第三話「The conflict」――その二
つい数週間前までは、つくみ先輩についておぼろげかつあやふやな噂しか聞いていなかった僕だけれど(そもそも、駅前の喫茶店に連行される以前の僕は、色んな意味で逸脱した先輩が本高校の第三学年に在学しているという話くらいしか耳にしていなかったのである)、このところの付き合いのおかげで――というか、せいで――つくみ先輩の具体的な『優秀さ加減』というのがだいぶ飲み込めてきた気がする。
まあ、先輩がいわゆる一般的と称される比較基準からすれば、ほとんどすべての分野において上位位置に収まっているのも否定しようもない事実だが――――しかしだからと言って、先輩も先輩で別に『完璧』というわけでもないのだ。
ようは、初期のパラメーターが秀逸なだけで、その後の鍛錬をストイックに積むような人間ではないということ。飽きっぽく冷めやすい才人、とでも言おうか。勉学のような日々精進を外部から強いられ続けるようなことならともかく、それ以外ならば、例えば僕のような中庸を絵に描いたよな凡人にだって、先輩に勝てる見込みもあるというのが僕の読みである。
いい例が、そう――――体育祭の数日前、先輩に連れられてバッティングセンターに行った時のこと。
「『奴』との決戦の前に、君の身体能力を確かめておきたい」
という先輩の指示の元、僕はバットを渡され、打席に立たされたのである。小学生の頃には地域の少年野球団に属していた僕だったけれど、バットを握るのは実に三年ぶり。百二十キロの球を果たしてちゃんと捉えることができるのか少々不安だったが――――まあ、結果はそこそこ。三割くらいはヒット性の辺りを返すことができた。
その後「まだだ」「まだ足りん」「さらにもう一ゲーム」という野次のような指示が飛び、最終的に僕は五ゲームも立て続けに打たされ、へとへとになりながらもようやくベンチへと戻った。そして、
「ふむ、まあまあ、というところか」
と、褒めるでも貶すでもない感想を述べた先輩が、僕の打撃に何かしら感化されたのかおもむろに立ち上がって、
「……どれ、あたしもやってみるか」
とコインを握りしめたのだった。
僕は額の汗をぬぐいつつ、立ち上がった先輩を見上げ、
「……先輩、野球やったことあるんですか?」
「ふん、まあ、体育のソフトボールくらいだがな。…………なに、君のスイングを見ていて、要所はそれなりに理解できたさ」
そう言って先輩はドアをくぐり、颯爽と打席に立ったのである。
そしてコインを機械に投入し、投球マシーンを睨みつけながらすっと構えた先輩の打撃フォーム――――それはびっくりするほどの自然体だった。どこにもここにも余計な力が入っている様子はなく、どっしりしつつも滑らかで、スムーズなスイングがこれから繰り出されることは確信を持って予期できるような、よくテレビ画面越しに見ているような、完璧にほど近いものだったのである。経験者から言わせれば、まだ脚の重心の置き方が多少ずれてる気もしたが、それでも初心者というのがにわかには信じがたいような、さっきの発言は嘘だったのかと思ってしまいそうな、実に完成度の高い構えだった。
そしてマシーンからばしんと繰り出された初球、先輩はぶんとバットを一振りし――――結果はファールだった。
バットにはかすったものの、カチンという音と共にボールは真後ろに飛んだ。
「……ふむ」
先輩は一人ごち頷くと構えなおし、二球目をスイング――――今度は詰まり気味のファール。先輩のすぐ左脇のネットにボールは突き刺さった。
そして三球、四球と空振りすることなく連打し続け、そして八球目あたりから前に飛ぶようになり、十五球目くらいからはライナー性のものが飛んで行くようになった。
全二十球を終え、結果としてヒットは四球くらい。打率で言えば二割といったところだろうか。
「ふーむ、大体わかってきたな」
先輩は打席から出てきて、僕の隣にどかりと座った。
「……もう打たないんですか?」
「うむ、いかんせん、今日はギャラリーが少ない」
先輩は不満そうな表情で、僕ら以外ほとんど客のいないバッティングセンターをぐるりと見回した。
「初心者同然のあたしがヒットを量産しだしたんだからな。もう少し拍手喝さい、ちやほやされてもいいと思うんだ」
「…………自分で言いますか」
「ここはまったくもって、あたしが本領を発揮するに値しないな。せめて、時たまスカウトが偵察に来るような場所でなければ」
「……先輩は将来何になるつもりなんですか?」
僕は嘆息した。
正直に言えば、初心者たる先輩が僕とあまり変わらない結果を残したことに内心穏やかではなかったけれど、しかしそれでもまだ僕の方が打率はよかったという点で、僕は少しばかり安心もしていた。
先輩が真面目に練習すればともかく、現時点ではまだ僕の方がうまいということ。
つまり、僕の得意分野に持ち込めるなら、いつも迷惑を被っているこの先輩にもひと泡ふかせることが可能なんじゃないか? 先輩の渋面というのを拝むことができるんじゃないか? と、僕は心ひそかに目論んでいたのである。
そこに、このボウリング大会である。
