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第6回 反復する斬首、解かれる記憶、人面猫は還る

   1


 辺りには、あまり嗅いだことのない生臭い臭いが満ちている。正面は、巨大な雛人形たちで塞がれていた。人形は全部で五体。奥の一段高くなったところに、男雛、女雛。その手前、床と同じ高さに三人官女。いずれも、ほぼ等身大の大きさなのだ。

 人形は小さいからこそ愛らしいというところもある。この大きさだと、むしろ仏像のようだ。僕は目の前の人形たちに威圧されて、二歩、三歩、後ずさった。後ろを振り返ると、そこは汚れた壁だった。天井は高いが、壁同様に汚れている。下りてきたはずの螺旋階段はどこにもなかった。

 雛人形の向こう側には、開け放たれたままのドアがあった。ドアの先に光が見えた。つまりはここから出るには、雛人形たちの間を抜けてそのドアまで辿り着かなくてはならない。

 これは夢なのだろうか。まずそう思った。でも、夢の中で「これは夢か」と疑い、その正否を証明するのは難しい。たぶん夢? 夢だとしても、たとえ夢でなかったとしても、どのみち僕が向かう先は一つしかない。それならさっさと向こう側に行くまでのこと。

 僕は人形たちに向かって歩き出した。それで三人官女の間を通り抜けようとしたのだけれど、……そこから先に進めなくなった。体が言うことを聞かなくなるのだ。僕は初め、一番左の官女と真ん中の官女の間を抜けようとして果たせず、その場で二度、三度、突っ込んでいったけれどどうしても足が動かなくなってしまう。それで何となく結果は見えていたのだけれど、一番左の官女のその左側から初めて、順番に官女たちの間、そして一番右の官女のその右側まで試していった。

 予想通り、どこも通り抜けることは出来なかった。

 じゃあ、どうしろというんだ。ここで一人朽ち果てろとでも?

 ――玲人。

 里香の声が再び僕の中に響いたのはその時だった。

「里香?」

 ドアの向こうにいるのかと目を凝らしたが、気配はない。

 ――玲人、よく聞いて。

 里香の声は、この地下室の空気を震わせて伝わってくるのではない。あくまで僕の中で生まれている。里香は、ここではないどこかにいて、僕に語り掛けているのだ、おそらく。

 里香は強く囁く。

 ――切り落として。

「え?」

 ――人形たちの首を切り落として。そうすれば通れるから。

 僕はたじろいだ。たじろいですぐに、あの夜の光景を思い出した。僕があの夜まで知らなかった里香の表情が蘇る。

 でも、どうやって?

 僕の疑問が届いたかのように、里香は答えた。

 ――右の壁に、ノコギリが掛かっているでしょう? そのノコギリで人形の首を切り落として。

 たしかに、そこにはノコギリがあった。僕は人形たちに目を向けた。それはあくまで人形で、命あるものでもなく、――でも僕はこの五体の首を切ることなど、到底出来そうに無かった。だから僕は動けなかった。

 ――玲人!

 里香の声の調子がさらに強くなった。

 ――玲人は、私を何とかしたいと思っていてくれたんじゃないの? あの夜、私に声をかけるべきだったって、そこで何か意味のある言葉を紡いで、私を助けたいとか、力になりたいとか、そういうことを考えていてくれたんじゃないの?

「それはそうだけど、だからってなぜ雛人形の首を切り落とす必要がある?」

 すると里香は沈黙してしまった。気配はまだ残っていたけれど、僕の問いに答えようとする様子はない。すべての判断は僕に委ねられている。

 僕は壁に近寄った。近寄ってノコギリを手に取った。ずしりと重みがかかった。気持ち的にも片手では支えきれずに、僕は両手で持った。それで一番右側の官女へと歩いた。

 人形なんて所詮はモノに過ぎない。壊すことにそれほどの恐れを抱く謂れは無い。でも人は人形に、モノに、思いを込める。込めるために人形を作り、飾る。だからその人形の首を切るという行為は、込められた思いの首を切ることに他ならない。木製の雛人形は首を切られても血を流すことはない。ないけれど、人形に思いを込めた人にとってみれば、血と同じくらい大事な何かが流れ出すことになる。おそらく僕が恐れているのは、そういうことだ。

