第四話「Theorize」--その六
真っ暗な廊下の中に、ぽっと人の姿が現れた。
ショートヘアーにやや垂れ気味の目尻、そして自信が満ち満ちていそうなへの字の口元がテンプレになっている麗人。どこからどう見ても、つくみ先輩その人だった。
つくみ先輩は
「さあ、早くしろ」
と言いながら僕の右腕を握り、さらに先へと一緒に駆けだした。
「せ……先輩は逃げ切ってたんですね」
少しばかり息を切らしながら先輩に尋ねると、
「ああ。ふふ、当然だろう? …………ふん、しかし、厄介なことになったものだ」
と、恐らく肺活量にも雲泥の差があるんだろう、僕と同じペースで走っているにもかかわらず、息一つ乱すことなく先輩は答えた。
「……と、というか、き、聞いてください!」
どこかに逃げきって、落ち着いてからじっくり話した方が――――とも思ったけれど、途中で風紀委員に追い着かれたら、さっきの経緯を先輩に伝える機会を失ってしまう。先輩まで危険になってしまう。僕は考え直して、一刻も早く、たとえかいつまんででも説明しようと、
「あ、あの、実は! この世界に人が誰もいないのには理由があってですね、それは、あの都度中先輩が、あのカマで、人を全部、違う世界に、送り――」
「ここだ」
ふいに、つくみ先輩は右手で僕の説明を制しながら立ち止まった。先輩が指さした先にあるのは――――音楽室だった。
「……え? ……ここに、何です?」
と僕が尋ねると、
「さあ、早く中へ。準備してある」
と言って、先輩は教室内に入って行った。
準備? ――――と疑問に思いつつも、僕も続いて中に入る。
最前部にピアノが置かれた、結構広めの部屋。防音用に、壁には無数の穴があけられている。元の世界では過去の名作曲家の絵が貼り付けられていた掲示ボードも、こちらの世界では真っ白だった。そして、そのど真ん中に――
――青白い光の輪っかが浮いていた。
「…………え?」
僕は、思わず声を上げた。
「……先輩……これ……」
「用意しておいたのさ」
先輩は僕の方を振り返り得意げな顔で答えた。
「あたしも少々、奴らを甘く見ていた。甘く見過ぎていた。想像以上に厄介だった。どうにも、一筋縄ではいきそうもない。…………まあ、だからと言って、ここで引き下がる加賀野つくみでもない。今夜、この場所で、あたしは奴らに対して完全完璧なる勝利を遂げて見せる」
いつもながらの不遜な声で言ってくる。
「…………とは言え、相変わらず危険であることも否めない。この戦闘で君にもしものことがあっては、目も当てられないしな。これからの探索に影響が出てしまうのはどうしても避けたい――――だから、だ。今日の所は、君は避難しておいてくれたまえ。ここはあたしが蹴りをつける。勝利を収めてくれる。できれば、都度中のあの厄介なカマを奪うなり破壊するなりしておいてやる。だから、君はしばし元の世界に帰って、英気を養っておいてくれ。明日以降の探索に全身全霊を傾けるために!」
そう言いながら、つくみ先輩はぐいと、僕の背中を押した。
「さあ、今日はひとまず、ここから帰っておいてくれ」
「せ、先輩……?」
僕はくるりと先輩の方を振り返り、尋ねた。
「…………ここから、僕は元の世界に帰れるんですか?」
「? 何を言っている? 当然じゃないか」
「……本当ですか?」
「嘘なわけがない」
先輩は自信満々な笑顔で頷いた。
しかし僕は、続けて尋ねた――――尋ねずにはいられなかった。
「――先輩は、誰です?」
僕がこう言って刹那――――時が止まった。
一瞬、音楽室がしんと静まり返った。
時計の秒針だけが響いた。
先輩は笑顔のまま、固まっていた――――と、
「…………だ、誰とは、あたしが誰とは……極めて変なことを言いだすな、朝風君」
呆れたように、苦笑をこぼす先輩。
「じゃあ…………逆に問い返すが、君にはあたしが誰に見えているのだね? この世界最上の才色兼備のお姉さんを目の前にして、君には『加賀野つくみ』という以外に、どんな存在が見えているというのだい?」
「……いやまあ、確かにあなたは、加賀野つくみ先輩以外の何者でもないでしょうが」
僕はぽりぽりと首筋をかいた。
「でもあなたは――
――僕のリーダーたる加賀野つくみ先輩では、ないですよね?」
僕が言うと、
「……………………は……はは……はははははは」
と、つくみ先輩は引きつった笑みをこぼした。
