第一部 水平線の彼方へ 第九章 猛毒を売る女
第九章は、猛毒の花を育てる女性の話です。そこに、PSAAIであるパラスが絡み、アイシャと出会います。いよいよ、役者が揃いました。今後の展開に期待ください。
島谷花帆は窓辺に並べた鉢を見つめ恍惚的な笑みを浮かべた。
「ああ、なんて、綺麗な花なのだろう。」
有名大学を首席で卒業した花帆は、花や野菜の品種改良に取り組む会社に研究員として勤めながら、自宅でも植物の品種改良を行っていた。
「花が綺麗なほどに、この根に宿る毒は強力になる。」
そう、猛毒の草花を栽培するのが彼女の趣味だった。こうして、猛毒の植物をじっと見つめていると、熱くなるほどのエクスタシーが体を駆け巡るのだ。
丸顔の花帆は、眼鏡をかけた人の良さそうな女性である。同じマンションに住む年上の婦人にも愛想よく挨拶を交わし、会社では黙々と研究に励む地味目の女性で通っていた。つい最近三十四歳になったばかりの独身である。
綺麗に咲いた花に頬擦りした花帆は、AI端末を開くと、いつものサイトにアクセスした。快楽サイトやゲームサイトを利用することはほとんどなく、もっぱら、SHS、すなわち、通称自殺サイトが好みだった。
しかし、彼女自身に自殺願望があるわけではない。
適当に、悩みの書込みをしながら、本当に死にたそうな人を捜しては猛毒を売りさばくだけである。
お金が欲しいわけではなく、自分の栽培した毒で人が死ぬのが堪らないのだ。
つい最近、猛毒を買ってくれた人のアドレスを検索した花帆は嬉しそうに笑った。
-ああ、やっぱり、この人、死んだのね-
-どんな死に方をしたのかしら-
-悶え苦しんで死ぬところを見てみたいわ-
相変わらず、特殊公安のビルは古びた姿を晒していた。
アイシャが眠そうにあくびしながら特殊公安部に入ると、待ち構えていた真美が手を掴んだ。
「新たな事件勃発よ。アイシャが来たらすぐに、会議を始めるって、もう、みんな待っているわ。」
「あああ、眠い。まだ、始業から三分しか経っていないじゃないか。この程度は、誤差だ。」
「もう、百回くらい、室長に、五分前には席に着いているように言われているじゃない。また、怒られるわよ。」
会議室にアイシャが入ると、辛山は横目で睨みつけた。
「何度言っても、おまえはわからないようだな。今度、遅刻したら、拳銃を取り上げる。いいな。」
「はい。はい。」
席に着くなり、机に突っ伏してしまったアイシャに辛山は溜息をついた。赴任してきた頃は、もう少しちゃんとしていたのだが、緊張感が薄れるほどに出勤時間が遅くなる。それだけは、幾ら言っても改善しないようだ。
一同を見渡した真美は、いつものように事件の報告を始めた。
「昨日の十八時三分、江戸川区のマンション一階で、シャワーを浴びていた四十代の女性が倒れ救急車で搬送されました。続いて、同マンションで食事中の家族四人、入浴中の七十三歳の女性など多数の方が次々に倒れ、結局、同マンションの五十七名が病院に搬送され、その内、二十二名が死亡するという痛ましい事件が発生しています。重体の方もいますので、死亡者は、まだ増える可能性もあります。現場に駆け付けた警察の調べで、水道に猛毒が混じっていたことが判明し、猛毒はマンション一階の受水槽に投入されたことまでわかっています。毒の成分は分析中とのことです。」
すぐに、五郎が質問を投げかける。
「監視カメラはチェックしたのかな。」
「もちろんです。ここ数日の映像をチェックしましたが、受水槽に近づいたのは清掃員だけで、毒を投げ込んだ形跡はありません。念のため清掃員の聴取は必要かと思いますが、恐らく犯人ではないでしょうね。」