 そして僕はノコギリを手にした今、気づかざるを得ない。あの夜、里香は雛人形の首を落とし、祖母と母と共に雛人形に込めてきた何かを、自ら流れ出させたのだ。それはかつての感情を殺すこと、その意味では自殺の一種とも言えるのかもしれない。そんなことをした残滓を捨てるに当たり、里香は薄く笑っていた。里香は、人形の遺骸を粗雑にゴミ置き場に投げ捨て、歩き去った。振り返りもしないで。

 もうあの時にはおそらく、里香はかつての自分との決別を済ませていた。そして、古いもの全てを打ち捨てるように東京を去った。連絡も絶った。

 でも、と僕は思うのだ。里香が僕と、あるいはバイト仲間たちと過ごしたあの年月は、首の無い人形たちの巻き添えとなってゴミ袋に入れられ捨てられ、無かったことになっても構わないと思うほどに、里香にとって価値のないものだったのだろうか。十八年間の全部を打ち消して生きることが、延長線上で生きることを上回るというのだろうか。

 里香に何があったのか僕には分からないし、世の中にはそれほどの強い恐怖あるいは怒りがあるのかもしれないけれど、でも何とかならないのだろうか。もう、どうにもならないのだろうか。

 ――玲人、もし玲人がこの五体の首を切って葬ることが出来たなら。

 出来たなら? 里香の気持ちに少しだけでも近づけると? 理解できると?

 僕はノコギリを持ち上げ、間近で官女の顔を見た。僕の顔とさして変わらない大きさだ。そこに雅な雛人形の目鼻立ち。ノコギリを振り上げ、人形の首に当てる。勿論、人形は抵抗しない。悲鳴も上げない。表情も変えない。ただそこに静かに座っているだけだ。

 僕はノコギリを首に強く押し着けると、一度息を吐き、ゆっくりと、ほんの少しだけ、手前に引いた。刃が木材を削る感触が握っている掌に伝わる。

 そう、これはただの人形に過ぎないのだ、木工製品に過ぎないのだ、しかもこの地下室、この巨大さ、これは到底、現実のこととは……。

 内側の柔らかいところを思い切り切りつけられた時のような激しい叫び声が、僕の中で破裂した。誰かが叫んでいるのだ。泣いている、苦しがって蹲って、それで絞り出すように叫んでいる。

 僕が……、僕が人形を殺そうとしているせいか。そうなのか?

 それでも僕はノコギリを引く。

 僕の中の悲鳴、絶叫。

 人形は叫ばない。泣かないし、出血もしない。ただ人形の首からは、おがくずが少しだけ、ノコギリの刃にからみつく。それだけ。それなのに、ああ、何ということだろう。ノコギリを握る僕の手が、血で濡れていく。僕の掌に痛みはない。傷もない。だからこれは僕の血ではない。僕は出血していない。でも、僕は自分の中にはっきりとした痛みの存在を感じる。それは僕の痛みじゃない。里香の、あるいは誰かの痛みだ。血は勢いを増し、僕の両掌を赤黒く染め始める。柄を握る手がぬめるほどに。僕は、またたじろいでしまう。

 里香はそれを許さない。

 ――玲人、私を助けて。雛人形たちを倒して、私を助けて。

 そうなのか? こいつらは、三人官女は、男雛は、女雛は、里香を苦しめる悪者なのか?この、黙ってノコギリを入れられている、言葉を発することもない人形たちは。

 僕はまたノコギリを引く、引く。そのたび、血がぶしゅっと音を立てて吹き出し、両掌に溢れる。溢れた血が僕の二の腕から肘に回り、いくらかは床に垂れ落ち、いくらかは僕の体に沿って流れシャツを染め、いくらかははねて人形の白く美しい顔を、華やかな着物を汚す。それにしても、本当にごく少しずつしか、ありえないほど少しずつしか、首は切れて行かない。僕はひたすらノコギリを使い、そしてそのたび血がどこからか出現し、悪夢から覚めることは無い。

 一体目の「作業」が終わるまでには、相当に時間がかかっていたのではないかと思う。僕は全身血塗れで、生臭い臭いは何十倍にもなって空間を満たしていた。それでも僕はまだ、官女の目に見えない防衛ラインを突破することが出来ない。やはり、五体全部の「作業」を終えなくてはならないのだ。

