕は両掌だけが既に固まり始めた血に塗れていることに気づく。違う、あれは夢でも幻でもない。

 僕は公園の水飲み場の下にある蛇口をひねり、手を洗った。市の職員が設置しているのか、それとも近所の人の厚意なのか、みかんの赤いネットに入れられ固形石鹸がぶらさがっている。ありがたくその石鹸を使わせてもらい、念入りに手を洗った。掌の血は少しずつ溶け出し、こびりつくのを諦めて排水溝へと流れていく。それでも完全には落ちない。

 僕は繰り返し繰り返し石鹸を泡立てて、掌を洗い続けた。もう季節は彼岸を過ぎており、いくら晴れていても長く水洗いしているうちに手が冷たくなってくる。石鹸も無くなってくる。それで僕は最後に猫のフィギュアを丁寧に洗い、蛇口を閉めた。

 両掌を広げてみる。イノセントな石鹸の匂い。綺麗になった。ただ一か所だけ、利き手の右掌の中央、そこに一センチ四方程度、まるで刺青をしたかのように血の染みが残った。もうこの手から血を洗い流しきることは二度とできない、そんな気がした。僕はこの染みと共に生きていくことになる。

 さて、これからどうすればいいのだと思いながら振り返る。

 少女がいた。あの、遭難しかけた夏の日に見かけた、でも声を掛けられずに、それで消えてしまった小学生の里香だ。よかった。僕の中に溢れた感情は安堵だった。また彼女に話す機会が得られた。大抵の場合、チャンスなんて一度逃したらもう二度と巡っては来ないのに。僕は気持ちが急くのを抑えられず、早口になっていた。

「里香、僕は里香と話したいんだ」

 里香はきょとんとしたように僕を見ている。僕が本当に話したい相手は、過去の里香、小学生の里香ではない、今の彼女だ。そして、小学生の里香と今の里香がどう繋がっているのか、いないのか、僕には分からない。でも、この流動する世界では何だって起きる。いや、流動していなそうにみえた世界においても何だって起きる。だから、巡ってきたチャンスは逃してはならない。僕は続ける。

「里香が急にバイトを辞めて北海道へ引っ越していく、その数日前に、里香が雛人形を捨てるところを見た。その時の様子が、それまでの里香と違っていたから、僕はちょっと驚いて、声を掛けずにそのまま帰った。まさか、それっきり会えなくなるなんて、思いもしなかった」

 小学生の里香は無表情なままで、僕の言葉に耳を傾ける。

「あの夜、里香を見て、確かに僕は驚いたのだけれど、でもおそらく僕は、ホントは薄々気づいていた。里香が、いつもバイト仲間たちに見せる陽気なキャラだけじゃないってことに。気づいた上で、里香を大事に思っていた。一緒にいたいと思っていた。だから、もし里香が東京に留まっていたのなら、いずれはあの夜のことを尋ね、それでも僕と里香の関係が悪くなることなんてなかったのだと思う。そう信じる。――現実には、里香はいなくなった。SNSも携帯も繋がらなくなった。僕は後悔した。あれから、ずっと後悔している。あの夜、すぐに声を掛け、何とかするべきだったのだと。だから、――二年も経ってしまったけど、今更かもしれないけど、もしチャンスがあるのなら、僕は里香にもう一度会いたいと思っている。会って話がしたい」

 小学生の里香はそこで、「ちょっと待って」というように右掌を僕に向けた。次に、右手人差し指を立てて唇につけると、小さく「しっ!」と静かにするよう合図を送ってくる。それから里香は何秒かの間、目を閉じ、そして開き、右掌を彼女の額の前にかざして、「じゃあ、あなたも」というようにゆっくりと目を隠すように下ろしてみせた。僕にも目を閉じろということだろう。

 分かったよ里香、きみの指示に従おう。

 僕は目をつぶる。そこは闇。――いや、なんだか少し違う。薄暮の感じだ。そこに、映像のチューニングが合わないような、白黒のノイズが走る。音もだ。僕は白黒のノイズの世界の中に立ち、ザザザザというノイズ音に包まれている。

 すべてが不鮮明で、不吉で、不穏で。これを見せているのは、この少女なのだろうか。過去の里香? それとも現在? 未来?

