第四話「Theorize」--その二
教室内は、しばらく無言になった。
つくみ先輩は戦慄するように、都度中先輩を直視しながらその場に立ち尽くしていた。
上弦さんはよろりと倒れそうになり、扉に寄り掛かっていた。
そして僕も――――混乱し、困惑し、何だか笑い出しそうになった。
――どうやって?
どうやって都度中先輩は、いきなり教室の中に現れたんだ? 何の気配もなしに。廊下は上弦さんがずっと監視してたわけだし、窓だって閉まったままだ。そして窓の開閉音なんて聞こえなかったんだ。
何をどうすりゃ、イリュージョンマジックよろしく、部屋の真ん中にぽっと出現することができるんだ? この先輩は一体何をしたんだ?
そんな疑問を頭の中でぐるぐるかき回していると、
「……お前ら、驚きすぎだ」
と、都度中先輩が呆れたように言ってきた。右手に握っている草刈りがまをひょいと持ち上げ、
「俺のカマの能力は『斬った相手を〈反位相の世界〉へ強制送還する』というものだ。自分自身を斬れば、自分を〈こっちの世界〉に送ることも当然できる。……先に〈この世界〉に来て見回りしていた月ノ宮と鳴海がお前らの居場所を突き止め、月ノ宮が一旦戻って元の世界で待機していた俺に連絡。そして俺はあっちの世界の二年三組の教室から直接『ここ』へ出張ってきたという、それだけのことだ」
「……なぜ我々がこの教室にいると? 上弦君が見張っていたはずだが……」
「ふん。ここは極めて静かな校舎の中だ。どれだけお前らが気を付けたところで、下の階にいれば、お前らの足音やら机を動かす音などは響いてくる。お前らの活動場所を聞き分けることは可能だ。造作もない」
都度中先輩が言い終わったところで、教室前方の扉から人影が覗いた。栗色の長髪をなびかせた女子。月ノ宮先輩だった。
そして教室後方の扉――即ち、放心していた上弦さんの後ろからは――ボブカットの伏目少女、鳴海さん。上弦さんは慌てて後ずさった。
月ノ宮先輩の方を一瞥したつくみ先輩は、
「……ふん、月ノ宮。元の世界に戻った後また〈こちら〉へ赴き、しかもその余裕そうな表情。……位相移動に対し、だいぶ耐性があるようだ。あたしや辺乃でさえ、割りとしんどいというのに。……ふん、驚愕に値する」
月ノ宮先輩はぺこりと会釈した。
「……その『耐性』を見込んで、彼女を風紀委員においているんだ」
都度中先輩が、窓枠から腰を離しながら言った。そしてつくみ先輩の方に一歩踏み出し、
「さて、お前らはこれで袋の鼠。ゲームオーバーだ。今日の所は観念して、元の世界へ帰れ、加賀野」
「……あいにく、そういうわけにはいかんな」
つくみ先輩は背中から、すらっと小太刀を引き抜いた。鉄色の刀身が、月光に煌めく。
「我々もあと半年で卒業だ。在校生という肩書がなくなってしまうと、この学校への潜入も少しばかり困難になる。余計に時間がかかってしまう」
――おい! まさか先輩、卒業後もこの活動続けるつもりなのかよ!
「できるだけ有利なうちに、捜索を進めておきたいのだ。だから、貴様らの邪魔立てごときで、探索をいちいち中断しておれん。推して参るぞ!」
叫ぶと同時、つくみ先輩は――――鳴海さんの方へ走りだした。三人の中で一番突破しやすそうなのは、やはり彼女になるだろう。
鳴海さんは慌てたように、ブレザーのポケットから――――銃、のようなものを取り出した。そしてつくみ先輩の方へ銃口を向ける。
しかし、鳴海さんがトリガーに指を掛ける前に、つくみ先輩は小太刀を横なぎに振った。かつんという甲高い音と共に、銃が左へ弾かれる。
きゃ、という悲鳴と共に、鳴海さんは飛びのく。
「今のうちだ! 早く逃げるぞ!」
大声で言いながら、教室を駆け出るつくみ先輩。
上弦さんもアセアセと立ち上がり、その後ろを追いかける。
僕も二人に続いて、教室を飛び出した。
真っ暗な廊下を走る三人。非常灯すらついていないので、本当に暗い。
後ろを見ると、風紀委員の三人も追いかけてきていた。
「……三人、ばらけよう」
先頭を走るつくみ先輩が、視線だけこちらに向けながら言ってきた。
「我々が分かれれば、向こうも三手に分散するはずだ。一対一なら、まだあたしに分がある。一人ずつ確実に追い出し、今日こそ勝利を収めてくれるわ!」
前方に踊り場が見えた。特別教室の方へ続く廊下と、上り・下りの階段。ちょうど三方向への分かれ道だ。
「よし、ここで一旦お別れだ」
言うと、つくみ先輩は三階への階段を昇って行った。
上弦さんはちらりと僕の方を振り返り、そのまま真っ直ぐ走りだす。
僕は倣うように、一階への階段を降りて行った。
二十八の段差を駆け下り、一年の教室が並ぶ通路をひた走る。
後方から、たたたと走る足音が聞こえてくる。振り返ると、暗がりでよく見えないが、そのシルエットの身長と体格、走り方から、間違いなく――――都度中先輩だった。
「…………げっ」
一番厄介な人だ。一番手強い人だ。というか、先輩が助けに来てくれるまでこの人から逃げ来るなんて、僕には不可能じゃないか?