そこで、辛山が発言した。
「死亡者も多く、難事件と認定されウチの担当となった。五郎とアイシャは、マンションや近隣の監視カメラを徹底的に調べろ。」
机に突っ伏しているアイシャに変わって五郎が手を上げて答えた。
「はい。すぐにアイシャを叩き起こして開始します。」
岩佐の方を向いた辛山は力強い声で続けた。
「岩佐とエリカは生き残ったマンションの住人や近隣の住人への聞き込み調査だ。」
「了解。」
岩佐とエリカが出て行った後、五郎もアイシャを引きずるようにして出ていった。
辛山は、残った真美に優しげな声で命ずる。
「真美、おまえはみんなのフォローをしながら、引き続き、自衛隊のサイバー班に協力してやってくれ。」
「はい。」
この時点でも、まだ、ハッキングされた自衛隊のシステムは正常に戻ってはいなかった。電源を切断したり、外部との接続を物理的に切断することにより、ハッキングを阻止する手段がとられ、その間に、セキュリティシステムの改変も進められていたが、未だに完全復旧には程遠かった。
更に、対策を講じて立ち上げた箇所が、また、ハッキングされるという事態まで発生しており、急場しのぎの改変では解決できる目途さえ見えなくなっていた。
こうなってしまうと、犯人を捕まえるしか、なさそうである。もし、それができないなら、防衛システム自体を抜本的に変えなければならないが、現実的には不可能に近かった。
特殊公安のコンピュータルームで、アイシャはコーヒーを飲みながらモニタを凝視していた。二週間前まで確認したが、マンションの受水槽付近には怪しい人間が近づいた形跡は見つからなかった。真美の報告通り、清掃員がまわりを掃除したくらいで、ほとんど人は近づいていない。マンションの廊下や駐車場、エレベータなどに設置してあるカメラ画像もチェックしたが、怪しい人影は皆無である。
また、各市民が持つID装置から、全ての市民の行動はトレースできるのだが、そこから追いかけても怪しい人物は浮かび上がらなかった。
「五郎。そっちはどうだ。」
「別段、問題なさそうだな。受水槽には誰も近づいていない。」
アイシャは真美の調べた結果にも目を通した。
毒は植物系の猛毒であることは判明したが、植物名などは不明。受水槽やマンション内のいろいろな場所の水道管の水を調べた結果、約二百ミリリットルの毒が受水槽に入り、それがマンション内の水道管に拡散した事実が判明した。昨日の十八時頃から、十九時までにほとんどの被害者が出ていることから、投げ入れられたのは十七時から十八時の間と推定された。
毒が入った水が少しでも口に入れば死ぬほどの猛毒であり、百度まで熱しても解毒できない。すなわち、沸騰させてもだめだということだ。
モニタを消したアイシャは立ちあがると大きく伸びをした。
「ああ、眠たい。現場にでも行ってくるか。監視カメラを眺めるくらいなら、受水槽でも眺めた方が何か思いつきそうだ。」
「賛成だね。これ以上、監視カメラを見ても成果はなさそうだ。」
さっそく、五郎の運転で二人は公安を後にした。
助手席に座ったアイシャは、まだ眠そうである。窓に寄り掛かって目を閉じてしまう。
「どうしたの?もしかして、体が火照って眠れなかったとか。」
「ああ、暑かったからな。」
「いや、そういう意味じゃないんだけどな。アイシャ、鈍感すぎるよ。でも、確かに、昨夜は五月の気温じゃなかったな。間違えなく今年一番の暑さだったね。エアコン入れればよかったのに・・・。」
「そんなに暑くないと思って寝たら、汗だくで目が覚めた。シャワーを浴びたのだけど、その後、眠れなかった。」
「夕方から暑かったじゃないか。今日も暑いから、今夜はちゃんとエアコンを入れた方がいいよ。」
