表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/8

第5回 反復する死、書庫か黄泉か

   1


 何とか課題を大学にメール送信したその同じ日に、エージェント1号のクマちゃんから、ショートメッセージが届いた。それは、クマちゃん夫の急死を告げる訃報だった。死因は突然の心不全。ついでがあれば、寄っていって線香でも上げてくれればとあった。

 僕はクマちゃん夫の顔を思い出そうとしたけれど、うまく行かなかった。ひどく冷酷で理不尽な気がしてへこみかけたけれど、夫はずっとマスクを着けたままだったし、店を訪れた時に喋った相手はほとんどクマちゃんの方だったし仕方ないかと自分を納得させることに努めた。

 そうしたら、ほんの数日前に四十九日法要を終えたばかりの祖父の顔が、ちゃんと浮かばなくなった。これはさすがにヤバいだろうと、僕は必死で思い出そうとし、それでどうにか浮かんでは来たのだけれど、果たしてホントにこんなだったかと心もとなくなり、遺影を見に行き、それだけでは落ち着かずアルバムを引っ張り出した。何枚も何枚も写真を見て、顔を確認することはできた。出来たのに、今度は写真の祖父が本当の祖父ではなく偽モノのような気がしてきた。一度その思いに捉われたら、ますます偽のような気になり、それが確信になりそうで、しつこく写真を眺めていたら、ついには、祖父の顔がゲシュタルト崩壊みたいにバラバラに分解し始めた。

 僕は慌ててアルバムを閉じた。それでため息をついた。

 いろいろ、どうにかなりそうだ。


 蕎麦屋「辰巳庵」を訪ねたのは、ショートメッセージを貰った二日後、九月二十五日のことだった。僕は初めて店の二階の住居部分に上げてもらった。古い所帯にありがちな、物の多いごちゃごちゃ雑然とした様子を想像していたが、実際にはこざっぱりと纏まった室内だった。

 クマちゃんは思ったより明るくしっかりとしていた。クマちゃんの夫はもう骨になり、店に出ていた時の写真が遺影に使われていた。僕は遺影に目をやり、そうそう、こんな感じの人だったよな、よく撮れていると思い、それで遺影に小さく会釈して、目を閉じ、手を合わせた。クマちゃん夫の顔は僕の頭の中でも変化したりゲシュタルト崩壊したりせずに、しずかに微笑んでいた。

 目を開け、再度遺影を見る。過去二回の訪問時に僅かながらこの老人と言葉を交わしたことが、零れるように思い出されてきた。ほんのかすかな交流だったけれど、その相手が完全に手の届かない場所へと行ってしまったことに、僕は少なからずしんみりした。

「急でしたね。この前はあんなにお元気そうだったのに」

 僕がクマちゃんの方に向き直って言うと、

「まあでももう後期高齢者だったし、いつこうなっても不思議とは言わないよね」

 彼女はお茶を僕に勧めながら、さばさばした様子で応えた。

「今後どうするとか、何か決まっているんですか?」

「まあここで一人で暮らしていくしかないだろうね。こんな寂れたところだから店を貸すっていっても借り手なんかいないだろうし、だから店は閉めたままだろうけど。幸い、わたしは元気で体も動くし、近所には知り合いも多いし、ま、そういうことだよ」

「ご主人のこともそうですけど、コロナとか、予想もしていなかったことが起きて、それまでの生活が根こそぎがらっと変わっていくから、気持ちが追い付いていかないですよね」

 でもクマちゃんは、

「いや、ま、そんなもんでしょ」

 あまり僕には共感してくれないのだった。

「そう、――なんですか」

「そうよ。そんなもの。だってそもそも、先のことなんか分かりゃしない。わたしの父は太平洋戦争では特攻隊の生き残りで、いざ出撃というその直前に戦争が終わったんだけれども、それはもう、出撃の順番とかは本当に偶然の積み重ねがあったことだし。それに夫にしても、広島市の中心地に住んでいたんだけども、たまたま原爆投下の日には母親に連れられて県の外れにある親戚の家にいっていて、それで被爆を免れた。わたしらにとってみれば、原爆も終戦も予想なんかしていないよね。でも何にせよ、起きるものは起きる。死ぬときは死ぬし、生き残るときは生き残る。全部の結果として、わたしはここにいる。来年コロナが猛毒化するかもしれないし、明日、どっかの国からミサイルが飛んでくるかもしれないし、来週、直下型大地震が来るかもしれない。気にしてたら生きてなんか行けないよ」

