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第1回 人面猫の誘い、捜索の開始



   1


 夜半、自室から出てキッチンで麦茶を飲んでいたら、父が声をかけてきた。

「玲人、ちょっとしたアルバイトしないか?」

 僕はバイトにあぶれていた。高校の頃からずっと働いてきたビストロ五島亭が、今春に発生したコロナ禍を機に閉店したのだ。大学はインターネット講義になり、それに今は夏休み。もちろん、旅行もゼミ合宿も無し。僕はとてつもなく暇で金も無かった。時々、バンドの練習で貸しスタジオには行くけれど、あとは友だちとSNSでやり取りして、スマホで課金のないゲームをやって、動画を眺めて。って、家からほとんど一歩も出ていない。ただ暑いだけの夏が続いていた。

「何、バイトって?」

 僕は麦茶を飲み干すと、コップをシンクの中に置いた。

「向崎マミ子を探すんだ」

 父はダイニングテーブルのパソコンから視線を上げて僕に告げた。

 二十日前に祖父が死んだ。死因はコロナではなかったが、感染防止のため葬儀はごくごく身内だけで済ませた。葬儀が終わってから、祖父の古くからの知人には祖父の死を知らせた。そうしたら何人かから香典が送られてきた。ここまでは想定の範囲内。

 その送り主の一人が「向崎マミ子」、聞いたことのない名前だった。そしてここからが、想定の範囲外。彼女の香典の額が、いささか非常識だったのだ。三十三万円。封筒は二重になっていたが、普通郵便で送られてきた。祖父が亡くなってから一週間余りの八月九日のことだ。札束をみて父も母もまず驚き、それから微妙な顔つきになった。現金の魅力、そして面倒ごとの予感、当惑。電話してみようと思っても、番号が分からない。

 ただ差出人住所は書かれていて、父はすぐに手紙を出した。余りにも高額のお志を頂戴し、云々かんぬん。だが手紙は宛先人不明で戻ってきた。父はそれで、祖父の死を知らせた人たち、一人ずつに当たった。「向崎マミ子さんって知りませんか?」、「心当たりはないですか?」、「伝え聞いた可能性のある人はいませんか?」。幸いたいした人数ではなく、すぐにそれは完了した。誰も、向崎マミ子という人物を知らず、彼女へはどこからも繋がらなかった。

「でも、どうやって調べんの?」

 僕はシンク越しに父に尋ねた。

「それは分からないなあ——、方法を考えるところからのアルバイト」

「丸投げ?」

「いや、まあ」

 父はもごもごと口籠った。父はいつも少しだけずるい。いたずらに歳を重ねているわけではない、悪い意味で。

「父さん、自分で調べたら」

「別に家にいるからといって遊んでいるわけじゃないし。むしろ、会社に出ていた時の方が余裕があったかな」

 それが嘘や誇張でないことは、四六時中鼻を突き合わせているとよく分かる。マンションを買う際にリモートワークは想定外。父の仕事机はダイニングテーブル。リモート会議中はダイニングに出入りできなくなる。

「じゃあ、探偵でも雇ったら?」

「捜索代金を探偵に払うんだったら玲人に払った方がいい」

 プロより遥かに安く済むしという言葉が省略されている。コロナ禍で父の勤める会社も業績が落ちている。当然に賞与は減ることになるだろう。父としては支出は抑えたい。懐事情はよく分かる。

 それに僕も臨時収入は欲しかった。血沸き肉躍ることもないだろうが、危険もなさそうな調べもの。時間潰しくらいにはなる、そう思った。


 翌日、十時前に家を出た。そもそも午前中に起きること自体久しぶりで、頭には靄がかかり、足も手も体の何もかもがだるかった。そして太陽は容赦が無かった。僕は誤ってアスファルトの上に迷い出て干物になっていくミミズを思った。

 なんとか駅まで着き、下り電車に乗ると人心地がついた。車窓を流れていく、高架から眺める東京郊外、マンション、家、家、商業ビル、マンション、商店、家、家、家……。雲もなく、空が無情に青い。コロナ対策で窓が上の方だけ開いているが、冷房が全力で冷やしていて何とか適温近くで釣り合っている。

