プロローグ
「――つまり、君は『単純に二つに分けることができるもの』の方が大好きだと、そういうことなのか? ふーむ、なるほどねえ……」
何か引っかかるんですか、と僕は尋ねてみた。
「……いや、引っかかるというか、納得してるんだよ。確かに、人類の英知っていうのは単純化することによって発展してきたからね。『分類』なんていうのも単純化の最も有用なツールの一種だけれど、そんなものは、ほぼすべての学問でなされているものだ。物理もしかり、化学もしかり、生物学もしかり、地学もしかり、文学もしかり、和声学もしかり。この『分類』っていうものがなかったら、それだけで、地球上の様相は相当変わっていただろうね。――――そして、この単純化のツールの一種である『分類』の中で、さらに最も単純化されたものこそが、君の言う『二つに区分すること』、『二つの数値で測ること』、つまりは『二元論』って奴さ」
急に高尚な話に跳んだ気がしますが、と僕は相槌代わりに答えた。
「ははっ。高尚ってほどでもないよ。この話の発端は、相変わらず君の『数学はプラスとマイナスだけで手一杯だ。何ですか、あの虚数ってのは? まったくわけがわかりません!』という愚痴だよ。それ以上でも以下でもない。……ふむ? そう言えばこの『以上でも以下でもない』っていう表現って、よく使われるけど、やっぱり矛盾しているよねえ? 以上でもなく、以下でもないなら、イコールでもありゃしないじゃないか。つまり、元々の意味って言うのは『そんなものは存在しない』っていう、全否定代わりのものだったのかもしれない。そう考えると、この表現もなかなか安くはな――――いや、話が逸れたね。あたしの悪い癖だ。悪い悪い。いい加減、元の道に戻ろう。…………おや? 今あたしは、何やら一つ名言を思いついてしまったようだ。『元の道に戻る』ならぬ『元の未知に戻る』っていうのはどうだ? つまり我々が今居る場所というのは、未知こそが前提なんだ。未知こそが道なんだよ。道が未知だからこそ、その道を進む意義が――」
いいから話を戻してください、と僕はため息混じりに言った。
「――ああ、悪かったよ、悪かった。えーと、どこまで話したかな? ……そうだ、『二元論』についてだね。確かに二元論は美しいものだ。麗しいものだ。あたしのルックスと同じくらいにね。善と悪、右と左、北と南、白と黒、天と地。あれかこれか、あっちかそっちか。すべてがすべてが二択問題だ。片方の否定がもう片方、もう片方の否定はもう片方のもう片方。それだけのことで片がつく。悩む甲斐もない理論だよ。そして何より、この論の一番のメリットは、これら二種類のものを同じだけ足し合わせれば、簡単に『相殺』されてしまうところだ」
相殺ってのはいい言葉ですねえ、と僕はうんうん頷いた。
「確かにね。『相殺』。これほど単純で、明快で、便利な理論はないだろうね。これを発案した人にはノーベル賞を十個くらい与えてもいいと思うよ。もしくは、膨大な著作権料を得る資格があるね。世界中の誰もが扱っている理屈で、これがなかったら基礎数学すら成り立たないんだから。特に、難しいことを考えるのが苦手な人間が好き好んでいるものさ」
……………………。
「……ん? どうした? 何やら急に怪訝な表情になったけれど? …………ああ、いやいや、別に君のことを特別に指した発言じゃなかったんだ、今のは。一般論として言っただけだ、一般論。気分を害したのなら素直に謝るよ。悪かった。程度の差こそあれ、『相殺』っていうのは人を選ばず、老若男女にとって喜ぶべき言葉だよ。……ふん? そういえば、君はドッペルゲンガーってのを知っているかい? 割り合い有名な話だと思うけれど、君の常識的事項の中にこの言葉は含まれてるのかな?」
そりゃあ一応知ってはいますけど、また話題をどこかにずらすつもりですか、と僕は半目で見返しながら答えた。
「いやいやいや、ちゃんと筋道に沿った話題だよ。安心して聞いててくれ――――それでね、そのドッペルゲンガーという奴だけれど。一般的に伝え聞く話では『自分とまったく同じ見た目をしたドッペルゲンガーに出会うと、自分が死んでしまう』というものらしいね。怪談話の類の一つのようにも聞こえるんだが。……ただ、あたしは、これもまた『相殺』の一つなんじゃないかと思ってるんだ」