 深くため息をつくと、僕は二体目に取り掛かった。常識だとかまともな感覚だとかは、悉く麻痺していた。だって、何がなんだか訳が分からないじゃないか。僕は、このバカげた状況について何も考えなくなり、感じなくなり、初めの頃に僕の中にあった叫びも聞こえなくなり、でも血は流れ続け、ただただノコギリで目の前にある雛人形たちの首を切り続けた。

 そうして、三人官女の「作業」が終了する。首のない、血に塗れた三人官女。もっと血に塗れた自分。とにかくこれで、第一防衛ライン、みたいなものは突破できるはずだ。

 僕はおそるおそる左の官女と真ん中の官女の間を進み……、何の抵抗もなく通り抜けることが出来た。自然に、「よし!」と声が出た。振り返る。首を失った三体の人形、その向こう側、僕が出現した地下室、そして壁。通り過ぎてしまえば、さっきまで足が、体が、動かなかったのが嘘のようだった。僕はほんの少しだけ愉快な気持ちになり、首なし官女の間を何往復か行ったり来たりした。何者も、僕を遮ることは無かった。

 でも、そんなささやかな高揚感はすぐに薄れた。まだ終わりではない。僕は三人官女の奥、一段、段を上がり、男雛と女雛の前に立った。念のため、その間を通り抜けようとして……、やはり阻まれた。男雛の左、女雛の右、通れない。体が動かなくなる。いくらやっても、走って突っ込んでみても、僕の体は止まってしまう。

 三人官女の時と同様に、男雛と女雛の首を切らなければ、僕はここを通り抜けることは出来ないのだ。


   2


 男雛・女雛を眺めていると、三人官女の最初の一体にノコギリを当てた時の気持ちが戻ってくる。平和で安らかな表情。声を発するでもなく、何かを主張するでも訴えるでもなく、歌を唄うこともなく、ただただそこにいるだけ。それでも、人形たちがそこにいることで、僕はドアに辿り着けない。だから仕方がないのだ。そうして君たちは、突然降って湧いた僕に首を切られる。君たちは何も悪くはない。それに君たちに何の恨みもない。でも仕方がないのだ。

 僕は自分のノコギリを床に置き、血に染まった両掌を見た。血はどす黒く変色し始めていた。豆が出来ていて、そこがじくじくと痛んだ。五体のうち三体は終わった。半分は過ぎた。あと二体。

 僕は自分を励ますと、改めて男雛と女雛を見た。どちらの人形から作業をするか、思いを廻らせる。

 まずは男雛から処理しよう。それで、抱えるようにして、女雛の向きを男雛に背を向けるように変えた。男雛を処理するところを女雛には見せたくなかったのだ。バカみたいだけれど。

 僕は男雛のところに戻り、床に置いておいたノコギリを手に取った。

 人形の首に刃を当て……、引く。

 その時、僕の頭の中で、大粒の雨が降り始めた。黒っぽい雨だ。僕は構わずにノコギリを動かし続けた。雨は勢いを増し、すぐに豪雨となった。雨音もまた激しく耳を聾するようで、他の物音がよく聞こえないのだけれど、でも雨の中で誰かが、確かに誰かが叫んでいるようだった。誰だかは分からない。一人じゃない、大勢だ。だから余計、分からない。でも、その声の中には僕のよく知っている声も含まれているような気がする。しかしそれも確かめようがない。

 今、僕に出来ることと言えば、ノコギリを使うこと。人形の首を落とし、ここから出ること。他に、僕に与えられた選択肢は無い。たとえそれが、――考えたくはないが、たとえそれが間違っていたのだとしても。

 雨は洪水を引き起こした。洪水は何もかもを薙ぎ払い、流し尽くしていく。黒い洪水は僕の形而上学的感覚をやすやすと乗り越え、僕は黒い水に飲まれて、黒い水は僕の体の中すみずみまで入り込み、赤い血液を追い出して血管を心臓を肺を満たしていき、僕は生理的に息が苦しい。

 男雛・女雛は三人官女よりも体が大きく、そのうちで男雛はさらに大きい。そのせいなのか、ノコギリから吹き出し流れ続ける血の量も半端ではなかった。もう僕の両腕全体が赤く染まり、肌の色など見えない。着ているヘンリーネックのシャツも、元の色が何だったのか分からない。男雛の首は太い。三人官女の直径の二倍くらいありそうで、とすれば断面積は四倍になる。

 またどれだけの時間が経過したのか、漸く男雛の処理を終えた時、僕は疲労と息苦しさのため、その場に座り込んだ。床の血溜まりがチノパンを簡単に通り過ぎ、トランクスまでをぐっしょりと濡らした。

