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第3回 夜更けの斬首、人面猫と白い鳥

   1


 結局、軽い熱中症にかかってしまったようで、家に帰りついた時には頭痛がしていた。少し熱もあって、僕は水分だけ補給しながら、その夜、そして翌日も午後まで、ベッドでだらだらと過ごした。児童公園で出会った少女のせいだろう、僕は寝たり起きたりで夢と現が交じり合う中、最後に里香を見た時のことを蘇らせていた。


 あの日――。

 夜更け、というにはまだ少し早いくらいの時間だった。僕は高三で、系列大学への内部推薦のおかげで受験もなく、日々はゆったりと昨日から今日、そして明日へと繋がりながら過ぎていた。僕はバンド関係のちょっとした用事を済ませて家に帰る途中だった。

 里香の家に寄れたら渡そうと思い、DVDを持っていた。バイト先で雑談していた時に話題になった映画のDVDだ。僕は電車の中で、スマホで時間を確認し、――たしか十一時少し前だったと思う、遅いけれどまだこの時間ならOKと判断、途中下車して里香の家に向かった。

 里香とは高校は違ったけれど、彼女も内部推薦のある大学の附属校に通っていて受験はなく、立場は僕と同じだった。高三の晩秋は部活も引退していて、受験もなくて、でも次の四年間の行先は決まっていて。そういうポッカリと空いた時空間はまるで無重力に浮かんでいるかのようで。でも僕はバンドも始めていたし、バイトに行けば里香がいたし、そこそこ満ち足りた世界でもあった。わずか数か月間のことなのに、僕はそれがまるでサザエさんのように永遠に続くような錯覚すら覚え、そしてその永遠の先にもまた、仲間とバンドと里香、それに五島亭でのバイトがある世界が続いていくと、ただ信じ込んでいた。

 あの夜は、大気が存在しないんじゃないかと思うほど、よく晴れていた。星々もくっきりと輝き、今でもあの時見た星座の配置すら思い出せそうだ。それまでに何度も行ったことはあったし、本当にごくごく日常の延長として、ただ少し時間は遅めではあったけれど、僕は里香の家へ向かっていた。

 里香の家の間近、僕は角を曲がりかけ、そこでちょうど家から出てくる彼女を目にした。まだ距離があった。けれど、里香を取り囲む雰囲気が明らかにいつもと違っているのが、はっきりと分かった。彼女は大きなビニール袋を手に提げていた。中身は、暗くてよく見えない。僕は角を曲がり切らず、自然と足を止めていた。僕に足を止めさせるだけのオーラが里香から出ていたということだ。嫌な感じのオーラが。

 ――なんだろう?

 僕はそこから動けず、里香を見続けた。里香は街灯の下へと差し掛かり、ビニール袋の中身が見えた。雛人形だった。かなり立派な雛人形。一体だけじゃない。数体はある。

 そして――、どの人形にも首が無かった。

 僕は息が詰まった。胴体に差し込まれている頭の部分がもぎ取られているのか、あるいは刃物で切断されているのか、そのあたりは遠くて定かではなかった。でもとにかく何体もの雛人形には頭部がついていないのだ。

 僕は里香の家の雛人形の話を聞いたことがあった。祖母から母、そして里香へと受け継がれている古いもので、三代で大事にしているという、珍しくはないけれど心温まるような話だ。その人形たちが今や首を切られ、悪意が感じられるほどに無造作にビニール袋に押し込まれていた。僕にはそれが、殺害され解体された人間の遺体のように見えた。

 里香はゴミ置き場まで行くと、放り出すようにしてビニール袋を置いた。そして一瞬だけ、ビニール袋に目をやり、それから踵を返して家へと戻っていく。

 里香の顔が見えた。

 里香はうすく笑っていた。

 僕は混乱し、動揺した。大事な雛人形がこんなことになって、たとえば泣いてでもいたのなら、あるいはショックで虚ろになっているんだとしても、たぶん僕は里香に駆け寄って慰めの言葉でもかけることが出来ただろう。でもそういう感じは全くなく、里香は満足そうに微笑んでいる、僕にはそう見えた。