 彼女は涼しい表情で、自分も茶を口に運んだ。僕にはそんなふうに達観することはできない。そのくせ僕に出来ることなど、あまりにも少ない。

「そうそう」

 クマちゃんは、パンと膝を叩いた。

「ちょっと待っててくれる?」

 それでクマちゃんは襖を開け、隣の部屋に入る。戸棚を開けて、何かを探しているようだ。僕はお茶をすすりながら、クマちゃん夫の遺影をぼんやりと眺める。

 つい一カ月ちょっと前に会った。会って、少しだけ言葉を交わした老人。温和そうな、まだそんなに禿げてはいなくて、上背は結構あって、でも長年の立ち仕事のせいか腰は少し曲がっていて……。

 突然、ふわっと世界が暗転した。

 眩暈――と思った。次の瞬間、叩きつけるように、鮮烈な光が炸裂した。僕にはそれが、広島に落とされた原爆が放った光だと分かった。これは、クマちゃん夫が三歳の時に経験した原爆の光だ。すぐそばで誰かが、「ほおおお、ほおおおお」と獣のように唸っている。幼児のクマちゃん夫は、それが母親の恐怖と悲しみの吠え声と分かっていて、でもそうと知るのが恐ろしくて、固く目を閉じる。耳を塞ぐ。原爆の火の玉の真下では、母親の夫、つまりクマちゃん夫の父親が郵便局員として働いていた。父親は配達中の事故で足が不自由となり、そのため徴兵を免れた。何が幸運に繋がるか分からないねと、原爆投下の数日前にこっそりと父親と母親で話したことを、クマちゃん夫は少年になってから母親から聞いた。万事塞翁が馬、ではなかった。父親は超高温で溶かされて死んだ。それだけじゃない、母親の両親もまた、火の玉の真下で床屋を営んで暮らしていた。やはり、瞬時に黒い影にされた。

 少年の母親は親戚を頼って戦後上京する。そこは埼玉県Ⅹ市郊外の比較的大きな農家で、少年母子はそこで間借りする。少年は中学を卒業すると、Ⅹ市内の料理屋で働き始める。頑固者の料理長や厳しい先輩たち、中に一人、どうしてもそりの合わない男がいた。上下関係ははっきりしている。何を言われても歯向かうことは出来ない。その男の陰湿さ、粘着性に耐えられなかった。店を逃げ出すつもりで、そうなれば店が借りてくれているアパートにも住めなくなるので、密かに荷物を纏め始めていた。その矢先に、男が車にはねられた。店を開ける直前で、自由に動けるのはまだたいして戦力になっていない少年だけだった。店主からすぐに病院に行って様子を聞いてこいと言われた。

 少年は救急病院まで駆けていきながら、死んでしまえと強く願った。死ね、死ね、死ね、死ね! 少年の憎悪は純粋だった。もしそのまま男が死んでいたら、少年は死を強く念じたことを後悔したかもしれない。男は死ななかった。でも利き腕を失い、料理人としての生命は絶たれた。男は料理屋を辞めた。

 病院からの帰り道、少年は足を痛めて往生している老婆に手を貸した。少年は男が死ねばいいと願ったことは忘れていた。ただ男の不幸に気分を良くしていて、それで通りすがりの老婆を助けてやろうという気になったのかもしれない。後日、老婆は店に御礼に訪れ、それから常連客となり、……そして数年の後、親戚の娘だといって、青年になったクマちゃん夫にまだ少女だったクマちゃんを紹介する――。

「あった、あった」

 クマちゃんの声で、僕は我に返った。もちろん、僕の前にはクマちゃん夫の遺影があるだけで、原爆の光の玉も料理屋もなく、少年も少女もいない。骨になったクマちゃん夫はじっと沈黙を守っていて、僕に何かを語ることもない。僕は妄想に浸っていただけだ、たぶん。

