♪ 東京駅 ♪
22時の東京駅の地下街は解放感に包まれていた。駅に来る人は落ち着き、おもな新幹線の終電も出て、人混みの階層が何層かほどけた感じになる。それで、或るタイ料理店も、人々の渦からは離れて、ゆったりとか、ぼんやり過ごすまばらな客を収めて、陽気なBGMをつつましく流していた。
店内は黄色を取り入れた内装が活き活きして、タイの国旗が連なって下がっている。わたしの目の前ではタイ語がのんびりと応酬されている。此処のタイ人の店員は東京だろうと構わずにのんびりしている。いいことだ。わたしは此処のカウンター席が好きである。日本から見ると異国情緒あるこの店でも、カウンター席はタイ人との距離が近く異国的だ。カウンターに座っているわたしの姿をわたしは店の隅あたりから観ている。わたしの視点はたいてい肉体に一致してはいない。離れてふらふらしている。
わたしはきょうも美しい。宇宙の光が溶け込んだような長い濡れ羽の毛髪や、高く白い鼻梁は、完成し尽くされた美しさだろう。人間の現代の女性として観ても、調和度は極めて高いものを誇る。だが、これも黒いローブを着て、首から足元まで覆っているので、現代では異形の空気が立つのであろう、声を掛けられることは少ない。
わたしは、感覚の座も、体とは一致していない。もちろん五感は体で感じている。だが五感を束ねる根本的な感覚的中心は、視点のように、ずらすことができる……というか、自然と、ずれてしまうのだ。この事は「魔術師」」というわたしの仕事にも関係している。五感のおおもとである根本的な感覚が有るといっても、通常の人間はイメージしにくいだろう。第六感ではない。それなら持っている人間は多い。
要は、こうしてシンハービールを飲んでいなくても、わたしは大抵気持ちよく過ごしているということだ。
その分、午前中はだめだ。わたしの体は朝に弱いので、朝目ざめると、死んだような気分になる。身体のコンクリートの中に、点になって閉じ込められている気分になる。朝はわたしのゴミなのだ。……と、独白に一言加わるくらいの効能は、ビールには有るかもしれないな。酒が体表から発散される時、熱や汗だけとは限らない。犬なら吠え、猫なら喉が鳴り、人間なら脳が勝手に喋る。
わたしは、何処にも行かないのに東京駅に来る嗜みは嫌いじゃない。人が目一杯に居るけれども、どのエリアでも人が動いているのがよい。駅自体への意図や目的を持った人間が少ないのもよい。こうした場所はいわば「魔力」が高い。わたしはしっくりくる。
まして、きょうは久しぶりに先生との会合なのである。わたしにとっては、この場は空気の温泉に浸っているような感覚だ。もうね、このままずっと座ってたいよね。
……ん。
ふと、客の会話も、食器や厨房の音、店員の会話、全部が静まった一瞬があった。現象が示し合わせたような、しばしばある一瞬に気付く。
わたしの隣に座っている先生は、透き通った緑のビンを咥え、控え目に呷った。艶めく白髪の少女のかたちを取っていた。わたしは先生の喉を下りているであろうビールの味を推し量ってみた。宇宙の果ての鎮けさが聞こえた。この人はとにかく鎮かな人だ。食べていても、歌っていても、踊っていても、鎮かな人だ。
鎮かなので、色も無い。外見は白に象徴される。軽やかげな髪は白く、服や上衣も、靴も白い。それは塗られたり貼られた色ではない。鎮けさによって色が抜けたためだ。だから、先生の白は、いわば絵の具の白なのではなく、キャンバスの布なのである。なので先生の白は、ご自身や世界の状態を素直に反映する。たとえば、酒を飲んでいる白い肌はほのかに桜色で、わたしを観る瞳にはビール瓶のエメラルド色がきざした。トネリコの幼木の枝ぶりのような、溌剌で穏やかなボブカット風味の髪は、白金や白銀の光の粒子を宿している。「10008年ぶり」の顔は変わらず特徴が無い。
