エピローグ・後
九時四十分に僕が喫茶店に行くと、驚いたことに、つくみ先輩はすでに来ていた。奥の方のボックス席で、一人、仏頂面でコーヒーを飲んでいた。
僕がその席の方へ駆けよるや、先輩は眉の端を吊り上げて、
「遅いぞ、朝風君! あたしをどれだけ待たせるんだ!」
「え? いや、 だって、集合時間は十時だって、先輩が言ったんじゃ……」
そう反論しながら先輩の正面に座ると、
「あたしだって、あたしが呼び出した手前、君に気を遣って三十分前にここに来る! だったら、後輩たる君は、そのさらに三十分前に来るのが筋ではないのかね!」
「そ、そんなこと言われても……」
言い淀みつつテーブルの上を見ると、すでに空っぽになったコーヒーカップとケーキの皿が置かれていた。……この人、ケーキをすでに完食済みなんて、実際どれだけ早く来てたんだ? 一時間前に来てても、果たして先んじれたかどうか怪しいものだけど……。
とりあえず「……すいませんでした」と謝りつつ、僕もベルを鳴らして店員さんを呼んだ。そしてメニューを見ることもなく(見るまでもなく)紅茶と『春の夜のせせらぎ』を頼んで、一息ついたところで、
「さて、今日君にここに来てもらったのは、他でもない」
と、つくみ先輩が切り出してきた。デートだと言っていたくせに、まるでミーティングでも始めるような口調だった。
「あたし達二人の今後のことについて、しっかり話し合おうと思ったからだ」
「…………今後?」
「そう。いわば人生設計みたいなものだ」
腕を組み、一つ頷く先輩。
僕は届いた紅茶にミルクを流し込みつつ、
「人生設計? ……って、ええと、それって、どういう?」
「決まっているだろう!」
そう言って、つくみ先輩はテーブルに雑誌を広げた。それは割と新しめ――――今年の四月に出た、構内でもよく回し読みされているオカルト雑誌だった。開かれたページには大きな日本地図が載っており、その各地から吹き出し線が延びていて、詳細な『説明』が記してあった。……なるほど、ようは――
「――次に探す『ワールド・マテリアル』をどれにするか、だ!」
ばん、とつくみ先輩はテーブルを叩いた。
何事かと、隣のテーブルのお客さんがこちらを見てくる――――僕は「……恥ずかしいし、迷惑だからやめてくださいよ」と先輩に苦言を呈した後、
「……というか、先輩、あと二カ月ちょっとで大学入試でしょう? おまけに、その後は大学生活が始まるわけですから。……こんなことしてる暇あるんですか?」
「うむ! いいところに気付いてくれた!」
唾をとばしながら、声のトーンをまったく下げることなくつくみ先輩は言ってきた。次いで先輩は、関東地方の一ヶ所を指さして、
「ここだ、ここ。次のターゲットとして、これはどうかと思ってるんだ」
「ええっと…………この、『パラドックス・スプリング』ってやつですか?」
「そう、それだ。そして、ここ」
つくみ先輩はそのさらに数ミリ隣(縮尺を考えると、一キロくらい西だろうか)を指さして、
「――ここに、あたしの志望大学がある!」
……うん、どうやらこの人は、本気で、大学に入った後もこの活動を継続する予定のようだ。普通の高校三年生なら、この時期、一人暮らしだったりキャンパスライフだったりサークル活動だったりに思いを馳せているものだろうに……。この人は、こんな青春で不満はないのだろうか? 時間を無駄にしているという感覚はないのだろうか?