 平日の下り電車はガラガラで、この車両には数人しか乗っておらず、感染リスク無し。普段乗らない時間帯、普段乗らない下り電車。コロナ禍の中、日常と非日常が綱引きして、かろうじて日常に引っかかっている世界。のはずなのに、今ここだけみていれば安らかな世界。平和な眠気が湧き上がってくる。そうだ、いつもならまだ眠っている時間だ。

 実際僕は車中で三十分以上も居眠りし、終点に着くとさらに先、Ⅹ駅へと行く電車に乗り換えた。ひと眠りしたせいか、さすがに少し目が覚めてきて、僕はスマホをつけた。向崎マミ子からの封筒を写した写真を開き、彼女が書いてきた住所を確認する。

 埼玉県Ⅹ市S町。昨夜、WEBで調べたところ、Ⅹ駅からバスで小一時間揺られていくらしい。Ⅹ駅まででも、十分に先は長い。僕は車中でSNSを眺め、飽きてきて、それで自分のスケジュールをチェックしてみる。

 ほとんど真っ白だ。ああ、今年の二月までの生活が前世のことのようだ。バイトが週四日、バンド練習が週五日、大学の講義に試験。それから小学校から通い続けている合気道も週一では必ず。それに、飲み会にカラオケにと、目の回るような忙しさだった。毎日、いったいどれだけの人たちと繋がりがあり、行き来し、そしてすれ違っていたのだろう。

 それがほぼ消えた。やっぱりあれは前世だ。頭の中で、何年か前に流行ったRadwimpsの「前前前世」が鳴り響く。アニメ「君の名は」の主題歌。映画、観に行ったなあ。高校三年の春だったかな。再上映を里香と観た。里香は今何をしているのだろう。連絡も取れなくなった。里香とはたくさんの思い出があるはずなのに、今や、それを懐かしく思うことも難しく、僕の中には後悔しかない。半年前のコロナ直前が前世なら、映画を観たのはまさに前前前世だ。そうか、あの頃は里香もいたし、じいちゃんも生きていて、しかも結構しゃんとしていたんだなあ――。

 いつの間に、電車は山林の中を行く。もう車窓からは山しか見えない。僕はイアフォンをつけ、スマホで曲を再生する。自分たちで作り演奏している曲。

 今、コロナで暇になり、曲作りばかりしている、というか、それしかしていない。いつも、午前三時あたりまで自室で曲作りをしている。「作り」というのは、まずは文字通り、作曲をする。ギターとキーボード、それにパソコンを使って。それから歌詞を乗せる。僕は「曲先」、つまりは曲を先に作ってから歌詞を考えて、それをメロディ、音符一つ一つに割り付けていく。次にその曲をバンドで演奏する。時々、ライブハウスにも出る。高校時代のメンバー四人で、今もそのままバンド活動を続けている。僕たちはメジャーデビューを目指している。貸しスタジオで録音した音源を自宅に持ち帰り、別撮りした映像と合わせてパソコンで調整する。それをネット上の動画サイトにアップする。そして、ブレイクを待つ。

 バイト代は、スタジオ費用、SNSへの広告なんかに使った。今はバイトがなくなり、金も無くなった。広告は止めた。ライブも全て中止。スタジオ録音は続けてはいるけれど、費用の捻出が大変で、前みたいに頻繁には出来ない。大学の講義もネットだし、それも夏休みになり、——だから暇で金もなく、深夜に一人で曲をひたすら作るしかなく。それで、夜半にキッチンに出てきて麦茶でも飲むしかない。そうすると、父親にちょっとした報酬と引き換えに、こんな雑用を頼まれる。


 Ⅹ駅で降りた後、乗りたいバスの乗り場を見つけるのに手間取った。そのバス路線は駅前までは入ってこず、少し駅から歩く必要があった。僕はスマホ片手に、灼熱の県道に迷い出た。スマホの示す通りに進む。これで間違いはないはずだ。

 歩道を猫が歩いていた。三毛で背中から尻への模様が、どこか人間の顔に見える。垂れた眉毛、丸い目二つに丸い口。ホラーの人面猫と言うには、ずいぶんと間の抜けた顔だ。猫はちらっと僕を一瞥し(確かにそのように見えたのだ)、体をぶるるんと震わせた。人面模様が微笑んだ、ような気がした。

