第三話「The conflict」--その六
「……朝風君、今日は、君に伏して詫びをしなければならないことがある」
帰り支度を万全に終え、今日は本屋によってマンガの最新刊を買ってそれを電車で読みつつのんびり帰路につこうと考えていた放課後、我が二年三組の教室にいつもの我が物顔で乱入してきたつくみ先輩は、こちらがびっくりするほどの真面目くさった神妙な面持ちを作って、僕の前に立ちはだかった。
あんたが僕に伏してお詫びするべきことは、昨日も一昨日もあったでしょうが! ――――というツッコミが喉まで出かかってはいたけれど、それをぐっと飲み込み、
「……え? な、何です?」
と、恐らくこれが先輩の期待通りだろう疑問を返した。……こうやって先輩を甘やかした応対ばかりしてるから先輩が付け上がるんじゃないかとも思ったけれど、変にややこしい返事をして話がこじれたら、結局僕がややこしい目に合うのである。自分の身を守るという点では、これが正しい判断になってしまうのだ――――いわゆる『どつぼにはまる』という状態とはまさにこのことかと、齢十七にして僕は一つ達観した。
先輩は顔の前でぱんと両の掌を合わせ、
「実は、今日の〈ワールド・マテリアル〉探しなんだが、あたしに急な用事が入ってだな、行けなくなったのだ!」
「…………はあ」
僕は、まるでしゃっくりでもするかのような短絡かつ無機質無気力な返事をした。
なにせ、言うまでもなく、僕は今日〈ワールド・マテリアル〉探しに赴く予定だったなんて話は一切聞いていなかったのだ。つくみ先輩に急な用事が入ったこと以前に、僕はそこに驚きだった。多分先輩は、放課のベルが鳴った瞬間にこの教室になだれ込み、僕を〈あっちの世界〉に連行する気満々だったのだろう。
僕は目の前で合掌している先輩をぽかんと、あるいは唖然と眺めてしまったが、まあともかく、今日の僕の放課後が晴れてフリーになったことには変わりないようだ。内心釈然としないながらも、
「……はあ、そうですか」
と短く答えた。
それを聞くや、先輩はがばっと顔を上げて、
「いや、本当に悪い。こんなことで君の期待を裏切ることになろうとは、心苦しい限りだ。君も今日の探索を楽しみにし過ぎて、昨夜ろくに眠れなかっただろうに。ほれ、君の目の下に漆黒色のクマができてるのが見える」
――昨夜、僕は八時間熟睡しました。
「しかしだな、間の悪いことに、あの変な男が急きょ、決闘を申し込んできたのだ。このあたしに。上弦君を返せ、とな。……ふん、あんな奴と戦ったところで、あたしには到底何のメリットもない。時間の無駄でしかない。当然の如くあたしは突っぱねたのだがな。しかし、どうやらあいつもあいつで覚悟を決めたようだ。なんと、今回の決闘にあいつの木刀を賭けると言ってきたのだ」
「……木刀って、あの、〈反位相の世界〉に入るのに使っているっていう、あれですか?」
「そうだ。あれがなければ、あいつにとって〈ワールド・マテリアル〉探しは困難というか、もはや不可能に近いからな。あいつからそれを奪えるというのも大きいし、何より、あれがあれば君や上弦君も自由に〈あっちの世界〉に出入りできるようになるわけだからな。我がチームにとっていいことづくめだ。だから、チームの今後のことを考え、あたしは奴の決闘を飲んでやることにしたのだ」
「……そうだったんですか」
まあ一応、成り行きに関しては理解した。ただ、決闘について語る先輩の顔が、まるで給食がカレーの日の小学生のような、わくわくを噛み殺したような、噛み殺し切れていないような表情に見えて、本当に渋々申し込みを受理したのかは疑問の余地はあるけれど。
しかしまあ、僕の自由時間が増えることに何ら不満はないし、さらに言うなら、教室の出入口で立ち話している僕とつくみ先輩を何事かとじろじろ見てくるクラスメイトの視線もそろそろ痛くなってきたので、僕はびしっと敬礼をしながら、
「わかりました! では、先輩、頑張ってきてください!」
「うむ! わかった!」
先輩は腰に手を当て、大仰に頷いた。
