プロローグ
あれは確か小学四年生の時だった。
初めて親戚の家に一人で泊まりに行った、夏のある日。
従兄の奏史に連れられて行った神社の夜祭。
そのメインイベントの神楽に魅入られた。
鳥肌が立つような荘厳な雰囲気。厳かに流れる雅楽の調べの中で、
仮面をつけた白い装束をまとった人が踊っている。
ゆるゆるとした動きの中に見せる、切れのある足の運びと、時折激しく煽られる装束の大きな袖。
学校の伝統芸能観覧で熟睡していた私があんなにもあの神楽にひきつけられたのは何だったのだろう。
とにかく夢中で見つめた。
最後にその舞人が福を授けるという扇を観客に投げる。
思いがけず、その扇が自分の元に飛んできたとき、そのままそれを受け止めた。
わあっという歓声と、「葵、やったなあ!」と喜んでいる従兄の声。
扇を手にしたまま、呆然と顔を上げると、その仮面の舞人と目があったような気がした。
口元だけ露わにされているその仮面の主が、どういう表情をしているのかわからなかったが、形の良い口がほころび、微笑んでいるのか、と一瞬思った。
その後のことはもうぼんやりとしか覚えていない。
手元に来た扇はそのまま宝物として今も持っている。
6年に1度しかないというその夜祭は、私のいい思い出となった。
そして、その6年後。
また違う形でこの土地に来ることになるとは思ってもみなかった。
全部すっきりした。
当面の衣類と日用品をつめたバック一つ。
とにかく今はもうこれだけでいい。
あとは全部置いてきた。
制服もかばんも。大事なクラリネットも。学校も。
集めていた本も。家族も。
先は不安なはずなのに、気持ちは軽い。
それだけ縛られてたのかな、と思う。
軽い、とにかく軽い。
「とにかく、休もう」
そうだ、私には休みが必要なんだ。
休めば、少し離れれば、ちゃんと自分を考えられる。
いろいろあって、私、一色 葵は昨日高校を辞めた。
高校2年中退だ。
まさか自分が中退するなんて思いもしなかった。
後悔しない。
自分のために。
そして、実家も離れた。黙って飛び出した訳じゃない。
言い争いながらだったけど、話はして、彼らが知っている場所に今から向かう。
向かう先は神奈川県のとある街。
昔、夏祭りを見に行ったことがある、幸波町。
従兄夫婦の住む家だ。