 猫に先導されるようにして歩いていくと、乗り場を見つける。バスは既に止まっていた。WEBで確認した時刻表通りだ。一歩中に入ると、冷気で生き返る。座席に座り外を見ると、小学校高学年くらいの女の子がしゃがんでさっきの猫を撫でているのが見えた。

 あれ?と思った。その女の子に見覚えがあったからだ。でも、僕に小学生の知り合いなどいないはずなのだけれど。

 誰だろうか――。マスクのせいか思い出せないままにバスは発車し、少女の姿はみるみる小さくなっていった。


   2


 バスはⅩ駅を出てしばらく市街地を走り、やがて山道に入り、そこを抜けると山間の盆地のような場所に出た。田畑の間をさらに一〇分も走るとやがて家が増え始め、町の中心らしきところに、目的地のバス停はあった。

 慣れない料金後払いに要領悪く手間取って、バスから降りる。瞬間、アスファルトに圧着されたようになる。きつい陽光と暴力的なセミの鳴き声とサウナ状態の空気が一斉に僕を押し潰した。東京より確実に三度は暑い。

 平日の昼下がりで、人影はない。僕はマスクをずらし、スマホをつけて地図を追いながら歩き出す。県道から離れて側道へ。何軒かの店が並ぶ。別にどうといった特徴のない、言っちゃあ悪いが田舎の町だ。特段、古い家屋が保存されているでもなし。店も、県道との角には大手チェーンのコンビニがあるが、側道には、小さな蕎麦屋、中華食堂、それに理髪店と内科。あとは、シャッターが閉まりっぱなしらしき業種不明の店が三軒ほど。セミが鳴いていなければ、僕の足音が響きわたりそうな静かさだ。

 側道を百メートル程度進むと、向崎マミ子が書いてきた差出人住所の場所に辿り着いた。表札で住所を確かめる。念のためスマホを見て、彼女の封筒に書かれた住所と照合する。間違いない、ここだ。どこにでもありそうな築十五~二十年くらいの戸建て住宅。東京二十三区の狭小住宅を見慣れた目からすれば広くみえるが、地方にいけば、まあ普通の大きさだ。実際、この周囲の家とも同じくらい。敷地面積にして五十坪よりやや大きいくらいか。

 そして、ここに向崎マミ子が住んでいないからこそ、父の出した手紙は送り返されてきた。表札にある名前は「小室秀敏」。おそらくは、マミ子が自分の住所を間違えたのだろうと僕は予想していた。祖父の知人なのだろうから高齢なはずで、書き間違えか、自宅の住所が分からなくなっているのか、あるいは以前ここに住んでいたのか。

「小室秀敏」さんに聞いても何も分からない可能性が高そうだけれど、折角来たのだし、もしかしたら手掛かりくらいは掴めるかもだし。僕はさして緊張することなく、小室邸のインターフォンを押した。押してしばらく待つ。

 応答はない。

 三十秒くらいして、もう一度。

 やはり応答なし。

 念のため、さらにもう一度押して、それでも誰も出てくることはなく、僕は諦めることにした。写真を取るのは憚られたので、スマホのメモに小室さんの名前を入力しておく。

 周りを見回すが、いまだ誰も歩いていない。平日、日中、猛暑、コロナ。ふらふらしているのは僕くらいか。

 蕎麦屋だ、と僕は決意する。空腹も感じていたし、何か聞けるかもしれない。僕はUターンして、県道からすぐの蕎麦屋、辰巳庵に入ってみることにした。


 店には、七十は軽く越えていそうな男性の店主、それに妻らしき老女がいて、客は誰もいなかった。テレビが点いている。ワイドショーではコロナ対策についてどこかの学者らしき女が政府批判をしていた。店の二人は客用の椅子に並んで仲良さげに座り、仰ぐようにして天上近くに据え付けられたテレビの画面を見ていた。変わり雛、と言えなくもないような。

