第二話『Enemy』――その六
「…………っっ!」
僕はがばりと身を起こした。それと同時に、僕の太ももの上に何かが落ちる。見ると、それは折り畳まれた白いタオルだった。ひんやりと濡れている。
僕の額が湿っぽい。……このタオル、僕のデコに置いてあったのか? ええっと、僕は、看病か何かされていたんだろうか?
見れば、僕の下半身には布団がかかっている。まったく見覚えのない、唐草模様の柄だった。僕の尻の下はベッドだった。
――えっと、ここは、どこだ?
僕は周りを見渡した。やけに薄暗い部屋だった。四方が戸棚に囲まれた教室だ。
「? え? え?」
……あれ? お、おかしくないか? 確か、僕は校庭にいたはずでは……? ? 確か今日は体育祭で、僕は騎馬戦に出て、そこでもみくちゃにされて、〈反位相の世界〉に連れていかれて、そこで気を失って……。あれ? え? も、もしかして……
「…………夢?」
「――ふふふ。違いますよ」
突然、僕の耳元から声がした。
僕は飛び上がった。体勢を崩しベッドから落ちそうになりつつも、その声の発生源を見る。
それはベッドの上で四つん這いの体勢の女子生徒。僕の肩の後ろから顔を覗かせている。艶やかなロングの黒髪に、慎ましやかなルックスを兼ね備えたお嬢様――
「――月ノ宮……先輩」
「ふふ。御気分はいかがですか?」
月ノ宮先輩はベッドの上にちょこんと正座すると、さらなる笑顔で聞いてきた。
「かれこれ四時間も眠ったままでしたからねえ。もう今日は目を覚まさないんじゃないかと思いました」
――四時間?
窓の外を見ると、完全に真っ暗だった。腕時計を見れば、七時半。……そうだ、確か、あの騎馬戦が始まったのは体育祭の最後、三時半くらいだったっけ。
「……じゃあ、やっぱり、今日が体育祭だったのも夢じゃない」
「はい」
「僕が騎馬戦に出たのも夢じゃない」
「はい」
「そのどさくさで、〈反位相の世界〉に連れてかれたのも――」
「夢ではありません」
月ノ宮先輩は首を横に傾けながら答えた。
「会場から突然八人が消えたものですから、都度中会長が慌てて皆を連れ戻しに参られたのですよ。〈向こうの世界〉まで」
――そうか、都度中先輩が僕達を…………今回ばかりは風紀委員に感謝だ。
僕は顔を上げ、
「……あの、つくみ先輩は?」
「ふふ。加賀野さんは、会長が無理矢理家に帰しました。あなたを看病すると言って聞かなかったようですが、それを理由に学校に残られて、また〈ワールド・マテリアル〉探しなぞされてはかないませんからね。ですから、代理で私が付き添いをさせていただいておりました」
「……はあ、そうだったんですか。それは、その…………ありがとうございます」
僕がお辞儀をすると、月ノ宮先輩は「いえいえ」と照れたようにお辞儀を返してきた。
「ふふ。正直、こんな薄暗い密室で男性と二人きりというのは少しばかり危険な気もしたのですが」
わずかに戸惑ったような表情で、ぐるりと室内を見回す月ノ宮先輩。
……いやいや、別に僕は何もしませんし、できないだろうし。……そもそも、お嬢様なら護身術の一つや二つ習ってそうなものだ。何のスポーツもしていない僕じゃ、無理やり迫ったところで返り討ちが関の山だろう。
月ノ宮先輩は僕にすっと視線を戻し、
「しかし、今回のことで〈我々〉は、大変嬉しい情報を手にできました」
「嬉しい、情報? …………って、えと、どんな……?」
「あなたが安全、ということですよ」
薄い笑みで答える月ノ宮先輩。
僕は首を傾け、
「……安全?」
「ええ。片道の位相間移動だけで、あなたは気を失っておられましかたらね。これは、あなたがまったくと言っていいほど〈あちらの世界〉に行き慣れていないという証拠。確固たる、確かな証拠です。この意識喪失が仮病とは微塵も思えませんでしたからね」
「え? ……あ、はあ……」
……うーん、そういう信頼のされ方はどうなんだろう? もしくは、単にナメられているというだけなのだろうか?