……でもだからって、ここで簡単に諦めたら、またつくみ先輩にぶたれるし。
まあ、できる限りは抵抗しておこう―――そう思い、僕は一年四組の教室に入った。
入るや否や、僕は一目散に窓の方へ走り寄り、一枚がらがらと開け放した。そしてそのまま急いで掃除用具入れに向かい、その中に入り込み、内側から扉を閉める。
数秒の間をおいて、都度中先輩が教室に駆けこむ音がした。そして、一つだけ開いている窓を見つけたのだろう、
「……ちっ、外へ逃げたのか」
と、ぼやく声が聞こえた。トストストスと、僕の前を通り過ぎ、窓の方へ歩み行く足音が響く。
――窓から外へ降り立ち、外へ走り去って行く音が聞こえたら――いや、とりあえず、その後一分くらい待ってから――この用具入れを出て、校舎の中へ戻ろう。そしてどこかの教室の教卓の中にでも隠れていよう。
そう思いながら、少しずつ離れて行く都度中先輩の足音を注意深く聞いていた。
早く行ってくれ―――と、心臓をばくばく言わせながら息をひそめていると、
――ちくっ
「――…………っっっ!」
左手の小指に鋭い痛み。
思わず声をあげそうになった。
用具入れの中で飛び上がりそうになった。
しかしそれを何とか我慢。
何だったんだと左手を静かに動かすと――――ホウキの藁の感触と、紙切れのようなものの触感。……どうやら、ホウキに引っ掛かった紙きれの角が、指に刺さったようだ。
――な、なんて鬱陶しい。
静かに息を吐き、再度用具入れの外に聞き耳を立てる――――しかし、足音はもう聞こえなかった。
……都度中先輩は、もう外へ出て行ったんだろうか?
さらに数秒黙っていたが何も音はせず、ようやく心の中に安堵感が沸き上がってきた、その時だった。
――ばたん
いきなり用具入れの扉が開き、僕はそのまま前へ転がり落ちる。
「う…………い、いてて」
腕を強打し、さすりながら顔を上げると、すらっとした長い脚。眼前に、都度中先輩が立っていた。
「あ、…………ばれ、ましたか」
「まったく、小賢しい真似をしてくれる」
都度中先輩は呆れたように言ってくる。
「さあ、茶番は終わりだ。素直に元の世界へ帰れ、一年坊」
「い、いや、そう言われましても……」
「……ふん、どうせお前も、加賀野に言われて無理矢理連れまわされているだけだろう? 実際、〈ワールド・マテリアル〉に興味などさほどないクチだろう? お前の態度を見てれば容易にわかる。……加賀野には、お前は精一杯俺に抵抗していたと伝えておいてやるから、おとなしく家に帰れ」
「あ…………」
僕はここでようやく気がついた。
――そ、そうだ。確かに、僕はこんな活動に興味なんてなかったんだ。迷惑でしかなかったんだ。喫茶店の恩赦のため、渋々参加してただけなんだ。時間の無駄でしかなったんだ。どうせならさっさと家に帰って、テレビでも見ながらゴロゴロしたかったんだ。今すぐ帰りたかったんだ。
都度中先輩が、つくみ先輩にちゃんと「朝風崇は一生懸命戦っていた」と説明してくれれるなら――そしてつくみ先輩が「それならしょうがない」と納得してくれるなら――僕はわざわざこんな一生懸命に逃げ惑う必要なんてなかったんだ。空間移動の際にちょっと気持ち悪くなるだけで、あとの時間は僕の自由になるんだ。
僕には何にデメリットもないじゃないか……。
なんだ、こんな簡単なことに気付かないなんて……。
「……え、えと、それじゃあ…………お、お願いします。……つくみ先輩には、ちゃんと説明してくださいね?」
「ああ、承ったよ」
安心したように言って、都度中先輩は青白く光った草刈りがまを振り上げた。
斬られる――――ということに少々恐怖感はあるけれど、しかし相手は風紀委員長だ。全校生徒五百人の風紀を正す最上位の人間だ。目つきが鋭くて見た目が少し怖くても、信頼して大丈夫な人だろう。
僕は床に座り込み、目をつぶった――――と、
「……おい、何を握ってるんだ?」
鎌を振り上げたままの都度中先輩が、急に僕に聞いてきた。
――握ってる?
言われて、僕は初めて自分が無意識に左手で『何か』を握っていることに思い至った。
掌を開くと、ぱさりと紙切れが床に落ちる――――ああ、さっきの、ホウキに引っ掛かってた奴だ。
何の変哲もない、メモ用紙くらいの大きさにちぎられた白い紙。そこには表みたいなものが書かれていた。上の方に『一年四組』と、大きめの文字で記されている――――これは出席簿か何かの端切れだろうか。……そりゃあ、ここは一年四組の教室だし、一年四組の名簿があっても不思議ではないが。
表の中にはごちゃごちゃと名前みたいなものが書かれていた。しかしよく見えない。暗がりの中だし、おまけに知らない名前ばかりだ。
――が、その中で一ヶ所、目に留まった行があった。聴覚で言うところの、いわゆる『パーティー効果』という奴だろうか。騒々しいパーティー会場の中でも、自分の名前だけは毎日よく聞いてる分、聞き分けやすいというアレだ。
そう。その表の中に、僕が最近毎日のように呼んでいる――――そして聞いている名前が載っていたのだ。その名前だけは、比較的よく見分けることができた。
紙きれの中段辺り――
――『加賀野つくみ』と書いてあった。