「いいですか?」

 僕が尋ねると、

「はい、いらっしゃい」

 と老女は照れ臭そうに笑い、店主は急いで厨房へと入っていった。

「暑いですね」

 老女はすぐに冷水を僕のテーブルまで運んできて、お愛想を言った。人懐っこそうな老女で、普段なら鬱陶しいと感じるところだが、今日ばかりはよしよしと心中頷く。僕が、

「東京より暑く感じますね。ここらへんは、少し盆地みたいになっているんですか?」

 と尋ねると、彼女は、こっちの山が何とか山で、こっちが何でと過剰気味に丁寧に教えてくれた。残念ながら、それらの固有名詞は聞いた端からすぐに抜けて行った。

 注文したカツ丼が来る。久ぶりの早起きに遠出は食欲を呼び起こし、数分で平らげた。老女は済んだ食器を片付けると、水のお替りを注ぎに来てくれた。僕は機会を逃さないようにと待っていた。

「いや実は、僕、戸坂玲人と申しますが……」

 それで手短に、向崎マミ子の香典の話をした。もちろん、三十三万円という金額については伏せた。

「ほうほう」

 老女はフクロウのように相槌を打って、僕の話に熱心に耳を傾けてくれた。頷くたび、少し強めに当てたパーマの髪がふるふると揺れた。近くでよく見れば、瞳はなかなかにつぶらで、くりくりの髪や丸っこい小柄な体形と一体になると、昔のSF映画に出てきた熊のぬいぐるみのような愛らしい宇宙人に似ていた。辰巳庵の熊のぬいぐるみだから「辰巳クマ」ちゃん、と僕は内心彼女に名付けた。

「向崎マミ子さんねえ」

「心当たりはないですよね?」

「そうねえ。ねえ、あなた」

 彼女――クマちゃんは、店主に声を掛けた。

「今の話、聞こえてた?」

「ああ」

 厨房の中から店主の声がした。

「向崎さん、だろ?」

「何か、覚えある?」

「うーん、無いなあ、悪いけど」

 クマちゃんは、すまなさそうに僕を見て言った。

「戸坂くん、ごめんね」

「いえいえ、そんな」

「うちはね、もうここは古いのよ。店出して四十年は経っているから。でも、ここいらへんで、向崎っていう家はなかったと思うのよねえ」

「はいもう、それで十分です」

 僕は財布を出しながら立ち上がった。

「そうだわ、このへんのご近所さんに聞いといてあげるよ。それで何か分かったら連絡する。もしよかったら、戸坂くんの連絡先、教えてくれる?」

「はい、もちろん」

 僕はそれで、老女のくれたメモ帳に僕の名前と携帯番号を書いた。レジでお金を払おうとしたら、スマホ決済のステッカーが貼ってあった。

「すごいな、スマホ支払いできるんですね」

「そりゃね。時代に置いて行かれないようにしなくちゃ」

 クマちゃんは力強く微笑んだ。


 僕はまた、炎天下で路上の人となった。図らずも蕎麦屋にスパイ網のようなものが出来てしまったが、結局、向崎マミ子の手掛かりはない。収穫があったような無かったような、——やはりこれは無かったというべきなのだろう。

 父との交渉の結果、僕の報酬は実費のほか日当は二千円。あとは成功報酬で五万円。向崎マミ子が見つからないと、熱中症になりそうな行軍をしても中学生の小遣いくらいしか貰えない。成功報酬五万円は欲しいが日当二千円ではいまいちやる気が出ず、それになんだか向崎マミ子が見つかりそうな気がしてこない。

 時間は一時を大きく回っていた。今日はここらへんで諦めて帰り、蕎麦屋からの連絡を待つとともに別の方法を考えるか。——別の方法といっても、これといったアイデアがあるわけではなかった。「向崎マミ子」でのネット、SNSサーチは一番にやっていたし、あとは、じいちゃんの過去を遺品から探ってみるってあたりか。

 僕が蕎麦屋から出て立ったままどうしたものか逡巡していると、人はいないけれど、またもや猫がいた。Ⅹ駅のバス乗り場の猫とよく似ている。三毛で、模様が人の顔にみえる。ちょっと間抜け面なところまで一緒だ。まさか同じ猫、のはずはないが……。

 猫はちらりと僕の方を見た。

 ——困ってるんだろう?