どうだ、名案だろう? と言わんばかりに目を輝かせているつくみ先輩に、僕は
「……いや、悪いとは思いませんけど」
と答えつつ、
「『パラレル・スイッチ』は、もういいんですか?」
「……? どういう意味だ?」
「あの高校周辺での探索はもう完全に切りあげちゃってよかったのか、ってことです」
言いながら、僕は紅茶を一含み口に流し込んだ。
「確かにこの前の一件で、〈あの世界〉が無人になっていた原因はわかりましたけど…………でも、まだわかってないこともあるでしょう? 残ってるでしょう? それはもう、調べなくていいんですか?」
「……まあ、調べたいのもやまやまだがな」
と、つくみ先輩は難しい顔をして腕を組む。
「……しかし、いかんせん、現場検証であの辺一帯を『G.O.W』が封鎖しているからな。立ち入れる場所も限られているし、ろくな調査ができなくなっている」
「ああ、そうなんですか? あれ以来、僕は〈あっちの世界〉には行ってないんで、状況はよくは知りませんけど……」
「それにだな。前回話した『つくみ理論』の方も、少しばかり進展はしている。並行して考えている。あたしだって別に、さぼっているわけではない」
「……そうなんですか?」
「ああ」
もちろんだとも、とつくみ先輩は得意げな顔で胸を張った。次いで、僕の方に顔を寄せてきて、
「…………ふむ、では、いい機会だ。講義の続きをしてやろうか?」
「あ…………じゃあ、お願いします」
興味がないと言えば嘘になる、というかここまで聞いて断る選択もないだろうと思い、僕はお願いした。
「うむ――――ちなみに、この続編の発端となったのは、都度中側の『あたし』が〈反位相からちょっとずれた世界〉の存在だったこと。そしてさらに、奴らは『彼女』と『あたし』を鉢合わせることで、あたしを『消そう』としたという部分だ」
人差し指を天井に向け、早速つらつらと語りだすつくみ先輩。
「つまり都度中はこれまで、『反位相からちょっとずれた世界』の人間を召喚し、鉢合わせることによって、人を消していたということ。たとえ正確な反位相ではなくても、ほとんど同じ『別位相体』なら、やっぱり存在は相殺され、消えてしまうということだが――――さて、ここで一つ考えてみて欲しい。この世界とまったく同じ世界があったとして、そこにいる君というのは、今現在、何をしていると思う?」
「何って…………そりゃあ、この『僕』と同じく、つくみ先輩の話を聞いてるんじゃないですか? ……だって、この世界とまったく同じなんでしょう?」
「そうだ。じゃあ、例えば、君がこれから学校に行ったとしたら、別世界の『君』はどうなる?」
「もちろん、学校に行くでしょう」
「じゃあ――――君が『反位相の世界』に行ったら?」
「当然、もう一人の僕も『反位相の世界』に――――ん?」
僕ははたと、思いとどまった。
つくみ先輩は、僕の顔を嬉しそうに覗きこみ、
「ふふ。気付いたかい? そう、君が『反位相の世界』に行った瞬間、もしそこが正確な『反位相の世界』だったなら、元々その世界にいるはずの『君』も同時に、向こうから見た『反位相の世界』へ――――即ち、我々が今いる世界の方へ来ることになるのだ」
「…………え、えっと、それはつまり?」
「つまりだね――」
つくみ先輩は指でたんたんとテーブルを叩き、自信満々なにやけ面になって、
「――つまりあたし達は、『正確な反位相の世界』の住人とは決して出会えない、ということになるのさ」
……ああ! ――と、僕は思わず手を叩いた。
「ようは、紙を裏返しにするようなものだ。表を見れば裏は見えず、裏を見れば表は見えない。ただの平行線のように、どこまで行っても出会えない。ぶつかれない。それが『反位相の自分』なのだよ。出会おうと思ったら――――自身の『別位相体』に会いたいと思ったら、そう、『反位相からちょっとずれた世界の自分』で妥協するしかないのだ」
――だから都度中先輩達は、位相がずれているあの真っ暗な世界に侵入していたってことか……? もしくは、あの世界にしか入り込めなかったのか……?
「……ふふ。もしかしたらあたし達は、気付いていないだけで、日常的に〈反位相の世界〉の自分と入れ替わっているのかもしれない。世界を毎日のように、行ったり来たりしているのかもしれない。何かの拍子に、ね……。しかし、あたし達はそれに気付けない。なんせ、波が逆なだけで、世界はまったく同じなのだから。電子のスピンの向きでも不眠不休で観測し続けていれば、確認できないこともないかもしれないが……。そんな酔狂な人間は、まあ、いないだろうなあ」
――正確な反位相の世界は、判別がつかない…………。そうか、そうだ、僕達が〈あの世界〉を『別世界』と確信できたのも、あそこが元の世界とまったく違っていた〈おかげ〉なんだ。
「さらに突っ込んだ話をすれば、あたし達は『ほんの少し位相がずれた世界』の人間と入れ替わっている可能性だって、否定はできないんだよ。見た目が全く変わらず、さらに、その世界に他の『自分』が存在していなかったなら、やはり判断はつかないわけだからね。少しばかり齟齬があったとしても、それが明確に『違い』だと断言できるほどの確実な記憶を所持している人など、そうそういないだろう。誰だって、『そうだったっけ?』『覚え違いかな?』と、自分の記憶の方を疑ってしまう。世にある『記憶違い』というのは、総じてこの〈位相間移動〉による弊害なのかもしれないね」
ははは、とつくみ先輩はおかしそうに笑った。
「じゃあ…………じゃあ、つくみ先輩」
僕は前のめり気味になりながら、先輩に尋ねた。