 スポ魂アニメが好きで、喜怒哀楽が分かりやすく表情に出て、思い込みが激しいとか、そそっかしいとか、いろいろ問題はあるにせよ、その多くを明るさでカバーして、という僕の知っている里香は、そこにはいなかった。

 僕が知っていると思っていた里香と、今目の前にいる彼女とは、あまりに乖離があって、何を話しかければいいのか分からなかった。だから僕は間抜けなストーカーのように、そこにずっと立ち尽くしていた。

 里香の歩みには淀みがなかった。そのまま門扉を過ぎ、あっという間に家の中へと消えた。

 しばらくしてから僕は漸く覚醒し、それで周りに誰も人がいないことを何度も確認してから、壊れかけたロボットのようにぎくしゃくとゴミ捨て場に近づいた。間違いなく、雛人形だった。いや、かつては雛人形だった何か。それらは一つ残らず、首がノコギリのようなもので切断されていた。

 少なからず気分が悪くなり、僕はその場を離れた。DVDを手渡すことなく、そのまま駅へ戻った。帰り道の星空のことは何も覚えていない。五島亭や一緒に遊びに行った水族館やバーベキューや映画や、そういうところで見てきた里香のたくさんの豊かな表情が次々に勝手に蘇ってきて、その都度ことごとく、僕の知らない薄笑いの里香や、破壊された人形たちの姿に、上書きされていった。

 気持ちを切り替えようと思った。それで僕は、DVDに収められた映画について考えることにした。ストーリーを初めから順を追って辿っていった。次に、キャストを一人ずつ、名前と顔を思い浮かべた。顔は分かるのに名前が出てこない俳優が何人もいて、それを懸命に思い出していった。それから、映画監督の名前、他に監督した作品は何だったか、それに脚本は……。

 そうしていたら徐々に冷静になれた、ような気がした。慌てなくても、今夜のことについては、いつかきっと話す機会が訪れる。雛人形の廃棄と里香のうすい笑みには、もちろん何か理由があるのだ。タイミングを計って、機会が巡ってきた時に聞いてみればいい。無理をして急がない方が里香を傷つけないし、僕たちの関係をも傷つけない。そう思った。実際、それは正しい判断だったのかもしれない、里香がいなくなりさえしなければ。

 その夜、翌日、翌々日と、僕は里香に連絡を取らなかった。里香からも連絡は無かった。恋人同士でもない僕たちは、それくらい連絡が開くこともまた、ごく普通のことだった。そう、僕たちは知り合って一年という時間がありながら、うまく恋人同士になることが出来ないでいた。

 三日後、バイトに行った五島亭に里香の姿はなかった。店主から、里香が急にバイトを辞めたと聞かされた。僕はすぐにSNSで里香に連絡をとった。翌日、返信は来た。「実は家の都合で昨日転居しました」と、それだけだった。勿論僕は、またすぐにSNSを返した。そんなふうに何度かやり取りはあったけれど、引越し先が北海道Z市ということ、北海道の大学を受験する予定であることなどが結構な間隔を置いての短い返信で知らされただけで、そんな風ではさして状況も分からない。直電はいつも不在。もちろん、あの夜について話すことなど出来るわけもなかった。

 やり取りの中で、思い余って、もしかして急な転居は誰かに脅されて逃げているとかそういうことなのかと、聞いてしまったことがある。東京に、僕らに、転居の原因があったのかとも。里香の答えは、はっきりしていた。「そうじゃない。そういう問題じゃないから。急にいなくなってしまって、ごめんね」。でも、里香から理由が語られることは無かった。

