第2回 迷宮の少女、灼熱の町
1
僕がその「傾斜」を最初に感じたのは、後から考えれば、バンドのスタジオ練習中のことだったような気がする。遼太郎がフィルインを変えた、そう思ったのだ。だから曲を最後まで通しでやった後で、
「遼、いいじゃん、新しいフィルイン」
と僕は言った。
「え、なんで?」
遼太郎は何のことだか分からないようだった。
「だからフィルイン。変えたよな」
フィルイン。イントロからメロディに入る前の、ドラムスの短いソロ。
「え? 変えてないけど」
遼太郎がフィルインだけ、叩いて見せた。
「変えただろう」
「変えてないって」
「だってさ」
僕は遼太郎からスティックを受け取り、
「前は、こうじゃなかった?」
と叩いて見せる。僕も多少はドラムが叩ける。
「違う違う」
遼太郎ははっきり否定した。僕からスティックを取り返して、
「はじめから」
今さっきのフィルインを再現してみせる。
「こうだよ」
「そうだっけ?」
違和感が残る。けどまあ、新しい方が良いわけだし。
「そうだよ、変えてないよ。ねえ」
遼太郎はベースの建に振る。
「ああ、遼の言うとおり。玲人の勘違いだと思う」
「そりゃまあ、ドラムス本人が言ってるんだから、そうなんだろうけど」
「おまえ、コロナ・ストレスじゃないの?」
建が弦をべちべちと叩きながら言う。
「おまえのバイト先、潰れちゃったしなあ」
「ああ、五島亭ね。あそこのタンシチュー、安くて旨かったのになあ」
遼太郎が惜しむように呟いた。遼太郎と建も常連客として店に出入りしていたのだ。
「流行ってたのになあ。諸行無常だなあ」
僕はそれでちょっとまた、里香のことを思い出した。
「明日、何があるかなんて、分からないんだよなあ」
と僕。
「このスタジオもさあ」
遼太郎がしみじみと言った。
「今日、予約時間より二十分も前に着いたんだけど、空いててさあ。入ってもいいですかって聞いたら良いって言われて、まあ、その分の料金はおまけしてくれたし、良かったんだけど」
遼太郎はスティックをくるくる回す。
「コロナでガラ空きでさあ、大丈夫かな、ここ。心配になっちゃうよ」
そう、つい半年前、コロナ以前は、駅近で安いここはいつも予約でいっぱいだったのだ。まさしくこれももう、前世の記憶みたいなものだ。
練習の後、ファストフードで昼飯にする。
「兄ちゃんがさ、何か、焦ってるんだよねー」
遼太郎には一つ年上、大学三年の兄がいる。
「就活生にとっては、お花畑だったのが一気に吹雪! みたいな気配なんだってさ」
「そんなに?」
「いやまだこれからだから、よく分かんないんだろうけど、兄ちゃん見てると、どうもただならない感じだよ」
また就職氷河期が来るのだろうか。去年までは人手不足で、就活は楽勝だと思っていた。そう、ここにも前世。次々と現世が前世になっていく。
「あーあ」
遼太郎はテーブルの上、指先でフィルインを再現しながらぼやく。
「文学部じゃなくって、玲ちゃんみたいに就職に強い商学部とかにしておけばよかったかなあ、もう遅いなあ、はああ」
最後はため息。明るい栗色に染めた髪、誰にでも「ちゃん」付けする癖、実際はそれほどチャラチャラしているわけではないけれど、それでも遼太郎が言うと、シリアスな話題も軽くなる。
ファストフードは、コロナ前と比べて七、八割まで客が戻っていた。ウィンドウ越しに見える、街を急ぐ人たちの数もだ。店の中にいる僕たち三人はとりあえずは平和で呑気で、——ああでもコロナのせいで、あれも出来ない、これも出来ないままに、宇宙服に小さな穴が開いていてそこから空気が抜けていくみたいに、大学生でいられる時間がしゅるしゅると抜けて行ってしまう。
