9話「お説教」
パチンッ‼
式の練習が無事に終わると、セリナは頬を叩かれた。痛くはない。むしろ、夕日を背にした殴った本人の方が辛そうな顔をしている。
それでもセリナは殴られた権利として、その頬を抑えながら尋ねる。
「ロック王子。どうしてわたしは叩かれなければならないのですか?」
ここは礼拝堂前の通路だ。神父は裏へ下がったものの、控えていたジェイドやシオンはそのままここにいる。そして、他にいつ誰が通るかもしれない。
「理由を……俺に言えというのか?」
――まぁ、確実に毒を仕込んだからでしょうけど。
それはそうだろう。練習とはいえ、正式な式の最中に毒殺されようとしたのだ。それに怒らない新郎などいない。
滅多に怒らない主の姿に、シオンが驚きを隠せていなかった。相変わらずセリナの執事は面白そうに見ているだけだったが。
ともあれ、セリナはずっとだんまりを決めていると、先に嘆息したのはロックの方だ。
「もう二度と勘弁してくれ」
「お断りします」
にべもない即答に、ロックは小さく舌打ちした。
「……シオン。先に戻って、部屋を整えておいてもらえないか。あと今晩の夕食はいらないと厨房に連絡しておいてくれ」
「で、ですがロック様――」
「席を外せと言っているんだ。そのくらいわかるだろう?」
有無を言わさない命令に、シオンは不服そうに一礼する。そして去り際、セリナのことを一瞥して行った。彼の背中を見届けてから、セリナが先に口を開く。
「……教えてあげれば良かったのに。俺は毒を飲まされたぞって」
「別にそれなら大丈夫だ。解毒剤なら用意してある」
――なんでまた⁉
セリナが追求しようとした時には、ロックは懐から取り出した小さな瓶を煽っていた。そして直後、容赦なくセリナを抱きしめて口を合わせてくる。無理やり流し込まれる味は、ものすごく苦い。
「うううう⁉」
引き剥がそうにも、まるで離れてくれない。ようやく解放された時は、液体を全部飲まされ、窒息寸前だった。
「ちょ、いきなり何をすんのよ!」
「口移しで毒を仕込むな! おまえにまで何かあったらどうするつもりだったんだ⁉」
「は?」
今回の毒は丸薬にして、奥歯に挟んでおいたものだ。無論、誤って呑み込むなんて阿呆な真似はしない。
――頓珍漢すぎるでしょ。
セリナは呆れ返るものの、ロックの顔は真剣そのものだった。
「……わたしに何もなければ、何してもいいわけ?」
「ああ」
即答。あまりの素早い返事に、セリナは頭を抱えた。
「なんだか、毎日真剣にあんたを殺そうとしているわたしが馬鹿馬鹿しくなるわ」
そして、セリナは姫らしくドレスの裾を持ち上げた。
「疲れたので、先に部屋に戻らせていただきます。では、また明日」
ロックの返事を待たず、「行くわよ」とジェイドを袖を引っ張り立ち去る。それなのに、彼の独り言は通路に響いた。
「あー今日は本当に疲れたから、いつもより早く寝ようかなぁ!」
これ見よがしな言葉に、セリナは歯軋りする。
――『また明日』って言ったじゃない!
今日はもう会いませんよ。その挨拶を無視して「いつもより早く来いよ」と言われたのも同義。
セリナは腰のリボンに隠していた、使わずじまいのナイフにそっと触れて、
「今日こそどっかの誰かさんがお人好しで死んでくれないかしら!」
――そのまま解毒剤飲まずに死んでしまえ!
セリナも大きすぎる独り言を叫んだ。その忠告に、隣を歩く従者は笑いを堪えられていない。
そんなに期待されているなら、今夜こそトドメを刺してならねばなるまい。
「ジェイド、サンビタリアの夜は今日で最後よ! あいつの息の根を止めたら即座に逃げるから、しっかりと準備をしておいてね!」
「いつも気になっていたのですが、暗殺成功後のことも考えていらしたのですね」
「はい?」
セリナは私室で、これでもかと仕込む。ナイフ。ダーツ。毒針。洋服のあらゆる所に隠し持ち、その最終確認をしていたところだ。衣装はメイド服。油断させた所で一気に叩く作戦。
気を高めていた最中を素っ頓狂な質問で邪魔され、セリナは思いっきり眉根を寄せた。
「あんたはわたしを何だと思っていたわけ?」
「くだらない事で毎日飽きもせず遊んでいる可愛らしい姫様だなぁと」
「毎度の事ながら、先にあんたを始末した方がいいんじゃないかと思ってるわ!」
そう手早く抜き刺しでナイフを向けるもの、ジェイドは指先二本で止める。
「冗談はさておき……本当に心配だったのですよ。王子を殺した後、心中でもするんじゃないかと」
「はっ、何でわたしがあんなやつと」
心中なんて、好いた相手とするものだ。誰が好き好んで嫌いなやつと死ななきゃならん。
鼻息荒く否定するも、ジェイドの目が妙に優しかった。
「でも王子を殺したら、当然逆賊です。そのままだと貴女が死刑になるだけではなく、良好な関係を築いているカルミアの方々にも多大な迷惑をかけるでしょう。その辺りの問題を考えている素振りはありませんでしたので、もしやと思っていたわけですよ」
「それはねぇ……」
正直、セリナはまるで考えていなかった。だって、真面目に考えれば考えるほど、このまま大人しく婚約する方が良かったから。実質上、祖国がサンビタリアの属国になってしまったとはいえ、両国は良好な関係を築いている。悔しいという個人の感情で、それを壊していいはずがない。かつての統治者一族なら、尚の事。
――それでも。
だとしても、どうすればいいのか。抑えきれない感情を。悔しさを。どこにぶつければいいのか。両親のように割り切って、視察だ婚約だの楽しめというのか。
セリナは下ろした拳を握りしめた。
――無理よ。
女の子らしく結婚だと浮かれて。素敵な王子様と結ばれて嬉しいと喜んで。
――あんなヘラヘラ笑う王子なんか。
だけど、ふと目に浮かんだのは、真剣に自分を怒る青年の顔だった。決して綺麗ではなかった。決して優雅でもなかった。男のくせに、目尻に涙を浮かべて。眉間にシワを寄せて説教してくる男のどこに惚れろというのか。
――あんなやつなんて……。
「姫様、私はそんな貴女をお慕いしております」
「え?」
力を込めていた手を、そっと包まれる。手袋越しの執事の手は、どこかヒンヤリとしていた。
それでも、目を丸くしたセリナの青い瞳に映る執事の顔は、いつもより優美だ。
「永久に貴女に仕えるとお約束しましょう。どうかこれからも、私を退屈させないでくださいね」
「……愛の言葉にしては、どうも裏を感じるのだけれども?」
「おやおや、おかしいですね。こういうこと言えるのも今日が最後でしょうし、本心をお伝えしただけですが」
きっとそれは、明日が婚約式だから。そんなことを言われてしまえば、つまらない冗談も少しだけ嬉しく思えてしまえて。セリナは小さく笑った。
「はいはい。それじゃあ大好きな姫様に、これからも誠心誠意尽くしてね」
「盟約に懸けて」
セリナの手を掴んだまま、ジェイドは膝を付き最敬礼する。その艷やかな黒い頭を見下ろしながら、セリナは「それじゃあ、行ってくる」と手袋をした手にそっと口付けを落とした。




