第三話「The conflict」--その八
カップにまだ三分の二程コーヒーを残していた僕は、店内があまり混んでいないのを確認し、ここでもうしばらくゆっくりしていくことにした。
ガラス越しに店外の道を見ると、帰宅する同校生がちらほらと見受けられる。数人集まってとことこ歩いていたり、あるいは自転車にまたがって颯爽と通り過ぎて行ったり。彼ら彼女らは特にテニスのラケットだったりスパイク入れだったりは抱えていなかったので、恐らく帰宅部の面々なのだろう。まだ放課になってから四、五十分くらいだ。部活に入っている人は、あと一時間強は学校に残るはずだ。
そんな人間観察をしていると、ふと、見覚えのある男子が目にとまった。
ワックスで固めた短髪。きつめの目線。襟もズボンも何一つ乱れない服装。そしていかにも厳格そうな表情をした人――――都度中先輩だ。カバンを肩越しに背中の方へ引っかけ、すたすたと歩いている。風紀を守る立場上なのか、もしくは元々そんな癖が無いのか、他の生徒のようにポケットに手をつっこんだりもしていなかった。
――先輩の情報通り、ちょうど風紀委員の会議が終わったところなのだろうか。
さも監視するかのようにその様を見ていると、その横を黒い車が通り過ぎて行った。車体はぴかぴかに輝いており、窓ガラスにはスモークがかかった、いかにも高級そうな車だった――――まあ間違いなく、月ノ宮先輩の送迎用のものだろう。
さすがにあの車が校内に停めてあるところなど見たことはないし、学校の近くに駐車場でも借りてたりするんだろうか? ……いや、いっそ駐車場を買っていたって驚きはしないけど。
二人が見えなくなってからさらに十分くらい間を置いたくらいで、ようやく僕は席を立った。レジで店員さんにすでに会計は済ませてある旨を伝えて、外に出る。
西の空はだいぶ赤らんでいた。間もなく日が沈んでしまうだろう。景色もだいぶ暗んでいる。
そう言えば――――と、僕はここで思い至った。
この路地は学校の正門から数百メートル離れた場所。校門を出て壁沿いに進み、一回左に曲がった場所。そうだ――――ここは確か、僕が初めてつくみ先輩に〈反位相の世界〉へと連れて行かれ(蹴り入れられ)た場所だ。
それ即ち、この景色はそのまま、〈向こうの世界〉で初めて見た景色でもあるということ。今でも一応覚えている。だいぶ困惑した出来事ではあったから。あの瞬間の視界は、それなりに鮮明に記憶に保存されている。学校の塀。電柱。アスファルトの道。排水溝。向かいの三階建てマンション。そうそして、その隣の水色の家――
――ん?
ここで少し、僕は引っ掛かりを覚えた。
いや、確かに建物の並びはまったく同じだ。しかしちょっとだけ、何かが違うような……?