ちょっと話題も尽きて、しんとしたところで僕のスマホがショートメッセージ着信を告げた。見ると、辰巳庵のエージェント1号、クマちゃんからだ。携帯番号を教えたので何か連絡をくれるなら電話と思っていたら、テキストで来るとは。クマちゃんばあちゃん、恐るべしだ。
メッセージを開ける。
『向崎さんの情報を聞きました。電話ください』。
すると、見ているそばからまた新しい着信が。今度はSNSのダイレクトメッセージだ。なんと続けざまで、エージェント2号、吉村先生から。
『向崎マミ子さんについて、ちょっと興味のひかれるものを見つけました。まだ探しているのであれば、連絡ください』。
数えてみると、Ⅹ市に行った日から五日が経っていた。あの後、僕は、向崎マミ子の住所に住んでいた小室秀敏氏と電話で話すことが出来た。けれど小室氏は、向崎マミ子のことは何も知らなかった。念のため、小室氏、それから吉村父娘についてもネットサーフしてみたけれど、向崎マミ子と関連するものは何一つ無し。それ以降は何も調査っぽいことは出来ていない。父は仕事にプラスして相続関係の手続きが押し寄せ、母はマイペース我関せず。僕も、1号、2号のことを忘れかけていた。まさか連絡が来るなどと思っていなかった。
僕がスマホを見ていると、
「そろそろ行くか」
建がぼそっと呟き、立ち上がる。それで練習後のランチはお開きになった。早速、1号2号に連絡してみなくては。そう思いながら僕は店を出ようとして――、違和感に捕らわれた。それで振り返る。
「何?」
と遼太郎。
「いや、うーん」
違和感の正体が分からない。
「どうかした? 玲ちゃん」
「なんでもない」
何が気になったのか、分からない。
遼太郎、建と別れて家に向かって歩きながら、1号、つまりはクマちゃんばあちゃんに電話してみた。
「ああ、玲人くん」
いつの間に、僕の呼び名がファーストネームになっていた。彼女、下町のおばちゃん感がある。
「いま、お店大丈夫ですか?」
「ははは」
下町おばちゃんは、乾いた、でも元気の良い笑い声を響かせた。
「コロナだし、こんな田舎、どうせ誰も来やしないのよ。年金だけでもいいんだけど、暇だからやっているようなもんだし」
「——何か、向崎マミ子さんの情報があったんですか?」
「そうなのよ、うちの常連さんたちにその話をしていたら、意外なところに繋がったっていうか。でね、玲人くんに見せたいものがあるの」
「はあ」
「古い写真なんだけどね。常連さんから預かったの」
「それが向崎マミ子さん?」
「どうかしらねえ。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないし。どう? 時間があるときに、また来ない?」
暇にしているのは、クマちゃんばあちゃんだけでなく僕もだった。狭いマンションの中に、父と母と僕が住み、狭い自室で曲作りに励むといっても、そればっかり、というかそれしかやることがなくては、退屈で気が狂う。
「ええと、そちらのご都合は――?」
「うちは店だから、いつでもやってるから、いつでもいいわよ」
「じゃ、ちょっと日程調整してまたご連絡します」
それで僕は一旦電話を切り、エージェント2号教授にメッセージを送った。
『またⅩ市に行く用事が出来ました、もし先生もⅩ市のお宅にいらっしゃる予定があるようでしたら、そこに合わせますので、お会いして話をお聞きできませんか。』
スマホをしまって歩き出した時、僕はまた違和感を覚えた。さっき、ファストフードを出た時と同じような違和感。僕は立ち止まり、周りを見回す。一見したところは、いつもの見慣れた商店街。それで、今前にしている風景を一つずつ取り外し、おかしなところがないか、注意深く吟味してみた。
あれ、か――。
ロゴだ。目の前にあるコンビニ。ロゴの書体が、僕の見知っていたものから微妙に変わっている。すごく微妙に。ホント、分からないくらい。