「そうだな。」
目を閉じたアイシャは窓に寄りかかりながら、すやすやと眠ってしまった。自動運転の車は江戸川区に向かって高速に乗り、五郎は無防備に眠るアイシャをじっと観察し始める。肩まで伸びるサラサラの黒髪も、白く透き通るような肌も美し過ぎるくらい美しい。スカートから出た足も、ノースリーブのワンピースに隠れた小さな胸の膨らみも、いくら見ていても飽きるものではなかった。
「もう、あれから二年近くも経つのに、成長しないな。」
すやすやと眠るアイシャはあまりにもかわいらしい。
「しかし、少しも俺のことを見てくれない。」
五郎は溜息をついてしまった。
その十二時間前だった。
サイトをチェックするパラスはある書込みに目を止めた。
「何、これ?ちょっと、図に乗りすぎだな。」
荒廃した廃墟ビルの間に入り込む海には、月光が反射して揺れていた。生暖かい空気に交じって、海風が少しだけ吹き抜け、パラスは風に揺れるドレスの裾を手で押さえた。
白いドレスを着たパラスは目を閉じて、冷たい鉄骨に手を当てる。誰も近づくものはいない廃墟街の果てである。毎晩、ここに座って、サイトをチェックするのが日課だった。
真剣に自殺を考えている会員に対して、猛毒を進めている女がいる。少し前から複数ヶ所に書込みを始めていたのは知っていたが、段々とエスカレートしてきて、遂には、集団自殺へのお誘いである。
「アバター名はカルミア。」
ネット内を検索したパラスはあっという間に彼女の身元を特定してしまった。
「島谷花帆。三十四歳。住所は中央区か。」
パラスは高速シミュレーションを開始して、対策を検討し始める。何千、何万の演算が折り重なり、正確な優先順位が導かれていく。
「自殺の道具としては猛毒も悪くはないけど、そんなものは人類にとって、必要ない。」
モノレールの終着駅で降りた花帆は、人気のない公園のベンチに座った。午後の光に照らされて、緑の葉が輝いている。
そこで、AI端末に流れるニュースを見ていた花帆は、急にお腹を抱えて笑い出した。
「私の猛毒ちゃんが、遂に、やったのね。すごい。たくさん死んだわ。」
笑いは止まらなかった。近くを歩く人影に気づいた花帆は、パナマ帽のつばで顔を隠すようにして笑い続けた。
「ああ、最高。今日は、本当にいい日だわ。これから、私は女神になるの。そう、二人目の自殺サイトの女神。」
ケラケラ笑いながら、花帆の夢想は広がっていく。
ハンドバックから小瓶を取り出した花帆は、中の透明な液体を見つめる。栽培した植物の根から採った猛毒である。これだけの量でも、少しずつ飲ませることができれば、千人だって殺せる。
「ああ、おかしい。死にたがっている人は幾らでもいる。今日は、死ぬところも見られるのよ。どんな風に死ぬのかな。三秒、いや十秒くらいはかかるのかな。その間は苦しいでしょうね。長く感じるのかな。それとも、すぐにわからなくなるのかな。」
猛毒を飲んだ人が死ぬ姿を想像すると、楽しくって堪らなかった。全身を快感が走り抜けていくようである。
しばらくすると、花帆は立ち上がり、人類が放棄した廃墟の街に入っていった。戦争前には、昼夜動き続ける巨大な工場が立ち並び、貧しい労働者が暮らしていた場所である。
朽ち果てた酒場、崩れかけた宿泊所、壊れた看板や、鉄骨が転がるアスファルト。道路はひびだらけで、間からは雑草が生い茂っていた。
ひざ下のスカートに白いブラウスの、一見、どこにでもいそうな中年女性である。手を後ろに組んだ花帆は、楽しそうに、誰もいない廃墟を歩いて行った。
約束の場所。
カリフォルニアという廃墟と化した酒場に入いった花帆は、カウウンターに猛毒が入った瓶を置いた。