「わ、わけがわからない。まったくわけがわからないぞ、朝風君。だって、そうだろう?君のリーダーは加賀野つくみである。そしてあたしは加賀野つくみである。ならば、あたしは君のリーダーである――――この三段論法から言えば、明らかに、明確に、あたしは君のリーダーに違いな――」
「――僕のリーダーは、そんな寂しそうな目をする人ではありません」
僕は言い放った。
音楽室は再度、空間が切り離されたかのように、静寂に包まれる。
つくみ先輩は思索にふけるかのように床を見つめながら、
「じゃあ…………じゃあ、あたしは何者だというんだね?」
「……僕だって知りませんよ」
僕はふるふると首を振った。
「ただ、つくみ先輩は――――僕が知るつくみ先輩は、この〈反位相の世界〉を探索している最中に、さらに言えば風紀委員に追われているという緊迫した状況の中で、そんな冷めきった目をするような人ではありません。そして、いくら危険だからって、この戦いの最中に僕だけ逃すような真似をする人でもありません。きっと恐らく、いくら危ないとわかっていても、僕を連れ立って、僕を矢面に立たせたままで一緒に戦わせるはずです。…………まあ、僕としては迷惑極まりないですが」
僕は一つ息を飲み、言葉を続けた。
「恐らくあなたとは、向こうの世界で何度かあってますよね? その寂しそうな眼には、見覚えがあります。…………僕も最初は、あなたと、いつものつくみ先輩が別人だなんて思いませんでした。思いもしませんでした。どこからどう見ても瓜二つですし。いつもより少しクールに見えたのも、単にテンションが落ちてるだけなのかと思ってました。放課後、解散した後には、先輩だってそういう雰囲気になるものなのかと思ってました。……でも、今回は違います。この状況下で――『戦闘中』という状況下で――そこまでテンションが下がるような人だとは到底思えません。あなたはやはり――――別人です」
僕は断言した。
断罪した。
音楽室の構造上、僕の声は反響しなかった。
つくみ先輩は下を向いたまま、じっと僕の言葉を聞いていた――――しかし、ふっと顔を上げ、微笑を僕に向けてきた。そして、
「――はっは。素晴らしいな」
と言った。くくく、あははと、駄洒落がツボに入ったかのように、笑いを殺せなくなっていた。
「どうもどうやら、君は、散々『あたし』に辟易したような態度をとりつつも、しっかりちゃっかり『あたし』という人間を見ているようだな。たいした観察眼だ。あっははは。想定外。まこと想定外だ。ここで看破されるとは。こんなところで看破されるとは。驚愕の一言だよ。……君には特に恨みなどないし、ここでやんわりと、きれいさっぱり、スムーズに『退場』してもらおうと思っていたのだが、ね。失敗だ。おもしろいこと甚だしいよ」
ようやく落ち着いたのか、ひーひーと涙目を拭いながら、つくみ先輩は横隔膜を押さえていた。
「……やっぱり」
僕は一歩後ずさった。
「やっぱりそのゲートは、僕を消すための〈反位相の世界〉に繋がってたんですね。……そしてあなたは――恐らくは、〈反位相の世界〉から来た加賀野つくみであるあなたは――あの都度中先輩の『手先』の一人、というわけですか」
「手先というわけでもないさ」
先輩は襟を正しながら言ってくる。
「そこまでどっぷり奴の活動にハマっているつもりはないよ。たまに協力するだけの間柄だ。サポートというか、アドバイザーみたいなものさ」
「……どうして……どうしてですか? 僕の知る先輩は、少なくとも人を消し去るような計画に加担するような人ではないはずです」
「まあ、『彼女』はそうだろうなあ」
つくみ先輩は顎に手をやり、嘆息しながら言う。
「傍から見てても――そして『あたし自身』から見ても――そう思うよ。彼女は幸運だ。満ち足りている。この〈反位相の世界〉を見つけ、君に出会い、君と共にこの世界を探索している彼女は。幸せの絶頂と言っても過言ではない。まったく。羨ましい限りだ」
「……あなたは違うんですか?」
と僕が聞くと、つくみ先輩はちっちっちと人差し指を横に振った。
「ふふん、いくら見た目が同じでも、位相がちょっとずれるだけで、世界は大きく様変わりしてしまうものなのさ。大違いだ。例えば、『君の世界』とこの『廃墟になった世界』を比べても、然りだろう。別世界だろう? ……ふふ。そしてね、あたしがいる世界でも君のとこと多少違っていてねえ、あっちでは――――君は二つばかり年下、なのさ」
――年下? 僕が? ……僕より?