 あと一体。これで最後。とにかく最後。僕はどうにか息を整えると立ち上がった。トランクスやチノパンだけじゃない、シャツもまた血に濡れて肌に張り付き、気持ちが悪い。

 女雛の作業は、男雛の後では物理的にはスムーズに感じられた。そして、僕の中で充満していた黒い水はいつの間にどこかへと引いて行き、無くなっていた。その後に訪れたのは、「無」だった。きっと全部、洪水が持って行ってしまったのだ。僕の中には何も残っていない。誰もいない。

 僕はただキコキコと音を立てて、女雛の首を切る。僕自身が人形に、木材を切断するカラクリ人形になったかのように、首を切る。

 音が……、聞こえた。がらんどうとなった僕の中で、音楽が鳴っているのだった。音は少しずつ、大きく鮮明になっていく。バンドの演奏。ギター、ベース、キーボードにドラムス。このギターソロ、ドラムスのフィルイン。フィルイン……、フィルイン!

 ああ、遼太郎だ。遼太郎のフィルインだ。視力検査の機械で、視力に合わせたレンズが嵌め込まれた時のように、すうっと曲への焦点が合う。僕たちのバンドの曲だ。遼太郎がフィルインを変えたと僕が何度も思って、でも遼太郎は変えていないと言って、その微妙なバリエーションが今一つに、この一つに収斂していく。

 そして僕は思い起こす。高三の春、この曲の歌詞を作詞していた時、バイト先の五島亭開店前、ちょっと早く着きすぎて、店の裏でiPadでああだこうだと一人、直しを入れていた。そこに里香が通りかかって、

「何? 歌詞書いてんの? 見せて見せて!」

 と言ってきた。僕は完成前のはダメと慌ててiPadをしまおうとして、でも里香はそれを強引に奪い。

「何? このブランクのところ?」

 聞かれて僕はしぶしぶ答える。

「ここに何て言葉を入れるか迷っている」

 すると里香は、すっとキーボードに手を伸ばし、瞬く間に、

「my lost people」

 と入力した。

「マイ、ロスト……、ピープル?」

 僕は怪訝そうな顔をしていたと思う。だって僕はそのブランクに、「あの日の君」とか、「君一人だけ」とか、かなりセンチメンタルに、僕が歌を捧げる相手を入れるという詞の流れだったから。

「そう。my lost people」

「どういう意味?」

「だからつまり……、いくら英語苦手だって、この三つの単語の意味くらい分かるでしょう?」

 それで里香は、僕に答えを教えてくれることはなく、そのまま店の方へと入って行ってしまった。

 その後、結局僕は、このフレーズの意味を彼女に聞くことは無かった。そういうことは、聞くだけヤボというものでもあるし、だから僕は自分で意味づけをしようとして、でも何かあやふやな理解で、そのくせmy lost peopleという音がすごくはまりが良くて、それで僕はこの歌詞で決まりにしたのだ。タイトルも、このサビフレーズから取って「Lost People」とした。バンドメンバーみんなも、そして何より僕自身が一番お気に入りの曲で、だからずっと看板曲として演奏し続けている。今も少しアレンジを変えて、録音し直しているのだ。

 その曲が、メロディが、歌詞が、女雛の首を切り続ける僕の中のがらんどうで鳴り響いている。聴衆もおらず、いやそれどころかバンドメンバーもスタッフも誰一人おらず、イスも舞台も音響設備も何も無いがらんどうで、僕の音楽だけが鳴っている。

 僕はノコギリを動かし、音楽はしまいには鐘のように鳴りわたり、やがて時は満ち――、女雛の首が静かにゆっくりと落ちた。

 とうに時間の感覚は失われていて分からないが、もしかしたら五体全部で半日、あるいは一日かかったかもしれない。中高時代から技術は苦手だったけれど、それにしても雛人形の切れなさ加減は異常だった。しかも中途半端な姿勢で、かつ、いくら拭っても無駄な血の滑りというハンデを抱えて。それで、丸太を五本切ったようなものだ。掌の豆は潰れ、両腕はひどい筋肉痛、精神的にも翻弄され尽くした感じで、とにかく限界を超えて疲れていた。ノコギリを手にしたまま、途中で何度も意識が飛んでいたような気すらする。

