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第二話『Enemy』――その四

 その後、体育祭のプログラムも次々と行われ、徒競争、ムカデ競走、玉入れ、借り物競走と各種目が一つずつ消化されていった。

 昨年の状況を顧みる限り、この体育祭自体は元々そこまで盛り上がるようなイベントという印象もなかったのだが、それでも今年はいくらか熱戦も繰り広げられていた。特に一位と二位のクラスが一騎打ちをするような種目では、応援合戦が自然発生していたくらいだった。その応援合戦が白熱しすぎて、場外乱闘まで勃発しそうだったという話まで後から小耳にはさんだ。

 しかしながら、どこぞの先輩に自クラスから無理矢理引っ張り出されてもはやその様子を客観的にしか見ることができなかった僕は、「うんうん、これが青春だよなあ」なんていう、まこと他人事な感想を抱く他なかった。何だか人生の大事な部分を損している気がひしひしとする。

 腕時計を見ると、現在時刻は午後二時半。

 一日の競技もすでに七割方終わったが、一応今の所、大した混乱もなく催しは進行していっている。

 まあ、棒倒しの最中つくみ先輩と辺乃先輩が突然その場から消えたり(後で聞いた話だと、二人とも〈反位相の世界〉に場所を移し、そこで棒もいないまま命がけの戦を繰り広げていたらしい。終了後、二人のジャージがやたら汚れていたのにも納得がいった)、あるいは借り物競走でつくみ先輩が突如、借り物が描かれたメモを地面に叩きつけたり(つくみ先輩が握ったのが辺乃先輩がこっそり混入させておいたダミーで、そこには『ワールド・マテリアル』と書かれていたそうだ。「借りてこれるもんなら、わざわざ時空移動してまで探したりせんわ!」とは、つくみ先輩の言)と、表沙汰にはならない争いはあったことにはあったそうである――――しかし、とりあえず他人に迷惑がかかっていないようなので、僕は特に気にしないことにした。

 そして午後三時十分を回ったところで、いよいよ騎馬戦の参加者がアナウンスで呼び出された。

 つくみ先輩はすくっとイスから立ち上がると、


「では、行くぞ!」


 と鼻息を荒げながら言って、すたすたと入場口へと歩いていく。

 僕は慌てて、


「あ、ちょっと、僕はトイレ行ってから行くんで、先に――」

「――逃げるなよ?」


 ぎらんと目を光らせながらつくみ先輩が振り返ってきた。そこにはいつもの柔和な微笑など微塵もなく、眉間にシワが寄りまくり、口の端から牙のような八重歯が覗いていて、さながら修羅のような表情が張り付いている。……どうやら、試合直前のボクサーの如く、相当に気が立っているらしい。


「も、ももも、もちろんですよ」


 とどもりながら言って、僕は逃げるように足早でトイレへと向かった。



「……バックれたら、あとでどうなるかわかったもんじゃないな」


 用を足し終えた後、僕は手を洗いながらそんな独り言を呟いた。

 グラウンドを見ると、周りの応援の声が大きくなっている。……まあ、今日のプログラムの中でも、言ってみれば一番派手な種目だ。周りの期待もひとしおなのだろう。

 はあ、と諦めたような溜息をつき、僕はとぼとぼとグラウンドへと足を向けたその時、


「――……あっ」


 校舎の壁際、急に目の前に人が飛び出してきた。

 僕はびくつきながら急停止。

 見ると、それは見覚えのある女子生徒だった。首の中ほどで切りそろえられた後ろ髪と目を覆うほど長い前髪を有したクラスメイト、鳴海さんだ。

 驚いたような顔で僕を見上げてくる鳴海さん。

 僕も呆然と見つめ返してしまった。

 僕がまず驚いたのは、不可抗力とは言え、今初めて鳴海さんの『声』というものを聞いたことだ。コンマ数秒の溜息のような短母音のみだったが、初めてこの人が音を発するのを認識した。この人の声帯が空気を震わせるのを観測した。バラードでも歌えば引き込まれること間違いなしと断言できそうなほど、まるでそよ風のような透明な声だった。

 そしてもう一つ、僕が驚いたこと。それは今目の前にいる鳴海さんが――――『泣いている』こと。

 彼女の目尻に滴が浮かんでいる。あくびや何やらで偶発的に生まれたものとはとても思えない、今にも頬を伝って零れそうなほど大粒の涙だった。僕は半ば唖然と、その瞳を見つめてしまった。

 今までこの人が感情を露わにするところも見たことがなかったのに、よりにもよって第一近接が涙とは……。

 僕はあからさまに狼狽しながらも、


「え? え、えと、な、ななななな、鳴海、さん? ど、どど、どうした、の?」


 なるたけ声のトーンを落としながら尋ねた。しかし、


「…………っ」


 鳴海さんは一瞬戸惑ったような顔になったが、まるで表情を隠すかのようにすぐに顔を俯けた。そしてそのまま僕を避けるように走り去ってしまう。僕はただただ、目をゴシゴシこすりながらグラウンドの方へ駆けていく後姿を見送る。


「グラウンド? …………ああ、そうか、風紀委員も委員代表として、騎馬戦に出るんだっけ……」


 僕がとりあえず目先の疑問を一つ解消したところで――


「――なーにをやっておる!」


「ぐぉ…………」


 いきなりごつんと後頭部を殴られた。

 頭をさすりながら振り返ると、先刻と同じ格闘家のような表情をしたつくみ先輩。


「早く行かんと始まるぞ! さあ!」


 ぐいと腕を掴まれ、僕はつくみ先輩に引きずられ、そのままグラウンドへ入場したのだった。

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