 クマちゃんはこちらの部屋に戻ってくると、一枚の名刺を僕に手渡した。そこには、『S町郷土資料館 事務長 本木奎一』とあった。

「実は弔問に来てくれた中に、郷土資料館の本木さんって人がいてね、どういう流れだったか忘れちゃったけれど、向崎マミ子さんを探している若い子がいるって話になったのよ。それで、稲村さんから預かってた例の写真を見せたんだけど」

「ええ」

 僕は相槌を打ちながら、向崎マミ子の新しい手掛かりを期待した。

 しかし。

「本木さんはね、これは向崎マミ子なんて人じゃなくて、近藤茉美さんだって言うのよ」

「『近藤茉美』?」

 ――誰だそれは?

「わたしもさ、今の玲人くんみたいにさ、本木さんを疑うような声を出してたみたいで、そしたら本木さん、だったら資料館に来てくれれば、近藤茉美さんに関係する資料とか写真、お見せしますよって。――どう? 玲人くん、行ってみる?」

 僕は二つ返事で「行きます」と答えた。


 駅から乗ってきたバスでさらに二十分程行った街道沿いに資料館はあると、クマちゃんは教えてくれた。彼女は、僕を送ってバス停までついて来た。

 はじめてこの地を訪れた時は真夏の炎天下だった。二度目は九月十一日で、でもこの日、S町は真夏を超える異常な高温で、僕は帰路に遭難しそうになった。それが今日はもうすっかり秋になっている。空は重く暗く曇り、S町をひんやりとした冷たさで満たす。コロナで自粛していようと何だろうと、関係なく夏は過ぎ、季節はかわる。並んで立っていると、クマちゃんは僕の肩くらいまでの背丈しかなかった。その小柄さがまた、彼女をクマちゃん然とさせているのだった。彼女はバスを待つ間、この近辺の町の移り変わりについて、僕にお喋りしていたのだけれど、バスはなかなか来ず、ふと沈黙が落ちた。車通りもさしてなく、遠くで鳥の鳴き声、スズメか、あるいはムクドリだろうか、よく聞く声がする。街道にはバス停を囲むように家が散らばり、その向こうには畑、そして少し行けば山へと繋がる。

「四十年前と、さして変わらないんだよねえ」

 クマちゃんは、ぽつりと独り言のように呟いた。その言葉はさっきまでのお喋りとは違い、静かな水面に小石を落としたように、いくつかの同心円を広げていった。そしてそこから、ちょっとした喉のつかえみたいな感じをごくんと飲み込んで、クマちゃんは言った。

「四十年前。ここで、夫と並んでバスを待っていた」

 僕は黙ったまま続きを待った。

「またダメになったんじゃないかっていうのは、薄々、分かっていたんだよね」

 饒舌な彼女が、こんなふうに訥々と話すのは初めてだった。

「流産。三回目。これでダメならもう諦めようって決めてて。――その少し後のことでさ。夫が珍しく、一日店を閉めて何か旨いものでも食いに行こうって言いだして。それで都心のホテルのフランス料理、一人三万円くらいしたかな。そんな贅沢は後にも先にも無くて、その一度だけ。で、そのときも、このバス停でこうやってバスを待っていた。ちょうど今日みたいな天気だったなあ。あの時の景色と今の景色と、ホント、変わらないんだよ、ほとんど。それであの時は夫が急に手繋いできて、びっくりして顔見ちゃったよ。……何か、昨日のことのようだ。それでいて、もう前世のことのようでもあるよ」

 風がひゅるひゅるひゅると、どこか滑稽な音をたてて吹き抜ける。秋を通り越して冬を予感させる。

 僕はふいに、クマちゃん夫は、妻から流産を聞かされる度、少年の頃に先輩の死を願ったことを後悔したのではないかと思った。この場所でもやはり、こうしてバスを待ちながら、間の抜けた風の音を聞きながら、妻の手を握って、後悔したのではないかと。その時のクマちゃん夫の心の動きを自らのもののように感じることさえ出来た。

