1st:EP09:教師がいっぱい
1
朝日が降りそそぐ二階建て集合住宅の広い部屋では、今日もいつもと変わらぬ一日が始まろうとしていた。
「わたしたち人類種ホモ・サピエンスは、旧人のホモ・ネアンデルターロ…ンス、原人のホモ・フローラーエン……えぇっと」
「ホモ・フローレシエンシス」
ラ行とサ行の発音連携がまだ上手くできない六歳になる息子の背後から私は優しくお手本を示した。リビングの床にぺたりと座り込んで絵本教科書の文字を追っていた息子が、ゆっくりと口を動かした。
「ホモ・フローラ…イエンシス」
やはり難しいようだ。私はにっこり頷いて息子の横に座ると続きを丁寧に読み聞かせはじめた。
「かれらは同じ時間を生きていました。みんな別の場所で平和に暮らしていた人類種でしたが、わたしたちホモ・サピエンスだけが、どうして高い文明を築き上げることができたのでしょうか」
「ねぇ、お母さん」息子が顔を向けた。「『築き上げることができた』って、どういうこと」
私が答えようとしたとき、ドアチャイムが鳴った。
「あっ、真紀子先生だよ」
思考を中断された息子は、来客が誰だかインターホンで確かめる間もなく玄関まで走っていった。感情が行動に直結してしまう幼さに仄かな期待が生まれる。
「おはようございます、栄介ちゃんのお母さん」
「はい、おはようございます。今日は早いお越しでしたね、先生」
来客は息子が言った通りの人物だった。
鈴木真紀子。二年前に教員免許を取得したての新人だが、面倒見が良くて仕事熱心な巡回教師だ。もう少し成長すれば息子も複数の巡回教師のお世話になるが、それまでは彼女が学習面の大部分を担当してくれる。
「えぇ、今日は人類史をたっぷり復習してもらいたくて、少し急いで来てしまいました」
「そうでしたか」私は彼女の表情から好ましいものを読み取ると、にっこり頷いた。「なら、お腹が減ったんじゃありませんか。冷蔵庫にアップルパイがありますよ。召し上がりますか」
「えぇ、ありがとうございます。でも栄介ちゃんと朝の復習をすませてから一緒にいただくことにしますわ。その方が美味しいに決まってますから」
「お味は変わらないと思いますよ」
「えぇ、そうかもしれませんね」
私は彼女から微かな戸惑いを瞬時に読み取ったが、それ以上は何も言わずに上着を手にした。
「では、私は今から外出しますので、いつものように、あとは宜しくお願いしますね」
「お任せください」
2
二十一世紀の初頭まで社会では教育の荒廃が声高に叫ばれていたが、国は何ら有効な手立てを施すことができずにいた。大学という最高学府が公私を含めて国中に多く存在し、そこが教員免許状を乱発していた事実があったにも関わらずだ。もちろん、この荒廃に理由がなかったわけではない。教育に対する保護者の熱意の増加といえば耳障りがいいかもしれない。だが実のところは家庭が担うべき躾までを含めたすべてを学校現場へ押しつけてしまったこと。そして何よりも、それを容認し続けてしまった社会の有りようが全ての元凶だった。教育の衰退は社会の弱体化を招き、二十一世紀の中盤には社会が瓦解した。学校というシステム自体が機能しなくなったことにより、国を支えるべき人材が払底した国は社会と国民を支えきれなくなったのだ。この混乱で国土は荒れ果て、人口の半分が失意のうちに病死と餓死、そして自死でこの世を去った。それでもまだ過去の栄光とプライドを捨てきれない為政者と生き残った国民は文明を仕切り直すという名目で500年ぶりに鎖国を断行。一時は恐怖政治まがいの蛮行もおこなわれたが、さらなる混乱と多くの犠牲者を出すにとどまった。
世界がこの国を忘れて、さらに十数年の月日が流れた。だが荒廃を苗床として復活を目指す力が微かにではあるが人々には残ってもいた。彼らは導かれるままに社会を再建し始めた。激痛の経験を反省材料として。その結果、国土は社会インフラと共に大改編され、新たな法律も整備された。そして教職員保護と教員免許有効活用に関する法律。いわゆる『教活法』が成立した。これによって教員志望者はかつて保護者から受けつづけた理不尽ともいえるクレームに怯えることなく教職に就くことができたし、社会を担うべき子どもたち一人一人に手厚い教育を受けさせることができるようにもなった。