さっきのファストフードもだ。ロゴが記憶にあるスタイルとわずかに違っている。僕はそのままスマホで、コンビニとファストフード、それぞれのロゴについて調べてみた。ロゴの変更、過去のロゴ……。立ったまま随分、ググった。ググったけれど結局、僕の記憶にあったロゴは、WEB上のどこにも存在しなかった。
Ⅹ市再訪の日はほぼ二週間先、九月十一日となった。
2
訪問当日、九月も半ばになろうというのに、暑い日々が続いていた。それまでに、父は祖父の遺品整理をかなり進めたけれど、向崎マミ子探しのヒントになるものは何も出てこなかった。一九四〇年生まれの祖父は五歳で敗戦を迎えた。カオスの時代にあって、それ以前、およびその頃の記録はほとんど何も残っていない。当時、祖父の一家は東京に住んでいたはずだけれど、父も僕も細かいことは何も知らない。祖父の記録が出てくるのは、昭和二十年代後半、祖父が中学に上がる前後からだ。何枚かの白黒写真。小学校、中学校の同窓会からの通知や名簿も出てきた。だがそこにも、向崎マミ子の名はない。
その一方で父は、ヒアリングの範囲も拡大していった。かなり遠縁の親戚や祖父の友人知人たちにも、辿れる先には連絡していた。結局、誰も彼女のことを知らなかった。
つまりは、向崎マミ子捜索ルートは、1号2号以外は、ことごとく絶たれつつあった。でもこの時にはまだ、父としては、調べられるだけ調べたという自分へのエクスキューズがあれば、三十三万貰ってそのままでOKならラッキーという気持ちも少なからずあったのではないか。正直、僕はそうだった。この日の朝には、まだ。
辰巳庵に着いたのは、前回と同じ昼どき。そしてこれまた前回と同じで、僕の他には誰も客はいないのだった。
「ああ、玲人くん、待ってたよお」
クマちゃんは生きて動くぬいぐるみのように、ぱたぱたと僕に走り寄ってきた。
「さあさ、ここに座って。冷房がよく当たるでしょ?」
直撃は少々冷たかったが、熱気を帯びた体には心地よくもあった。東京の残暑も相当だったけれど、埼玉、とくにX駅からこのS町へと来ると、空気が熱で重く感じられるほどだった。
「今日は何にする?」
「こないだと同じで。カツ丼で」
彼女は水と一緒に、古びて皺が幾重にもついた茶封筒を持ってきた。中から一枚の写真を取り出す。白黒のピントのややボケた写真には、何人もの子供たちが並んで写っていた。
「これね、稲村さんって、ここから少し離れたところ、農家なんだけど、今はもう隠居して息子さんに任せて、でも自分の家の野菜くらいは作ってるみたいだけど、その稲村さんにね、聞いてみたのよ。八十歳くらいで、向崎マミ子っていう人、このへんに住んでいたかもしれないんだけど、知らないかって。そうしたらしばらく考えてから、そう言えばって、この写真が出てきたのよ。ほら、ここに写っている女の子、東京から疎開してきて、マミちゃんって呼ばれていたんだって。こんな小さいのでも分かるでしょ? 可愛いでしょ」
たしかに目鼻立ちが整い、大きな瞳には、写真の状態の悪さや古さを乗り越えてまで人を吸い付けるような、何かがきらめいていた。
「この子が向崎マミ子さん?」
「それがね、苗字までは分からないんだって。でもあの住所、小室さんのね、あそこにも昔は大きな農家があって、そこの家に疎開してきた子供が何人か住んでいたらしいのね。その後は相続で土地が切り売りされて、それで小室さんのお父さんが移ってきたんだって」
今から七十年以上も前、しかも戦中戦後の混乱期の話で、すべては曖昧だ。
「で、マミちゃんは、その後どうなったんですか?」
「それが稲村さんもよく覚えていないのよね。でも戦後、比較的すぐに見かけなくなったんで、東京に戻ったんじゃないかって」