 三人官女の第一防衛線突破の時のような余裕は、心身いずれにも残されていなかった。僕は重い体を引きずって、男雛と女雛の間を通り抜けた。第二防衛線も、もはや機能していなかった。

 僕は男雛・女雛の向こうへ、乗っている段から下の床に降りた。開かれたドアからは光が溢れる。強い光の束に近づいて行っただけで、あまりの眩しさに視界が真っ白に閉ざされた。こちら側からでは、ドアの向こうは何も見えない。僕は手で光を遮り、慌てて影に入る。

 目を瞑っても光の残像がフラッシュしていて、やがてそれがゆるゆると収束していき、それで僕はゆっくりと目を開き、そうしたら――、光の束から外れた場所で、人面猫が待っていた。

「来てくれたんだ!」

 思わず人面猫に話し掛ける。人面猫はそれに応じる仕草をするでもなく、もちろん人の言葉を喋るでもなく、ただいつもとは違い、僕の前に立って歩き出すことはなかった。じっと僕の方を見つめている。

 僕が近寄って行っても、人面猫はそのままのスタイルを保っていた。四つ足をきちんと延ばし姿勢よく、しっぽはぴんと立たせて、僕の顔を見上げる。

 明らかに、人面猫は僕が近づくのを待っていた。僕は人面猫の前まで来ると、しゃがんだ。いつも僕から二、三メートル離れて、僕のことを道案内はしてくれるけれど、そこからはすっと姿を消してしまう、その人面猫が今日に限って僕が近づくのを、いや触れるのを待っている。

 そうか、と僕は電気が走ったように感じ取る。僕が人面猫に触れ、おそらくはそれで、向崎マミ子探しは終わりを迎える。最終章に入るのだ。

 振り返れば奇妙な夏だった。新型コロナウイルスという目に見えず触れることも出来ない突然の檻に囲われ、そこで始めた僕の向崎マミ子探しは出口が見つからず、あちこちで曖昧さにも見舞われ、全てがものすごく歪んでいたようでいて、そのくせ僕がずっと向き合ってこなかった二年前の喪失、里香の喪失を、逃れようもなく突き付けてきた。その行程も今、夏の終わりともに終盤を迎えつつある、ということなのだろう。

 人面猫はそこでかすかに笑い、小さく、でも強く頷いた――、そう見えた。近藤茉美の登場でどうなることかと思ったけれど、どうやら僕は正しい道を進んできたみたいだ。

 僕は人面猫に、慎重に手を伸ばした。血に染まった指先が猫の首筋のあたりに近づいていく。猫はもう身じろぎ一つしない。しないで僕に触れられるのを待っている。

 最後の最後で少しだけ躊躇した。向崎マミ子探しが終わったその先で、里香がいた「落ちた世界」を取り戻せるのか、不安だったのかもしれない。あるいは僕がこの地下室から戻ったら、僕が属していた世界が全然異なったものになっている、そんな想像がふと過ぎったからかもしれない。

 それでも前に進むしか道はない。後ろには首を無くした五体の雛人形の残骸、その向こうは壁、つまりはどこへも繋がらないどん詰まりの地下室があるだけだ。

 僕の指先が人面猫に触れる。猫は嫌がらなかった。僕は右掌全体で猫の喉や頭を撫でた。人面猫は僕の掌に体を寄せてきた。僕は同じく血塗れの左手も伸ばした。左掌でも猫の喉を撫で、それから人間の間抜けな顔のような模様をした背中も撫で……。

 次の瞬間、猫が消えた。

 文字通り、ぽん、と消えたのだ。後には、虚空に変な形で両手を突き出した僕だけが残された。――いや、正確には、残されたのは僕だけではなかった。人面猫のいた床に、親指の先ほどの小さなフィギュアが一つ、転がっていた。

 三毛猫のフィギュアだ。

「あ!」

 それを見て、僕は思わず声を上げた。フィギュアには見覚えがあった。僕の頭の中で、閉じられていたいくつもの記憶の扉が一斉に開かれていく。五島亭のバイト帰りだ。僕と里香はゲームセンターに寄った。ゲームセンターと言っても新宿や渋谷のような大きな繁華街のそれではなく、むしろ住宅街の隅にあって、地元のごく普通の小中学生たちがたむろしているような「ゲーセン」だ。