 数週間の後、里香のSNSアカウントは削除され、携帯番号は解約された。きっぱりと、僕は里香から排除された。僕だけじゃなく、バイト仲間も、五島亭も、東京の街も、これまでの里香の年月も。あの夜のことについて話せる「いつか」は、二度とやってこなかった。バイト仲間みんなは、しばらくの間、里香ロスに襲われるとともに、自問と自責を繰り返すことになった。互いを疑いすらした。でも何も出てこないし、何も分からなかった。自問も自責も、おそらく僕が一番強かったと思う。それは、里香のことが好きだったからというだけでなく、あの夜の里香に出くわしていたからだ。

 あの時、里香に何かを語り掛けることが出来たなら、僕は里香を失わずにすんだのだろうか。せめて彼女との繋がりは絶やさずにすんだのだろうか。未来を変えられたのだろうか。でもあそこで何と言うべきだったのか、僕にはいまだに力ある言葉が浮かばないのだ。


 熱中症の後遺症もさすがに二十四時間も経つと癒えてくるし、ごろごろしているのに退屈もしてくる。それでスマホをいじっていたら、知らないアドレスからメールが来た。恐々開けると、遼太郎からだった。遼太郎が、この間スタジオで録音した楽曲データを送ってきたのだ。しかし遼太郎、メアドを変えたのだろうか。とにかくまずは曲を聴いてみる。

 一〇秒もしないうちだ。

 ――おかしい。フィルインが、また違う。

 ドラムスのフィルインが、この間の演奏と違うように思えた。新しい、聴いたことのないフィルイン。でもそんなわけはない。僕たちの曲、僕たちの演奏で、遼太郎がこの間の録音だと送ってきたものを、僕が聴いたことがないはずはない。つまりは僕の記憶違いだろう。それでも僕は、遼太郎にSNSでメッセージを送っていた。

「ドラムのフィルイン、こんなんだっけ?」

 すぐに返信が来る。

「そうだけど?」

「ウソ、違くない?」

「違くないって」

 スタジオでも似たような会話をした。繰り返される違和感。それから。

「あと、遼太郎のメールのアドレスも変わってない?」

「変わってないけど」

 遼太郎からの過去メールをチェックしてみる。たしかに、アドレスは変わっていない。

 つまりは全部、僕の気のせいなのか?

 違和感はどれもがとても微細で、そのくせ止むことなく訪れ、僕はこれにどう抗するべきか、あるいは抗することは出来ないのか、抗しても仕方がないのか、それも良く分からない。


   2


 自室から出てキッチンで水を飲む。熱中症の名残りなのだろう、水が異様に旨く感じる。窓越しに覗く太陽はだいぶ傾いてきていた。父は今日は出勤日で母も夕食の買い物に出て不在、がらんとした部屋では薄暗さが影の部分から徐々に染み出し始めていた。

 僕はリビングのソファに体を預け、僅かに頭痛の残る中、新聞社に向崎マミ子の記事について電話で問い合わせをした。記事を書いた記者は不在で、アルバイトだろうか、庶務係的な感じの若い男性が僕の話を聞いてくれた。金額は伏せて香典を郵送してもらったことを告げ、彼女の関係者がいれば連絡を取りたいと、僕の携帯番号とアドレスを告げた。

 返信は早くても数日後と思っていた。だから僕は電話した後、ソファに完全に横になり、だらだらとSNSを読み飛ばしていた。窓の外の空がシームレスに光度を落とし、その分、部屋は暗くなり、そろそろ母親が帰ってきそうだなと思い始めた頃。僕が電話してから一時間くらいだろうか、掌の中で、いきなりスマホのバイブが揺れた。慌てて電話応答をタップし、はい、戸坂です、と応答すると、

「H新聞の沢崎と申します。先程お問い合わせ頂いた記事の件、向崎マミ子さんの件で、お電話致しました」

 小気味いい喋り方をする女性の声が流れてきた。まだ若い。彼女は続けた。

「記事を執筆したのは村瀬俊輔という記者になりますが、村瀬がしばらくの間、不在になりますので、代わりに私が対応させて頂きます」

 こんなに早い反応は予想しておらず、それに若い女性からというのも想定外で、僕は、はあとか、ほおとか、間抜けな返事をしていた。彼女はテキパキと、でも親しげなトーンでさらに続けた。