 猫が、そんなふうに僕に言ったように見えた。

 ——ああ、困ってるんだよ。

 僕は猫の目をしっかと見て、そうメッセージを返した。猫は頷いたように見えた。そして、Ⅹ駅そばの歩道でやったような身震い。じゃあ、ついて来いよ。そんな仕草で首を振り、すたすたと県道とは逆、さっきの小室邸の方へと歩き出した。

 ほかに当てがあるわけでもなし。僕は猫の後をついていくことにした。猫は時々、僕が追い付いてきているかを確認するように立ち止まり、後ろを振り向いた。それで僕の姿を認めると、満足したようにまた歩き出す。小室邸は行き過ぎた。そのまま数十メートル進み、そこで細い路地を曲がった。角に巨大な木があって、枝が広く道に張り出していた。木漏れ日は差し込んでいたが、木陰に入ると一息つけた。だが猫は待ってはくれず、さらに路地を進んでいく。

「待てよ、おい!」

 僕は一瞬の涼に後ろ髪を引かれつつ、猫の後を追った。路地はどんどん細くなっていく。そしてついには人一人通れるくらいの幅の階段になった。

 そこにはまた大きな木があって、日陰を提供していた。その大木を起点として階段沿いに右手は木立ちが続き、階段はずっと日影になっている。日陰の中、緩やかにねじれながら下っていて、先は見通せない。猫は慣れた様子で階段を降りていき、ねじれの向こうに消えた。僕も慌ててついて行った。どれくらい降りただろうか、二階分、あるいは三階分程度か。ふいに階段が終わって前が開けた。

 そこに、「千と千尋」の巨大な宿屋か何かがあればちょっとしたファンタジーなのだろう。実際には、さっきと同じような住宅が並んでいるだけだった。

 気が付くと、猫は姿を消していた。

 ——猫が向崎マミ子の住処に案内してくれたなんてことは、無いだろうな。

 うっすらとした期待とともに、目の前の家の表札を見ようと門に近づく。ああ、残念ながら「向崎」ではない。というか表札が外され、跡にはうつろな凹みがあるだけだった。空き家のようだ。よく見れば、さっきの小室邸よりだいぶ古い。昭和の建物。といっても、平成に近い昭和ではない。古家だ。

 ただ、もともとしっかり、かつ美しく建てられ、手入れもされている。壁面は木材の黒と漆喰の白とが絶妙に組み合わさり、かなり勾配のついた屋根は、もともとは瓦だったのだろうが、今は薄く軽く耐久性の良さそうな焦げ茶色の金属製に葺き替えられている。その周囲を幾種類かの樹木が囲む。全体として、まだ「生きている」感じが伝わってくる。空き家にしておくのは惜しい。

 もちろん不法侵入する気はなかった。もし表札が「向崎」だったらともかく、それに、さっきの小室邸からは随分歩いたし、住所も違うはずだ。僕はせめてここら辺の住所くらいは確認しておこうと、住居表示のある表札を求めて隣家まで歩きかけた。

 その時だった。

「ちょっと、きみ」

 背中から声がした。振り返ると、空き家の玄関が開き、四十くらいの女が僕を呼んでいた。


   3


 女はボブ、というよりはおかっぱに近いような、それが中途半端に伸びたのを襟足で結わき。バンクシーもどきの絵柄の入った白いTシャツを着て。そこから日焼けしていない白い腕を出し。カーキ色の緩いカーゴパンツを履いていた。

「僕、ですか?」

「そう、きみ」

 くっきりした二重の目。力強い眉。赤ずきんを喰らいそうな大きな口。彼女は、その全てを動かして微笑んだ。

「暇だったら、ちょっと手伝ってくれないかな。バイト代は払うよ」

 学生にものを言いなれた口調。NOとは言いにくい圧。しかし、バイトで来た町でまたバイトを頼まれるとは。コロナで有効求人倍率は急低下と聞いたが。

「で、何をするんですか?」

「本をダンボールに詰めるだけなんだけど。ちょっと量が半端じゃなくて」

 言われてみれば、彼女は額と鼻の頭に汗を浮かばせていた。

「いいでしょ?」

 どうせもう帰るところだった。

「分かりました、お手伝いします」

 父からの小遣い程度の報酬では残念すぎる。もう少し稼いでいこう。


 家の中にも猛暑は侵入していた。だが風をしっかり通しているようで、古家にありがちなこもったような臭いはあまり感じられなかった。玄関を入ってすぐ右手にリビング・ダイニング。左手にはどうやら水回りがあり、そのまま廊下を進むと突き当りに半ば開いたままのドアがあった。彼女は先に立って進みドアを全部開き、僕を招き入れた。