 そして気づく。いやいや、クマちゃん夫と料理屋の先輩の話は、遺骨を前にして僕が眩暈の中でみた白日夢に過ぎないのに。何か、現実と空想をごっちゃにしてるよ。

「仲良かったですよね、お二人」

 それで、思ったままのこと、でも当たり障りのないことをクマちゃんに言った。クマちゃんは、思い出し思い出ししながら応えた。

「そうだねえ。仲はずっと良かった――。でもね、大叔母から、市内の料理屋にいい青年がいるのよと夫を紹介された時には、『え、料理人って、なんかカッコ悪い』なんてね。グループサウンズに憧れていたからさあ、あの頃は」

 僕は唖然としてクマちゃんを見た。クマちゃんの語る馴れ初めは、僕がみた白日夢そのままだ。ちょっとの間、言葉がうまく出てこなかった。――偶然? そう、偶然に決まっている。よくありそうな話だし。でももしそうではなく、そこに至るまでのクマちゃん夫の過去が、僕の白日夢の通りだったとしたら? ――バカな。そんなこと。――でも、もしかしたら。僕が漸く口を開こうとした、その瞬間、

「あ、バスだよ」

 クマちゃんは僕の腕をぽんぽんと叩いた。見る間にバスが僕たちの前まで来て止まる。乗車口が開く。クマちゃん夫の生い立ちや来歴について尋ねる暇もない。僕はステップを上がる。

「じゃあね、また、向崎マミ子関係で何か情報があったら、連絡したげるから」

 クマちゃんが手を振る。いつもの、おしゃべりで明るく、そしてどこか愛らしくもあるクマちゃんだ。


 バスが発車すると、クマちゃんの姿はあっという間に小さくなり、見えなくなった。僕は座席に座ると、別れ際のもやもやを振り切り、スマホを取り出した。クマちゃん夫の過去より何より、僕には確認しなくてはいけないことがあった。

「近藤茉美」。新たな手掛かりは、これまでの調査結果をぶち壊す爆弾にもなりうる。

 もう一度、向崎マミ子(あるいは近藤茉美)が写っている戦時中と思われる写真、それと、その写真が掲載されている村瀬記者が書いた記事を確認しようと思った。どちらもこのスマホで撮影してある。クラウドに保存されている。

 スマホを操作すると写真はすぐに出てきた。でも、記事が出てこなかった。吉村先生のところで、スクラップブックに貼り付けてあった記事を、僕は確かに撮影した。記憶ははっきりしている。間違いはない。それなのに、いくら探しても見つからない。

 バカな……。

 半面、こういうことが起きるんじゃないか、という思いもどこかにあった。沢崎氏が持ち帰ったタブレット端末からも村瀬記者の動画が消えている。何一つ確かなことなんてないような。向崎マミ子を追いかけはじめて、現実の境界が揺らぎ曖昧になるような感覚を繰り返し覚えてきた。コンビニやファストフードのロゴ、それにドラムスのフィルインが変容し、迷路と化したS町で遭難しそうになり、Y池の果てではモザイクが崩れて地図にない川を下り、遺影の前では亡くなった老人の過去を追体験する――。

 ありえない。そんな、世界が壊れ始めているようなこと、ありえないだろう。それじゃまるでSFやファンタジーの中の話か、さもなくば僕が昏睡状態でずっと夢を見ているとか、そうでなければ、そうでなければ……、つまりは世界ではなく僕が、僕の方がおかしくなっている。

 そうなのか。壊れているのは、世界ではなく僕の方か?

