社務日誌 2
「季子、今日はお会いできたのか?」
夫である宮司の声に、季子は黙ってうなずいた。
誰に、というのは二人の暗黙で名はでない。ただ確認するかのように、季子は本殿のある方角に一瞬顔を向け、そのまま夫のほうを向いた。
「扇の巫女さんはどうでした?・・・嘉代ちゃんったら、あなたに呆れながらも引き込む気満々でしたよ」
「うん、いい子そうだねえ。若干わけありっぽいけど、藤野君にちょっと聞いてみないとな。」
「そうですか・・・」
季子はほうっと息をついて、目の前のコーヒーをゆっくりと飲んだ。
「私が扇の巫女に選ばれて、ここに来てから、もう18年経っちゃいましたね」
「そうだね。あの6年後に亜実ちゃんが選ばれて、次に彼女。今年はどうなるかな」
「二度目もありますよ」
「そうなの?」
「18年前って私は2度目だったでしょ」
「・・・そうだった、ね。・・・でも、あの時はそれどころじゃなかったから」
正孝は柔和な表情を少し険しくして、深く息を吐きだした。
何か思いつめたような眼をして、呼びかける。
「季子」
正孝の声が低く、包み込むように響く。何かを感じて季子がコーヒーカップを置くと、夫の大きな手が自分の手を包み込んできた。
「宮司さん?」
「うん。・・・その、ありがとうな、季子。俺と一緒に歩いてくれて」
「どうしました?」
照れくさそうに、だが、まじめな表情で夫がそのまま後ろから抱きついてくる。季子はその腕をなだめるようにさすった。
「今日あの子に会ったら、季子に会った頃のこと思い出した。君がここに残ってくれた時のことも」
それでなんだか切なくなっちゃってね、と照れくさそうにする夫に、季子は苦笑する。
「変わりませんね、あなたは」
「ほめてるの?」
「そんなあなただから、私はここで生きることを選んだんじゃないですか。」
季子が正孝の腕に顔を寄せて、かみしめる様に言った。
と、ガタン!と扉があく。
「はい終了!」
いい雰囲気の夫婦を半目で睨む長男の登場に、その両親は慌てることなく、応えた。
「あら、正歩、いたの?」
「どうした?一緒にコーヒー飲むかい?」
息子に声はかけるものの、その父親は母に抱きついたままだし、母もその腕をなでながら息子に微笑んでいる。
「いやもう、ご馳走様。仲良くて結構なんですけどね、そこで一緒にコーヒー飲んだら甘くて吐くんじゃないの?」
きれいな顔立ちに似合わず結構言うことは言う。正
歩は近所では評判の美少年だ。
時折神社の手伝いで白衣姿で境内を歩くこともあり、その常人外れた様相に隠れファンも多いという話もある。
「まあ、そう言わないで。飲みなさいよ」
母、季子が苦笑しながらコーヒーを差し出すと、正歩は顔をしかめながらだが、それを受け取り、そばの椅子に座った。ここは参集殿の2階、宮司家族の居住スペースだ。カウンター式の台所と簡易なテーブルのある食卓に、ゆったりとしたリビングルームがとなりあっていて、彼らはその食卓でコーヒーを飲んでいる。
「・・・ねえ、何か、面白いことでもおきるの?」
コーヒーを飲みながら、正歩がつぶやくように言う。
「なんでそう思う?」
息子の表情をよく見ようと正孝は彼の頭をなでながら、顔を覗き込んだ。
「・・・風が騒いでるし、本殿の方が妙な感じがする」
悪い気配ではないんだけどね、と正歩は続ける。
「それに、今日来た八百屋さん、なんか・・・知ってる気配がする」
「正歩はさすがにお母さんの子だなあ。そうか、そう感じるのか」
「お父さんは、例によってなーんも感じないんでしょ」
「そうでーす」
「宮司さんなのに」
「いいの」
「神官の血筋なのに」
「それ、あんま関係ないよ。神官はあくまで神様と人とのなかとりもち。なんか見えたりする必要ないから」
にこにこと、正孝は続ける。
「お前さんが、人にはあんまり言えないけど、そのちょっといい力を持ってるのは山内さんだからじゃないからね。お母さんの血筋と、お母さんを巫女に選んだ御方様が与えた徳分だよ。」
「・・・御方様」
目を点にして正歩が父親の言葉を拾い上げた。
「御方様ってあの舞人さんだよね。また今年も来るの?」
「もういらっしゃってるわ。正確に言うと、いつもおられるけど、今年は姿を見せられる、ということになるのかな」
季子が微笑みながら正歩に言い聞かせた。正歩はその言葉に何か感じたようだ。
「・・・そういうことなの?最近本殿の方からとても強い気配を感じてるんだけど。それっていつも感じてる何かの気配と一緒の空気なんだよね。」
「あら、普段の御方様にはあってないのに、気配は感じてたのね」
そのうち、いろいろ教えなきゃね、と季子はこの社の後継者候補である正歩を頼もしそうに見つめた。
「あ、正歩。御方様にはな、俺なんかだと、会おうと思えばすぐ会えるんだ。まあ話せる時と話せない時とあるけどな。宮司の特権ってやつかな」
得意そうに正孝が口を挟む。その言葉に正歩は意外そうに眉を上げた。
「見る力がないのに?」
「だって、俺、ここの宮司だもん」
いつものように天然なかわいらしい言い回しをする父親に正歩は呆れたように苦笑した。
何か、面白そうなことが起きそうだ。
漠然と正歩は思い、今日出会った八百屋の少女の姿を思い返していた。