第二話『Enemy』――その一
「まったく、気に食わん、気に食わん、気に食わん! この上なく気に食わん!」
風紀委員によって僕達が〈反位相の世界〉から強制退場させられた翌日の昼休み、つくみ先輩は僕の目の前で、口からボロボロとご飯粒をこぼしながら憤っていた。
僕はただただ、やるせない気持ちでその様を眺めている――――それというのも、結果として汚されているのが他ならぬ僕の机であり、『これ』を掃除するのは必然的に僕になるんだろうという確信に近い予測があったからである。この先輩が掃除を手伝ってくれる未来なんて、僕がFBI長官になっている三十年後以上に想像できない。
それに、このやるせない感情の原因はそれだけではなかった。
さっきから僕に注がれるクラスメイトの視線がちくちくと痛いのである。少し離れたところから何人もちらりちらりとこちらを振り返っているし、購買部から帰ってきたクラスメイトが教室のドアを開くたび、また一つ、また一つとその視線が増えていく。僕達の周り席三つ分くらいは完全に無人になっていて、まるで離れ小島に漂流してるような様相になっているのである。
……まあ、無理もない。三年の先輩がなぜか、我が物顔で二年生の教室に陣取っているのだ。
おまけに、それが『あの』加賀野つくみ先輩なのである。ある所では才女、ある所では変人、ある所では男性陣の憧れの的、またある所では厄介さんたる有名人だ。僕だって向こう側の立場だったら何事かと眺めてしまうだろうし、思わず距離を取ってしまうのも無理からぬことだろう。誰を恨むこともできない。
この後みんなにどんな釈明をすればいいのかと頭を悩ませながら、黙々と弁当を口に運んでいると、
「なあ、おい! 朝風君もそうは思わんかっ?」
二本の箸で僕を指しながら、つくみ先輩が聞いてきた。その唾と一緒にご飯粒まで僕の弁当に入りそうになり、僕は慌てて弁当箱を抱える。
「よりにもよって月乃宮財閥のお嬢様が部下にいるなんて、ずるっこも甚だしい! そんなの、何だってできるじゃないか! あんな大層な罠を作りおって! 卑怯だと思わんか! なあ!」
「そ、そうですねー……」
ハハハハという乾いた笑いと共に、僕は当たり障りの無い相づちを打った。
「……でも、あの人達、どうやってあんな檻作ったんですかね? とても一人や二人で出来そうなもんじゃありませんでしたけど」
「恐らく、〈こっち〉の世界の廊下の天井に作らせたんだろう。そしてそれをそのまま都度中の能力で〈反位相の世界〉へ飛ばす。向こうとこっちには、同じ座標軸に同じ造詣があるわけだからな。結果、そのままあっちの世界にトラップを設置することができるわけだ」
「……なるほど」
僕はハンバーグを飲み込みながら首肯した。
つくみ先輩は自分の弁当にハアとため息を吹きかけ、
「まったく、風紀委員がいよいよ本腰を入れてきたということは、競争はさらに激化すること必死だな。向こうの世界があんなトラップまみれになれば、恐らく他の奴らも綿密な作戦を立ててくるに違いない」
「他の奴らって、やっぱり他の生徒もあの世界に入ったりしてるんですか? つくみ先輩とか風紀委員以外にも?」
「当然だ。一体この学校で何人の生徒が『ワールド・マテリアル』を探していると思ってるんだ。あたしが知っているだけでも五、六人はあの世界で探索を行っている。まだ鉢合わせていないだけで、他にももっといるだろう」
「…………へえ、そうなんですか」
……うーん、『異世界へワープする能力』って、そんな能力だけで雑誌とかテレビの取材で引っ張りだこになれそうなものなのに……。そういう情報が出回ってないのは、やっぱりみんな、『ワールド・マテリアル』を独り占めするために秘密にしてるってことなんだろうか?
「だから、朝風君、我々の敵は風紀委員だけではないのさ。今我々の周囲にいる彼らも、言うなれば敵なのだよ」
「敵、ですか…………。その人達はみんな、先輩と同じような能力を持ってるってことですよね」
「そういうことだ」
ご飯の最後の一切れを口に運びながら、つくみ先輩はこくりと大きく頷いた。
「……しかし『つくみ先輩と同じような』という表現は正鵠さを欠くな。別にあたしがオリジナルというわけでもないし、あたしの能力がスタンダードという確証もない」
「そうなんですか?」
「そうさ。そもそも、うちのクラスメイトの変な男が学校の周りで木刀を振り回していたら異世界にたどり着いたという噂を聞いたものだがら、あたしもそれを真似して家から日本刀や槍、弓、鎖鎌を持ち出して夜な夜な校庭で振り回したところ、あの小太刀で〈反位相の世界〉への扉が開けたというだけなのだ。だから、あたしの能力もただの踏襲に過ぎんのだよ」
「……そ、そうなんですか」
…………家から凶器を持ち出して学校で振り回すなんて、単なる奇行じゃないか。誰かに見つかったら即通報だろうに。よく捕まらなかったな、この人……。
「…………ん? ちょっと待ってください? えーと、今更な質問ですけど、その、何で先輩は、あそこが〈反位相の世界〉だってわかったんですか?」
「『何でわかったか』、とは?」
「ええっと、だって、あの世界、ここと見た目はまったく同じだったじゃないですか。位相とかそういうものじゃなくて、もっと他にも説明の仕方もありそうなものですけど。それなのに、何で先輩はあの世界を〈反位相の世界〉だって断定したんですか? 僕には何らわからないんですが……」
「ほう? …………ふふふ。うんうん、なかなかいい質問だ」
先輩は急に、何やら嬉しそうな顔になった。
「そうだ。確かにあたしは、あそこが〈反位相の世界〉であるという前提で話していた。しかしその根拠は何も示していなかったな。疑惑を持つのは当然のことだ。……そして、いい着眼点だ」