 間もなく、次のバス停が郷土資料館前であると、車内アナウンスが告げた。


   2


 平日午後の郷土資料館には、僕以外の来訪者は誰もいなかった。建物は立派だが、古い。自動ドアをくぐると中は薄暗く、昭和の臭いがする。無料なのでお金を払うための受付もなく、職員の姿も見えない。資料館全体が人の近寄ることのない洞窟のように感じられた。

 案内板を見る。一階には町内で発掘された遺跡、そこから出土したあれこれ、そして江戸時代までの町の変遷がパネル展示されている。二階は明治以降、繊維産業の盛衰、その後の近郊農業とⅩ市中心地のベッドタウン化への模索、衰退。目当ての事務室は一階奥、展示場所裏の廊下を進み、トイレを通り過ぎた突き当りにあるようだった。クマちゃんの話では、本木さんは基本的にいつもここにいるらしい。

 天気のせいもあるのかもしれないが廊下は一層薄暗く、今が何時なのかが分からなくなる。トイレも明かりが消されている。歩いていく正面にドア。羽目殺しになっているのは摺りガラス、いやポリカーボネートか。その先には蛍光灯の光が見える。

 事務室の中からは音がせず、人の気配が感じられなかった。照明はついていても、誰もいないのだろうか? 壊しにくいタイプの静寂を出来るだけ刺激しないよう、僕はそっとノックしてみた。数秒の後、

「どうぞ」

 しわがれた声がした。ゆっくりとドアを開けると、中の事務室は意外に広い。事務机が四つほど島状にくっつけておいてあり、でもそこは無人で、窓際、室内を向けて置いてある事務机、その椅子から一人の老人が立ち上がりかけていた。

 僕は彼の容姿に虚を突かれて、一瞬、言葉が出なかった。老人は白のワイシャツをきちんと着てネクタイも締め、散髪したばかりの髪も乱れなく整えられ、でもそうした常識的な身だしなみが非常識に感じられるほどに、ひどく年を取っていた。少なくともそう見えた。

 顔は皺だらけで表情もそこに埋まり、目は落ち窪みまなこも死人のように光がなく何も見えていないようですらあり、唇を閉じてじっとさせておくことができないのか始終マスクは細かく震え続け、それは背中の曲がった上半身も同様で、わずかに揺れ続けているのだった。市役所の嘱託か何かなのかもしれないが、それにしても……。

「何か、ご用ですか?」

 黙っている僕を見かねたのか、老人の方から尋ねてきた。それで僕は漸く、

「戸坂といいます。本木さんはいらっしゃいますでしょうか?」

 すると、壊れた折り畳み傘のように歪み折れていた背筋が、するすると伸びた。

「ああ。あなたが。話は聞いています。私が本木です」

 心なしか皺も伸び、笑顔らしき表情が浮かび出た。

「例の写真、それから近藤茉美さんの資料、地下の資料室の机の上に分かるように出しておきました。ここに持って上がれると良かったんですが、何分、ご覧の通りもう体がポンコツで、荷物を持って階段を上がるのが厳しくて、すみません」

 老人の言葉遣い、仕草、対応は、僕のような学生に対してもとても丁寧だった。

「いえ、そんな、とんでもない。その資料室に入ってよろしければ、僕の方で行きますから」

「そうしてくれますか。じゃ、今、資料室に案内します」

 それで本木老人は机の後ろからするすると出てくる。老人は、足を上に上げることなく滑るように進んだ。歩きやすそうなウォーキングシューズを履いた足を見ていなければ、もう足などなく、幽霊のように浮遊して動いていると思ったかもしれない。

 本木老人の行く先、壁の隅に、僕が入ってきたのとは別のドアがあった。老人はドアの前で止まり、ノブに手をかけてゆっくりと開いた。そこに、地下へ降りていく階段があるのが見えた。真っ暗で、黄泉の国に繋がる穴のようだった。

「こちらです」

 老人は社交的に微笑み、壁のスイッチをいれる。階段の明かりがつく。不愛想な白いリノリウムの床、ベージュ色の壁、それに鉄製の手摺もまたベージュ。それらが全体に古びてくすんでいる。ややスケールが小さいが、大学の図書館旧館の地下書庫を思い出した。