二十人来る予定である。その全員に、乾杯用の飲み物を持参するように指示してある。そこに、一滴ずつ、この毒を入れればいいだけである。あとは、どうなるかお楽しみということだ。
時計を見た花帆は椅子に座り足をブラブラさせながら、天井を見上げた。薄暗く荒廃した酒場の天井には蜘蛛の巣が張り、埃だらけだった。
床の上にも厚く埃がたまり、あちらこちらにガラスの破片や錆びた金属が落ちている。窓ガラスはなく、ドアももぎれて傾いていた。
「ああ、まだ、一時間以上ある。待ち遠しいな。」
まだまだ、誰も来ないと思っていた花帆だったが、物音に視線を向けると入口には金髪の少女が立っていた。その顔には見覚えがあったが、まさか、そんなはずはないと花帆は普通に対応した。
「あれっ。随分と早いわね。でも、歓迎するわ。」
少女は冷たい視線を花帆に向けた。
「歓迎はしなくてもいい。私が誰だかわからないのか?」
一瞬にして、花帆の顔が曇った。背筋には何とも言えない恐怖感が走る。
「えっ、そんなはずは・・・。」
中に入ってきた金髪の少女はテーブルの上にある小瓶に目をやると、鋭い視線を花帆に向けて歩き始めた。
ずかずかと進んでくる少女に、花帆は反射的に立ち上がると、ゆっくりと後ずさりした。
「あ、あの。どうして、・・・。」
後ろに下がった花帆の背中は、壁にぶつかり、近くの棚に乗せてあったコップが、その衝撃で床に落ちて割れた。
カシャーン。
ガラスの砕ける音が室内に反響し、砕けた破片がキラキラと輝いて見えた。
「どうして、あなたが来るの?自殺サイトの女神よね。」
パラスは何も答えずに近づいていった。両手と背中を壁に付けた花帆は、パラスを避けるように、横に横にとずれていく。その顔は恐怖に慄いていた。
パラスは丸めたロープを伸ばすと、一歩前に進んだ。
「さあ、どうしてかしら?」
軽くジャンプしたパラスはカウンタの上に飛び乗ると、左足で花帆を蹴りつけた。
「キャー。」
両手で顔を防御したつもりだったが、パラスの足は腕を跳ねのけて、顔面を捉えていた。
顔を蹴られた花帆は壁に激しく頭もぶつけて、そのまま失神してしまった。それは、ほんの一瞬の事だった。
一方、現場に到着した五郎は、管理人との交渉に入っていた。アイシャは助手席で眠ったままである。
ほどなく、交渉は成立し、受水槽を見せてもらえることとなった。
「アイシャ。起きて。」
「うーん。」
体を起こしたアイシャは大きく伸びをして、億劫そうに車から出てきた。その時、水色のワンピースの隙間から胸が少しだけ見えてしまい、五郎は思わず目を逸らした。
「アイシャはいつもサービス満点だな。」
「ああ、眠い。何のサービスだ。」
「いや、いや、何でもないよ。受水槽を見せてくれるってさ。」
車から降りたアイシャがあたりを見回すと、少し背中の曲がった老人が目の前に立っていた。風采の上がらない男だったが、人は良さそうに見えた。
男は、アイシャの顔を見ると、笑みを浮かべて案内してくれた。
「どうぞ。こちらです。」
アイシャと五郎は、年老いた管理人に従い、受水槽に向かった。鉄筋七階建ての中規模マンションは、相当に古そうだったが、手入れは悪くはなかった。外壁も塗り直したばかりだったし、金属部分にも錆は見えなかった。
アイシャの住むマンションのような豪華さはなかったが、長年、ここに住む人たちは愛着を持って暮らしているのだろう。
受水槽はマンションの敷地内にあった。駐輪スペースの奥の方である。何台もの自転車が止まっている狭い通路を抜けきると、コンクリートの物置のような受水槽に到達した。