「村瀬が戻らないとアルバムの提供者などは分からないのですが、実は、お話をもう少し詳しくお聞きしたいと思っておりまして、一度、直接お会いすることは出来ないでしょうか」

 え?と思った。わざわざ会ってくれるとは、どういうことだろう。さすがに、こちらの香典返し案件にそこまで付き合ってくれるほど、大手新聞の記者は暇ではないだろう。

 ともかく、大学のインターネット授業は九月下旬まで始まらないし、それまではほぼ毎日都合はつく。

「こちらはかなり柔軟に調整つきますので、ご指定の日時にお伺いします」

「そうですか、ありがとうございます」

 弾んだ声で礼を述べてから彼女は、

「急な話になってしまい大変申し訳ないのですが、少々事情がありまして、もしも可能なようでしたら、今日これから、少しお時間取れますでしょうか?」

 と畳みかけてきた。もう、窓の外は暗くなり始めている。何を急いでいるんだろう? 僕の向崎マミ子探しが、沢崎という記者にとって何だって言うのだろう?

「はい、大丈夫ですけど」

「急なことですし、戸坂様さえよければ、私からそちらのご自宅、あるいはその近くまで参ります」

 結局僕たちは、近所のセルフカフェのチェーン店で七時に会うことにした。アドレナリンが出たのか、頭痛はいつの間にか消えていた。


 時間まで、新聞社の名前、それから「村瀬俊輔」をキーワードにしてネット検索してみた。僕が知らないだけで、村瀬記者は業界ではかなりの有名人だった。著書も何冊もある。そのいずれもが、南西アジア、中東からアフリカにかけての戦時下での現地ルポだった。アフガン、イラク、シリア、パレスチナ、そういう地名が並ぶ。その向こうには9.11.が繋がる。

 その村瀬記者がなぜ国内社会部にいて、3.11.の周年関連の向崎マミ子の記事を書いたのだろう。9.11.から3.11.へ。それは吉村先生のところで辿った道筋でもあった。そしてそもそもの始まり、向崎マミ子と僕の祖父との繋がりは、おそらくは第二次世界大戦での疎開と関係がある。それもまた、以前の日常をひっくり返す、想像もできない非日常による悲劇。

 僕は、どこへ向かおうとしているのだろう。香典の送り主を探しているだけなのに。


 住宅街の駅前、昔からの商店と低層の雑居ビルが入り混じる中、一つ、二つと数えられるくらい疎らに、中高層のビルが建っている。七時前、コロナ禍の中とはいえ、もう街はwithコロナという新しい日常を過ごし、帰宅する人たちでそこそこ賑わう。夜昼の温度差とともに、夜の色合いの些細な変化からも、しつこい残暑の中で秋が徐々に根を生やし出していることが分かる。

 その見慣れた地元商店街の夜の中に、待ち合わせのカフェのロゴが浮かぶ。僕はどうやら少なからず記憶への自信を失いつつあるみたいだ。果たしてこのロゴはこのスタイルだったか、この色だったか。もっと書体は細くはなかったか? もっと色は濃くはなかったか? 何もかもがあやふやに感じられる。

 まだ七時まで少しあったけれど、店の中で待つことにした。店は空いている。さすがにコロナの影響はある。僕は先にカフェラテを受け取ってから、いくつか空いているテーブルを目で辿った。

 するとその途中で、不自然に新聞を広げた、コーヒーを飲む女を見つけた。その新聞が、僕がこれから会おうとしている沢崎氏の勤め先と同じであることを確認する。新聞が待ち合わせの目印だった。

 彼女だ。新聞記者という職業の人を初めて生で見る。年の頃は二十代半ば過ぎか。社会で数年は揉まれているはずの歳だが、その女が身に纏っている空気からは、そうした世間ずれした気配はまったく感じられず、白いシャツと黒のパンツスーツもまるで就活学生そのままに見える。化粧っ気もほとんどない。髪の毛も黒のままの直毛で、後ろで一つに結わいている。ほどけば、肩の上くらいの長さだろうか。

