第四話「Theorize」--その七
四面楚歌――――というのは、つまりはこういう状況のことなのだろうか。
この音楽室にいるのは全部で四人。そしてその内、僕以外の三人は皆、僕の『敵』なのである。当然の帰結として味方はまごうことなくゼロであり、さらに、他の三人はすべて武器所持というおまけ付きだ。
不利も不利。利というものが皆無だ。
――いや、一応のところ、鳴海さんだけは僕と『同属』ではある。『心情的』には。『思想の根底』は……。しかし今現在、都度中先輩の後ろをついて歩いている彼女は、縮こまるかのように肩を内に寄せ、前髪で完全に目を覆い隠し、もはや僕と目を合わせようともしない。まるで人形のような――――操り人形のような所作だった。その様はまるで、僕に対して「何も期待するな」と言っているようなものだった。
――加えて、だ。
今もこの校舎のどこかを走り回っているだろう、一番頼りになりそうな『僕の方の』つくみ先輩を呼ぼうにも、ここに障害があるのである。即ち――――『反位相の世界のつくみ先輩』。……もし僕が声を上げて助けを求め、望み通りあの人がここに来てくれたとしても、その瞬間、先輩は消えてしまうことになる。先刻都度中先輩の方へ飛ばしたイスが消えたように。蒸発し、霧散するかのように。これでは呼んでも無意味だし、消えるとわかっていて呼べるわけもない。
……じゃあ、あと残るは?
……僕に残っている救援は?
上弦さんか? 僕は上弦さんに助けを求めればいいのだろうか? ……それも、ある種の博打じゃないか?
この緊迫した場に下級生の女の子を呼んで、果たして状況は好転するのか? 彼女は、もしかしたら僕なんかより有能かもしれない。あのふてぶてしい性格だ。もしかしたら、ある程度腕に覚えもあるのかもしれない。空手なり合気道なり習っていても不思議ではない。……けれど、その強度は武器持ちの三人を相手にしても、凌駕できるほどなのか? カマと銃と小太刀を制圧できるほどなのか?
……残念ながら僕にはそう思えないし、こんな危険な状況に可愛い後輩を巻き込むのも僕の良識に反する。
…………じゃあ、どうする?
…………どうすりゃいい?
僕は三人を睨みながら、ぐるぐると一生懸命に頭を回転させる。
別に暑いわけでもないのに、前髪から汗がぽたぽたと滴る。動いてるわけでもないのに、息が上がっていく。立っているだけなのに、脚が痺れてくる。
――と、
「……話が終わったのなら、さっさとコトを済ませるぞ」
僕とつくみ先輩を睥睨しながら、都度中先輩が淡々とした口調で言った。カマを手の中でくるりと一回転させ、
「次の予定もつかえているんだ。こんなところでモタモタしている暇はない」
「……次の予定? ――――つまり…………あとの二人をどうするか、ですか?」
一方で頭を働かせつつも、僕は都度中先輩に聞き返した。正直なところ、これは時間稼ぎでしかなかった。対抗策を考える時間の。
都度中先輩はふんと鼻から息を吐き、
「もちろん、そうだ。が――」
と、まるで虫の死骸でも眺めるような目で僕を見下ろした。
「――ふん、言っておくが、別に、奴らへの対処はもう決まっている」
「……ほう? どうするつもりだ?」
今度はつくみ先輩が、興味深そうな声で都度中先輩に問い返した。
都度中先輩は「……決まっているだろう」と呟き、低い声で言葉を続ける。
「『こう』なった以上――――上弦とあっちの加賀野にも、『消えて』もらうしかない」
――……っ! 先輩達まで手にかける、だと?
