第一話『Another Phase』――その三
そこは、真っ暗な世界だった。
いや、『真っ暗』というなら、さっきまでの世界だって『真っ暗』は『真っ暗』だった。太陽が地平下に沈んでいた、正真正銘の夜だったのである。……しかし、ここはそこよりもさらに暗い――――周辺の民家から漏れていた光がまったくないのだ。僕の視界はもはや、月や星の光だけで保たれている。
そして、違いはそれだけだった。
右を見ても左を見ても、ここから見える景色はさっきと全く変わっていない。学校の塀。電柱。アスファルトの道。排水溝。向かいの三階建てマンション。その隣のクリーム色の家。月明かりで辛うじて見える風景は、写真を撮って三百六十度張り合わせたかのように、寸分の違いもなかった。
「――どうだ? 驚いたか?」
不意に、背後からつくみ先輩の声がした。
僕が振り返ると、先輩はしてやったりというような微笑でそこに仁王立ちしており、
「こここそが、あたしが言っていた〈反位相の世界〉なのだよ」
「……はん……いそう」
「うむ、そうだ」
先輩は髪をわずかに揺らして、仰々しく頷いた。
「そのリアクションから察するに、君はまだ『位相』という概念を理解していないのかな? 物理の授業ではまだやっていないのだっけ? だったら説明の必要があるな。ええと、まず、この世界には『波』というものが――」
「――というか、ちょっと待ってください!」
僕はハッと我に返り、膝立ちから立ち上がった。
「僕ら、さっきまで追いかけられてた途中じゃないですか! は、早く逃げなくちゃ――」
「あっははは。逃げる必要なんてないんだよ。ここは〈反位相の世界〉なんだから」
「で、でも、この世界……見た目は同じ……なら……せ、先生も――」
「あの教師は、この世界に存在しないのだよ」
先輩は僕をなだめるような、あるいは僕に言い聞かせるような口調で言ってきた。
「いや、あの教師だけじゃない。この世界にはほとんどの人間が存在していない。それ以外の物質はまったく同じなのだがね。だから、この世界が先刻の世界と瓜二つだったとしても、ここであたし達が追いかけられる心配はないのだよ」
「……そ、それが、〈反位相の世界〉?」
「ああ、そうだ。…………しかし、少々驚いたな。君がそんな簡単に『異世界にたどり着いた』という現実を受け入れてしまうとは。もう少し疑うか、錯乱するかすると思っていたんだが。少々期待外れだ」
……そりゃ、まあ、わけのわからない先輩に半強制連行された挙句に、小太刀で空中に光の落書きをされた後じゃあ、僕の常識感もショートしてますよ。
「まあ、いい。とにかく時間がもったいないし、早く校舎の中に入ろう。歩きながらでも話はできる」
話を総じるように言って、すたすたと壁沿いに歩き出す先輩。
僕も僕で、せん無くその後をついていく。ついていきながらキョロキョロとあちこちを見てみるが、やはり見覚えのある町並みだ。似ているなんてレベルではなく、まったく同じなのである。まるで大停電が起こってさらに騒音禁止条例でも発令されたかのような、ただただ暗く静かな世界。ここまでくると不気味さすら感じる。
「……さて、君にとっては初めての〈反位相の世界〉となるわけだが――」
僕の前を歩きながら、先輩は場違いなほど明朗な声で話しかけてきた。
「あたしは人の気持ちがわかりすぎて困っているぐらいにわかる人間だからね。君の戸惑いもひしひしと感じているよ。あたしのアシスタントとしての職務をパーフェクトにエレガントに全うしてもらうためにも、君の心情は常に安寧であってほしい。そんなわけで、優しくて美しいこのあたしが、人生最大の戸惑いに苛まれている最中である君のため、これから君の質問に親切丁寧に答えてあげよう――――と、その前に、こちらからも一つ質問してもいいかい?」
「…………何ですか?」
先輩のセリフの中に複数あったツッコミどころを全て流し、僕は割り合い素直に聞いた。まあ、先輩とは知り合って一時間程度だし、僕について知らないことも色々あるのは確かだろう(僕だって、つくみ先輩については名前と学年と大体の性格くらいしか知らないのだ)。趣味でも特技でも好きなタイプでも、何でも素直に答えてあげようという誠実な心根で待っていた僕にかけられた、先輩からの最初の質問――
「――君の名前は、何かな?」
「…………え……え……えぇえええええええええっ?」
い、今さらその質問かよ!