うーんと首をひねりながら思い返したが、何がどう違うのかまでは思い至れない。別に何かが変だという印象もないし、蹴りいれられたあの時も、特に何かが変だという感想を抱いた覚えもない。あれは夜のことだったし、そこまで風景がはっきり見えてたわけでもなかったというのもあるだろうけど……。
……まあ、いいか。今度機会があったら、あっちの世界で確認すればいい――――と問題を先送りにしつつ、カバンを肩にかけ、駅の方角へと左向け左をしたところで――
「――ぅお…………と」
通行人にぶつかりそうになった。そういえばついこないだもこんなことなかったっけと思いつつ、ぶつかりそうになったその人を見ると、うちの高校の女子制服。そしてボブカットに長い前髪。デジャブもデジャブだった。彼女は、あの時校庭のトイレでぶつかりそうになった人と同一人物――――鳴海さん。
――そうだ、そうだった。うっかりしてた。この人のことを忘れていた。この人も風紀委員なら、そりゃこの時間まで残っているだろうし。後輩なんだから、部屋の片づけとかであの二人よりちょっと遅れて帰る可能性だって十分あったんだ。都度中先輩と月ノ宮先輩を見送っただけで安心しきっていた……。
鳴海さんは、僕を見つけた驚きが五割、そして何で僕がここにいるのかという疑惑が五割くらいの表情で僕を見ていた。
しかし咄嗟に何と言ったらいいのか判断できず、僕は、
「……な、鳴海さん。そんな前髪伸ばして、しかもいつも俯いて歩くから、人にぶつかりやすいんだよ。……もう少し顔を上げるなり、前髪を切るなりしてみたら?」
と、明らかにお節介というか、いかにも高慢な注意をしてしまった。特に社交的でもない僕に、そんなことを言う資格なんてあるわけもないのに。
気分を害したのか、もしくは単にいつも通りに無視しただけなのか、案の定、鳴海さんはぷいっと僕から視線を外すと、僕の横を通り過ぎようとしていった。
まあ、そりゃそうだよな――――と思ったけれど、しかしそのうなだれたような背中を見て、思わず聞いてしまった。
「…………この前、何で泣いてたの?」
ぴた、と鳴海さんは脚を止めた。しかし止めただけで、顔を上げず、こちらを向かず、声も発しない。ただ戸惑ったかのように、そこに立ち尽くした。
そんな彼女に、僕は畳みかけるように、もう一つ聞いた。
「…………御両親、失踪したって、ほんと?」
言った瞬間、ぐるりと鳴海さんが振り返った。前髪が揺れ、その右目がのぞく。その視線は、まるで睨むように僕に突き刺さっていた。
「――あ、あなた、何でそれを、ど、どこから……」
これが、僕が初めて鳴海さんの日本語を聞いた瞬間だった。ただの会話なのに、透き通るような声だった。しゃべり慣れてないせいか、少しイントネーションがおぼついていないような気がした。
「――……そうか、そうね。しづちゃんから聞いたのね。確か今、あなた達のチームにいるって聞いたし」
鳴海さんは俯き、一人で納得するように呟いた。
「……けど、いくらそれを知ったからって、臆面もなく本人にその真偽を直接聞くなんて、失礼よ。失礼にも程があるわ。あなた……人として最低よ」
――初めての会話で、最低呼ばわりされてしまった……。
いやまあ、僕にだってその辺の自覚はあるにはあるのだ。しかし、学外で鳴海さんと鉢合わせる機会なんて滅多にない僕には、こういう時にしか聞けない質問なのだ。クラスメイトとして、あるいは敵として、なるべく知っておきたいことだ。だから、
「……ねえ、君がしゃべらないのって、その両親の失踪ってのが、原因なの?」
と、勢いに任せて、続けて聞いた。
ある意味予想通り、鳴海さんはきっと顔を上げ、僕を睨んできた。そして、
「あなたには、関係、ないでしょ」
と、低い声で言ってきた。
そりゃそうだ――――とも思ったけど、ここで潔く引くのも人として何だか違うような気がしてしまって、僕は言葉を続けた。
「でも、だからって、どれだけショックだからって、それで『一言もしゃべらない』っていう選択をするのは、その、ち、違うんじゃないか? だって、そりゃ、何の解決にもならないわけだし――」
「…………知ったようなこと、言わないで」
唸るような声で言う鳴海さん。そこには明らかに、僕に対する敵意が含まれていた。
「…………別に私はショックだからとか、心が折れたからとか、そんな理由でしゃべらないわけじゃないのよ」
「じゃあ、何でしゃべらないの?」
「単に私には――」
ここで一瞬、躊躇うように、鳴海さんは唾を飲み込み、
「――私には、『しゃべる資格が無い』から、しゃべらないだけよ」
「……へ? 資格が…………ない?」
復唱してみたが、僕はいまいち要領を得なかった。
「……資格? しゃべるのに、資格が必要? ……何それ?」
「……違う」
鳴海さんは溜息のような声で答えた。
「私にはそもそも、もはや…………生きる資格すら、ない。ないのよ。自分の意志をもって、生きる資格がない。だから当然、話す資格が無い。自分の思考を、思想を語る資格がない。他人に表現する資格が無い。あるわけない。だから私は、言葉を発しない。……それだけよ。わかった?」
「はぁ? …………いや、わ、わかるはわかったけど、やっぱり……わからないよ」
僕の頭は余計にこんがらがった。この鳴海さん、話すのが久しぶりなせいで日本語すらあやふやになってしまったのかとさえ思った。
「…………鳴海さんに、生きる資格が無い? ……って、そんなわけないだろう。別に、人を殺したわけでもないだろうに――」
「――『殺した』のよ!」
びっくりした。鳴海さんが突然、声を張り上げたことに。斬りつけるような声で怒鳴られたことに。公道のど真ん中で思い切り恫喝されたことに。そして――――その言葉自体に。
首筋につーと汗が垂れた。すうっと、背中が冷たくなった。
――『殺した』? この鳴海さんが? 人を?