一瞬にして僕の頭に血が上り、僕の体は反射的に、先輩に掴みかかろう前へ乗り出した――――が、その前に――
「――ま……待ってください!」
と、叫び声が響いて、僕ははっと立ち止まった。
振り返ると、声の主は、顔を上げ、両目を見開き、口をわななかせた鳴海さんだった。
鳴海さんは胸の前で拳を握りしめ、
「な、何で! 何でですか! なんでしづちゃんまで! け、消さなきゃならないんですか! なんで! なんで! なんで!」
声を張り上げる。
都度中先輩はその顔を一瞥し、やれやれと言わんばかりに横髪をかき上げ、
「……決まっているだろう。朝風がここから消える以上、たとえそれが完全なる消息不明であろうと、少なからず元の世界では問題にはなる。警察の捜査が入ってしまうことは避けられん。……そんな中で、こいつが消えた同時刻に、『この場所』に我々が居たことを知っている人間は、邪魔でしかない。不安要素でしかない。安全を期するならば、確実に『消して』おくべきだろう。それが最善策だろう。……違うか?」
「で、でもでもっ!」
鳴海さんは明らかに動転した顔で、さらにまくし立てる。
「し、しづちゃんは! しづちゃんは! わ、私達のことに気付いてるわけじゃないじゃないですか! まだ知らないじゃないですか! だ、だったら! うまく説明すれば! 納得させれば! そ、そんな、消さなくてもいいじゃないですか! 消す必要ないじゃないですか!」
「…………おい」
都度中先輩の声が、さらに一トーン下がった。そして、その濁った瞳で鳴海さんを睨みつけ、
「――貴様、俺に反抗するのか?」
と、恫喝するかのように言い放った。
「……我々のこの活動は遊びではないのだ。〈この世界〉を手に入れるため、俺達は命がけで計画を遂行している。情に流されて不安因子を泳がせておくなど、愚の骨頂だ。問題外だ。……見たところ、あの上弦という女は、年の割に聡い。そして我が強い。貴様のように組み伏すのは不可能に近いタマだ。……そんな者、生かしておけるわけがないだろう」
「で、でも!」
睨みつけられ、ドスの利いた声で恫喝され、それでも鳴海さんは引かなかった。さらに都度中先輩に詰め寄り、叫び続ける。
「だ、だったら、あの娘のことは私が責任をもって監視します! 管理します! もし問題になったら、私ごと消してください! だから、だからあの娘は! あの娘だけは! み、見逃してくだ――」
「――喧しい」
そう言うと同時、都度中先輩は右手で鳴海さんの襟を掴んだ。
そしてそのまま、鳴海さんの顔ごと床に打ちつける。
――ごん、という鈍い音と、きゃ、という短い悲鳴。
都度中先輩は鳴海さんの背中に膝を乗せ、後頭部を床に押し付け、鳴海さんの華奢な体を思い切り圧する。
「な、鳴海さん!」
僕は慌てて、二人に走り寄ろうとした。
しかしその前に、ちきり、と金属音が顎の下で鳴る。
僕の体は、条件反射でぴたりと止まる――――つくみ先輩が薄い微笑で、僕の喉元に小太刀を構えていた。刃先が、眼下で煌いた。
僕は、血の気が引いた。
この人はやっぱり、僕の知っているつくみ先輩とはまったく違うんだということを、僕は心の底から思い知った。思い知らされた。
僕はもはや顔すら微動だにできなくなり、視線だけで組み伏し、組み伏される二人を追う。
都度中先輩は、鳴海さんの背中を見降ろしながら、
「……ふん。貴様は割と簡単に『心折れてくれた』ものだから、俺の恩赦で存命させてやっていたのだが……。俺の決定に異を唱えてくるというのなら、話は別だ。邪魔なだけだ。ここで消えてもらう。貴様も――――貴様の犬共も」
うぅぅぅぅぅ、と、顔面を床に押し付けられた鳴海さんは唸り声を上げている。じたばたと四肢を動かそうとする。しかし、都度中先輩の全体重に、抗うことはできていなかった。いくら暴れても、体が自由になるより先に、その細い腕が折れてしまいそうな様子だった。
――と、都度中先輩は顔を上げ、
「……とりあえず、さっさとそっちのアシスタント見習いを消せ」
と言って、僕とつくみ先輩の方を振り返ってきた。
「この場を他の奴ら見られては、やりにくくなるからな」
そう言って、つくみ先輩に握っていたカマを手渡す都度中先輩。
それを受け取ったつくみ先輩は、
「ほう。……ふっふ。これをあたしが扱うのは初めてだ。実に興味深い」
と、おもちゃを買ってもらった子供のような、嬉しそうな顔になった。そしてその表情のまま、僕の顔を見てきて、
「ふむ……。それでは、朝風君。君とはここでお別れだな。ふふ。短い間だったが、あたしはなかなか楽しかったよ。少なからず君と会話もできたし。おかげで、君という人間がだいぶ理解できた」