僕はその笑顔に笑顔で返しながら、ぼそりと、
「(…………できれば、決闘が数日長引けばいいんですがね)」
「んん? 何か言ったか?」
「いえ、何も!」
僕は笑みと共に首を横に振った。そして、
「では、ご武運を祈ってます!」
と、ここまで本音と建前が食い違ったのは生来初めてなくらいの心にもない送辞を述べて、僕はつくみ先輩を見送ったのだった。
さて、今までの数カ月の先輩との付き合いの中で、先輩に確固たる用事があり、僕に干渉してくることが不可能だと明確になっている時間と言うのは、実は初めてなのかもしれなかった。
学校にいる時は先輩がいきなり僕の教室に飛び込んでくるんじゃないかという不安が心の奥底で常にくすぶっていたし(実際、一日に平均三、四回は乱入してきている。休憩時間のほぼ五十パーセントだ)、家にいる時だっていつ先輩からの着信があるか気が気ではなかった。言ってしまえば、四六時中先輩に監視されているような状況だったのだ。
しかし、今日は違う。
つくみ先輩はこれから一人で〈反位相の世界〉に赴き、辺乃先輩と決闘を行うのだ。あっちから僕に直接干渉することは物理的に不可能なわけだし、メールや電話をかけることだって無理なのである。
期末試験終了直後のような実に晴れ晴れとした気持ちで、僕は心から浮かれていた。心の底からウキウキしていた。今にもスキップし出しそうなほど体が軽かった。今なら百メートル走で世界新でも出せるんじゃないかと思うような身軽っぷりだった。
だから、油断していた。
先輩が用事を終える前にさっさと学校から離れればよかったものを、十分くらいなら大丈夫だろうと、僕は学校の裏手にあるコンビニに寄り道をしてしまったのだ。マンガ雑誌を立ち読みするために。
楽しみにしている連載作品が先週いいところで終わっていたので、さっさと続きを読みたくなって、僕はそんな愚行を催してしまったのである。同校生が数人いる中、僕は雑誌を手に取り、ぱらぱらと目当てのマンガ、ついでに他の五、六作品を立ち読みし、帰りがけに飲み物を買って、コンビニを出た。要した時間はたかだか十五分程度。
僕はこのまま駅前の繁華街に行って買い食いでもしようと、すたすたと軽い足取りで歩きだしたのだが――――二十三歩目で、僕の脚はぴたっと止まった。
止まることになってしまった。
止まったはいいが、どうしたらいいのかわからなくなった。とりあえず混乱した。困惑した。なにせ、
「よう、朝風君」
と、今しがた出掛けたはずのつくみ先輩がまだそこにいたからだ。
先輩は道のど真ん中で、にっこり笑いながら僕にふるふると手を振っていた。
「え、け…………決闘は?」
僕は思わず咄嗟に聞いてしまった。
先輩は眉をひそめ、小首を傾げて、
「ふん? ……血統? 別に、あたしの両親はごくごく一般的な一般人だぞ。父親は会社員、母親は専業主婦だ。特に、遠縁に名家の人間がいるとかいう話も聞いたことはないし、そんな特殊な血筋ではないはずだが――」
「いや、そんなボケはいいですから…………先輩、今日これから、辺乃先輩と勝負する予定なんでしょう? なのに、なんでこんなところにいるんですか?」
「ああ、いや、それがな…………ちょっと時間がずれてな」
つくみ先輩はショートヘアーの後ろ髪をぽりぽり掻きながら答えた。
「辺乃の奴、用事を思い出したとか言って、一時間ずらせと言ってきたのだ。おかげであたしは待ちぼうけをくらっているわけさ。ふん、何とも身勝手な奴だ」
――つくみ先輩が他人を身勝手呼ばわりすることには、この上なく違和感を覚えますが。
「それでまあ、どうやって時間を潰そうかと考えていたところだ。…………どうだ、その辺の喫茶店に入ってお茶でもするか?」
「…………言っときますが、もうおごりませんよ?」
「何を言っておる。後輩に奢らせるほど見失ったあたしではないぞ」
どの口が言うんだ――――と呟きつつ、まあ一時間くらいなら良心的な所要時間だろうと思って、僕は先輩の後について喫茶店に入っていった。