ドッペルゲンガーが『相殺』ってのは一体どういうことですか、と僕は首をひねりながら聞き返してみた。
「つまりだね、今存在している『自分』がプラスだとしたら、そのドッペルゲンガーである『自分』はマイナスだっていうことだよ。正反対のベクトルを持っているってことだ。そしてその二人の『自分』の数値はまったく同じ。そりゃそうだよね。両方ともまったく同じ『自分』なんだから。コンマ一すら違うはずがない。……それでもって、もし二人が出会ってしまえば、二人が足し合わされてしまえば、答えはゼロになるのは道理だろう? ゼロ、零、存在しない――――つまり、死だ」
それが『相殺』って奴だっていうんですか、と僕は口を尖らせながら疑問を呈した。
「そうさ。理屈は同じだろう? プラスとマイナスの概念さえ知っていれば、容易に理解できる内容さ。この世界は『無』からできたなんていう話があるけれど、もしこの世のすべての物質にドッペルゲンガーが存在したなら、この話も信じられるよね。みんながみんなドッペルゲンガーに出会い終えれば、世界はまた『無』へと戻るって寸法だ」
しかしドッペルゲンガーは人間に対しての話で、他の物質にまで拡張するのは飛躍しすぎじゃないですか、と僕は反論を試みた。
「いーや、それがそうでもないのさ。実はこの世には『反物質』っていうのがあってね。つまりは、この世に存在する物質と正反対の物質が存在するらしいのさ。世界の始まりの時、ようはビッグバンの時に、この世の源はこの『物質』と『反物質』に分かれたという話なんだ。その『反物質』というものの存在はすでに科学的に立証されてるし、人工的に作られたりもしてるものなんだから。だから疑問の余地はない話だけど――――さて、話題がちょうど『世界の始まり』っていうところにたどり着いたわけだけれど――」
いやいやいやいや、今のは完全にあなたが無理矢理誘導してたじゃないですか、と僕は首を水平に振りながら答えた。
「そうだとしても、そんなのはたいした問題じゃないよ。今現在、あたしたち二人は『世界の創始』について話しているという事実は覆しようはないんだからね。いい加減、話を本題に移させてもらうよ――――で、だ。『世界の創始』って言葉を聞いて、わが天神岬高校の生徒ならばまず先に浮かぶキーワードとして、一体何が挙げられるかな? ――――ふふ。聞き方が少々あざとかったかな? もしくは聞くまでもない話だったかな? そうさ。『そもさん』の次が『せっぱ』であるのと同様に、『世界の創始』に続く言葉、それこそが――――『ワールド・マテリアル』さ」
まぁそりゃそうでしょうね、と僕は肩をすくめながら合いの手を入れる。
「その名札の柄からして、君は二年生だろう? 一年以上前の話とはいえ、君だって入学した時の驚愕は覚えてるんじゃないのか? これから始まる高校生活にワクワクしながら門をくぐったら、上級生がグループを作ってわけのわからない宝探しに心血を注いでいたんだから。傍から見れば、世間というものがだいぶわかってきた年頃たる高校生のすることじゃないようにも見えるかもしれないけどね。……でも、この『ワールド・マテリアル』の何たるかを聞いた時、君も納得したんじゃないか? どうして先輩方がこんなに一生懸命になっているのか。そして興味をそそられたんじゃないのか? 自分もその宝探しに加わってみたい、と」
何かを企んでいるようないやらしい笑みを目の前にして、僕はようやくこの人の意図が読めてきた。
「ところで、あたしの悪い癖がまたもや発動してしまったがために、再び今までとはまったく関係のない話題に移ってしまうんだけれどねえ――――実は今現在、あたしはアシスタントを募集しているんだ。あたしの様々な活動を手助けしてくれる優秀なアシスタントをね。枠はたった一名だから、早くしないと埋まってしまうツチノコやネッシーよりもレアな役職なんだけれど。……どうだろう? たとえば、今君が深々と頭を下げながら『やらせてください』とお願いしてきたら、今のあたしは、この役職を君に与えてあげてもやぶさかではない心情なんだけれどね」