僕の喉元から刃先を離すことなく言うつくみ先輩。
ふと、鳴海さんを押さえ続けている都度中先輩が、
「……ふん、加賀野。一応聞いてはおくが――――いいのか?」
と、口を挟んできた。特につくみ先輩に再考を促すような雰囲気も、本当に疑問の思っているような雰囲気もなく、単なる形式的な確認のような、ただの既定通りのやり取りのような、抑揚のまったくないイントネーションだった。
「……その後輩は、一応のところ、こちらのお前が執心している人間だ。『お前自身』にとってもまた然り、ということではないだろうな。……そいつを消してしまうことに対し、貴様には特に不満はないと?」
「ないさ」
つくみ先輩は即答した。
「だってこいつは、『あたし』の方の朝風君ではないし」
至極わかりやすい回答だった。
「……それに、大体のことはすでに理解したよ。そっちの『あたし』がこの朝風君に執着している理由も、ね。……ふふ。やはり君は、『あたし』にとって理想のアシスタントなのだ。想定しうる最上のアシスタントなのだ。あたしの外見に惹かれるわけでもなく、あたしの色香に惑わされることもなく、あたしの才覚に魅せられるわけでもなく、そして、あからさまにあたしを嫌悪するわけでもなく、ただただあたしに正論を言ってくれる。言い聞かせてくれる。こんな自分勝手で唯我独尊なあたしが常に一緒にいることができる存在というのは、多分恐らく、唯一そういう人間だけなのだろう――――そう、君だけだったんだろうな」
自身の分析結果を早口気味に説明してくるつくみ先輩。
――しかし、それを聞いているうち、僕の中にこみ上げてくるものがあった。怒りのような、イライラのような、鬱陶しさのような、ムカつきのような、やりきれなさのような、胸苦しさのような、それらがごちゃ混ぜになったような気分だった。
まるで僕とつくみ先輩を完全に把握したと、把握しきったと言わんばかりの彼女の口上。一言で言えば、僕は――――気に食わなかった。
「ふふふ。そんな君と出会えているということは、やはり、羨ましいことこの上ない。恨めしいことこの上ない。そんな奇跡を、彼女はモノにできたわけだ。……憎いね。憎たらしいね。外見はまったく変わらず、内面だってあたしとほぼ同じ。そんな人間が、あたしとは天と地ほどの差がある心持で生きている。不条理極まりないよ。不服で仕方ないよ。神は、何でこうも『あたし』と『彼女』に差をつけたんだろうね?」
笑顔は崩さず、しかし瞳の奥に鋭利な輝きを漂わせながら、僕に詰問するがごとく、つくみ先輩は言い聞かせてくる。
僕はただ――――その目を睨み返した。
その発言のすべてが、やはり気に食わなかった。
「……今あたしは、取り敢えず自分のことを『自分勝手』と形容はしたけれど、あたしの主観からすると、それは正確ではない。だって、あたしは別に何かを間違えてるわけではないんだから。あたしは聡い。あたしは賢い。その判断力によって、常に最良の選択ができる人間だ。最も正しい判断を下すことが可能な人間だ。他人との間に摩擦が生じるのも、あたしの選択がたまたま周囲と相容れなかったという、結果論でしかないんだ。結果論。あたしは何も悪くない。……逆に、『それ』が間違っていると分かっているにも関わらず、皆に同調する方が愚かじゃないか? 愚かの極みじゃないか? そんなことをしているから、この世から戦争がなくならないんだ。この世はすべて、正しいあたしに倣うべきだ。そう思うだろう?」
僕はもう、気に食わなすぎて、何も考えられなくなった。
「それがあたし――――加賀野つくみの根底であり、そしてまた『彼女』にとっても同じだ。何一つ変わらない。……なのに、なのにだ。あたしはぽつんと一人ぼっち、宙ぶらりんになっているというのに、この社会の中で息ができずに苦しんでいるというのに、そっちの『あたし』ときたら、どうだ? まるで普通の女子高生のように、青春を謳歌してるではないか。あたしに望むべくもないことを、当たり前のようにしてるじゃないか? こんな横暴、許せるか? 許されるわけないだろう?」
僕は、言葉がなくなった。
「だから、そっちのあたしにもちゃんと『理解』してもらおうと、そういうわけだ。神の采配で勝手に幸せになっている彼女から、『君』という存在を奪って、ちゃんと自覚してもらうのだ。それが公平というものだ。後々あたし自身も『消える』ことで、責も十分受けるわけだし。どこからどう見ても公平だ。フェアだ。……ふん、そもそも『彼女』は、あたしから見て、その幸運さに甘えきっている節がある。『あたし』に比べ、人に嫌われるということによるダメージに対し、目に見えて鈍感に――」