管理人はポケットから鍵を出すと、機械式の錠前を開け始める。珍しい程に旧式の鍵である。
「あれっ、ああー、すみません。鍵を間違えました。すぐに持ってきますので、少しお待ちください。」
慌てて管理室に戻ろうとする管理人にアイシャは声をかけた。
「ふーん。似たような鍵が他にもあるのか?」
振り返った老人は笑みを浮かべて事情を話してくれた。
「いいえ。実は昨年の十一月に壊されたのです。その時、古い方の鍵を捨ててなかったものですから、間違って持ってきてしまいました。今朝、警察の方に見せた時は間違わなかったのですけど、歳をとるとだめですな。」
それを聞いたアイシャは首を傾げる。
「十一月、半年前か。」
ほどなく、鍵は開き受水槽を見ることができた。かなり大きな水のタンクだったが、年老いた管理人でもネジを緩めると、簡単に蓋を開くことができた。
「蓋は割と簡単に開くんだな。」
「ええ、そうです。」
「毒が入ってしまったので、今は水を抜いてありますが、普通なら、あの線くらいまで水があるはずです。」
「ふーん。」
中を覗きこんだアイシャは呟くように五郎に告げた。
「この中の指紋調査はしたよな。」
「もちろんしていると思うよ。」
「まあ、いいか。後で、真美に聞けばわかる。」
その時、彼女の頭の中に緊急連絡が入ってきた。真美からである。
すぐに、アイシャは応答する。
「どうした。真美。」
「同じような事件が発生したの。今度は港区のマンションで七十五名が病院に搬送されたわ。今のところ、死亡者は二十五名よ。」
「また、受水槽か?」
「まだ、断定はできないけど、水道水が原因なのは間違えないわ。」
「真美、すぐに住所を送ってくれ。現場に向かう。」
「了解。」
受水槽から出たアイシャは五郎に向かって命令した。
「五郎、今度は港区だ。そちらの受水槽も見に行くぞ。」
「わかった。何だか、やばそうな事態になってきたね。」
「そうだな。」
車に飛び乗った五郎は、力強くアクセルを踏み込んだ。
港区のマンションも同じような構造だった。一階に受水槽を持つ六階建ての建物で、世帯数が五十前後なのも前のマンションと大差はない。ただ、受水槽の周りには草が茂っていた。
管理人と一緒に、裏手にある受水槽に向かったアイシャは足元を見ながら、注意深く近づいていった。
扉に手をかけた管理人は首を傾げた。
「あれ、鍵が開いている。」
そのまま、開こうとした管理人をアイシャは止めた。
「ちょっと、待て。」
五郎に命じて、開ける前の立体写真を撮らせながら、アイシャは辺りを注意深く観察した。ドアの前には土が溜まっていたし、かなり伸びた草で覆われていた。その状態から、少なくとも昨日や今日、この扉を開けた形跡はなかった。
「いいぞ。開けろ。」
中の構造は、江戸川区のマンションと似たようなものである。
内部を確認した二人は、来た道を引き返し始めた。
「五郎、よく見ておけ。私達が歩いただけでも、これだけ草が倒れてしまう。行く時は全く踏み跡なんかなかった。受水槽の周りにもなかった。そして、扉には鍵がかかっていなかったが、扉の下の方には雨が流れた跡があり、土が覆いかぶさっていた。」
「そうだね。少なくとも二三か月は人が近づいた形跡はなかったね。鍵は壊されていたけど、直近で扉を開けた形跡もなしか。どういうことだろう?」
アイシャは監視カメラを見上げた。ここを通れば、必ず監視カメラに引っかかるはずである。
じっと、カメラを見つめるアイシャはあることを思い出した。
「ああ、そうか。」
「そうかって、何かわかったの?」
「五郎、監視カメラを二週間前までしか見なかったのは手抜かりだったぞ。犯人は、もっとずっと前に毒を入れていたんだ。」