 そう、ここは断じて黄泉の国の入口ではないのだ。むしろ、図書館書庫なのだ。

「ありがとうございます」

 本木老人の厚意に応えるべく微笑みを返しながら、僕は彼の前を通り過ぎ、ドアを抜ける。階段はいくつかの踊り場で折れ曲がりながら地下へと続いていた。

 僕が階段に足を踏み出しながら、老人を振り返り小さくお礼の意を込めて会釈すると、本木老人は、

「それでは良き旅を」

 そう言って静かにドアを閉めた。老人の言葉は、縦長に閉ざされた歴史を帯びた白とベージュの空間に、いつまでも浮遊しているように感じられた。資料館の職員の言葉というよりは、宗教者、僧侶のような。旅とはつまり、死後の旅のような。

 いやいや。僕は嫌な妄想を振り払う。旅とはつまり、近藤茉美の人生を辿るという旅だ。


 勿論階段は黄泉の国まで延々と続くというようなことはなく、三〇段と少し、おおよそ二階分くらい降りたところで地下書庫に到着した。階段は地下書庫内に設置されており、見回せば、まさに図書館のようにレール付きの移動式書棚がずっと連なる。資料館の建物の広さそのままに地下書庫のスペースもあるようで、かなりの面積だ。

 階段からすぐのところの作業机に、老人が言ったとおり、書類が積んであった。僕はその机まで行き、積み重ねられた書類の上にある何枚かの写真を手に取った。一枚は、まさに僕が辰巳庵で見せてもらい、村瀬記者が記事にした、あの写真。そして。何枚かの集合写真。村立小学校の卒業時のもの、村立中学入学時、卒業時。すべて地元の学校だ。僕は、そこに並ぶ昭和前期の、似たような髪型、似たような衣服の子供たち、一人一人を確認していった。

 僕が「向崎マミ子」だと思っているその少女は、どの写真でも容易に見分けがついた。人形のように愛らしかった女の子は、写真ごとに美しい少女へと成長していく。初めて写真を見た時にも感じたけれど、「向崎マミ子」の目にはきらめきがある。写真の中のその光源に吸い込まれそうになる。

 次いで、書類の山から冊子を取り上げる。村立小学校卒業名簿。中に付箋が挟んであり、そのページを開く。おそらくは、さっきの卒業時の集合写真と突合できるのだろう。卒業者数は全校で三十二人。小さな学校だ。だからすぐに全卒業生の名を追える。何秒もせずに「近藤茉美」の名を見つけることができ、「向崎マミ子」の名が無いことも確認できる。

 別の冊子は中学の卒業名簿。こちらは全校で五十八人。二クラスに分かれているけれど、やはり、「近藤茉美」がいて「向崎マミ子」がいないことはすぐに知れる。

 それだけじゃない。中学卒業文集。やはり付箋がしてあり、そこで僕は「近藤茉美」の作文を読むことが出来る。彼女は将来の夢について、「保母さんになりたい」と書いている。「保母さんになって、それから優しい母親になりたいです」。勤勉な父親と優しい母親に感謝し、仲の良い友達とはこの後も一生親友と力を込める。そこには中三の女の子らしい言葉が縷々綴られている。彼女の写真から感じた人を惹きつける力と比べるとちょっと物足りないような、でも微笑ましい、そして今の価値基準からすればやや保守的な将来像。

 近藤茉美には、向崎マミ子に関しては掴むことの出来なかった、温もりのある実在感が確かにあった。父親、母親に愛され、友人たちと笑い合い、時には喧嘩をしたり悩んだりして、おそらくはそうして年を重ねて、やがて恋をして母となり祖母となっていくような……。

 村瀬記者の記事が事実だとすれば(スマホのクラウドから無くなったけれど、僕はまだ信じている)、あの写真を通じて、向崎マミ子と近藤茉美は繋がっている。だから近藤茉美に連絡がつけば、そこから向崎マミ子についても何かが分かる可能性が高い。僕は、近藤茉美のその先、今に至る人生を追うべく、まだ見ていない書類を手に取った。新聞記事のコピーだ。これもまたかなり古いものだ。

 だが、最初に目に飛び込んできた見出しは不吉なものだった。

『居眠り運転の犠牲に』

 交通事故だ。日付は昭和三十六年五月一日。

 『午後四時頃、埼玉県Ⅹ市の県道で大型トラックが乗用車に追突、乗用車に乗っていた近藤茉美さん(二二)は救急搬送されたが全身を強く打っており死亡した。……トラックの運転手は居眠り運転をしていたものとみられ、……茉美さんは、大型連休を利用してⅩ市にある実家に帰省する途中だった』――。

