♪ 墓が丘 2 ♪
ひとけのない町を歩きながら、考えを続ける。
――同じ光景を、ファンが観ていたら、私と同じように、死だってそんなに重いものではなくなる。
私は、死ぬ。ファンの皆も、死ぬ。「そんなのどうでもいい」って言って死んでほしい。
信じられない展開だぞ、ほんとに。
まさか、あのライブの直後、正体不明の疫病が全世界に蔓延して……今では人類が絶滅しようとしてるなんて。
そりゃ、ライブ当日はね、「なんか、タチの悪いカゼみたいなのが流行り始めてるから、みんなは気を付けてね!」なんてMCを入れたけど、あれが人類を滅ぼす疫病の始まりだったなんて……。
プライベートの事とか、売り上げとか、もろもろありまして、あの日がラストライブになる事は決まっていたので、ライブが終えられたのは良かったし……。
いちパフォーマーとしても、キャリアに幕を下ろせないままってコトがなかったのは、自分は持ってるって思った。
ファンのみんなに隠してはいたけど、私は自信が無いから、「持ってる」って言われると、ファンの欲目だってしか考えられなかった。でも、ラストライブの日から、駆け足で滅びる世界を見ていて、いや、私って持ってるんじゃない? っていう説に信憑性が出て来た。それに、今は、持ってるコトを私は素朴に信じてる。
それは、体験してしまったからだ。
ファンが私をどう見てるか……どう感じているかを。
この疫病に罹ると、高熱や呼吸困難などのほか、奇妙な譫妄を引き起こすことがあるという。
私には譫妄だけが出た。たぶん、高熱や呼吸困難で死ぬわけがないと、無意識に思って、疑ってなかったからだ。
私は歌い手だ。息を吐いて、吸って、歌うのだから、歌えなくなるわけがない。カラダレベルで解っているんだ。
私は、カラダではうなされていたらしいけど、譫妄の深さへと沈んで行って、不思議な景観……穏やかに安らぐ景観を観た。ライブのときの経験ほど劇的ではなく、全体に穏やかな譫妄。驚いたけれど、譫妄は、とても、気持ち良かった。
疫病が発症した時、血でも体液でもない、内側から押されるような異常な力をアタマに感じた。
意識がボーッとして、動けなくなった。目の前が暗くなって、しばらく暗いところを漂っていた。
気付いた時、私は、自分のラストライブの会場を、大きな道路の向こうから、夜に眺めていた。
東京の、臨海地域の、だだっ広い平面に建つ、中くらいの大きさのハコ。
屋根から突き出た三本の煙突のように、遠くのタワーマンションが頭を出して、夜の煙をまとっている。
ハコの周りも、川のそばだからか、霧が流れる。
これは、未来の世相を予言しているかのようだな。
それよりも、なぜ私は、開場した時間の景色を観ているのか。記憶にあるけれど、この時間の私は、リハを終えて、中で待機していたはず……。
つぎに、スライドショーのように景色が変わり、フラワースタンドの列が観える。
紫、青や白、鮮やかなオレンジ。知り合いのアーティストさんたちの名前がある。
次に、フロアへと続く観音開きの黒いドア。
ドアの向こう、まばゆい煙、白いライト。
浮ついた騒々しさ。
無数の客の黒いアタマ。
むせかえる体臭。
ライトの灯が落ち、暗くなった。ステージだけが、明るく。
ステージに走り出た、オレンジのドレスを着たアレは、私だ。
うすうす気付いていた。これはファンの視界らしい。一人のファンなのか? 複数のファンなのか? 詳しく観察すれば、解る気がした。だけど、しなかった。この愉しさの大きさ、活力の総量は、明らかに複数だと解っていた。私の中を、一人の物だけではない、たくさんの感情が交錯しているのを感じていた。早くも熱中のド真ん中に居るファン。初っ端から激しく頭を振るファン。自分の期待に縛られて、理性の檻から出られず、ライブの上っ面の音しか届いていないファンも居た。そのファンは、「今回が、天海真美のラストライブなのに、俺は熱中できていない……。これじゃあ、味気ない……」と考えていた。ライブが後半に入った頃、そのファンは変わった。「俺は、ラストライブだから、特別な経験を期待してた! 自分の理想通りにライブを見ようとしていた!」と、そのファンが気付いた瞬間、思考と理性のフタが割れ、全部の音が、そのファンに入った。その人は解放を味わった。ファンの快感の集合体。ポジティブな思念の集まり。一体感。みんな、みんな、私の歌を好きだと、思ってくれていた。伝わる。ちゃんと伝わる。「天海真美の歌が好きだ」と、口を開いて、伝えるまでもなかった。私は歌って、みんなは感応する。みんな、私に、こんなに感謝してくれている……! 「この時間が永遠に続けばいいのに」って、みんな、思っていた。私も、思っていた。
ライブに幕が降りても、景色は、しばらく続いた。地方から来ていたファンなのか、全力疾走でホームに上がった時、最終の特急が走り去って行く景色。譫妄の中の私まで、息が苦しくなってしまった。見たことがない地方のホテルで泊まって帰る人も居た。別のファンの景色では、帰り着いた電車の車窓から、同じ名前のハコが見えた。あのハコは全国チェーンで、各地に点在しているみたいだ。「俺の地元の、ここでやればよかったのに!」と、そのファンは思っていた。微笑ましい。
不思議なのは、行ったことがない場所なのに、実在を疑えない景色だという事だ。ビジネスホテルのカップ麺。あるいは、駅に隣接する高層ホテルの夜景。疑うはずもない。私はあの日のファンのみんなの世界を、追体験しているんだ。
ふと景色が消え、私は譫妄の中の、殺伐とした空間に居た。いわゆる、時空のハザマのような所、とでも言うのだろうか? 私は、身を屈めて、カラダだけで漂っていて、上下も左右もなかった。無重力のような感じだ。まわりは薄紫色のマーブル模様の空間だった。物質と、何も無い世界の、中間のような感じだ。
私は、突然に、悲しみに襲われた。
ここには、ファンが居ない。ファンが居なくなってしまった。自分だけが居て、カラダだけがあって、何の幸せがある? 私の歌を聴いてくれる人が居ない。これも譫妄なのか?
ふざけるな。譫妄のはずがない。
私が観て来たこの景色が嘘なら、むしろ、疫病に罹る前の現実世界の方が嘘だろうって思う。私は、ずっと、今一つ、自分に自信が無かった。私の歌が好きだというのは、ファンだから欲目で見てくれているんだ。盛ってくれてるだけなんだ。そう考えていた。でも、今は違う。ファンが本当に私を好きでいてくれたのが解った。私の歌を本気で好きで居てくれた。今はもう、私は誰よりも、私を好きで、私の歌を好きだった。なのに……あんまりだ。私は本当に幸せになれたのに、疫病で人類は滅びる。ファンも全員死ぬ。あんまりだよ! ……許さない! 自分は許さないぞ! ファンのみんなが消えていく事を! 私が死ぬのはどうでもいい、けれど許さないぞ、歌い手の私が死ぬ事を!
……と、そこで、譫妄は覚めたんだ。
あれは優しい譫妄だった。最後は少し、寂しかったけれど、いい譫妄だった。機会が来たら、また観たい。