 ノイズ越しに何かが転がっていくのが見える。強風に飛ばされて転がっているのだ。一つじゃない、いろんな形のものが、いくつも転がりながらもつれながら過ぎていく。ノイズがひどくて、そうした一つ一つが何なのかを見極めることは出来ない。そのせいか、転がっていくものを見ている僕の心象が、そこに反映されているようにも思える。つまりは、飛ばされていくのは首なし雛人形にように見えたり、人面猫のように見えたり、あるいは小学生の里香、今の里香、もしくは僕自身のようにも見える。それらが斜め後ろから飛ばされてきて、斜め前の方へと消えていき、手元には何も残らない。

 ノイズ音に掻き消されそうになりながらも、かすかに音楽が聞こえる。

 僕の「Lost People」だ。

 音源は、人形の首を切っていた時にがらんどうで鳴り響いていたものと同じ、今の新しい録音だ。何しろ僕たちの演奏だから分かる。つまりはあの時の音がどういう経路を伝っているのか、今またノイズ越しに聞こえてくる。だが、ともすると強烈なノイズに搔き消されそうで、あまりに遠い。

 聞こえているのは僕だけだろうか。このノイズの世界にいるのは、僕だけだろうか。里香もこの世界にいるのか。里香には聞こえているのか。届いているか。わずかでも、かすかでも。

 やがてノイズが少しずつ引いていく。それとともに僕の「Lost People」もまた、フェイドアウトしていってしまう。代わりに闇が、無音が、浸食してくる。そして、みるみるすべてが消え去る。

 あとには闇。今度は薄暮ではなく、闇――。

 目を開けると、ここはやはり児童公園のままで、でも小学生の里香は姿を消していた。ただし里香の立っていたあたり、地面の砂に、指で書いたのだろうか、何かのメッセージが残されている。

 僕は近づいて見た。十桁の数字だ。ハイフンで四桁、二桁、四桁に区切られている。おそらくは電話番号。始まりが「〇一」なので北海道。これは綾瀬里香の家の電話番号ではないか。何の根拠もないが、じゃあ他に何だというのだろう。僕はスマホで番号を写真に撮る。撮りながら、さっき目を閉じていた時のノイズ、そして闇を思う。

 あの夜、一度チャンスは失われた。そこから二年近くが経過している。

 スマホをポケットに戻し、改めて掌を見る。赤黒く残された雛人形の血痕。

 僕は、まだ間に合うのだろうか。



   2


 とにかくこの公園の「階層」を出よう。

 前回は帰り道を失い、遭難しかかった。だからまた迷うのではと思ったのだが、歩き出してみるとすぐに、帰りの道順が「分かっている」ことに気づいた。分かるはずがないのに分かっている。それは不思議な感覚だった。三分も行かないうち、僕はこの児童公園の「階層」からの「出口」に到達した。切通しの急な上り坂だ。以前、吉村先生の家のある「階層」から人面猫に案内されてここを下ってきた。

 僕はうねり伸びる坂道に躊躇いなく足を踏み出した。上っていくうち気づく。「階層」から「階層」へ「上る」のは、向崎マミ子探しを開始して以来、これが初めてだ。今まで僕は常に下っていた。未知の場所へと下りて下りて下り続けた。今はじめて、僕は未知ではなく既知の場所へと、上り坂を戻っていく。

 下った時にはひどく長く感じられた道程が、上りではあっという間だった。幅数十センチ程の狭い道を抜けると、桜の古木が見えてくる。あの灼熱の日、人面猫はこの古木の下で僕を待っていた。今、人面猫はもういない。代わりに、ポケットには猫のフィギュアがある。確かめるようにフィギュアを握る。掌に残された血の染みのあたりに、フィギュアはよく馴染んだ。