「――いい加減にしろ」
これが僕の発言だったと、僕自身ですら知覚するのに数秒を要した。
考えなしの言葉だった。僕の心から、何も介さず、直で流れ出た言葉だった。僕の頭から直に放たれた台詞だった。
恐らく初めて、僕がつくみ先輩に敬語を忘れた発言だった。
つくみ先輩が笑みを消し、僕の顔を直視してきた。
都度中先輩がいぶかしむように僕の顔を見上げた。
鳴海さんが驚いたように、その手足のばたつきを一瞬止めた。
しかし僕は構わず、ただ思ったことを、思った通りに口にした。口にすることを、もはや止められなかった。
「……あんたが、僕のつくみ先輩を語らないで下さい」
僕のこの言葉に、つくみ先輩はぽかんと目を丸くした。
しかしやはり僕は構わず、言葉を続ける。
「……あの人とあんたが、『内面も同じ』? 『根底が同じ』? ……はん、笑わせないでください。あんたとあの人は、まったく違う。断じて違う。違いすぎる。見た目と声以外、全然別ものですよ。……確かに、あの人だって自分勝手です。自己チューです。僕も迷惑してます。それは否定できません。でも…………でも、あの人は――――人を不幸にするために、我を通したりはしない!」
僕は叫んだ。
喉の奥から。
心の底から。
「あの人は、勘違いしてるだけなんだ! 自分が楽しいことはきっと他人にも楽しいと! そう勘違いしてるだけなんだ! だからあの人は! 無理やり他人を巻き込むんだ! その人にも楽しんでもらいたいから! 一緒に楽しみを共有したいから! だから僕や上弦さんを巻き込むんだ! 僕や上弦さんやみんなに楽しんで欲しいから、あちこち引きずり回すんだ!」
喉が少し痛くなった。けれど、言葉は止まらなかった。
「一を聞けば一無量大数まで理解できる? 僕のこともだいぶ理解した? ……冗談はやめてください。あんたは何もわかってない。まったくわかってない! ……さっきあんたは、神があの人とあんたに差をつけたとか言ってましたが…………別に、こっちの僕とつくみ先輩にだって、接点はなかったんだ。何もなかったんだ。お互い、名前だって知らなかったんだ! なのに、つくみ先輩が強引に僕を引き入れたんだ! 自分で自分の道を切り開いていったんだ! あんたみたく人のせいにすることなく、自分で行動したんだ!」
僕は最後に大きく息を吸い、
「あんたとは違うっ!」
と、あらん限りの声を張り上げた。
口の中が、血の味がした。
舌が乾ききっていた。
はあはあ、と僕は肩で息をする。
静まる教室。
何も動かない空間。
つくみ先輩は何も言わなかった。
都度仲先輩も何も言わなかった。
鳴海さんも何も言わなかった。
すべてが停止しきっていた。
――と、
「……はっは、なるほど。ためになる意見だ」
と、つくみ先輩が笑った――――鼻で笑った。
「……なるほど、そういう解釈もあるのか。この天才加賀野、負うた子に教えられた気分だ。ぜひ、今後の参考にさせてもらおう」
いつもの笑みで――そして変わらない寂しそうな目で――僕に笑いかけるつくみ先輩。そして、
「――では、さよならだ」
無感動な声で、つくみ先輩は言った。言いながら、僕の頭上へと、草刈りガマを振り上げた。顎の下に小太刀。頭上にカマ――――さながら死刑道具のようだと思った。
都度中先輩は、
「……ふん、安心するがいい。俺は今まで何千人と『消し』てきたが、消える瞬間、顔を歪めた奴はいなかったよ。唖然とした表情のまま、きれいさっぱり消えていった。無痛であることは保障してやる」
と、冥土の土産のように言ってくる。
僕は目を瞑った。
言いたいことはすべて言った。
これだけ言っても変わらないなら、もう手はない。
納得はしてない。
心残りはある。
だけど、今までの緊張状態と興奮状態の連続で、僕はへとへとだった。
疲れきっていた。
もはや放心していた。
脱力していた。
もし僕が消されたと知ったとき、つくみ先輩はどう思うのだろうと考えた。
もしかしたら、今まで見たことのない泣き顔になるのだろうかと思った。
どうせなら一度見てみたかったな、と思った。
もちろん、こんな理由であってほしくはなかったけど、と思った。
頭上から風きり音が聞こえた。
ああ、終わった、と思った。
体中から力が抜けた。
頭が真っ白になった。
その瞬間――
「――待ちなさい!」
と、凛とした声が響いた。
風きり音がぴくりと止まる。
僕は耳を疑った。
この声は、つくみ先輩のものではなかった。
さらには、上弦さんのものでもなかった。
そう、これはこの場にいる全六人のうちの、最後の一人――
――月ノ宮先輩のものだった。