ヒトの尺度によれば、「美しさの極み」となる。
ちなみに先生は一般の人間にはその人ごとの先入観によって色がついて見える。白くは観えない。そういう位相の人なので、もう魔術といった世界観の物ですらない。
「店主。クィッティアオ・ナームを一杯」
先生はカウンター越しにタイ風ラーメンを頼んだ。何の特徴もない声である。しいて言えば、声に芯が通っているか、いないか、くらいの声。これほど特徴のない声をわたしは知らない。それでいて、宇宙の果てから耳元で聴こえたかのよう、確実に届く。いま座っているのも、先生の映し身の一つにすぎないのだ。
「一つ貰いますね」
わたしは先生の食べている楕円の皿から、揚げたナスの料理を一個口に入れた。熱い脂が旨い。
「爛花。とりあえず、一万年ぶりか? 地球の言い方をすれば」
「ええ。と言っても、わたし達には今し方の事に思えますが。およびたてして恐縮です。魔術師の仕事が一つ終わったので、先生に会いたくなって」
「いつでも歓迎だ」
「無関係な話ですが、次の物語……わたしは仕事と言っていますけど、そこでは先生が重要なキャラクターとのことですよ」
「予言か。君の予言は事実だからな」
わたしは先生の前では饒舌を抑えられない。魔術師についての全部を先生から教えてもらった。それでいて先生は特に魔術が専門ではない。いわば魔術の本体なので「魔術」を自覚しない。それだけではない。何も無いような鎮けさの中に在り、しかし、其処からあらゆるものが流れ出している。もちろんさまざまの学問・洞察・自然さも。
次元が二つや三つ、そげ落ちたかのような鎮けさだ。先生に発した全ての言葉は、言葉ごと抹消され、世界じゅうの辞書と脳から消え去りそうだ。なぜならこの人は、汎てを知っているからだ。言葉を投げかける意味がない。
とはいっても、雑談に付き合ってくれる。会話はこの人の酒なのだ。人間のように言葉や思考に酔わされる事は無い。言葉を酔わす。あらゆる言葉がこの人に代わられてしまう。この人は汎てである。わたしにとって完璧な美に思える。
「さきの仕事では、あの島に行ったのだな。次は隣の島か?」
「さあ、それは今回では『分かりません』。さしずめ此処は、ふたつの物語の幕間というわけです」
「本筋とは関らない物事も、また物語。視点が変われば無数に物語が在る。だから本筋と無関係な話へと脱線する君の癖は嫌いではない」
「それは先生に教えて頂いた事ですが……?」
修業時代に、体験としてね。
物語への理解は欠かせない。外伝の主人公にとっては、正典は外伝であるし、外伝は正典だ。魔術師は、世界ごと、人間の人生ごとを、無数に股に掛ける。魔術を超えていない人には魔術は使えない逆説。魔力とか、そういう物を超越した、厖大さの化身でないと、魔術は教えられない。
「ともかく、物語を俎上に載せて、此処で会食できるのは、愉しいものですよ。魔術師のキャラクターのような物もわたしは感じていますし、物語でもそのようにふるまいますが、先生と会うと前のめりになってしまうので、それっぽさも丸くなってしまいます」
「代々の魔術師のしかつめらしさが君を呪っているにすぎんのだろ。魔術師らしさのイメージなど吹き消せばよい。その時は魔術を全部、使いこなせるぞ」
「そうですか。朝起きする魔術師にでもなりましょうかねえ」
「当分かかりそうかな?」
「その方が面白いのかもしれませんが」
わたしは、この席で、さきの物語を振り返ったり、次の物語を眺めたりする。全てが狂おしく愛おしく、軽やかに明るい。
それは観照の感覚。
そして、改めて味わうのだ。わたしと先生が物語について喋っている、此処のことを。