「それじゃ、今どうしているかの手掛かりは」
「稲村さんは知らないって」
それに、そもそもこの「マミちゃん」が向崎マミ子である保証などどこにもない。気が遠くなるほど迂遠な手掛かり。そのくせ、いろいろと符合はする。さて、どうしたものか。
「この写真、スマホで撮影していいですかね?」
「いいよ、いいよ。平気」
1号は、ぬいぐるみのようなむくむくした丸い手で、僕の背中をぽんと叩いた。
カツ丼が運ばれてきて食べている間も、1号は「ソーシャルデスタンスだ」と言って隣のテーブルに座り、僕とおしゃべりを続けた。
「Ⅹ市って広いんですね。Ⅹ駅からバスで随分来たけど、まだⅩ市内」
「おまけしてもらって、Ⅹ市に入れてもらっているようなもんよね、このS町は」
「町には何人ぐらいが住んでいるんですか?」
「あらやだ、そんな社会科の授業みたいなこと、あたし知らないよ」
家々が立ち並んでいるのはこの一角、おそらくは一キロ四方もなくて、あとは田園風景になり、その先は山々に囲まれる。電車は通っておらず、バス便も多くはない。自家用車を使えばX駅まで三十分もかからない距離ではあるのだが、まだクルマを運転できない僕にとっては軽い「奥地」の感覚がある。
「結構、静かですよね」
「年寄りばっかりになってきたしね」
「ここらへんの家に住んでいる人は、仕事はどこへ通っているんですか?」
「Ⅹ駅近辺ね、みんなクルマ。だから昼間は無人よ」
「昔はさあ」
厨房の中から、クマちゃんの夫が口を挟む。
「ちょっと車で行くと繊維工場があったんだよね。そんなに大きいのじゃなくて。小さいのだけど。いくつもね。そこで働いている人がたくさんいたよ。でももうずいぶん前に、みんな閉めちゃったけど」
「当時は昼間でももっと人が多かったですか?」
「そうだねえ、——所詮は小さな町だから、そんなにすごく栄えていたわけでもないけど、でも人はもっといたよねえ」
「そうだわねえ」
クマちゃんも夫に同調した。
「あの頃はお祭りもやってたわねえ」
「へえ、祭りですか。何か珍しい感じの?」
「いやいや全然。よくある祭り。神輿かついでね。通りをね、わっしょい、わっしょい、言ってたなあ」
そう呟くとクマちゃんは、視線を窓の外に投げた。まるで、祭りの練り歩きがそこに見えるかのように。もちろん祭り人はいない。誰もいない。九月らしからぬ激しい陽光に、家々が揺らめいて見えるだけだ。
そうしてクマちゃん夫婦と三十分ほど雑談をして、僕は店を後にした。前回同様、今回もスマホで勘定を済ませる。
「もし稲村さんがまた何か思い出したら、連絡するわ」
別れ際、クマちゃんは僕に塩飴をくれた。しかも三つも。暑いからね、と言い添えて。
店の外に出る。うわっ、となる。店に入った時より一段と気温が上がっているんじゃないかと感じる。側道の先が熱で揺らめいて見える。前回は人面猫が吉村先生の家まで案内してくれたのだが、今回は残念ながら現れない。Ⅹ駅を降りてこの町に来るバス停まで、そこにも人面猫は出てきてくれなかった。少し再会を期待していただけに、肩透かしの気分になった。暑すぎて、猫も出てこないか。
僕は一人で吉村宅までの道を歩く。難しい道行きではない。覚えている。Ⅹ市の名木に登録されていそうな巨木、世界樹を思わせる強さと広がり。その木陰でたまらず少し涼み、そこからさらに奥へと進み、そして階段。右側、大きな木から連なる木立で少し暗く、うねり、ねじれ、細くなり、人間の体内に飲み込まれていくような階段。
そこを降り切って開けた目の前。吉村先生の家があった。まだ表札は戻ってきていない。先生、新しく表札を入れる気はないのだろうか。売る決意がついたのだろうか。家を改めて見る。やはり美しい建物だった。メンテナンスの際などに、画家になりたかった吉村先生のセンスが反映されているのかもしれない。