「〈パラレル・スイッチ〉というのは、つまり一体、何だったんです?」
「ふふ。私見ではね、やっぱりその『スイッチ』というネーミング自体には意味はなかったんじゃないかなと思うよ。他のオカルト記事と同様に、ね」
つくみ先輩は腕を組み、ソファーに背中を預けた。
「あたしの意見では、あの高校周辺がパワースポットだったんだよ。つまり、あの周辺で位相移動をすると、どうしても『位相がずれてしまう』という、ね。だからあたしも辺乃も、あの学校の周囲で刀を振りまわして、〈あの世界〉に行くことに成功したのさ」
「じゃあ、スイッチではなく――――スポットだった、ってことですか?」
「ああ。……まあ、良心的に見れば、高校の校舎自体が、三階建てで、真ん中に時計塔が立ってる作りだからね。あの形がスイッチの形に見えないこともない」
「…………僕は納得できませんが」
「あたしもだよ」
つくみ先輩はからからと笑った。
「だからやはり、あれはライターの勝手な思い込み。そしてそれが実体とかけ離れていたからこそ、都度中達はその説の流布を特に止めようとしなかったんだと思うよ。まあ、もしくは、確率は低いかもしれないが――――わざと誰かが書き換えた、とかかな」
「…………か、書き換えた?」
「あたしの勝手な憶測だよ」
ふふん、とつくみ先輩は自嘲気味に笑った。
「……ふ、しかし、あたしの推論はここまでだ。なんせ最終決戦にあたしは加われなかったからね。全部また聞きの情報から引き延ばした説だ。あの場にあたしも居合わせることができたなら、もうちょっと情報量は多かっただろうに。あーあ…………一度でいいから、『反位相』のあたしに逢ってみたかったなあ」
「…………消えたいんですか?」
「でも、文通くらいならなんとかなりそうじゃないか? また機会があれば、メルアドくらい聞いておきたいものだ」
――同じつくみ先輩なら、アドレス名とかもかぶってそうなものだけど。
「なあ、そっちのあたしは、そんなに『あたし』と違っていたのかい?」
「ええ、大違いでしたよ」
僕は即答した。断言した。
「なんかもう、思考が破滅的でした。後ろ向きというか、自己否定的というか。先輩とは真っ向の真逆ですね」
「……おいおい、そうは言うがね」
つくみ先輩は嘆息しながら、背もたれから背中を浮かせる。
「あたしだって、昔はそんなものだったんだよ? ほんのちょっと前までは」
「…………信じられませんが」
「ふふふ、まあ、今のあたしは、すでにもう、この『あたし』だからなあ」
遠い目で窓の方を眺めた先輩は、ぼそりと、
「――彼女は、出会えてなかったんだなあ」
と、その瞳に憐憫のような雰囲気を浮かべて呟いた。
僕が「どういうことです?」と聞くと、
「いや、独り言だよ」
と先輩はくすりと、照れたような笑みを返してくる。
「彼女も一応の所『あたし』だからね。ぜひとも幸せになって欲しいものだ」
「まあ、僕もそう思います」
と僕も答えた。……答えたところで、ようやくケーキがテーブルに届けられた。赤みがかったホワイトのショートケーキ。一目で春を思わせる、夜空を思わせる、そして川のせせらぎを思わせる、絵画のような一品――
――名物ケーキ『春の夜のせせらぎ』
これこそが、僕がつくみ先輩のアシスタントになった原因だった。
そしてまた、向こうの『つくみ先輩』を託した一品でもある。
……果たして今頃、あっちの『先輩』はどうしているだろう? 『僕』のことを思い出しただろうか? 『僕』をちゃんとこの喫茶店に誘っただろうか? そして『僕』は、木曜日に財布を忘れただろうか?
……まあ、考えてもしょうがないことか。
僕は溜息を吐きつつ、目の前のケーキを口に運び始めた。その味を、食感を楽しみながら、僕は、
「……でも、先輩はよくまあ、何でもわかりますね」
と、先輩に言った。
先輩は口をへの字にして、
「なんだい、だしぬけに?」
「いや、素直に感心したんです」
と、僕は言葉を続ける。
「当事者の僕が何も気付けなかったことを、聞いた話だけでよくまあ、そんなに色々説明できるなって。……宇宙の外側の話とか、宇宙が始まる前の話とか、先輩にはもうわかっちゃってたりするんじゃないですか?」
「はっは、そんなわけないだろう」
つくみ先輩は、テーブルに片肘をつきながら笑った。
「あたしにだって――一を聞けば一無量大数まで理解できるあたしにだって――わけのわからないものくらいいくらでもあるさ」
「例えば?」
「……『例えば』? う~ん、そうだなぁ……」
と、つくみ先輩は記憶を掘り返すように腕を組み、
「……そうだな、例えば、例えば――
――人は何で『一目惚れ』なんてするんだろう、とか、な」
「…………はぁ? ……一目惚れ?」
僕はフォークを口にくわえたまま、驚きの声を上げてしまった。
「…………何だか、物凄く先輩に似つかわしくない単語ですが」
「……あたしだって自覚しているよ」
先輩はむすっとした表情で答えた。
「だけどやっぱり、謎は謎だ。だって、単純にその人の容姿に惚れ込むことが一目惚れというなら、世の男女は皆テレビのアイドルに一目惚れし終わっていておかしくないものだ。そこで終了していて然るべきものだ。しかし実際は、普段の日常生活で、あるいは街中で生じている現象だ。一体その要因は何なのか、いまだに謎だよ」
「はあ……まあ、確かにそうですが……」
僕はケーキを飲みこみながら、とりあえず答える。
――何だか、先輩が実際に一目惚れを体験したかのような話しぶりにも聞こえた。もしかして先輩、本当に誰かに一目惚れしたことがあるのだろうか……?