 近藤茉美は六〇年近く前、わずか二十二歳で亡くなっていた、ということか。僕は記事を書類の山に戻し、傍らのスツールに腰を下ろした。うーん、どうしよう。そんな前に亡くなっていたんじゃ、近藤茉美の線から向崎マミ子には行き着けない。

 僕は向崎マミ子を探し出したいのだ。結構真剣に、探し出したい。それはもう、父からの成功報酬五万円のためということではない。僕は向崎マミ子探しを通じて、失った里香のことを、過去にしたつもりでいた里香のことを、すっかりリマインドさせられてしまった。向崎マミ子のその先に里香とのことがある。

 もっとも、――僕はよく分かったのだ――、失われたのは里香だけじゃなかった。この夏、僕は多くの喪失と行き会ってきた。始まりは祖父の死。失われもう触れられない、祖父の八〇年の時間。人面猫に導かれて出会った吉村先生は父親を亡くしていて、遺品整理をしながら依然として9.11.で失った友人たちの喪に服し続ける。向崎マミ子自身も3.11.の被災者であることが分かった。九月にはクマちゃんが夫を亡くし、僕はクマちゃん夫の母親が原爆で夫と両親を失うのを追体験した。そして何より、今ここにあるコロナ禍が、多くの人々の命を奪い、あるいは夢や仕事を奪い、おそらくは僕たち一見呑気な大学生からも、普通の大学生活という、測りにくいけれど確かに大いに価値があるはずのものを奪っている。もう戻らない、帰らない、たくさんの永遠の喪失。

 ――いや、里香は違う。彼女は死んでしまったわけではない。帰らないと決まったわけじゃない。僕は向崎マミ子を追いかけながら、里香に対して本当はやれることがあったのにやらずに来たのではないかという、分かっていたけれどスルーしていた疑問と改めて向かい合っている。確かに時は戻らない。でも、今からでもまだ何か出来ることが残されているかもしれない。

 向崎マミ子について、もう一度、沢崎氏に連絡してみよう。村瀬記者の取材資料が残されていることだって考えられる。とにかく前に進もう。進んでいなければどこへも行けない。向崎マミ子にも里香にも繋がらない。道案内の人面猫にも出会えない。人面猫が、きっとどこかで僕を待っている。

 視線を上げると、壁の一番端にドアが出現していた。今まで、見えていなかった。でも現に、ドアはそこにあった。僕に開けられるのを待つように。僕は立ち上がり慎重に近づき、ドアノブに手を伸ばす。


   3


 ドアを開けると、螺旋階段がまた下へと続いていた。見下ろすと、ところどころ、転落を収める用途と思われる踊り場が設けられているのが分かったが、螺旋階段自体が緩やかにうねるように曲がっており、先までは見通せない。

 ついさっき、本木老人は言った。「良き旅を」。少々大げさな言葉だ。彼が言いたかったのはおそらく、この螺旋階段をも含んでの「旅」だったのだろう。彼は僕が近藤茉美の死を知った後で、螺旋階段へのドアを「見つける」ことまで予想していたのだ。

 僕は階段を降り始めた。螺旋階段は下りていけば自然と円を描くことになるわけで、しかも階段全体がうねり、さらには降りていて気付いたのだが歪んでもいて、すぐに眩暈がしそうになった。踊り場が過剰と思えるほど設けられていなかったなら、僕は足を踏み外してどこまでも転落していたことだろう。

 思えば、向崎マミ子探しを始めてから、ねじれた狭い急坂、あるいは階段を下ってばかりいる。クマちゃんの「階層」から吉村先生の「階層」へ、吉村先生の「階層」から児童公園の「階層」へ、僕はねじれの中を下り続けた。山を越えてY池に向かった時もねじれた山道で、タクシーの中、僕は嫌というほど揺られた。

