第四話「Theorize」--その四
静かだった。
上階の足音が僅かに響いた。どこかから水滴が滴る音が聞こえた。遠くからカエルの鳴き声が聞こえた。夜風が窓ガラスを叩く音が聞こえた。
そしてそれだけで、あとは静かだった。
無言で、無音。
しかし僕の中には、体中が脈打つ音が鳴り響いていた。
どうしようと思い、どうすればいいのか混乱し、こんがらがり、迷い、憂い、戸惑い、体中が痺れ、脳が硬直し、手が震え、口が渇き、額が熱っぽくなり、肩が重くなり、視界がぼやけ、耳鳴りがし、首筋が冷え、腹の底が締め付けられ、何もかもが動かなかった。動けなかった。
――と、
「……何を言っている」
都度中先輩が低い声で言ってきた。
ここでやっと金縛りから逃れた僕は、
「あ、あはははは…………ほんと、な、何言ってるんでしょうね、僕? ほんと、すいません……」
僕は空元気のようなもので笑った。一生懸命、笑って取り繕おうとした。
「いや、先輩を目の前にして、失礼ですよね。失礼すぎますよね。その……ちょ、ちょっと、思い付きで言ったってだけで、深い意味はないんです。まったくないんです。だから、あの……き、気にしないでください。ほんと、ほんとほんと、すいません……」
僕は後頭部をさすりながら謝った。
――そうだ。さっきの僕の考察は、推論に推論を重ねただけで、予測に予測を掛け合わせただけで、証拠があるわけでもない。確証なんてどこにもない。勝手な言い分だ。他の可能性だって腐るほどあるのだ。
そもそも、高校の風紀を守る先輩が、こんな廃墟を作るような真似をするなんて、道理に合わない。わけがわからない。ばかげた話だ。
僕はそう自省し、もう一度ちゃんと頭を下げようと、都度中先輩に向かって顔を上げた。
ごめんなさいと。
申し訳ありませんと。
そう謝ろうとした。
――しかし、駄目だった。
顔を上げた先、僕の網膜に映った都度中先輩の顔。ついさっきまではただ目つきが鋭いだけで、睨むような視線だったというだけで、その奥には確かに光が宿っていたはずなのに、人としての温かみのような慈しみのようなものが存在していたはずなのに――――今はもう、それがなかった。いつの間にか消えていた。
無機質だった。
どす黒かった。
濁っていた。
別人だった。
不気味だった。
怖かった。
――ああ、駄目だ。
別に僕には心理眼などないし、読心術なんて持ち合わせていないし、人の内面を看破した経験なんてないし、目利きでもなんでもないが、それでもわかってしまった。
――この人は『駄目』なんだと。
――この人は敵なんだと。
――僕の、そして、『皆』の。
僕が放心していると、都度中先輩が一歩僕の方へ踏み出してきて、僕はびくりと肩を強張らせた。
「……ほれ、くだらん言いがかりはやめて、さっさと元の世界に戻れ」
まるで兄が弟を諭すような口調で言いながら――そして、その瞳は濁ったまま――草刈りがまを振り上げる都度中先輩。
僕はじりじりと、後ずさる。
僕を元の場所へ返すためだったはずのその動作は、今はもう、殺人行動にしか見えなかった。逃げろ、と脳内警報が鳴り響いていた。消される、と思った。
「……すいません、気が変わりました」
言いながら、僕は都度中先輩からそろりと距離を取った。
「僕は、つくみ先輩と一緒に帰らせてもらいます」
「……それは許容できんな」
そう言い終わった瞬間、都度中先輩は草刈りがまをブンと振り投げた。
もののコンマ数秒で、僕の眼前に迫る刃。僕は反射的に体を反らせた。
ブレザーの肩をかすり、僕の後方へ舞って行くカマ。背中からぶわっと汗が噴き出す。しかし震える間もなく都度中先輩はくいと右手を引き、その風切り音が変わる。
慌てて振り返ると、カマがくるりとUターン。再度僕を目がけて飛んでくるのが視界に入る。
僕は横っ跳びで軌道を逃れた。
カマは板張りの床をえぐりながら僕の眼前を飛び舞う。
取りも直さず、再び右手を手繰る先輩。
――このままじゃ狙いうちされるだけだ。
僕はそう思い、百八十度方向転換し、扉へ向かって走り出した。
「……逃すわけ、なかろうが」
そんな低い声が聞こえたかと思うと――――頭上から金属音。
この音が耳に入り、この前の経験がフラッシュバックし、僕の体は勝手に前へ飛んだ。飛びながら後ろを見ると、自由落下する鉄棒の網。ガチャァアンという床の悲鳴と共に、イスを潰し、机を弾き飛ばし、床を叩きつけ、いつだかも見た鉄製の檻がそびえ立った。
「……こ、殺す気、ですか」
転んだように床に伏した僕は、この切迫感に息を上げながら、呟いた。
「そんな重そうなモノが降ってきたら、頭が潰れて、死…………いや、死んでも、構わないってことですか。死体をそのまま〈反位相の世界〉に送れば、きれいさっぱり消えるわけですから、ね」
「…………バカなことを言うな」
都度中先輩は僕を見降ろし、睥睨し、不承不承と否定する――
「――血やら骨の破片やら、掃除するのも難儀なものなんだぞ?」
淡々とした口調だった。表情は何も変わらなかった。相変わらず濁った眼のままだった。
――僕は身震いした。
――体が勝手に震えた。
「や、やっぱり……」
気管に唾が入り咳き込みながら、僕は言葉を続ける。
「やっぱり、あんたがやったんだ。……『G.O.W』に発見される前に僕らを追い出そうとしていたのも、何のことはない、『G.O.W』に自分の『犯行』を発見されるのを恐れてたってだけだったんだ! それを警戒してただけなんだ! 風紀とか関係なく! 自分の保身のために!」
僕は叫んだ。
しかし都度中先輩は黙ったままだった。僕の発言など気にも留めず、ただただ僕をどうやって消そうか目算しているかのように、じっとこちらを見ている。
と――
「――だから、言ったでしょう」
背後から声がした。
驚いて振り返ると、扉の前にボブカットの女の子が立っていた。前髪から右目だけを覗かせ、僕をきっと睨んでいる――――鳴海さんだった。