 顔のパーツは、どれも大きい。目、鼻、口、それぞれの形は悪くない。ただ、いずれもがのびのびと散らばっていて、美人とまでは言えない。控えめに言ってかなり個性的だ。

 彼女は、近づいていく僕に気づくと、おや?という表情をした。

「沢崎さんですね?」

 僕が確認すると、彼女は慌てて立ち上がりマスクを着け、名刺を差し出した。

「H新聞の沢崎由衣です」

 所属は社会部とあった。

「戸坂です。名刺はありませんが」

「お若い方だったんですね。香典がどうこうというお話だったので、それに電話の声も落ち着いていて、自分より年上の方を想像していました。思い込みはいけませんね」

「大学生です。といっても、コロナのせいで講義はネットだし、バイト先は閉店するしで、暇にしていて、それで父から向崎マミ子さんを探すことを頼まれました」

「そうでしたか。コロナは、まったく厄介なことになったものですね」

 そう言いながらも、彼女はまったく厄介そうではなかった。むしろ、ややこしいことが起きれば起きるほどわくわくしてくる、そんな雰囲気だ。沢崎氏は仕草で座りましょうと促し、僕たちは向かい合わせに腰かけた。彼女はガチっと音がしそうなほどに、僕に視線を固定すると言った。

「ええと、まずは私から、急いでお会い頂いた理由を申し上げないといけませんね」

 沢崎氏の前髪は眉毛のすぐ上でパッツンと横一線に揃えられ、彼女が口を開くたびにわずかに揺れた。

「例の3.11.での向崎マミ子さんの記事を取材して書いたのは村瀬といいまして、まあ言ってみれば私のお目付け役をしているベテラン記者です。彼は非常に手堅い仕事をする人間なのですが、その手堅い彼が——、ちょうど一週間前、姿を消してしまったのです」

 僕にはまだ、沢崎氏が何を言おうとしているのかが見えなかった。

「僕の件は村瀬さんの失踪には関係ないと思いますが?」

「少し、戸坂さんが問い合わせて来られた状況と似ています。実は、村瀬がいなくなる前、向崎マミ子さんから村瀬宛で郵便が来たのです」

「え?」

「はい、私も3.11.の記事のことは知っていましたから驚きました。向崎さん、生きておられたのかと。勿論それは喜ばしいことです。ただ不可解なのが、封筒の中に入っていたものなのです。それは、小さな石です」

 三十三万円の香典とはだいぶ違う。ただの石ころ? 沢崎氏は続けた。

「村瀬にはピンと来ました。石は、村瀬がずっと無くしたと思っていた、ベルリンの壁の欠片だったのです」

「村瀬さんがベルリンの壁崩壊の取材を?」

「いえいえ」

 沢崎氏は、笑いながら目の前で手を左右に振って否定する。

「当時、村瀬はまだ幼児です。取材したのは村瀬の伯父です。その伯父もまた新聞記者をやっていました。村瀬は中学生の時に、その伯父からベルリンの壁の欠片を貰ったのです。その石、というか正確には伯父の経験談、伯父からの影響というところなんでしょうが、でも感情の動きということで言えば、その石こそが村瀬が記者を志したきっかけだったわけです。実際、村瀬は私によく言っていました。『あの石を手にした時、俺の人生は一変した。その前と後では、まったく別物になったんだ』と」

「それほど大事だった石を、村瀬さんは無くしてしまっていたんですか」

「ええ。村瀬はそれをずっと悔いていました。村瀬は若輩の私から見ていても大雑把なところがあって、それで、どこでその石が無くなったのかも定かではなく。——それが突然」