 本当に何もかもがスムーズになっていた。まったく迷うことなく吉村先生の家に着く。僕が地下室で人面猫に触れる前に、ふと過った恐れ。僕の属する世界が何もかも違ってしまっているのではないかという。でも少なくとも家はある。

 黒い木材と白い漆喰の壁、勾配のある焦げ茶の屋根、意外と手入れの行き届いている庭の樹木。決して大きくはなく瀟洒でもないけれど、美しい昭和の邸宅。個々のパーツとしては、記憶との違いは何も見受けられない。

 それなのに全体の印象がどこか大きく異なっている。僕の知っているこの家は、古くてもまだ「生きて」いた。でも、眼前の家には生命が感じられない。魂を失い、空っぽな感じがする。この家はがらんどうだ。それも昨日今日、がらんどうになったわけではなく、もうずっとここはがらんどう――。

 僕は混乱する。だってほんの一か月前、僕はこの家で吉村先生と出会った。本の片づけを手伝った。円柱のグラスに入った美しいレモネード、古びたエアコンの少しだけ不躾な冷風と低くうなる音、それに窓越しに見える庭木、そういったものたちが作り出すちょっと神懸かり的な空間に僕と吉村先生は確かにいた。二週間程前には、輝く煎茶を飲み干し、喪服を意味する黒いワンピースを着た吉村先生と語らった。

 おそらく、もうここには吉村先生はいない。いや、とっくに何カ月も前から、吉村先生はいない。そもそもここに吉村先生などいなかったのかもしれない。僕はポケットからスマホを取り出し、「S大学教授」の「吉村美紀」を検索しようとして――止めた。

 もしもまだ曖昧な世界が続いているのだとしたら、すべてが流動するのだとしたら、ここで吉村先生を検索して、たとえばまったくヒットしないとか、あるいはもうとうに――たとえば9.11.の時に――亡くなっていたとか、そんなカードを引いてしまったのなら、それが事実として固定されそうな気がして、怖かった。それならいっそ、今は曖昧なままでいい。

 ためしに二回、インターフォンを鳴らしてみたけれど応えはなく、それで僕は吉村邸の前から離れた。


 次は辰巳庵だ。吉村先生の「階層」から辰巳庵の「階層」へと繋がる、ねじれた階段。結構長い階段だ。僕はそこを上る。下りてきた時は右側にあった木立が、今度は左側になる。下りが上りになると、右は左になり、左が右になり、つまりはすべてが逆になる。やがて、木立の先に大木が見えてくる。これまではメビウスの輪のねじれに沿って僕は階段を下り続け、今、そのねじれを解くように階段を上がる。

 最後まで上りきり、大きな木を過ぎると細い路地。そこをさらに進んでいくと、枝を張り出した巨木が現れる。真夏の炎天下では安らぎの木陰を提供してくれて、僕はそこで先を行く人面猫を気にしながらも一息つかせてもらった。今日はもうそんな必要もない。僕は一人、その木の下を抜け、やがて道は振り出しの場所と繋がる。

 小室邸。向崎マミ子からの香典の差出人住所だったところだ。とくに異変は感じられない。足を止めることなく通り過ぎ、辰巳庵へ向かう。

 つい昨日訪れた辰巳庵は、変わらずそこにあった。昨日同様、シャッターが下りたままになっている。クマちゃんが「店は閉める」と言っていた、その通りだ。通常営業していて、クマちゃん夫が生きていて、などということは無さそうだった。

 裏の勝手口に回りインターフォンを押す。

「はい」

 すぐにインターフォン越しで返事があった。クマちゃんの声だ。

「戸坂です」

「あら。ちょっと待ってね」

 二階から階段を下りてくる音がして、通用口のドアが開く。クマちゃん本人だ、間違いない。それは僕にとって想像以上の安堵だった。この老女と再び会い、そして彼女はどこも変わらない。