ぜひとも詳しく聞いてみたい話ではあったが、さらに突っ込むのも野暮かなと思い、とりあえず止めておいた。また何か機会があったらその時に聞いてみようと思う。
「……しかしまあ、そうやって、この世にはあたしにもまるっきりわけがわからないものがあると思い知らされてから、あたしもだいぶ改心したものだよ」
つくみ先輩は遠い目で、述懐するように言った。
「いくら考えてもわからない。理解できない。けれど、わからなくても別に苦しくない。幸せですらある。そういうものもあるんだと、思い知らされた。教えられた。だからこそ、今の『あたし』があるんだろうなあ。『あたし』は、三年前の『あたし』から、こうやって救われたんだろうなあ」
呟きながら、先輩は窓の外を眺めていた。
さっぱりとしたショートヘアー。透き通るような肌。僅かに染まった頬。そして垂れ気味の目尻を、さらに幸せそうに細めている。
その横顔は、言われてみると、恋する少女のように見えないこともなかった。
一目惚れの相手は誰だったのか、あるいは、もしかしてそれが三年前のつくみ先輩からころっと性格が変わった要因だったのか、と疑問は尽きない。
しかしまあ、つくみ先輩だって年頃の女の子だ。秘め事の一つや二つ、胸中にしまっていても変じゃない。僕はただ黙って、黙々とケーキを食べ続ける。まるでそうやって先輩の前にいるのが、先輩の傍にいるのが、僕に課せられた責務であるかのように。
――ちなみに、これは後々聞いた、蛇足でしかない話だけれど。
僕とつくみ先輩が初めて対面したのは、実はあの喫茶店に連れてこられた日ではなかったらしい。つくみ先輩の機嫌がすこぶる良かった日――即ち、先輩の第一志望の大学の合格発表の日――に聞いた話だが、先輩はそれ以前に僕を見たことがあったそうだ。
それは大体、二年数か月前――――四捨五入すれば三年近く前。
僕が中学三年だった年の、天神岬高校の文化祭の日。僕は学校見学がてら遊びに行っていたのだが、その時、校庭で焼きそばを売っていたのがつくみ先輩(当時高校一年生)だったそうだ。僕はその焼きそばを昼食にしていたらしい。
そんな昔の出来事まで――そして客の顔まで――覚えているその記憶力に、僕は心底脱帽した。
まあ、実際のやり取りとしては、お金を渡して、焼きそばを受け取ってという、それだけのものだったはずだが、しかしこの出会いが果たして今までの話と何か関係あるのか、この出会いがあったからこそ変わった部分というのがあったのか、残念ながら、僕にはわかっていないのである--
--今のところ、は。
〈つくみフェイズ移動論・FIN〉
ということで、『つくみフェイズ移動論』でした。お読みいただき、まことにありがとうございました!
このお話、途中でだいぶ間が空いてしまったのですが、その原因というのは、ひとえに――――式織のプロット作りが甘かった事でしょうか(滝汗・猛省)
最初の数話がすらすら言ったもので、これなら行けると始めたんですが、途中でぱったりと減速、失速に……。
これを書き始めた頃の式織というのは、プロの作家さんの「○週間でこれを書いた」「○日でこれを書いた」という話に、「すごい! 自分もこうありたいものだ!」と思っていたものなのですが、しかしよくよく振り返ると、そういう作品に限って、一回読んだら満足してしまう、読み返そうとはあまり思えないものが多い気がします。
式織が九年来愛読している、そして尊敬している作家さんは、最新作にて、プロットに三カ月かけたと書いてありました。……式織のような素人でも、せめて数日・数週間は話を煮詰める気概が必要だなあと痛感しています。
途中で煮詰め直したおかげで、一応無事に本作も着陸でき、安堵しております。
現在『闇蛇のトビカタ』を執筆中であり、これが完結した後に、新たにもう一作スタートさせようかと思っています。機会があれば読んで頂けるとありがたいです。
ではでは、ありがとうございました。
式織 檻