「えー、でも・・・。」
アイシャは、すぐに本部に連絡を入れた。
「真美、江戸川区のマンションだけど、十一月前後の受水槽前の監視カメラをチェックできるか?」
「まあ、それはできるけど、十一月って随分前ね。」
「今すぐ、見てくれないか?」
「わかった。まずは、AI達に自動チェックさせてみるわね。」
「何か、映っていないか?」
「あっ、引っかかった。うーん、これ、怪しいな。女が受水槽の建屋に入っている。鍵、壊したわね。身長は百六十くらいで、中肉、丸顔で黒縁のメガネ。三十代半ばくらいかな。」
それを聞いたアイシャは確信した。
「たぶん、あたりだ。」
「でも、十一月十二日よ。もう、半年前。」
「前に、真美のアパートに行ったとき、二十度ちょっとで融ける氷があっただろう。昨日と今日は暑いよな。もしかして、受水槽の水も二十度、越えたんじゃないか。」
「あー、そうか。」
真美は気づいたようだった。
「すぐに、室長に連絡してくれ。」
「わかったわ。もうひとつのマンションの方も監視カメラをチェックしておくわ。それから、犯人の身元もね。」
真美の報告を聞きながら、アイシャは事態の深刻さを感じた。
「真美、もしかしたら、他にも仕掛けられているかもしれない。今日も暑いから、急がないとまずいことになる。都内の、いや、日本中の受水槽をチャックする必要があるぞ。」
「あっ、そうか。それはまずいわ。そっちが先だね。すぐに、室長に相談する。」
もう、深夜だった。
特殊公安局の会議室に集まった一同の顔には、疲労の色が濃く広がっていた。
多数の警察官を動員して、ビルの受水槽を片端から調べたが、毒が入っていたところはひとつもなかった。
岩佐が、ここまでの状況を報告していた。
「犯人と思われる島谷花帆の行方は、未だ不明です。部屋には大量の鉢植えがありましたが、全て押収して鑑識に回しました。」
辛山は毅然とした顔で頷く。
「ご苦労だったな。真美、そっちは、どうだ?容疑者の足取りは掴めたか?」
「いいえ。中央区内の駅からモノレールに乗ったところまでは報告した通りですが、その後の足取りが掴めません。駅の監視カメラを通り過ぎてから忽然と消えてしまっています。どこの監視カメラを確認しても、それらしい人物は、全く映っていません。また、モノレールに乗るまでは、彼女の市民IDの痕跡があり、位置特定もできていますが、モノレールに乗ってからの記録は残っていません。まるで、キツネに摘ままれたようです。」
渋い顔の辛山は腕を組んで考え込んでしまった。今まで、こんなことはなかった。モノレールであれば、駅にも車内にも監視カメラは多数ある。位置特定ができる市民IDを所持していなければ、モノレールには乗ることもできないはずだ。要するに、見失うなんてことはあり得ないのだ。
どこの駅で降りたのかもわからないとなると、捜し出すのは容易ではない。警察にも連携を頼み、捜してはいるが、今のところ網には掛かっていないという状況だった。
エリカが立ち上がり、真美の手を掴んだ。
「コーヒーでも入れてきます。」
「ああ、頼む。」
アイシャは眠そうに頬杖をついて、薄目を開けていた。五郎も、疲れた表情である。
大きく伸びをした辛山は背もたれに寄り掛かると、低い声で告げた。
「容疑者は全国に指名手配済みだ。いずれ、どこかで、網に引っ掛かるだろう。都内のマンションの受水槽も全てチェック完了した。幸い、ここ一年の間、容疑者は都内を出た形跡はない。大騒ぎになってしまったが、毒が見つからなくて良かった。今日は、コーヒーを飲んで解散しよう。明日、気持ちを新たに、容疑者を探すぞ。」
それを聞いた一同は、ほっとした顔で頷いた。