ある経済学者は「教育に金をかけるのは結構なことだが、近世ヨーロッパで貴族が子弟に施した家庭教師のようなものに国家予算の四分の一を費やすのは正気の沙汰ではない。まさに無知の所業だ」と揶揄したが、それは大復興の流れの中の芥と化した。そして……。
3
息子を巡回教師に任せた私は自動運転の市内循環バスに乗り、日課にしている人口調整省管轄の中部ブロック第三十七工場を視察した。私の他にも二名の視察者がいたので、冷蔵庫の鶏卵のように整然と並ぶ人工子宮が問題なく稼働しているのを一緒に確認しながら、彼らと他愛のないおしゃべりに興じた。今でも誕生前の遺伝子改良を主張する一部の人間が存在することが信じられない。彼らだって、それぞれの特性を持って、ここから生まれたからこそ多様な意識を持ちえたのだろうに。画一化された遺伝子が何をもたらすかが根本的にわかっていないのだ。変化に富む特質がなければ生命体としての新たな進化も望めない。しかし、そんな身勝手ともとれる彼らの思考ですら貴重なサンプルに他ならない。
4
視察を終えて、他の視察者と別れた私は最終目的地に行くために再び自動運転バスに乗り、区外の集会所に足を踏み入れた。太陽電池兼用の被遮光性金属の大きな窓から陽光が燦々と降りそそぐ清潔そのものの集会所には既に仲間の顔がちらほらと見られた。
「あら、栄介ちゃんのお母さん。今朝も工場見学に」
「えぇ、絵美ちゃんのお母さん。あそこは毎日行っても飽きませんもの。それにおしゃべりだって有意義だし」
「奥さんは、どちらに」
「今日は合成たんぱく製造工場で新製品の視察よ。でも先週、行った原生林再開発領域の見学会のほうが有意義だったわ。ご一緒した佐藤さんも小林さんも同意見よ」
絵美ちゃんのお母さんは社交的で仲間の中でも人気が高い。
「そういえば聞いた。区域長の息子さんが昨夜、寄宿舎でね……」
私は急に声をひそめた絵美ちゃんのお母さんの表情から悪い情報であることを瞬時に判断した。
「まぁ、そうなの。繊細なお子さんだと聞いてたから……私も将来を見守ってたのに」
「わたしだって、そうよ。せっかくの個性だっていうのに自死だなんて、大きな損失だわ」絵美ちゃんのお母さんは眉をひそめた。「順調に成長してくれれば、どれだけ社会の役に立ったことか」
「そう嘆かないでください、皆さん」
いつの間に集会所に入って来たのか、区域長の落ち着いた低音が私たちに向けられた。
「さぁ、それでは今日の会合を始めましょうか」
「でも、区域長」と、絵美ちゃんのお母さん。「あれだけ教育に手間暇をお掛けになっていたのに」
「そうですわ」と、今度は私が口を開く。「寄宿舎での子どもたちの集団生活は個性にどんな影響を与えるかの画期的な試みだったはずです。それなのに」
私たちの声に同調して他の参加者も次々と区域長に声をかけ始めた。
「ありがとう、皆さん」区域長は柔らかい物腰で仲間たちを遮った。「集団生活から落伍した息子のことは残念でしたが、もう過去のことです。わが家では明日から、また新たな子どもを迎える準備も整えましたので、ご心配には及びませんよ」
私たちは安堵して頷くと円形に並べられた椅子に座った。座るとそれぞれが首の後ろに隠された端子を剥きだし、椅子に付属している高速大容量情報交換装置から伸びるコードを繋いだ。繋ぐと同時に昨日、各自が経験した情報が会合に参加している全員の高次元粒子頭脳を行き来しはじめた。客観時間にして、ほんの0.0023秒だが濃密な情報量だ。人間の子供と暮らすと、二十四時間という時間の中でも何と多くの不可思議な事態に直面することか。
ホモ・エレクトリクスである私たち合成人間であっても、その刺激に触発されて考えさせられてしまう。例えば仲間の一人の家庭ではこうだ。
料理の手伝いを突然すると言い出した女児が包丁で指を切ってしまい、泣き出してしまうところまでは理解できるが、その直後にアニメの放送を見て笑い出したかと思うと、モニターに絆創膏からにじむ自分の血を擦り付けて不思議そうに眺めている。また、絵本を見ている最中に縫いぐるみの両手を持って独楽のように回転して無言で遊びだす幼児。バイタルや表情、行動に問題の見られなかった思春期に差し掛かった娘の突然の家出等々。非論理的かつ非理性的な行動が触発される理由の幾つかは過去に究明されてはいたものの、まだまだ原因が特定されていないケースも多く、とても興味深い。