先輩が僕と上弦さんを連れ立ったのは、高校最寄駅近くのアミューズメントセンターに併設された、割と繁盛しているボウリング場だった。
うちの高校の生徒がボウリングをすると言えば、大体場所はここになる。恐らく今日だって、同校生が数グループは来ているだろう。知り合いに会う確率だって低くはないはずだ。
僕も、ここに来た回数はだいぶ多い。実は、母方の従兄――僕より二つ年上だが――が数年来ボウリングに熱中しており、僕もよくそれに付き合わされているのである。回数やってればそりゃ自然と上手くなるものであり、ここ最近の僕のアベレージスコアは二百ちょっと。少なくとも同級生と連れ立って来た際は、二位以下になった記憶はまったくない。当の従兄に時々負けるくらいである。
だから、今日の僕は少しばかり上機嫌だった。
映画のチケットをふいにしたのは至極心苦しいことではあったが、そこから何とか気持ちを切り替えられる程度には楽しな瞬間が待っているのである。今日この場を持って、僕はいつも僕に偉そうに講釈をたれるこのつくみ先輩に対して、明快で明確な確固たる勝者となれるのだ。
ゲームが始まる前、僕は何なら罰ゲームの提案でもしてみようかと思った。どうせなら、今まで僕が先輩から被ってきた数多の迷惑による鬱憤をここで一気にきれいにさっぱりと晴らしてしまいたい。何かで清算したい。そう、例えば一週間僕に敬語を使ってもらうとか、あるいは今日のゲーム代を奢りにするとか。
その様を思い浮かべるだけで気分が高揚してくるが…………しかしまあ、今回はやめておいた。賢い先輩のこと。もしかしたらこれを提案するだけで僕の心底を読まれてしまう恐れもある。警戒されてしまう懸念がある。
とりあえず今日の所は、先輩の驚愕の表情を拝ませてもらうだけで溜飲を下げよう。そう思って三人でゲームに臨んだのだが……。
――三十分後。
「……う~~~む、今日は調子が悪い。折角部下にいいところを見せる機会だったというのに。不服であることこの上ないな」
先輩は額を拭いつつ、ピンが空っぽになったレーンを睥睨しながら呟いた。
「…………私からすると、とてもそうは見えないのですが」
「ふん、今のはピンがバウンドしたおかげで運よくストライクになったにすぎん。もうちょい右を狙ったんだが」
テーブルに頬杖をついて不承不承徒言ってくる上弦さんに、先輩はあっけらかんと答えた。
「ほれ、次は上弦君の番だ」
「わかってますよ。……とはいえ、もう勝負はついてる気がしますが」
「はっは。言っただろう。これはレクレーションだ。楽しめればいいのだよ。ほれ、楽しく投球してくるがいい」
「…………はいはい」
口を尖らせながら上弦さんは立ち上がり、ボールを握り構えると、レーンに向かって勢いよくボールを投げた。
真ん中よりやや左寄り、先頭のピンをかすめるようにボールは転がり、結果八ピン。続く二球目で残った右側の二つを倒し、難なくスペアだった。
「……これでも、結構ベストスコアに近いんですがね」
上弦さんはピンを並べ直しているレーンを眺めながら呟いた。
「……しかし、先輩の〈二百五十三〉というスコアを見ると、何か全部がどうでもよくなります」
「ははは、とは言え、君の〈二百三十一〉というのも悪くないだろう。高一でこの成績なら、将来プロも夢ではない」
「……私はなる気はないんですがね」
上弦さんはとぼとぼと席に戻ってきた。そして足元に転がる空き缶でも見る様な目でちらりと僕の方を見やってきて、
「ほら、次は朝風先輩ですよ」
「…………これ、僕がやる意味あるのかい?」
「いいからさっさと投げてください。次が来ないですから」
「……モニター操作してとばせば?」
「面倒ですから」
「…………わかったよ」
僕はよろりと立ち上がりモニターを見た。僕の現在の成績は、九頭目で百九十九。僕だって決して悪くない成績のはず。自己ベストのトップファイブには入るくらいのスコアなのに……。
――思えばこのゲーム、一投目からすでに雲行きが怪しかった。
最初にじゃんけんで順番を決め、つくみ先輩が一番、上弦さんが二番、僕が最後となった。僕はこの初球からストライクをとり、二人の度肝をぬいてやろうと目論んでいたのだが、意外にも先輩も上弦さんもいきなりストライクから始まったのである。
……いやまあ、初心者だってたまにはストライクもとれるものだし、それが一番最初に来てもおかしくない。ビギナーズラックというのもある。確率としてありえなくもない。これも想定内ではあったのだが――――しかしなぜか二人とも、『STRIK!』と点滅しているモニターを見ても大して喜ばないのである。
いくら冷めた性格の人だって、いきなりピンが全部倒れれば気持ちのいいものだろう。笑顔の一つくらいみせるものだろう。……しかし二人は、レーンを見て頷くだけで、無表情でテーブルに帰ってきたのである。おまけに僕の番、手元が狂い一頭目七ピン、二頭目でスペアにしたのに、なぜか二人から帰ってくる言葉は
「うむ、まあ、ドンマイ」
「ドンマイです」
という、労いだった。
そして僕が呆然としている中、二球目、三球目、四球目と、二人ともすべてストライクをとりやがったのである。
――…………な、何で?