いや、あの、その、僕も僕で結構忙しいもので、と僕は困ったような愛想笑い作りながら答えた。
「……そうだね。君はまず一つ、理解していないことがある。至極重要な点だから心して聞きたまえ――――あたしのアシスタントになるということは、それ即ち、常日頃からあたしの傍にいて、あたしと会話する機会が大幅に増えるということを意味しているんだ。あたしにはこの通り、世界各国万人の女神が嫉妬するほどの美貌が備わっているわけだし、男としてそんな女性の隣に座していることがどれだけ栄誉なことか、君にも分かるだろう? 現に、今の君だってあたしを目の前にして緊張してるせいか、口数がやたら少ないじゃないか」
いや、見ず知らずの先輩にいきなり喫茶店に連れてこられれば誰だって戸惑いますよ、と僕は両肩を持ち上げながら答えた。
「うっふふふ。もう、照れ隠しが下手だなぁ。見栄っ張りなんだから。見え見えだよ。かわいいなぁ、もう。……うふふ。今さら隠さなくたって、誰も君をとがめる人はいないんだよ?」
……………。
「……やれやれ、まさかここまで奥手な子だとは思わなかった。しようがない。もう一つ、別な話をしてみようか。――――今、君の目の前には、この喫茶店の特製ケーキ『春の夜のせせらぎ』が、三分の一ほど食された状態で鎮座しているねえ。この界隈ではちょっとした有名メニューで、あたしも大好きな一品だ。一切れ七百円と少々お高いが、それだけの金額を出してでも食べたいと思わせるケーキだよ。たとえば……たとえばの話だけれども、もしあたしと一緒にこの喫茶店に入った人間があたしのアシスタントだったとした場合、あたしはアシスタント思いだからねえ、一回ぐらいはこのケーキをタダでおごってあげてもいいと思ったりもするんだよ――――あたしが言っている意味、わかるかい?」
わかりますが、残念ながら僕は金の貸し借りについてきっちりする人間ですし、さらにこのメニューを頼んだ時点でこの七百円は自分で払うつもりでしたから、その辺は何も問題はありません、と僕はすました表情を作りながら答えた。そして、財布を取り出そうとズボンのポケットに手を突っ込んだ、のだが――
――あれ?
僕の手は布ばかりを掴んで、なかなか重量のあるものを握れないでいる。三秒ほど自分のポケットをまさぐった後、僕はようやく気付いた。
――そうだった、今日は木曜だった。
両親が共働きで、朝に弁当を作る余裕のある家族がいない僕は、通常昼食は購買部で買うことになっている。そのために、ほとんど毎日昼食代を入れた財布を持ってきているのだ――――が、木曜だけは、母親が遅出なので、僕も弁当持参になるのだ。そんなわけで、帰りがけに買い物をする予定がない場合、僕は木曜には財布を持たないで学校に来ているのである。
――つまり、このままでいくと、僕は無銭飲食……?
背中を冷や汗が伝い、僕はぞくりと身震いをした。もしこんなことがバレたら店の人に怒られるし、親にも怒られるし、高校の教師陣にも怒られるだろう。しょんぼりな結末しか待っていない。果たしてどんな手段でこの場を切り抜ければいいのかと、混乱した頭で懸命に懸命に考えていると――――僕の目の前には、何やら僕の焦燥に駆られた顔をニコニコと眺めている眩しい笑顔。そしてすっと右手を差し出してきて、
「……さて、改めて聞いてみるけど、あたしのアシスタントになってみる気は君にあるのかな?」
この悪魔の囁きを突っぱねつつも問題をクリアーする手段として、例えばここの店長に拝み倒してツケにしてもらうとか、はたまた代金の代わりになるようなものを置いていくとか、僕は自身に提案してみた。しかし、そんなことをしたって「それよか、その友達に借りた方がいいだろう」と言われるだけでおしまいだろう。さらに一分ほど熟考してみたが、さらなる良案は何も浮かばず――――結局、僕は諦めのため息をこぼしながら、
「…………お願いします」
と、しぶしぶその右手を握り返したのだった。