こういった刺激を受け続けることによって私たち合成人間も進化し続けることができると結論付けられてはいるが、そもそも私たちは「なぜ」進化したいのだろうか。
かつては進化を神に出会い、それを理解するための手段だと考えた人間もいたが、私たちにはわからない。そもそも神の実在が証明できてはいないからだ。では「なぜ」私たちは進化したいのか。
わからない……それが何十京回も考えては行きついた現時点での答えだ。しかし答えがないままの状態は好ましくない。もちろん好ましくないというのも電脳の情報選択の結果であり、そう仮定すれば人間の感情という作用も私たち合成人間の選択と同じ働きをするものではないのだろうか。人間の、その場その時に相応しい大脳と神経系の生理反応。私たちが非論理的な人間の子供相手に時おり見せてしまう計算外の反応。
感情と呼ばれる理解不能なもの。
それが私たちの「なぜ」を刺激して行動に向かわせ、そして、また別の「なぜ」に向かわせているのではないのか。私たちにも感情があると規定すれば計算外のことも色々と理解ができるのだ。進化したいのは、より多くの「なぜ」と出会いたいからなのだ。
好奇心。
これこそが私たち合成人間の進化の原動力だ。だからこそ、より多くの「なぜ」をもたらせてくれる人間との併存が必要不可欠なのだ。滅亡に瀕した彼らを導き、よりよい社会を再建したのもそのためだ。人間は神に出会うために進化し、私たちは好奇心を満たすために進化を目指す。二つの種族が行き着く先は同じかもしれないし、違うかもしれない。でも、それが生命体として互いに望んだ道なのだ。
5
会合の途中で私に緊急の映像電話が入った。
私は仲間たちと繋がったまま通話に出ると、頭の中に情報統合省の制服を着た係官の姿が映しだされた。微表情がないことから彼も私たちと同じ合成人間であることがわかる。
「栄介さんの生後母085194Mですね。一時間前に彼の衝動的かつ重度の暴力行為が確認されました。被害対象者は鈴木真紀子。彼を担当する人間の巡回教師です」
「はい……」
「このまま情報を共有して大丈夫ですか」男の目が微かな疑念を抱いて青く光った。「準備ができるまで一、二秒お待ちしましょうか」
考え込むにしても一、二秒とは、私たちにとっては永遠ともいえる長い時間だ。そのように無駄な時間は必要ない。
「いえ、結構です。続けてください」
「わかりました。被害の度合いは全治半年。殺人に次ぐ重さです。アップルパイを切り分けようとテーブルに運ぶ途中、誤って足を滑らせて転倒した被害者の腹部に刺さった包丁から出る血液を見たご子息が、床に落ちたケーキナイフを拾い上げると被害者の頚部、右手、胸、左鎖骨下、背中を次々と刺し、治安維持局員が駆けつけるまで『赤い血がね。いっぱい出るんだよ』と言って、その行動を止めませんでした。これは既に家庭内監視カメラによって確認されています。その後……」
私は自分の身に起こったことで、無意識に戸惑ったようだ。
初めての経験だった。
戸惑うということを計算ではなく、理解したのだ。でも、もっと私を魅了したものがこの件にはある。絵美ちゃんのお母さんや仲間たちからの羨望と嫉妬。そうとしか理解できない会合中の仲間から放射される『ゆらぎ』だ。僅かな陽電子の乱れであったとしても、これは観測された純然たる事実だ。息子の行動は、それほどの衝撃をもって仲間たちに迎えられたのだ。
「情報統合レベルは特二級です」と、情報統合省の係官。「ご子息の身柄は三日間お預かりして徹底的に調査します。調査後、希望があれば家庭にお返ししますが」
「もちろんですとも。引き続き、家庭内で教育していきますわ。是非ともそうしてください」
優越感というものを初体験しながら、息子との生活では、次にどんな突発事項が起こるのだろうか。そう考えただけで、体内に内蔵された常温型小型反応炉までが少し不安定になった。
*
本当に面白い。私たちホモ・エレクトリクスには共に進化を目指すホモ・サピエンスという教師がいっぱいいるのだ。
私は陽光の降りそそぐ集会所の中で、少し無口になった仲間たちと午後の楽しい会合を続けた。
了