 そこは書斎のようだった。二面に出窓。窓際には、風格と年季いっぱいの巨大な机が置いてある。ダイニングデーブルで醤油瓶を横に置いてリモートワークに励む父が見たら、泣いて羨ましがるに違いない。

 窓の外には庭木が見えた。緑が豊かで、その向こうが見通せないほどだ。だがそうしたなかなかに魅力的なあれこれよりも、その部屋を何より印象付けているものは、出窓以外すべての壁を床から天井まで覆いつくしている書棚だった。

「父は大学の教員だったの」

 僕が指示に従いダンボールにひたすら本を詰め始めると、彼女は問わず語りに話し出した。

「父は六十過ぎの時に体を壊して、そこからは仕事のペースを落として、住まいも東京からここに移した。もともと生家だったのを改築してここに書斎を増築したの。——一昨年、八十一で亡くなったんだけど、私も忙しくて家はそのまま放置していたのよね」

「それで表札も取っちゃったんですか?」

「あれは盗まれたのよ」

 呆れた、という表情を押し出しつつ彼女は言った。

「表札を?」

「ねえ。驚いちゃうわよねえ」

 盗んで、いったいどうするんだろうか。だがそれよりも、まだ彼女の名前を確認していない。まあ、「向崎」ではないと思うけど。

「あの、——お名前は何て言うんですか?」

「え? ああ、名前は吉村です。父は吉村拓郎」

 残念。やっぱり向崎ではなかった。三毛猫は、向崎マミ子の家に案内してくれたわけではなかった。

「父は、近代英文学ではそれなりに名前を知られていたんだけどね」

 もちろん僕は全然知らなかった。大学の一般教養科目で英文学を取っていたけれど。そもそも専攻している経営学ですら、他大学の教授の名前などよく知らない。申し訳ないけれど。