 それはふいのことだった。

 強烈な睡魔を感じた。そうだ、僕は地下室でずっとノコギリで切っていて徹夜しているはずで、光のドアをくぐってリフレッシュされる前には、未経験領域の疲労と筋肉痛で死にかかっていたはずで。だから、クマちゃんの顔をみてほっとして、それで急に眠くなっても不思議じゃない。

 それにしても睡魔は不意打ちで、僕をハンマーで殴り昏倒させるかのように、圧倒的で。

「すみません」

 僕はやっとのことでクマちゃんに言った。

「なんか、すごく疲れてしまって、少しだけでいいので横にならせてもらえませんか?」

「ちょっと玲人くん、大丈夫? 二階に布団敷くから」

「いえ、畳の上にごろっと出来ればそれで」

 僕は這うようにして二階に上がり、クマちゃん夫の遺骨が置かれている和室に転がり込んだ。そのまま畳の上で横になる。

「玲人くん、いったいどうしたんだか。玲人くん、大丈夫?」

 僕はそれで、大丈夫ですと頷いたような気がする。僕の頭の下に枕が差し込まれ、体には毛布がかけられ、「ありがとうございます」と御礼を言ったような気がする。でももう朦朧としていて、よくは覚えていない。もしかしたら、それは夢の中のことだったかもしれない。

 僕は睡眠の海に急潜水していく。海の底は温く暗く柔らかく、とんでもなく安逸で、僕はそこに溶けていった。


 目覚めると夜になっていた。和室の明かりはオレンジ色の常夜灯で、クマちゃんの姿はなく、僕は慌ててスマホで時間を確かめる。七時を回ったところだった。

 もうすっかり日は暮れていて、――さらさらとした衣擦れのような雨の音がした。ここに辿り着いた時にはあんなに晴れていたのに。窓に近づいて外を見ると、街灯の下、アスファルトにはいくつか水溜まりも出来ていた。

 僕がそろそろと部屋を出て階下へ降りると、クマちゃんは店のテーブル席に座り、テレビを見ていた。

「すみません、眠ってしまって」

「目覚めた? ずいぶん疲れていたみたいね。よく寝てたよ。もう遅いし、晩御飯、食べていきなよ。何か作るよ」

 クマちゃんはそう言って立ち上がりかけたけれど、僕は彼女を制した。

「いえ、もう帰りますんで」

 それから、郷土資料館の本木さんを紹介してくれたのがクマちゃんだったことを思い出し、報告しなくてはと考えた。さて、どこまでをクマちゃんに話したものか。

「えと、あの……、昨日、教えて頂いた郷土資料館、本木さんにお会いして近藤茉美の資料を見せてもらったんですけど」

 僕が考え考え話し出すとクマちゃんは、

「え? 何? 何のこと?」

 不思議そうな顔になった。

「何のことって、だから昨日、僕がここに来た後」

「玲人くんがうちに来たのは今日でしょう?」

「え? 昨日ですよ、昨日きてそれで」

 するとクマちゃんは破顔した。

「やだあ玲人くん、寝ぼけて。変な夢でも見たんじゃないの?」

「え、でも、ご主人のご焼香していた時に、郷土資料館の本木さんがあの写真は向崎マミ子じゃなくて近藤茉美だって言ったって、教えて頂いて」

 言い募る僕に、

「私、本木なんて人も近藤茉美なんて名前も聞いたことないよ」

 とクマちゃんが応える。僕は慌ててスマホを出して、今日の日付を確認する。

 九月二十五日。

 昨日、クマちゃんの家に来たのが二十五日で、それから資料館での一夜を経て、今日は二十六日だと思っていた。でも今日は二十五日。つまり僕は、昨日じゃなくて今日、ここに焼香にやって来たのだ。だから外は雨で、しかもしばらく降っていた気配があったのか。二十五日、つまり今日は朝から今にも降り出しそうな天気だったのだ。

「玲人くんったら、子供みたいに寝ぼけてるのねえ。さっき、お焼香してもらった後、昼からだけどお清めみたいなものだからって、二階で日本酒飲んでたら、すうって寝ちゃったのよ。起きないから、疲れてるのかなって毛布かけてそっとしといたけど」

 つまり、あの郷土資料館での、地下室での、そして公園での出来事は、すべて夢だったというのか?