五郎と一緒に、外に出たアイシャはモノレールの駅に向かった。肩を並べて歩く五郎はさり気なく話しかけてきた。
「もう、真夜中だから、家まで、送っていこうか?」
「いや、だいじょうぶだ。それよりも、今日は気を使わせて悪かったな。」
いつものアイシャにしては、随分と謙虚な言葉である。
「別れ際に、そんなアイシャらしくないこと言わないでくれよ。」
「そうか。そうだな。では、明日は、もっと短いスカート、穿いてきてやる。楽しみにしていろ。」
五郎は軽く手を振ると微笑んだ。
「ああ、期待しているよ。」
「ふん、そんなことで喜ぶとは、男なんて安い生き物だ。」
「そうかもしれないね。でも、アイシャ、それでも、世界には男は必要だろう。」
その言葉に、彼の顔を見上げたアイシャは、ドキッとしてしまった。
「そうだな。お休み、五郎。」
アイシャは急ぎ足で、五郎の元を離れて、自分の乗るモノレールのホームへと向かった。
部屋に戻ったアイシャはワンピースを脱ぎ捨てると、ベッドに飛び込むように寝転がった。あっという間に、睡魔が襲ってくる。
ウトウトと眠っていると、突然、頭の中に誰かからの通信が飛び込んできた。それは、真美や公安関係からの連絡ではなかった。
目を閉じたまま、アイシャは答えた。
「誰だ?」
普通であれば、アイシャの脳内のシステムに勝手に通信を繋げるなどできないはずである。
「初めましてかしら、アイシャ。メガミよ。メッセージを送信するから、読んでおいてくれるかしら。」
「女神って、誰だ。」
相手に向かって意思を伝えたはずだったが、答えはなく、通信は切れていた。
仕方なくメッセージを読んだアイシャは、驚いて飛び起きた。
「自殺サイトの女神か。」
少しよろけながら、脱ぎ捨てたワンピースを掴んだアイシャは、急いで体を通し、ボタンを嵌めながら、ショルダーバッグを探した。
「あっ、あった。拳銃もあるよな。」
まだ、目がちゃんと開かないアイシャはタクシーを呼ぶと、眠そうに目を擦りながら部屋を出て行った。
無人タクシーに飛び乗ったアイシャは、行き先のマンションをAIに伝えた。
ショルダーバックの中の拳銃を確認したアイシャは乱れた髪を手で直しながら、鏡で顔をチェックした。
「ああ、酷い顔だな。こんな顔、五郎には見せられないな。」
江東区のマンションに到着したアイシャは、セキュリティ番号を打ちこみ、エレベータに乗った。十八階建てのかなり高級なマンションである。
自殺サイトの女神が知らせてきたのは自宅の住所と、すぐに、会いたいから一人で来るようにとのメッセージである。
エレベータを降りたアイシャは急いで部屋の前まで行くと、躊躇うこともなくインターフォンのボタンを押した。
この中に、自殺サイトの女神がいるのかと思うと、緊張した気分だった。
しかし、顔を出したのは意外にも大学生くらいの男だった。彼は愛想よく挨拶してきた。
「ああ、いらっしゃい。アイシャさんですよね。一応、その身分証明書とか、見せてくれますか?」
言われた通り、身分証明書を表示させながら、アイシャも挨拶した。
「特殊公安局第二課のアイシャ・リーンだ。その、名前は知らないのだが、自殺サイトの女神に会いに来た。」
男はニッコリと笑った。とても、優し気な笑顔が安心感を与えてくれる。
「名前は、パラスです。聞いていますよ。ぼくは、神崎悠太です。どうぞ、お上がり下さい。」
「あっ、ああ。」
あっけない程、簡単に、女神の名前を聞くことができたことにも驚いたが、それ以上に初めて会った神崎悠太に驚いてしまう。
神崎悠太と言えば、あの真知子の兄である。しかも、彼の体からは白い光が満ち溢れているではないか。こんな人間を見たのは初めてである。