「あと、私は吉村美紀」

 付け足すように彼女は言った。

「僕は戸坂です、戸坂玲人。——もしかして、吉村さんも大学の先生ですか?」

「え? なんで?」

「何ていうか、吉村さん、学生慣れしているというか」

 すると彼女は大口を開けて笑い出した。

「そうか、なるほど。分かるものね」

「まあ、親も大学教授という先生は、うちの大学にも多いみたいだし」

「私は西洋美術史を教えている。ホントは絵描きになりたかったんだけど」

 エアコンは効いていたけれど、作業を続けるうちに汗が次々噴き出てきた。僕はそれを拭いながら尋ねた。

「しかし、いくら労働力が欲しいからといって、いきなり通りすがりの男を家に入れたりしていいんですか?」

「大丈夫、見る目あるから」

「そんなこといって、もし僕が犯罪者だったり、変質者だったりしたら」

 彼女はふいに舌を出した。意外なことにそうした仕草が似合っていた。

「ははは、黙っていてごめんね。私はきみのことを知っているから、だから偶々窓越しに見かけて、あー懐かしいと思ってそれで、つい声を掛けました」

「え?」

「きみ、五島亭で働いていたでしょう?」

 僕がバイトしていたビストロだ。

「あの店にいらしたことがあるんですか?」

「そんなにしょっちゅうではないけれど、懇意にしている先生のお気に入りの店でね。半年に二回くらいのペースで、もう五年くらいは行ってたかな」

 僕がバイトを始めたのは三年前。コロナ禍をきっかけとして閉店したのが二か月前。

「そうでしたか。お客様の顔を覚えていないのは、僕は接客業としては失格ですね」

「別に私、常連だったわけでもないし」

「それでも僕の顔を覚えていてくださったんですよね? 先生がおいでになっていた時に、僕、何かやらかしました?」

 僕は箱詰め作業の手を休めて彼女を見た。

「そうじゃなくて。人の顔と名前を覚えてしまうのは、ずっと教員をやっていて、しかももともとは絵描きを目指していて、という私の習性のようなものかな」

 たしかにそう言う彼女は「先生」の顔をしている。僕が彼女を呼ぶ呼び方も、「吉村さん」から自然と「先生」に変わっていた。

「そういえば」

 吉村先生はふと思い出したように尋ねた。

「きみ、愛想の良い元気な女の子と一緒にバイトしてたでしょ? 女の子の方はいつの間にかいなくなっちゃったけど」

 それは里香だった。

「そうですね。高三の十一月に、親について北海道のZ市に引っ越していったんです」

「そんな変な時期に?」

「大学、東京で内部推薦が決まっていたんですけど、何かちょっといろいろあったみたいです」

 おそらくは「ちょっと」ではないのだろうけれど、そこまで吉村先生に話す必要もないだろう。

「ふーん、そうかあ」

 何となく察したようで、それ以上は聞いてこなかった。

「じゃあ、別の部屋を片付けてくるから後は宜しくね」

 そう言い残して、彼女は部屋からさらっと出て行った。


 全部箱に詰め終わるまで二時間近くかかり、汗びっしょりになった。僕はダイニングに通され、テーブルに着くと、彼女は細長い円柱形をした質実剛健な感じのグラスいっぱいにレモネードを注いで持ってきてくれた。

 リビング・ダイニングの大きな窓からは庭がよく見えた。空き家という割には雑草もなく木々の枝も整えられていた。家主のこだわりのようなものはあまり感じられないが義理は果たしてある、そんな感じの庭だ。それでも、かなりの広さがあり、こうして眺めていると大いに憩いを感じる。僕の視線から察したのか、彼女が説明した。

「近隣からクレームが来るから、年に二回は庭師を入れるの。お金ばかりかかる。それでも売ってしまうのにはちょっと躊躇いがあるし、売るためには家財を片付けないといけないし、それにこんな奥まった場所で買い手がつくかどうか分からないし」

「それでも本を箱詰めしたってことは、売る方向に進んでいるということですか?」

「その第一歩ってとこね。父の蔵書の寄贈先がやっと決まったのよ。一つ片付いた、双六でやっと一コマ進めた、そういう感じかな」

 彼女はレモネードを一口飲み、僕の方をみて、

「どうぞ」

 と言った。一口、二口、喉を通り抜けると、冷たさが淀みを浄化しながらするすると落ちていき、体の中に美しいレモン色の径が出来たように感じられた。僕はそのまま一気に飲み干した。

「うまいです」

「ありがとう。このレモネードのレシピも父が遺したものの一つなの。父はものすごい趣味人でもあって、料理から植物から絵画から音楽から、それは幅広く、かつ深く。私が画家を目指し、その後は美術史の研究に進んだのも父の影響が大きいと思う」

 古そうなエアコンの音が通奏低音のように流れ、庭からはセミの声がずっと聞こえている。ここは、吉村拓郎という故人が作り、その娘が躊躇いつつも維持している別世界、異次元だ。


 帰りは、吉村先生に車でⅩ駅まで送ってもらうことになった。乗り潰し寸前みたいに古くて小さく赤いハッチバックの国産車に乗り込む。もちろん、この家に来た時のねじれ階段のルートとは別で、車で狭い路地を何回か曲がったら唐突に県道に出た。

 駅近くまで来て、僕は今日の目的を思い出した。彼女にはまだ聞いていなかった。

「吉村先生、向崎マミ子って人、知りませんか?」

 僕は、探偵の真似事をすることになった経緯を、手短に説明した。

「お父様のお宅の近くに住んでいたらしいんですが」

 彼女は眉間に皺を寄せてしばらく考えていたけれど、

「ごめんね。記憶にないなあ」

 と答えた。車から降り際、

「ありがとう、手伝って貰って助かったわ」

 と彼女は礼を言った。

「こちらこそ、臨時収入になって助かりました」

「もし向崎さんについて何か分かったら連絡しようか」

「お願いします」

 僕たちはSNSのアカウント情報を交換した。向崎マミ子は見つからなかったけれど、この地にエージェントが二人出来た気分になった。

 ただこの時にはまだ、僕はこのエージェントたちにはさして期待していなかった。そして、日常が少しずつ傾斜していくことも、もちろん予想していなかった。



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