「そう。……〈反位相の世界〉を見回っている最中、偶然あの都度中とばったり会ってね。彼に連れられてこの世界を見に来て、君と楽しそうに遊んでいる別位相のあたしを見て、あたしも君に興味が沸いたんだ。それで、あたしの方の世界にも君がいるのか確認してみたんだが――――残念なことに、あるいは奇異なことに、あたしが在籍する天神岬高校の二年には、君がいなかった。一年にもいなかった。さらにあちこち調べて、やっとわかったよ。あたしの世界では、君はまだ中学三年生。高校受験真っただ中だったんだ」
――位相が違うと、僕の年齢が変わる? ……そういうことも、あるのか?
「それを知った時、あたしは失望したね。あたしがあたし自身を前向きに補正できる。そのチャンスが、『あたし』には与えられなかったわけだからね。君が入学した時には、あたしはもう高校は卒業して、どこか別の場所に行ってるわけだ。ニアミスすらできない。完全なる行き違いだよ。運命のいたずらとでもいうのかね? おかげであたしは――
――この息苦しい性格のままで、これからも生きて行くことになる」
心なしか、この先輩の言葉には、怒りのようなものが含まれていた。
「……君も知っていると思うが、あたしは『精進』というものがすこぶる苦手でね。同じことを延々と続けることがまったくと言っていいほどできないのさ。しかしそれでも、あたしには才能がある。才覚がある。一を聞けば、一無量大数くらいまでは理解できる。そんなあたしだからね。何でもかんでも、ほんの触りだけ触って飽きてしまう。やる気が無くなってしまう。すぐにやめてしまうのさ。我ながら実に難儀な性格だよ」
僕は、バッティングセンターに連れて行かれた時のつくみ先輩を思い出していた。一打席だけ打って、コツが掴めてきたというのに、そこでやめてしまった先輩……。
「例えば推理小説を読む時だってそうだろう? 最初から犯人がわかってしまっていたら、おもしろさは九割九分減だ。スリルなんてあったもんじゃない。それと同じことだ。すべての事象について、経過を楽しめず、結果だけがわかってしまう。わからされてしまう。そんな人生――
――拷問だぞ?」
つくみ先輩は笑った。
その瞳には寂しさが色濃く塗られていた。
重い言葉だった。
「…………じゃあ、何で」
僕は頬を震わせながら、一生懸命口を動かした。
「何であなたは、都度中先輩に協力なんてするんです? 何の理由があって? 何のメリットがあって……?」
「一つは、ヤキモチだな」
つくみ先輩は肩をすくめ、あっけらかんと答えた。
「あたしはこんなに報われていないのに、こっちの〈あたし〉はあんなに幸せそうで、許せない。つまりはそういう、極めて人間的な嫉妬だよ。…………そしてもう一つは、まあ、自殺願望、かなあ?」
苦笑いするつくみ先輩。
「都度中の最終手段として、もしそっちのあたしが手に負えなくなった場合、あたしと鉢合わせさせて、あたし自身を消し去ろうという目算らしい。だからまあ、特にあたしは生きることに執着はないし、未練はないし、折角だから協力してやろうかと、そう思っただけだ。……それに『相殺』による消去なら痛くもないし、苦しくもないし、死ぬにあたって比較的心安いからなあ」
「…………信じられません」
僕の感想は、それだけだった。
僕の知っているつくみ先輩とは違う。あまりにも違い過ぎる。あの人が道理に反する活動に手を貸すわけなんてないし、自殺を考えることも絶対ない。正反対と言ってもいい。いくら外見が同じでも、同一人物なんて到底信じられない。
――もしくは、
もしかしたら、『この』つくみ先輩こそが、都度中先輩や辺乃先輩が言っていた、昔のつくみ先輩そのものなのだろうか? 各スペックが今以上に高く、あの二人が尊敬にも似た感情を抱いていた人なのだろうか? 『変わらなかった』つくみ先輩なんだろうか?
――まあ、どちらにしても、僕とは相いれない。
――それだけは確かだ。
――そしてまた、この人も敵であると判明した以上、僕がここからも逃げなければならないことも必定だ。
足だって陸上部並みに早いこの先輩から果たして僕は逃げ切れるのだろうかと逡巡していると――
「――話は終わったか?」
という声が教室に入ってきた。
絶望感に、僕は頭がくらっときた。
全身が冷え固まった。
都度中先輩と鳴海さんが、音楽室に足を踏み入れてきた。