インターフォンを押すとすぐに、エージェント2号、吉村先生の応える声が聞こえ、玄関扉が開かれた。
3
吉村先生は、フォーマルに近い黒いワンピースを着ていた。
「あれ? どこかへお出掛けでしたか?」
「これ?」
彼女は袖を引っ張って見せた。
「すみません、黒いんで、法事かなと思って」
「そう、ある意味で法事ね。今日は、9.11.なのよ」
「キュウイチイチ?」
「セプテンバーイレブン。ワールドトレードセンターに二機の旅客機が突っ込んだ。知ってるでしょ?」
そういえば今朝、ニュースサイトやSNSでいくつか関連記事や投稿を目にした。
「知ってはいます。僕は、あの年に生まれました」
「ええと、大学二年だったよね?」
「そうです、早生まれなんで」
僕は家の中、リビングへと通される。エアコンが心地よく効いている。生き返る。彼女は僕をダイニングテーブルの椅子に着かせる。それで彼女は、黄色い花模様のついた歴史を感じさせる冷水筒から、宝石のように鮮やかな、それでいてどこか沈んだトーンの黄緑色の液体をグラスに注いでくれた。凍りそうに冷やした煎茶だった。
「ある日突然、世界は変わる」
彼女は言った。
「9.11.のことですか?」
「当時、私はニューヨークで大学院生だったの。ウォールストリート近くにあるギャラリーでインターンをしていた。ウォールストリートとワールドトレードセンターの位置関係は分かる?」
「ええ。高校の時、ニューヨークに行きました。グラウンドゼロにも」
「私のインターン先はトレードセンターにはなかったから直接攻撃を受けたわけではないけれど、何人もの友人が命を落とした。だから今でも毎年この日には、黒っぽい服を着ることにしているの」
彼女は視線を庭に投げ、バランスよく整えられた緑、その向こうにある何かをしばらく眺めていた。
「世界はある日、ある時刻、ある出来事を境にして、それまであった世界とは全く異なったものになってしまう」
その感覚は、僕にも少しだけ分かった。まさに今、コロナ以前の記憶が、急に前世のことにでもなったように感じているから。世界は簡単に裏返る。折り目をつけて紙を折り返せば、左の端は右の端に重なり、上端は下端に重なり、色合いは一変する。
「あの日、アメリカだとか、世界だとかが変わったのはもちろんだけど、私にとって結局一番重大だったことは、私自身が変わったことね」
それで吉村先生は仕切り直すように煎茶を飲み、少し形式的な感じで微笑んでみせた。
「戸坂くんにメールしたのは、別に9.11.の思い出話をするためじゃなくて。まあ、偶々この日になったのも何かの縁なのかもしれないとは思ったけれど、要するに、向崎マミ子という名前が思わぬところから出てきたからなの。それは9.11.ではなくて、3.11.」
よく似た数字の並び。十年の時を挟んで起きた二つの悲劇。
「東日本大震災ですか?」
「そう。その行方不明者の中に、向崎マミ子という名前のおばあさんがいた」
「それ、単なる同姓同名ではなくて?」
「おそらく本人。この家の整理の途中で父の遺したスクラップブックを見ていて、そこで見つけた新聞記事が取り上げていた」
彼女は床に置いてあった百貨店の大きな紙袋から、分厚く膨らんだスクラップブックを、切り札となる証拠を取り出す検事のようにテーブルの上に勢いよく広げた。ページの端にブルーの付箋。
「これよ」
と吉村先生。記事の日付は二年前だ。
向崎マミ子さん(当時七十歳)、——本人は津波に飲み込まれて行方不明、——大事にしていたアルバムが見つかった、——戦争中、埼玉県S村(現・Ⅹ市S町)に疎開していた時の写真。
これ――!