果たして「ありがとうございます」と答えるべきなのか「すいません」と答えるべきなのかよくわからず、僕は曖昧な返事と共にぽりぽりと耳の後ろを掻くだけだった。
その様を見てふっと笑う月ノ宮先輩。
――と、ここで、先輩はいきなり笑みを消した。
その突然の変化に、僕は思わずたじろいでしまった。びっくりしたというか、怖かったというか。反射的に上半身をのけぞってしまったのだが、先輩はさらにずいと僕の方に頭を寄せてきた。そして心持低い声で、
「……ときにあなたは、〈あの世界〉がどうして〈ああ〉なのか、疑問に思ったことはありませんか?」
「…………〈ああ〉?」
僕は首を捻り、
「――と、いうと?」
「私の知る限り、少なくともあなたは二回以上、〈あちらの世界〉に行っておりますよね?実際に行ってみて、あなた自身、何か、どこかに違和感を感じませんでしたか?」
「違和感、ですか? ……い、いや、さっぱり」
僕は首を水平に振りながら答える――――正直なところ、二回ともそんな余裕がなかったというのが本音だ。どちらも僕の気持ちをトンと考えてくれていない急な移動だったし……。それにわけのわからないことばかりで、理解できてないことだらけで、一体どこのどの部分を『違和感』と称すればいいのかがわかってない感じだ。
「…………そうですか」
月ノ宮先輩は笑顔は崩さず、しかし少しばかり落胆したような声で言った。
……うーん、今の回答、期待外れだったのだろうか? このお嬢様の期待に応えることができないというのは、何だか男として悔しくなってしまう。
月ノ宮先輩は考え込んでいるように、あるいは落ち込んでいるように、口をつぐみ、顔を伏せてしまった。
この暗い部屋で無言になるという空気に僕はものの三秒で耐えられなくなり、慌てて世間話を継続するかのように、
「……あ、あの、でも、風紀委員てのも、難儀な活動ですねえ?」
「…………え?」
月ノ宮先輩は顔を上げ、きょとんとした目で僕を見てきた。
僕はわたわたと、
「いや、だって、すごく大変そうじゃないですか。ほら、こんな放課の時間まで拘束されるんですから」
「…………ふふ、まあ、そうですねえ。この活動に参加して以来、私の自由時間もお小遣いも、すべて飛んで行ってしまってます」
柔和に笑って応えてくれる月ノ宮先輩。
……この人のお小遣いは一体いくらなのだろうと疑問に思いつつも、
「う~ん……そんな大変な仕事なら、あの『G.O.W』に任せるってのはどうなんですか?」
「え? …………『G.O.W』に?」
「ええ。……まあ、僕はよく知らないんですが、その『G.O.W』って、〈ワールド・マテリアル〉を守るための組織なんですよね? だったら、風紀委員が頑張らなくても、その人達に任せればいいんじゃないですか?」
「なるほど、『G.O.W』に任せる。『G.O.W』に。……ふふ、うふふふふ、なかなか斬新なアイディアですが――」
月ノ宮先輩は顎に手をやり、
「――しかし残念ながら、私達風紀委員の――――とりわけ、会長のお考えは違います。あの方は、現在の我が校生の〈向こうの世界〉への頻繁な侵入を『大事にしたくない』、『他者に知られたくない』という方針なのです。ですから、風紀委員は『G.O.W』が本格的に動き出す前に事を納めることを目標としているのですよ」
……ふうむ、そうなのか。そうだったのか。
「……えーと、じゃあ、月ノ宮先輩。あなたはどうなんですか? こんな活動に時間とお金を投じて、それだけ苦労して、あなた自身は一体何をどうし――」
「――もう、こんな時間ですね」
月ノ宮先輩は、腕時計を見ながら言った。
つられて僕も壁掛け時計を見ると、すでに八時少し前になっていた。……いつの間にか、二十分も話し込んでいたのか。
「さすがにこれ以上遅くなると朝風さんのご両親も心配なさるでしょうし、そろそろ帰りましょう――――体力も大体回復した頃合だと思いますが…………どうです? 立てますか?」
そう言いながら、ベッドの横に立った月ノ宮先輩は僕に手を差し出してくれた。
正直体調的にはまったく問題なかったけれど、折角の御好意を断るのもどうかと思い、僕はその手を借りながら立ち上がった。
「本日は長々とお話に付き合っていただき、ありがとうございました」
僕が「いや、どういたしまして」と答えようとしたところで、ふいに月ノ宮先輩の顔が近づいてきた。びっくりして肩を強張らせていると、そのままほっぺたにキスをされた。
一瞬何が起こったか理解できなかったが、しばらくしてようやく、この人が金持ちのお嬢様であることを思い出した。
――ああ、そうか、そうだ、これは、いわゆる欧米風の挨拶。
映画なんかでたまに見る、向こうの人が親しい人に対して行う挨拶だ。今までテレビ画面の中でしか見たことはなかったけど、多分この人は何回も海外に行ってるものだから、向こうの挨拶が板についてるんだろう。こういう文化が日常なんだろう。……軽いカルチャーショックだ。
しかし確かこういうのって、親しい人とするものだと聞いていたけど……この先輩の中では、僕も「親しい」の分類に入っているのだろうか? もしくは何かの友好の証?
僕が何も言わず呆けていると、月ノ宮先輩は怪訝な顔で僕を見てきて、
「おや、どうしたんですか? 顔が赤いですよ? ……ああ、もしかして今のがファーストキスでしたか? ふふ、それはそれは、失礼いたしました」
心持おかしそうに笑う月ノ宮先輩。
――いやいや、ほっぺたはノーカンだろう……?
「さあ、早く出ましょう。こんな時に限って〈ワールド・マテリアル〉探しをしている誰かに見つかるかもしれません。こんなところを見られたら、噂でも流されたら、加賀野さんに怒られてしまいます。ふふ――――さあ、玄関までお送りいたしますわ」