「ちょ、ま、待ってください。あなた、僕の名前も知らずに僕をアシスタントに誘ってきたんですか! んあアホな! ……いや、でも、そう言えば、確かに、僕はまだ一度も先輩に名乗ってませんでしたけど。それに、さっきから僕のことは『君』としか呼んでなかったし…………で、でも、僕の名札見てたじゃないですか!」
「そんなちっこい字が読めるか。あたしは最近近視になりかけてるんだ」
先輩は胸を張り、両手を腰に当て、憮然と言い放った。
「それに、先刻のシチュエーションでは、その名札には君の学年を知るためのツールという役割しかなかったのだ。今現在において、やっと君の名前を表すためのアイテムとして体をなしたのだよ。だから、あたしがその名札で君の名前を確認していなかったといって、あたしが責められるいわれはない」
そんなバカな……。
「というわけで、単刀直入に答えたまえ。君の名前は何だ?」
「…………朝風崇です」
僕はずっしりと肩を落としながら回答した。……この地球上に、これほど不条理感たっぷりな自己紹介が今まであっただろうかね。
しかし、先輩はそんな僕の煮え切らない想いを気にするでもなく、
「で、その朝風君。初めてこの〈反位相の世界〉に足を踏み入れて、何か質問はあるのかね?」
「……そりゃ、いくらでもありますよ」
僕は心持ちぶすっとしつつも、たとえ僕がアリンコだったとしてもミジンコだったとしても宇宙人だったとしても最初にしたであろう質問を先輩にぶつけた。
「まず、この〈反位相の世界〉ってのは、一体何なんですか?」
「反位相になってる世界だ」
質問が終わってしまった――――いやいや、僕の疑問については何一つ終わっていない。
「だ、だから、その『反位相』ってのは何なんですか?」
「ふうむ、やはりそこからの説明が必要か。まあ、いいだろう。手間だが、あたしが詳しく教えてしんぜよう――――ときに、朝風君、君は『波』というのを知っているか?」
「波って…………あの、海でザブーンっていってる奴ですよね? そんな、バカにしないでください。僕だってそれくらい――」
「――違う。物理的な意味の『波』だよ」
先輩が振り返り、ジトーッと僕を睨んでいる。僕が「へ?」と呆けた声を上げると、先輩は鼻を鳴らしながら、
「この世界には、『波』というものはいくつも存在している。君が言った海の波もその一種だし、音、電気信号、光、地震、そして原子の周りを回る電子も波を形作っている」
…………はあ。
「気の抜けた相槌だなあ。もしかして、君は数学や物理が苦手なのかい? だとしたらアシスタントの人選を誤ったなあ。『ワールド・マテリアル』探しに不向きなことこの上ない。まいったなあ。後悔がいつも先に立たないのは史上最大の謎だよ、まったく。…………まあ、なってしまったものは仕方がない。講義を続けるぞ――――とにかく、だ。この世にはいくつもの『波』が存在している。そして、その波の形が間逆になっているのが、あたしが言っている『反位相』というやつなのだよ」
波の形が、真逆?