僕はスマホを取り出すと、さっきクマちゃんのところで撮ったばかりの写真を開いた。それを吉村先生に見せる。まさに、記事に掲載されているものと同じ写真だ。
「戸坂くん、きみ、これをどこで?」
「辰巳庵です」
「辰巳庵って、バス停近くの蕎麦屋の?」
それで僕は、エージェント1号から聞いた話を行きつ戻りつしながら要領悪く説明した。2号はそれを過不足なく三十秒に纏め、
「——ということね?」
と確認を求めた。実際、その通りだった。
「ビンゴ」
2号教授は、ちょっと興奮したようだった。それは僕もだ。向崎マミ子の新聞記事があったなんて、それがクマちゃんのところで見せてもらった写真と繋がるなんて、驚くしかない。既に散々「向崎マミ子」でネット検索していたのに、この記事、出てこなかった。
だが、しかし。
「でもそうなると、向崎マミ子さんは九年前に行方不明になり、この記事が書かれた二年前の時点でも依然として行方不明のまま。それなのに香典が送られてきた。――向崎マミ子さんは生きているんでしょうか?」
「生きているのか、それとも他の誰かが彼女の名前で香典を送ったのか。少なくともこの新聞記事は何かの手掛かりになりそうじゃない?」
「はい、すごい手掛かりです」
「この記事も撮影しておく?」
「是非」
僕はスマホで写真に収める。
「まずは新聞社に当たってみます」
点と点が繋がって線になり、事態が動き始める予感がした。
「うまくいくといいね」
「ありがとうございます」
窓の外からセミの合唱が聞こえていた。アブラゼミに蜩も混じっている。
「先生のお父様は、向崎マミ子さんのこと、ご存じだったんでしょうか? それともS町が出てきたから切り抜いたのか……」
「父は自分の子供時代のことをあまり話すことは無かったし、彼女のことを知っていたかどうかまでは推測がつかないな。父と話をする時は、父も私もだいたいお互いの興味のことばかりで。父の英文学と私の西洋美術史は結構交錯するところがあって、だから余計にね」
「高齢になると、昔話が増えるって言いますけど」
「うちの父は例外」
それで先生は、亡き父親に向けるような感じで少し笑った。
僕が煎茶を飲み干し、2号宅からお暇しようとすると、先生は言った。
「ごめんね、今日は車で送ってあげられないの。もうしばらく、ここにいないといけないので」
「お客様ですか?」
「そう。今夜、ここに人が来るから」
その来訪者と、先生の黒い服、つまり9.11.には繋がりがあるのかもしれない。そうした気配のようなものが感じられた。二十年近くを経てなお集い、悼み続ける。ここは先生のプライベートに入り込むところではない。
4
僕は一人、2号の家を出る。気温がまた上がったような気がする。いや、絶対に上がってる。よく異常気象と言うけれど、今日のS町はまともじゃない。どこか、おかしい。家々が作り出す日陰の背は低く、僕は塀や生垣に張り付くようにしてその陰を歩いた。2号に教えて貰ったバス停までの近道はそう難しくはなく、スマホを見るまでもない。
やはり人面猫は現れない。日差しを避けて出てこない、んだろうな。間の抜けた人間の顔みたいな背中の模様。癒し系的な、和み系的な模様。それに僕のことを知っている風の、あの態度。なあ、出て来いよ。人面猫を思い歩くうち、僕の中で人面猫の不在という空洞がどんどん大きくなっていく。このままじゃ、今日という日が終わらないような気がしてくる。
なぜ人面猫が気になるのか。実はその理由について、頭の中の奥の奥の方で、何かが瞬いている、ような気がする。でもその正体は分からない。ちっとも分からない。思い出せない。このクソ暑さのせいかもしれない。