 初めに言い出したのは里香だった。通りすがり、人生で一度もゲーセンなるものに入ったことがないと里香が言ったので、「じゃあ行ってみる?」と、そんな感じで。とはいえ僕もそんなにゲームをする方じゃなくて、それで、二人で目に付いた格闘ゲームや、モグラ叩きや、射撃みたいなのや、そんなのをいくつかやってみた。里香は初めてのゲーセンをそれなりに楽しんでいたんじゃないかと思う。僕もまた、里香と来た初めてのゲーセンが楽しかった。僕にとって、「里香と来た初めて」と修飾語を付けることで、ほとんどすべてのことが特別になった。

 高校二年の冬だ。五島亭でバイトを始めて、里香とそこで知り合ってからほんの数か月。帰りに寄り道するようになってすぐの頃で、僕はまだ里香のことを「綾瀬さん」と苗字で呼んでいた。そうだ、たしか十二月の初めだった。その後、バイト仲間でクリスマスパーティーをやって、そこで誰かが「苗字じゃなくて、あだ名や下の名前で呼ぼうよ」と言いだした。それで「綾瀬さん」は「里香」になり、「戸坂くん」が「玲人」になった。

 僕の記憶がするすると引き出されていく。まだ「戸坂くん」時代のあの時、ゲーセンで一番最後に、僕たちはカプセルトイをやった。百円玉を入れてツマミをガチャガチャと捻ると、カプセル玩具が出てくる奴だ。えいっと開けたカプセルから転がり出てきたのが、この猫のフィギュアだった。何かちょっとブサイクな猫だった。三毛猫で背中の模様も何だか適当な感じで。それを里香はじっと眺めていた。

「微妙?」

 僕が尋ねると、

「ははは、微妙」

 里香はすこしかさついた感じの笑い方をした。それで僕が、

「じゃ、いらない?」

 と聞くと、

「うーんと……」

 と里香は迷う顔になった。それからふと、

「ねえ、戸坂くん。戸坂くんは魔法みたいなのって、信じる?」

 と尋ねてきた。

「魔法?」

 話が大きく飛んで僕はたぶん、変な顔をしていた。

「不思議なこと、偶然にしては出来すぎみたいな、えーありえない!みたいな。そういうの、信じる?」

 心霊とかスピリチュアル系とか、そういうのは僕が抱いていた里香のイメージとはちょっと違ったので意外に思った。もしかしたら、それが少し顔に出ていたかもしれない。

「あ、バカなこと言ってるって思ったでしょう」

「いや、そんなことは」

「そんなことあるある。戸坂くんは思っている。戸坂くんはおそらく、そういうのがいらない人なんだと思うよ」

 それはそうなのかもしれないが、里香にそう言われてしまうのは距離を取られるようで寂しく、つまりは僕はしくじったと思った。そんな僕の心の動きも、またもや里香は読み取っていたのかもしれない。彼女は、

「でもね、戸坂くん。戸坂くんにもいつか、そういうものが必要になることがあるかもしれない」

 そう言って僕の右手を取り、掌にブサイク猫のフィギュアを握らせたのだ。

「この猫。変な猫。これがいつの日か、戸坂くんを導いてくれる日が来るかもしれない」

 里香との大事な思い出のフィギュアのはずだった。それがいつの間にか、無くなっていた、たぶん。「たぶん」と言うのは、無くなったということにさえも、僕は気づいていなかったからだ。ただもうずいぶんと長い間、このフィギュアを目にしていなかったし、どこにしまったのかも分からなくなっていた。里香との音信が途切れた時に、フィギュアもまた僕の前から姿を消していたのだ。

 それが今、戻ってきた。いやここ一カ月ほど、ずっと僕の傍にいたのだ、人面猫として。

 ありがとう、人面猫。僕はフィギュアを握り、立ち上がった。ドアは光に満ちている。強烈すぎて人を殺めそうだ。それに、ドアの向こう側は光のせいで相変わらず何も見えない。でも、構うまい。光の中へ、突っ込んでみなくては始まらない。

 僕は影の中、壁に沿ってドアへと進んだ。それでもドアが近づくにつれて光の威力が迫ってくる。途中からは眩しさに目を手で覆いながら進んだ。ついには目をつぶってしまったけれど、それでもまぶたの裏側で光が跳ね回っていた。僕はもう止まらなかった。指先を開かれたドアの、壁の端にかける。

 僕は、そのまま体をドアの向こう側へと一気に滑り込ませた!



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