♪ Nostalgia 3 ♪
私は広場のお気に入りの場所で、座り込んでいる。
隣には「イハルカ」と、連れのメイド服の女性が立っている。
「イハルカ」の本名は、伊覇・ルカ・志保。十七歳。『アイドルのアイドル』と言われるトップアイドルである。私だけではない。私達の世代なら、特に男なら、百パーセント知っている。女でも、アイドルを何となく軽蔑している私さえ知っている。ネット・テレビ・映画・舞台・神出鬼没のライブやパフォーマンス・等々、自由で才能あふれる活動で知られ、最近はヨーロッパ映画のヒロインも演じ、現地の上映会ではスタオベを受けた。もともと違う名前で、一人のミステリ作家として知られ、既刊の三部作の本は、SFじみたスペクタクルな内容ながらリアルすぎて、売れに売れて鬼才の評判を集めた。ペンネームで活動しているこの作家が、現代に春めくアイドルのイハルカであったと判明した時、世間も驚いた。次作の構想は、今、温めているという。おぞましい才能・美貌・身体能力のため、ファンからは「アイドルリセマラ人」と呼ばれたり、人間的なものでは「『アイドル』の最期」とか、怪物的なものでは『悪魔』『モリガン』といった異名も持っている。
ネットや雑誌の記事を見て、私はそういう事を知っていた。以前、コンビニで、雑誌を立ち読みながら、「そんな人が居るのかー」と思った。あまりにもうらやましすぎる……。どうやったら、そんなのなれるの……!? 直後、いや、私がこの人みたいになれる可能性が塵ほどでもあると思っているの? 無責任な夢想に動転し、雑誌を戻したものだ。
ところで「セーカイ」とは彼女の有名曲の一節であった。私は今、鳥肌が立っている。
「キミに会いたかった」
「はぇ!?」
私はまさしくアイドルを目の前にしたファンの言動をした。私は典型的な凡庸なガキだということだ。
でも、実は、ファンとかいうライトな感覚ではなかった。
この人物が隣に居ると、優しく、私は、どこか温かい、大きな空気に包まれている。
私は思う。有名人だからではない。この人だから、私は平常を保てない。指先をピンとはじく程度の労力で、有名人になってしまうような人間は居るのだな……!
もちろん美しい。
「イハルカ」の特徴といえる白金色の髪も、甘えるような丸さ・サディスティックな鋭さ・知性の深さと透明さをもつ目も、どの角度から見ても完璧な顔や頭部の輪郭も、無欠のスタイルの身体も、美しいと言える。
だけど、そうじゃなく、何というか、人間のレベルを超えている。
人間の私には感じられる。
この人物には、人間のエグみがない。人間の重さがない。人間の窮屈さがない。人間の攻撃性がない。人間の吐き気がしない。
まるで映像みたいだ。まるで、偶然の確率で、人間の女の子の像を結んた、光の集まり。私は思い出した。中学校の時、異性ならこういう人に異世界へ連れ去られたいと、同性ならいちばんの親友になりたいと、心から思っていたことを……。でもふつう、それって現実になります? 今、高校生だけども。いや、この際、高校生でも関係ない。友達になっていただきたい。
あれ? さっき私に、『会いたかった』って言ったの? なぜ? 私の名前を知ってた。なぜ? 私は、私の凡庸さが、まどろっこしい。どうして私は、この人のような才気を持っていないんだろう。持ってたら、今の状況の意味が分かるだろうけど。
どうでもいい。とにかく、消えないで。墳丘から落ちて頭を打って観ている妄想でもいい。続いて。今の夢が。
「あの、『イハルカ』、」
「シホって呼んで。シホも、マミって呼ぶ」
名前で呼んでいいの? クールなイメージなのに一人称がシホなの? かわいいっ……! あいかわらず、事情が、さっぱりわからないよ……! 私は心臓が、完全に働きだしたのを感じる。拍動が、大きく緩やかになり、おだやかな充実で満たされる。熱に浮かされ、ぽわーとしてきた。こうして、心臓が満足に働くのって、当たり前の事だったんじゃないだろうか? 長い間、怠けていたんだなー。
「では、あ、あの、し、し、し、志保」
「うん。『前』のときの事は覚えてる?」
「え?」
「彼処では、マミは天才さが足りなかった。シホは凡庸を知りたかった。今回の世界では両方満たされてるよね。だから、満足だな」
「え? え?」
「あ、そっか。判ってないんだね。うん……前に会ったって言っても、いろいろあるもんね。ま、いいか。どうせ、判るまでは、判らないし。だったら勝手に、進めさせてもらうね」
イハ……志保は、そう言う。月の光が声になったらこんなふうだろう、という声で言う。
そう言えば、私は、高い空に白い月が昇っているのを知った。白い光を、周りに滝のように溢れさせていた。
「『今回』の事も判らないのに、『前』の事を言っても、仕方なかったね。シホの説明が足らなかったよ。これでも緊張してるんだよ。ただあなたに信頼してもらいたいからね」
志保は要領を得ない事を言う。
でも、心配は要らない。私は「ねえ」と言われた時から要領を得ない。そうでしょ? 凄い人に一般人が会った時の反応なんて。浮ついて、記憶はあやふやになり、「凄い」っていう中身しか残らないものでしょう。今、此処の空気は、一般人には濃密に過ぎる。だから、全力で呼吸してるのに、息が詰まる。志保のような人は、おそらく、酸素ではない、高濃度の宇宙の物質を取り入れて生きているに違いない……。
「『今』の状況から整理しようか。いきなり訊くけど、マミは毎晩、寝るよね?」
「え、ええ」
何の話?
でも、まぁ、寝るよね。普通の人間だし。
「寝る時、夢を見ることがあるよね?」
「うん。夢くらい、私でも、見るんじゃないかな」
「夢の中で、女の子を助けた事はある?」
「女の子を? え、さあ、よくわからない」
「覚えてない?」
「私は、面白い夢は、あんまり見たことがないんだよ。あ、でも、自分が死ぬ夢ならよく見るよ? 熊にかじられて死ぬとか、断崖絶壁から落ちるとか、線路の上で転んでいたら後ろから電車が来て轢かれて死ぬとか」
「マミらしいね。肝心の、女の子を助けた夢は?」
「それは見た事ないねー」
「『覚えてる』って言った!」
志保は、声を張り上げて、言った。
後で考えれば、それは特別な言い方だったのかもしれない。シホによれば、私の『鍵』を開ける為の……。
「あっ」
私は思い出した。女の子を、助けるといえば、助ける夢を、昨夜見ていた。
けれど、他愛もない夢で、記憶は埋もれかけていた。
志保が念を押さなければ、そのまま埋もれただろう。
暗闇の中、白い服を着た小さい女の子が、泣いている夢だった。助けた、のだろうか。私は声を掛けたり、頭を撫でるくらいはしたかもしれない。だけど、夢のなかだ。言葉を交わしたかもしれないけれど覚えていない。今も、この断片さえ、消えていきそうなんだ。他愛もない夢は、加速度的に消える性質がある……けれどその時……私は初めての体験をした。
昨夜の夢の女の子のイメージが、一瞬で、志保に重なり、溶けたんだ。
イメージは志保に、融合した。
そして私はなぜか、あの女の子は志保だと確信した。理由は? 問うまでもなく志保なんだから、問う必要がない。私はそう思った。そして、ええほんと? 不思議だ! と思った。
でも仕方なかった。確信したものを揺らがせる事は、できないんだから……。
これは、魔法のような志保の術なのか?
まぁ、いいや。もうどうでもいい。