「そうだ。まあ、厳密に言うと違うのだがね。簡単に理解しようとすれば、そういう説明になる――――例えば、君が最初に言った海の波をイメージしてみろ。それは一体どんな形をしている?」
海の波、ですか? えっと…………上下にウネウネとうねってます。
「そうだ。その上と下が逆になることが、すなわち『反位相』なのだよ。しかして、波が反対になったところで、世界に変わりはない。例えばプラスがマイナスと呼ばれ、マイナスがプラスと呼ばれていたって、実質的には何も違いはないだろう? 呼び方を変えればいいだけなんだから。『一足す一』が『一引く一』と発音されるだけで、差異はまったくない。それと同じことさ。波の形がすべて真逆でも、それだけで、世界自体はまったく同じになるのだ」
……そ、それが、この〈反位相の世界〉? う〜む、何だか、わかったようなわからないような…………。
僕は無理矢理納得させられたような気分になりつつ、「へえ、そうなんですか」と生返事をした――――ところで、
僕達はようやく校門にたどり着いた。
やはり、その外見はほとんど変わっていない。周辺住宅からの光がなくなった分、闇にまぎれている部分は多くはなっているが、しかし相変わらずのだだっ広い校庭と、その奥に佇む真四角な鉄筋コンクリート建造物だ。校庭には雑草が生え渡っており、校舎の壁も少し汚れがひどいような気もする。しかし、それらもそこまでではなく、僕が平日毎日眺めている我が学び舎そのものである。
校門を昇り降り、塀の中を隅から隅まで眺めてみたが、やはり五橋教諭はいない。僕は改めて安心し直しつつ、
「しかし、先輩、一つ気になったんですけど……」
「ん?」と振り返ってくる先輩。
「どうして、五橋先生は学校にいたんですかね? だってほら、先生、懐中電灯持ってたじゃないですか。あれは、明らかに見張りをしてたようにしか思えないんですが……」
「そのことか。……実は、あたしも一つ思い出したのだ」
前を向き直した先輩は、腕を組んで思い悩むように顔を傾けた。
「実は一昨日、あたしがここに侵入した際、ついでに保健の由紀子先生の机に小さく『アホ』と落書きしたのだ」
「…………へ?」
「恐らくだが、それがきっかけとなって、この高校に夜の侵入者があったことを教師陣に知られてしまったのかもしれない。そのせいで五橋教諭は校庭にいたのだろう。やれやれ、まったく、タイミングの悪い。困ったものだ……」
「け、結局あんたのせいだったんかい!」
僕はこれでもかというほど気持ちよくツッコんだ。
「あ、明らかにそれが原因じゃないですか! そんなん、バレるに決まってるじゃないですか! んなことしてくれたおかげで、僕まで先生に追いかけられるハメに!」
「いや、しかし、由紀子先生も由紀子先生なのだ」
先輩は人差し指で僕を指し、片眉を吊り上げ、諭すように言ってきた。
「この前、身体計測があったろう? その時にだな、あの保健教師、保健担当であることをいいことに、あたしの計測結果を見やがったのだ。しかも、言うに事欠いて、『うふふ。さすがの天才加賀野さんも、体の発育の成績は平均以下なのね』などと言ってきたのだ! こんな横暴、許されると思うか!」
拳を振り上げ、空気を殴りながら熱弁してくるつくみ先輩。その時の激情を思い出してきたんだろう、口調が段々ヒートアップしてくる。
「違うのだ! あたしの時だけ、計測担当の人が、やたらにきつくメジャーをあてがってきたのだ! 苦しいくらいに締め付けてきたのだ! だから、結果が小さく見積もられて当然なのだ! 結果が思わしくなかったのはそのせいなのだ! 実際のところ、あたしの成績が平均以下などということはない! 断じてない! 何なら、今から保健室へ行って、君自身が直々に測定してくれても構わないぞ! その代わり、『加賀野つくみは決して成績不振ではない』旨を君の周囲の人にきちんと証明してく――」
「――遠慮します!」
僕は丁重に断った――――そんな変態行為および変態発言、冗談じゃない。僕の良識が疑われる。友達がいなくなってしまう。
僕は嘆息しつつ、なおもぶつぶつ「……そもそも、あたしはまだ十七だ。まだまだ未来に可能性が――」などど言っている先輩を追い越し、校舎の玄関の前に立った。昼間あれだけ騒がしいこの場所も、この時間では――そして、この〈世界〉では――静穏だった。無機物の匂いしかしない。見た目は同じなのに、もはや別物にしか感じられない佇まいだった。
僕は扉に手を当て、はたと気付き、
「……そうだ。そういえば、先輩が開けといたっていう窓はどれなんです? そこからじゃないと入れな――」
「はっはっは。その心配はもうない」
先輩はすたすたと前へ歩み進み、僕の隣で扉の取っ手に手をかけた。そしてぎいと、その扉を押し開き、
「この世界は、別にあちらとリンクしているわけじゃないんだよ。そんな心配はご無用。――――さあ、早速『ワールド・マテリアル』探しを開始しよう!」