 僕はそれで、はっとして、右掌を見た。そこには血の染みが残っている。それからポケットの中を探った。指先に、猫のフィギュアが触れる。消えていない。残っている。そして最後に僕は、スマホの写真を開く。児童公園の砂に書かれた電話番号も、そこにある。

 よかった――。


   3


 自宅に帰り着いたのは夜の十時を回っていた。外食店はコロナの感染拡大防止のための自粛でほとんどがこの時間には店を閉めており、僕がコンビニで買って帰った弁当をレンジで温めていると、父が外から帰ってきた。仕事はほとんどがリモート、宴会も無しの昨今、こんな遅い時間までの外出は珍しい。

「お帰り」

 声を掛けると、

「ああ、いたんだ」

 父はひどく疲れた様子で言った。

「あのさ」

 父にも伝えておかなくては。

「ちょっと急なんだけど、明日、北海道のZ市に行ってくる」

 明日、里香に会いに行く。飛行機のチケットは、クマちゃん宅からの帰りの電車の中でネット予約できた。コロナのお陰でガラガラだった。ホテルも何とかなるだろう。

 一日でも早くと思い、決めた。もう里香が越していってから二年近くが経っている。でも、「いまさら」の一日ではないと思う。その一日が命取りになることだってあるだろう。二度目のチャンス、それは奇跡のようなもので、そんな奇跡はきっと簡単に消えてしまう。だから。

 Z市に着くまでは、あの番号に電話しないつもりでいた。早くに電話をしたのなら、里香がまたどこかへと姿を消してしまいそうな気がしたから。

 当然に父からは「何をしに?」などと尋ねられるかと思った。でも父は、

「あ? ああ。分かった」

 と頷いただけだった。それどころか、

「金はある?」

 と聞かれた。

「うん、まあ何とかなると思うけど」

「あれ、あれを使えばいいよ。向崎マミ子の香典」

 急に出てきたその名前に僕は虚を突かれた。

「いいの?」

「構わない。っていうか、そのための金だよ。事情があって父さんが使わせてもらって、それでもまだ結構、残金があったはずだから」

「ホントに? それは助かる」

「そこ、一番上の引き出しの封筒に入ってる」

 そこまで言うと、父はリビングのソファに倒れこむようにして座った。背もたれに頭を乗せ天井を仰ぐ形で目を閉じている。

 僕は引き出しを開け、封筒の中身を確認する。三十三万円あった向崎マミ子からの香典は、82,490円まで減っていた。その金額は、僕がネット決済した往復の航空運賃より、ぴったり五万円多かった。

「足りる?」

 と父。

「五万円ちょうど余るけど」

「なるほどな……。だからそれは、向崎マミ子探しの成功報酬だよ」

「え? 結局、探し出せてないけど、成功、なの?」

「そうだろう? そういうことだろう? 玲人はそう思わないか? 違うかな?」

 父は呟き、僕も、ああ、そうか、そうかもしれないと思った。香典で送られてきた三十三万円と82,490円の差額を、父はおそらく、向崎マミ子に関する事項に使った。僕と同じように。祖父が死に、向崎マミ子のリマインダーは、僕、そして父にも作用したのだろう。香典は僕の報酬分を残してピッタリ使い切られ、向崎マミ子はリマインダーの役割を果たし終えた。それこそが「成功」なのであり、だからつまり、僕の向崎マミ子探しも終わりということになる。

「父さん、これで向崎マミ子の捜索は」

「ああ、打ち切りだ」

 父は相変わらず目を閉じたままで答えた。



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