この疑問を、二人に恐る恐る聞いてみたところ、
つくみ先輩「あたしだって、ボウリングくらい十回程度はやったことがある」
上弦さん「母がプロボウラーなんです」
と…………。僕の気分は一気に地に落ちた。
いや、一応僕なりに精一杯頑張ってはいるのだが、投球を重ねるごとに差は広がるばかり。明らかにレベルが違った。僕からしてもレベルが違った。結局八投目の時点で僕の最下位は確定していた。
「ふむ。結局あたしのスコアは二百八十二、か。一応自己ベストタイなんだが。ふん、どうもこの壁はなかなか超えられんな。悔しいことこの上ない」
「……加賀野先輩こそさっさとプロになればいいんじゃないですか?」
全投球終了したスコアを眺め、つくみ先輩と上弦さんは何だか雲の上みたいな会話を繰り広げている。僕にはもはやついていけない……。
ふと見ると、両隣の団体(家族四人連れと年配女性の団体)がウチのモニターを見て目を丸くしていた。……まあ、こんなスコアが二つ並んでれば、誰だって驚くだろう。おまけにそれが年端もいかない小娘二人の戦績なんだから、なおさらだ。
――というか、こう並べられると、僕の成績が何だか恥ずかしくなってくる。明らかに頭一つ低い。僕だって、普段なら驚かれる立場なのに……。
わざわざ休日を潰し、映画のチケットをふいにしてまで僕は一体何をやってるんだろう――――と、自己嫌悪に浸っていると、つくみ先輩がすくっと立ち上がり、僕と上弦さんを見降ろしながら言ってきた。
「さて、『罰ゲーム』はどうする?」
「…………は、は? はぁぁぁあああ?」
今度は、僕が立ちあがった。
「……え? え? せ、先輩、今、なんて?」
「だから罰ゲームだよ。君の」
「いやいやいやいやいや!」
僕はでんでん太鼓にように首を振る。
「聞いてない、聞いてないですよ! そんな! 罰ゲームなんて!」
「ふむ? いや、言ってなかっただけで、そりゃ当然あるだろう」
「いやいや、当然って、なんすか! 終わった後に言うなんて、不公平じゃないですか! ひどいじゃないですか!」
「そうか? 別に最初に言っていたとしても、先輩命令でこのルールは絶対に導入していたわけだし、結果はかわらんだろう?」
……む、いや、それは確かにそうかもしれないけど。
「まあ、安心しろ。これから近くのファミレスで昼食の予定だったんだが、そこで我々二人分の代金を払うだけで免じてやる」
免じてやる、って、それも十分ひど――
「――ちょっと待ったぁぁぁぁぁぁああああ!」
突然場内に叫び声が響き渡った。
迷惑な人がいたもんだ、と最初は思ったが、この声に何となく聞き覚えがあるような気がした。
三つ隣のレーンからずんずんこっちに近づいてくる人影を見ると、それは確かに見覚えのある男子高生だった。その風体を見て、つくみ先輩と僕と上弦さんは――
「――む、変な禅十郎」
「――あ、変な先輩」
「――……変なリーダー」
「うおいっ!」
長髪を後ろで一本縛りした長身の先輩は、だんだんと地面を蹴った。
「またか、お前らっ! いい加減俺の名前を覚えろ! ――――ってか、何で上弦君までそれを言うんだ! ついこの前までは、ちゃんと尊敬の念をもって『辺乃リーダー』と、そう呼んでくれていたではな――」
「――というか、辺乃、貴様ここで何をしている?」
辺乃先輩の不満をすべてあっけらかんと無視し、腕組みしたつくみ先輩が問い返した。
「一体全体何の用で貴様はここに来たんだ? 理由如何によっては、あたしは来週の月曜の朝、いつもより早めに登校して、風紀委員長都度中にストーカー被害届を出しに行かねばならん」
「す、ストーカーなどではない!」
まるで突き刺すように、びしっとつくみ先輩に人差し指を向ける辺乃先輩。
「俺のかわいい部下が貴様にいびられていないか、かわいそうな目にあっていないか偵察に来たのだ。貴様らがここに入ったから、俺も仕方なく入店し、ボウリングを行っていただけだ」
「……ふん。だったら終始偵察だけしていればよかったものを……。で、今更しゃしゃり出てきた理由は何だ?」
「あれだ」
辺乃先輩は得意顔で、自身が占有していたレーンのモニターを指さした。そこにはヘンノという名前が入力されており、一ゲーム分の結果が映し出されている。そのスコアは二百十五――
「――俺にも奢られる資格がある!」