「向崎マミ子さんから郵送されてきた、と言うんですね?」

「はい」

「沢崎さんも、その郵便、それに石、ご覧になったんですか?」

「いいえ」

 沢崎氏は少し残念そうにした。

「村瀬から聞いただけです。封筒には差出人である向崎マミ子さんの住所も書いてあったそうで、でもそんな住所は実際には地図にはなくて。それで、次の休みの日に尋ねていくのだと言っていました。そして実際尋ねていき、そのまま行方不明になった」

「じゃあ村瀬さんも埼玉県のⅩ市に行かれたのかな?」

「いいえ、違います」

 沢崎氏はすぐに否定した。

「戸坂さん、なぜⅩ市だと?」

「父が受け取った香典の郵便、その差出人住所がⅩ市だったからです。僕はだから、向崎マミ子さんを尋ねてⅩ市に行ったんです」

「でも戸坂さんは、ちゃんと帰ってこられた」

 ちゃんと、か?

 それはちょっと微妙かもしれない。なにしろ尋ねた先に向崎マミ子はおらず、二度目の訪問の帰り道には、僕は炎天下で遭難しそうになったのだから。

 僕がかいつまんでその経緯を話すと、沢崎氏のかっちりとした相槌には抑えきれない興奮が混じっていった。僕が話し終えると、沢崎氏は慎重に確かめるように尋ねた。

「では戸坂さんは、その住宅地の一画から出られなくなりそうだったんですね?」

「ええ、まあそうです、お恥ずかしながら」

「いえ恥ずかしくはないです。だって村瀬は帰ってこないのだから。中東やアフリカの危険地帯に何年も駐在していた村瀬がです」

「村瀬さんが行かれたのはⅩ市じゃないんでしたよね?」

「ええ。村瀬が行ったのは埼玉県ではなく長野県です」

「長野ですか」

「はい、長野県のY村です。でも、かなり奥に入ったところのようですけれど」

「そこは向崎マミ子さんにとって、どのような縁のある場所なんでしょうか?」

「わかりません。わかりませんが、実は私、——明日、行ってみようと思っているんです」

「え? でも、そのY村の住所は実在しないんですよね?」

「村瀬がY村でSNSに写真を載せていました。だから、最後の写真の場所までは行けると思います。これがその写真です」

 そう言って沢崎氏はスマホを操作し、一枚の写真を僕に見せた。湖が写っていた。それほど大きくはない湖、池といってもいいかもしれない。空は晴れ渡り、太陽からの光が湖の色を非現実的なまでに碧く美しいものにしていた。そこは船着き場で、手漕ぎボートと足漕ぎボートがそれぞれ何艘かずつ係留されている。夏休みシーズンは過ぎているが、営業はしているようだ。

 ――その湖上を白い鳥が飛んでいる。その鳥が、何か、気になる。

「沢崎さん、鳥、大きくできますか?」

 沢崎氏が写真の鳥の部分を拡大してくれる。場所がらカモメではない。アヒルよりスマートで、鷺ほどの大きさ、でももっと逞しく見える。種類の分からないその鳥が、大きく羽ばたく。旋回する……。

 僕はこの鳥に呼ばれている。そう思った。人面猫の誘いに似た感覚だ。道案内の人面猫。僕をちょっと振り返って、「ついて来いよ」とばかりに、ぶるるんと身体を震わす。僕たちは時に猫の後を追ってふらふらと歩き出し、時に鳥の羽ばたきに引き寄せられていく。

「沢崎さん、僕も長野にご一緒していいでしょうか?」

「ええと、そんなつもりでお会いしたのではなかったんですが」

「僕の状況と村瀬さんの状況で符合することがとても多いですし――、それに、笑われるかもしれませんが、写真に写っている白い鳥に呼ばれているような気がして」

 沢崎氏は改めてスマホの写真に視線を落とす。それからどうしようかなと少し迷った様子を見せた後、その迷いを振り切るようにして言った。

「実は私も、この鳥に呼ばれたような気がしていたのよね。了解、一緒に行きましょう」

 沢崎氏は僕に握手の手を差し出して、微笑んだ。



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