――いやいやいや。何の冗談だ、それ?
「…………はは」
僕は思わず、笑ってしまった。笑うしかなかった。
「君が人を殺した……って? な、何それ? ……どういうジョーク?」
「…………冗談なんか言ってない」
鳴海さんはぷいと、僕に背中を向けた。
「これは事実よ。私だって信じたくない、夢にしてしまいたい事実。私は、私の両親を『見殺しにした』。見殺しにしている。見殺しにし続けている! そしてあまつさえ――」
鳴海さんの口元から、ぎりっという音が聞こえた。頭越しで見えないが、唇を強く噛んでるんじゃないか、と思った。血が出るんじゃないかと思うような、痛そうな音だった。
「……言っとくけど、朝風君、あの先輩に付いて回っている以上、あなただっていつ『こっち側』に来るかしれないのよ。だいぶ危険な橋を渡っているっていうのに……。こんなところで、私に構ってる余裕なんてないんじゃないの?」
吐き捨てるように、あるいは捨て台詞のように言って、鳴海さんは去って行った。足早に。僕から逃げるかのように。
僕は夕焼けに照らされながら、呆けて立ち尽くすだけだった。
立ったまま、今の鳴海さんの言葉を脳内でリピートしていた。
しかし、音声が流れるだけで、そこから何の思考もできなかった。
何も考えられなかった。
考えようとしても、頭が働かなかった。
考える前に、信じることができなかった――――できていなかった。
そして少し時間が立った頃合いで、ようやく僕ははっと我に返った。すれ違う通行人が、いぶかしむように僕を見てくる。僕は大通りで、明らかに一人浮いていた。
――……さっさと、帰ろう。
腕時計を見ると、喫茶店を出てから三十分が立っている。即ち、つくみ先輩が決闘に向かってから約一時間が経過したということだ。
――そういやあの勝負、もう決着はついたんだろうか?
――果たしてどっちが勝ったのだろうか?
とりあえず疑問には思ってみたけれど、その結果には特に興味はなかった。勝ったら辺乃先輩の木刀がこちらのものになって、負けたら上弦さんが向こうのチームに帰るだけだ。僕自身にとっては何の影響もない。何かが悪い方に転がるわけでも、そして良い方に転がるわけでもないのだ。
僕だけは変わらず、来週も再来週も、つくみ先輩に連れられて〈ワールド・マテリアル〉探しをする日々が続くのだ。
しばらく続くのだ。
僕はそう思っていた。
しかし結果からみれば、それは浅はかな予見であり、明らかな間違いであった。そう――
――ついに、あるいはようやく、天神岬高校を舞台にした〈ワールド・マテリアル〉に関するこの『事件』は、この三日後にクライマックスを迎えることになるのである。