 ねじれは方向感覚を失わせる。今、西を向いているのか、東を向いているのか、表側にいるのか、裏側なのか、僕はメビウスの輪の上を歩く蟻を実践している。いや、向崎マミ子探しを始めてからは、毎日がメビウスの輪歩きになっているような気がする。僕は分からなくなったのだ、正しいコンビニのロゴがどれなのかすらも。

 そして今、僕はねじれ・うねりの巣窟の真っただ中に突っ込んでいる。数分? いや一〇分以上だろうか、とにかく僕は下り続け、そこでふと見上げれば、もう地下書庫に繋がる入口の天井は見えなくなっている。下を見ても、延々とねじれていく階段しか見えなかった。どんだけだ。どんだけ深いんだ。こんなのあり得ない。絶対あり得ない。あり得ないのに、こうして、ある。

 さっき地下書庫でドアが急に見えたあたりから、僕は正気を失ったのかもしれない。あるいはもっと前か? 本木という、説話かディズニーアニメに出てきそうな老人、あんな年寄が本当に存在するのか? 郷土資料館に入った時にはもう、僕は正気でなかったのか? それとももっと前? Y池も? 吉村先生も? クマちゃんも?

 頭の中で脳みそが溶けかかっているかのような、茫漠とした中で、それでも僕は階段を下り続けた。もう僕の思考回路には下向きのベクトルしか無かった。

 気が付くと僕の足音が聞こえなくなっていた。周囲から一切の音が消えていた。ちょうど、Y池から川を下った時のように。それでも僕は下り続けた。

 いつの間に、意識自体がぼやけてきていた。朦朧としていたら怖くてとてもで足を踏み出すことなど出来ないはずなのに、僕は何の不安も感じることなく階段を下りていた。意識が現実からシームレスに夢の中に移行していく感じだ。あり得ないのに、問題ない。全く。

 次第に、階段を踏んでいる固い感覚が薄れてきた。ついには足を動かしているかどうかも分からなくなった。僕は生霊のように、螺旋階段、あるいは細長くて下へと通じるねじれの空間を漂い移動していた。

 やがてはその感覚もまた曖昧になる。目を開いているのか閉じているのかも分からなくなる。それでようやく、音だけでなく光も消えたことに気づき、そのまま僕の意識は薄れていった。


 ――玲人? 玲人なの?

 里香の声がした。僕は深く眠っていた。里香はいつから僕を呼んでいたのだろう。とにかく僕はどうにか目を覚ました。僕は、真っ暗で、上下左右も分からず、重力すら感じられない空間にいた。手を伸ばしても空を切るだけで何処にも触れず、それなのになぜか閉じ込められているのだと分かった。

 暗闇の中でただ里香の声だけが、遠く途切れ途切れ、そう、リモートで大学の講義を受けていてネット環境が不安定になったときのように、揺れてかすれてぶつぶつと切れて、それでも生き埋めの地中に忍び込む一筋の光のように、僕のもとに届く。

 ――里香!

 ここを抜け出さなくては。里香の方へ進まなくては。それで手足をばたつかせてみるけれど、ただ虚しく空を切るだけだ。

 ――玲人、やっぱり玲人だった。でもね、落ちちゃったよ。

 里香が僕に言う。

 ――もう、とっくに世界は落ちた。間に合わないんだよ。

 そうだ、もう僕たち二人の世界は落ちた。パソコンが異常終了するように唐突に。里香はいなくなり、僕は世界から放り出されて闇の中を漂っている。

 あの夜、どうすれば僕たちの世界を守ることが出来たのだろう。何が言えたのだろう。何が出来たのだろう。ましてや今頃になって。実際僕は今も、何をどうしたらいいのか、世界を取り戻すための正解が全然分かっていない。

 ――だったら、なぜ?

 里香が少し怒ったように僕に尋ねる。

 ――なぜ、向崎マミ子探しを続けるの? なぜその先に、私の姿を、思い出を追うの? 何も分かりもしないのに、知りもしないのに、なぜ……。

 それは――、それはただ、僕がそうすると決めたから。たったそれだけのことだ。でも、これまでしなかったことだ。

 気が付くと僕は、地下室のような場所に立っていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