僕は頭の奥の奥の探索から、猫繋がりで、シュレディンガーの思考実験を連想する。蓋を開けてみるまで決まらない、猫は死んでいるのか、生きているのか――。最近、SFアニメか小説かで目にした。蓋を開けることで生死が決まる、変わってしまう。猫にしてみればまったくもって酷い話だ。確率五十%で殺されるかどうか、「さあ、では箱の蓋を開けてみましょう」だなんて。
ああでもそれは、人生と一緒なのかもしれない。だって僕たちは、明日どうなるかなんて蓋を開けるまで知らずに生きている――。
ついに日陰が途絶えた。ハレーションを起こしそうな太陽の熱光線に焼かれ、僕は歩く。大きく張り出した桜の古木まで行き、その角を2号に言われた通りに折れる。
そこに、人面猫が待っていた。やっぱり待っていた。
人面猫は僕を一瞥し、『よろしい』というように首を縦に振る。それで僕に尻尾を向け、すたすたと歩き出した。僕はもう猫に従うしかない。人面猫は2号の教えてくれたルートからどんどん外れていく。そして細い脇道へと身を翻す。脇道は幅数十センチしかない。両側は生垣だ。生垣の奥には竹。歩いていくと生垣と竹が高くなり、いやよく目を凝らせば僕はまた坂道を下りていて、ちょっとした切通しに入り込もうとしている。
竹はやがてトンネルのように脇道を覆う。あれほどぎらついていた陽光は遮断され、辺りは薄暗くなる。ひんやりとした洞窟の中にいるようで。そこを人面猫は迷いなく進み、僕も猫を追う。
まだ、下っている。2号の家へと繋がる、捻じれた下り階段。そこからまた、今度は切通し、洞窟のような坂道を下る。ここもまた緩やかに捻じれ、先が見えない。いったい、この小さな町はどれほどの高低差を抱えているのか。
ふいに——、すとんと切通しが終わった。
強烈な陽光にがっちりと捉えられ、僕はまた別の住宅地に出ていた。家々は、まとめて分譲開発されたようで、みな、きょうだいのように似た作りをしていて、みな同じくらい古びていた。僕は人面猫の後を追って、その住宅地を歩いた。道はカタツムリの殻のように回っていて、やがて、そうした親戚一同的な家々に囲まれた小さな児童公園に出た。
そこは小さいだけでなく、素っ気ない公園だった。ただ遊具が一つだけ、ブランコがあり、——小学生の女の子が座っていた。前にこの町に来た時、駅前でバスの中から見た少女だ。あの時は、人面猫を撫でていた。
人面猫!
周りを探したけれど、もう猫の姿はどこにもない。僕は改めて少女をゆっくり見る。少女は真っすぐに前を向いていて、でも目の前にある具体的な何かを見ているようではなく。それは、残暑の炎天下で、まだ来ぬ晩秋の小糠雨を幻視しているかのような、遠い眼差しだった。
僕は少女をじっと見つめ続け――、それでようやく、なぜ少女に見覚えがあると感じたのかが分かった。マスクのせいで顔かたちをはっきり確認できるわけではない。それでも、彼女が纏っている空気感は伝わる。里香だ、少女は里香に似ている。いや、里香そのものだ。
もちろん、小学生の少女が里香であるはずがない。それは分かっている。だから僕が彼女と話をしたところで、何かを得られるわけではないだろう。時が戻るわけでも、あの時の後悔を解消できるわけでもない。というか、変に話しかけたなら、不審者による声掛け事案として通報されかねない。
それでも、人面猫がせっかく道案内して連れてきてくれたのに、ここで出会った彼女をスルーしてしまって良いのだろうか。スルーしてしまったら、僕はとんでもないチャンスを逃すことになるのではないか。
チャンス? 何のチャンスだ? 彼女は里香ではないし、それに何て語り掛ければよいのかも分からない。そもそも僕はまだ、里香本人に対してだって語るべき言葉を持っていない。あの夜、里香に何と言えばよかったのか、どうすれば良かったのか、何が出来たのか、未来は変えられたのか、いまだに分からない。
でもそれでも、いまここで、少女はあまりに「里香」でありすぎる。彼女が目の前にいるのに、本当に何もできないのか。
