8話「婚約式の予行練習」
王子にとって、近侍は手であり足であり、特には剣や盾にもなる。もちろん身の回りを世話をするメイドも別にいる。当然、その婚約者であるセリナにも相応の人材が宛てがわれようとしたものの、全てを一人の執事が一蹴した。
そのため、婚約式の予行直前まで側にいるのも一人の執事である。
「儀式の手筈は覚えてますか? 基本的に返事と復唱をすれば問題ありませんが、そのくらい滞りなくできますよね?」
「あんたはわたしをなんだと思っているのかしら?」
「婚約しようが結婚されようか、私にとってはいつまでも可愛い姫様ですよ」
つまり要約すれば、彼にとって永遠の子供であるわけだが。
今も昔も年齢不詳の完璧執事ジェイドの隣に、珍しく控えている騎士がいた。言わずもがな、礼拝堂の中ですでに予行を始めている王子の付き人、シオンである。咳払いをしては、こちらを「うるさい」と言わんばかりの目で見てくる彼に、セリナは話しかけた。
無論この予行練習の記憶もある。だけど――だからこそ――記憶にない行動を取りたくなったのだ。
「お父様は元気なのかしら?」
「……僕の父のことですか?」
「他に誰のことを聞くの」
セリナの父、勇者カルサスと彼の父親は旧友である。セリナも一度幼い時に会ったことがあるらしいので、聞いてみた次第なのだが。
――その時に、こいつも一緒にいたって話だけどね。
なにぶん、会ったのはセリナが三歳の頃。記憶が朧げでも失礼ではないはず、と少しむくれると、視線を下げたシオンは言う。
「お気遣いありがとうございます。おかげさまで、とても元気にしております」
「そう」
「……少し前に生まれた弟を待望だと大変可愛がっておりまして。カルサス様が長期視察に向かわれていて良かったです。あんなだらしのない顔、見せられないでしょうから」
「あら」
思いの外膨らませてくれた話に、セリナは目を見開いた。
「父なら気にしないと思うわよ。わたしのことも猫可愛がりしていた父ですから」
「……僕が嫌なんですよ。ルイス家の当主には、いつでも威厳を持ってきてもらわなければ」
「なるほど」
シオンの歳は、もう成人も超えて主人のロックよりも少し上のはずである。先程まで主人に説教していた彼のふとした子供っぽい表情に、セリナが思わず口角を上げた時だった。
「姫様、ご準備を」
「えぇ」
ジェイドの言葉に、セリナは大扉の前に控えた。そして、
「婚約者セリナ=カルミア、神の御前へ!」
本番さながらの声掛けと共に、ゆっくりと視界は開けていった。赤い絨毯の奥には、婚約者であるロック=サンビタリアが微笑を携えて待っている。
「転ばないでくださいね」
「わかってるわよ」
余計な一言を告げるジェイドを一瞥し、セリナはゆっくりと一人、歩を進める。ロックの奥には神父。そしてサンビタリアが信仰する女神の聖像がそびえていた。白く淡い光を放つそれは、王国式『文様術』の髄を集めた代物で、この礼拝堂内ではあらゆる魔法が発動せず、魔族の侵入も阻止するような結界魔法が常時発動しているのだという。戦時中は、王族貴族の避難場所として重宝されていたのだとか。
――まぁ、ずいぶんと偉そうなご尊顔だこと。
誰もが美人と称すその顔を何となく睨んでいるうちに、ロックが手を差し出してくる。とても王子とは思えないしっかりとした手に、セリナはそっと己の手を重ねた。
「そんな怖い顔しなくても、セリナの方が美人だよ」
「何の話?」
小声で耳打ちされる言葉に擽ったく感じていると、神父はありきたりの有り難い言葉を紡いでいく。合間合間にお決まりの誓いの言葉を復唱し、そして最後に促されるのは誓いのキスだ。
向かい合わせになり、肩を抱かれる。真正面から見る王子は、何度見ても綺麗だった。きめ細かい肌。長いまつげ。適度な厚みを持った唇。普段の軽い態度に隠れているものの、彼は間違いなくれっきとした王子様。セリナに慈愛の眼差しを向けてくる、優しい王子様だ。
そんな彼の唇が、セリナの口に触れる直前で止まる――だって、これはリハーサルなのだから。本番は明日。彼だってそこは弁えているのだろう。それでも「ドキドキした?」と言わんばかりの茶目っ気のある視線を向けてくるあたりが、やはりムカついたから――セリナはつま先を伸ばし、彼の唇に食いついた。
ロックの目が見開かれる。その隙に、セリナは口の中に仕込んでいたものを送り込んで。
「ばっ――!」
ロックに無理やり引き剥がされる。それには、今まで仕事面を崩さなかった神父も心配を顕にした。
「王子……?」
「いや、すまない。続けてくれ」
その後、退場まで恙無く進行した。セリナはロックの恨むような視線を、敢えて見ないように。
シレッと。平然と。澄ました顔で。