「……いい着眼点?」
「うむ、そうだ。つまり、あたしとしては明確な回答ができない質問になってしまうということだ。……もし、あたしができる限り誠実に答えようとするなら、『何となく』『感覚的に』という言葉を選ばざるを得ないというのが、正直なところだよ」
先輩は首を数度傾け、自嘲気味に笑った。
「この〈反位相〉という概念は、あたしの発案でもないし、別に証拠があるものでもない。そもそも、オカルト雑誌に載っていた『ワールド・マテリアル』の何個もの説の中の、マイナーな一派にすぎないのだからな」
オカルト雑誌に載っていた説――――そうか、まあ、『ワールド・マテリアル』絡みなら、確かに出展はそうなるのが普通だろう。
世界の創始を解き明かす鍵だと目されている物質――――『ワールド・マテリアル』
数年前、名も知られていないヨーロッパのオカルト学者が、アンダーグラウンドな雑誌で提唱した超自然的物質。その根拠も理屈も説明内容も他の超常現象同様に眉唾物以外の何ものでもなかったが、その独自性がコアな人達に少しばかりウケたのだそうだ。そして雑誌への掲載回数と共に証言の種類も増えていき、注目度も掲載されるページ数もじわじわと増加していったのである。
さらには、どこだかの国が国の勢力を上げてその調査を開始したという噂まで流れ、その認知度は加速的に大きくなった。
超自然現象研究家、UFO研究家、霊能力者、哲学者、SF作家、様々な人々がそれに着目し、議論し、色々な仮説を当てはめてきた。そして世界各地にこの『ワールド・マテリアル』の存在するスポットやいわく、象徴するもの、その特性が挙げられていったのである。その流れの中で、この天神岬高校もそのマテリアルスポットの一つとして挙げられたのだ。
「この高校にあると目されている『ワールド・マテリアル』、それはパラレルワールドを解き明かす鍵となる『パラレルスイッチ』であるという意見が大衆化してる。その世界の仕組みとして、無限の選択肢の存在や神の存在、あるいは先刻言った『反物質』を基にした考察、次元数の違いなど、いくつもの説が流れた。その中から、あたしが『何となく』『感覚的に』しっくりきたのが、この〈反位相の世界〉説だったわけだ」
「……それだけで、先輩はそう決め付けちゃってるんですか? それはちょっと危険なんじゃ……」
「ふふ。『危険』ねえ――――では聞くが、朝風君、君はどのようにしてこの世界の仕組みを理解しているのだね?」
……世界の、理解? 質問がいまいちよくわかりませんが……。
「例えば、この世界でニュートン力学が物理学の常識として扱われているのは、君も知るところだろう? ニュートン氏が、木から落ちるリンゴを見て発見したというあれだ。物体に力を加えると加速されるというそれだけのものだが。……しかし、朝風君、考えてみたまえ。どうして、そのニュートン力学が正しいとわかるんだい?」
「どうしてって、そりゃあ、学校で習ってるし……」
「ふん、教科書の内容が覆された例などいくらでもあるさ」
「で、でも、偉い学者さんもみんな使ってるじゃないですか。その理論が考え出されてから、誰もそれを否定してないってことでしょう? それがいつもしっくりいってるってことでしょう? なら、それが正しいってことじゃないんですか?」
「ふふ。『否定できないから正しい』というのは、乱暴な意見だな」
先輩は心持ちおかしそうに笑った。
「『否定できない』というのは、確かに、その箇所に否定するものが存在しないという可能性もある。しかし、『我々に否定するスキルが足りていない』という可能性もまだ存在するのだよ。ふふ。君の言う通り、ニュートン力学は、この数十年、マクロ的力学の上では否定されていないが――――しかし、考えてみたまえ。物が動く理論など、いくらでも思いつくだろう? 例えば、この世には我々人間がまったく知覚できない紐があって、実はこの世の全ての物質はその紐によって操り人形のごとく操られている、という考えをどうして否定できるんだ? つまり、我々が『法則』と呼んでいるすべての理論はすべて見えざるものの意思によってそう見せられているだけで、そんな『法則』はこの世には存在しない。そういう可能性を、どうして君は無視できるんだい?」
「……え? え、と、そ、それは……」
僕は言葉に詰まってしまう。
「ふふ。そうだ。この世の原理、法則のほとんどは、つきつめていけば『自明』という前提から成り立っている。しかし、この『自明』ほど曖昧なものもないのだよ。この世に無限にある『例外』の可能性をすべて排除しなければならないが、無限のものを排除するなんて不可能だ。今現在我々が認識しているこの世界の構造も、それが一番収まりが言いというだけの話で、それが真実とは限らない」
「……そ、そういうもんなんですか?」
「そうだ。例えば、地球が回っているということは現代では常識になっているが、この世のすべての宇宙学者、宇宙飛行士がすべて嘘つきであるとか、彼らの言語を我々がいつまでもどこまでも誤解し続けているという可能性だって、ゼロとはいいきれないだろう? 例え何兆分の一の確率だったとしても、ゼロではないだろう? そうなれば、地動説は嘘であり、我々が現在知覚している世界は虚構であるということになる」
……う~む、まあ、それはそうですが。
「つまりはそういうことだ。あたしがあの世界を〈反位相の世界〉であると知覚している根拠は存在しないが、どんな現象を見せられたところで、あそこが〈反位相の世界〉だと証明することは不可能なのだ」
ここまで言い終え、反論できない僕に満足したようにニヤリと笑うつくみ先輩。食べ終わった弁当箱の蓋を閉じ、それを包んでいるナプキンをきゅっと縛った。