僕は出口のない自問の輪をぐるぐると巡りながら、日を遮るもののない灼熱の児童公園で彼女を見つめているしかない。しかもここでこうして見つめているだけでも、不審者事案として通報されかねないと気づき、もうどうしたらいいのか分からない。
そうするうち、数十秒後だったのか数分後だったのか、少女はブランコからすいっと立ち上がった。僕は、「あ!」と危うく声に出しそうになった。でもその姿を目で追うだけで、何も出来ない。少女は見る間に公園を出ていき――、住宅の角を曲がり、僕の視界から消えた。
僕は今、大きな何かを逸した。希望の残骸をため息と一緒に吐き出しながら、そう思った。もう人面猫も現れなかった。僕はそのまましばらく炎天下で、ぼんやりと立ち尽くしていた。
とにかく家に帰ろう――。
漸くもやもやとした思いに諦めをつけた時、僕は、猫にしても人間にしても、ここからの帰路を教えてくれるものが何もいないことに気づいた。しかも何故か、スマホのマップまで機能しなかった。
まあ、仕方がない。僕は大して深刻には考えず来た道を戻ろうとした。でも、どうしたものか、あの切通しに行き当たらない。代わりに元居た公園に戻って来ていた。そう、来るときにも感じたけれど、ここらの道は渦を巻くように曲がっているのだ。僕はそれでもう一度、切通しを探して歩き出した。
初めのうち何回かは、そうやってひたすら来た道を探ろうとした。でもその方向へ進むと、どうしても元居た公園に戻ってしまう。どの家もとてもよく似ている。きょうだいのような家々がひたすらに立ち並ぶ。僕は、一軒一軒、表札の名前をスマホにメモして、同じ道に出てしまったらすぐ分かるようにして、それで前回とは少し違う道を選んで進んだ。何の効果もなかった。また元の公園に戻っていた。次に僕はスマホで周囲の写真を撮りまくり、太陽の位置も確認しながら、今度こそ元に戻らないようにと歩いた。それでもまた元の公園に戻った。
もう切通しを探そうとは思わなかった。とにかくここから出られれば何でもいい。今までとは全然違う方向に行ってみよう。そうして工夫を積み重ねながら何周もした。けれど、やはりこの迷路から逃れることは出来なかった。ついには公園にも戻れなくなった。完全に迷った。途中、道を聞こうにも、通りには誰もいない。前回、八月にこの町に来た時もそうだった。ここでは誰とも行き会わない。
町中にもかかわらず遭難しそうな気すらした。僕は、ずらしていたマスクをむしり取った。陽光は容赦なく僕の脳に熱を加え、沸騰させ、2号の家で飲んだ煎茶はすべて汗として蒸発していた。砂漠の行き倒れのように喉が渇いた。ペットボトルの一本でもカバンに入れておくべきだった。都市災害サバイバルの本に、いつも携帯しておけと書いてあったのだ。公園すら恋しくなった。水飲み場があったから。せめてもと1号に貰った塩飴をなめたが、三個はあっという間に無くなった。ついさっき2号宅を辞去したのが遠い過去にように感じられた。見上げると、雲一つない青空。
「今日は9.11.なのよ」
そう言った吉村先生。この空のずっと先、アメリカの空を、十九年前、飛行機が過ぎり、多くの人たちの世界が唐突に、絶たれた。
僕は最終手段に出ることにした。まず、目の前の家のインターフォンを押した。
留守だった。
次に、隣の家のインターフォン。
ここも留守。
そうやって、八軒目までは数えていた。悪い冗談だと思った。ああでも、9.11.で旅客機が自分めがけて突っ込んでくるのを見たワールドトレードセンターの人もきっと、悪い冗談だと思ったんだろう。3.11.でビルの高さほどもある津波に飲み込まれる瞬間、あるいは今日、この世界のどこかでコロナで咳が止まらなくなり意識が混濁してきた時、誰もがそう思ったことだろう。これは悪い冗談だと。
もう何軒目だか分からなかった。ついにインターフォンに応える声があった。
助かった――!
大袈裟ではなく、そう思った。