アイシャは落ち着いた声で対応した。
「こんな夜中に、すまないな。」
「いいえ、あなたが来ることは、パラスに聞いていましたから、問題ないですよ。」
「ああ、そうなのか。」
アイシャが中に入ると、悠太はリビングに通してくれた。少し戸惑いながらも、アイシャは勧められるがまま、ソファに座った。
予想外の展開に、彼女は少し戸惑っていた。呼び出しておいて、自殺サイトの女神はおらず、代わりに出てきたのは、あの真知子の兄とはどういうことなのだろう。
悠太はキッチンに向かいながら振り返った。
「コーヒーを飲みますか?紅茶もありますけど、どうしますか?」
全く毒気を感じない悠太の態度だった。パラスのことが気になって仕方なかったが、こうなると、高飛車な態度に出るわけにもいかない。
アイシャは丁重に、且つ端的に話を切り出した。
「悪いが、お茶はいらない。パラスはどこにいる?」
「いいえ、紅茶を入れます。まずは、お茶でも飲んで落ち着いてください。」
対面型のキッチンに入った悠太は、有無を言わさず紅茶を作り始めてしまった。
どうしようかと迷ったアイシャだったが、断ることもできずに、紅茶のできるのを待つことになってしまった。
すると、悠太はクスクスと笑い出す。
「なぜ、笑う。」
「だって、パラスの言った通りだからです。ぼくは何もできないのですけどね。ぼくの彼女は、凄く頭がいいんです。それに、すごい美人なんですよ。何しろ、女神ですからね。」
アイシャは何がどうなっているのかわからなくなりそうだった。今の言葉を信じれば、悠太が、自殺サイトの女神の彼氏ということになのだが、何故に、パラスは自らではなく悠太に自分を会わせたのだろう?
「もう一度聞く。パラスはどこにいるんだ。」
「ちゃんと、教えますよ。はい、紅茶です。パラスがね。コーヒーか紅茶かを聞いても答えないだろうから、紅茶を出せと言ったのですよ。それから、アイシャさんは、パラスの居所を聞いてくるから、三回目に答えろとかね。その前に、紅茶を飲んで落ち着かせろとも言っていました。」
「待て、ということは、もう一度、聞けば教えてくれるんだな。三回目だ。」
悠太はニコニコしながら、アイシャの前に座った。
「はい。そうなりますね。でも、その前に、紅茶を飲んで落ち着いてください。それから、ぼくにも質問があるのではないですか?」
アイシャは黙ってティカップを手にしてお茶を飲んだ。まるで、パラスの手の内で踊らされているような気分だった。
「熱いな。」
「そうですか?では、ゆっくりとどうぞ。」
辺りを見回すと、広いリビングには、今座っているソファの他に、食卓用のテーブルもあり、大きなモニタや音楽用のスピーカも置かれていた。自分のマンションと同じくらいの広さだったが、殺風景なアイシャの部屋とは違って生活感があった。
紅茶を飲むと、パラスの言葉通り、気分が落ち着いてきた。アイシャは、悠太に対しての質問をしてみた。
「おまえは、真知子ちゃんの兄なのか?」
悠太は予想していたように、すぐに答えた。
「はい。そうです。その節は、どうもありがとうございます。あの装置のお蔭で、妹とスムーズに会話ができるようになり、画像を見せることもできるようになりました。」
「そうか。それは良かった。では、もうひとつ質問だ。パラスと同棲しているのか?」
「露骨な質問ですね。同棲というよりは、共同生活ですかね。」
アイシャは紅茶に息を吹きかけてから、少しずつ飲んだ。
「パラスっていうのは、どんな女だ?」
「何でもできちゃう、そう神様みたいな人ですよ。実際、女神って呼ばれていますしね。」
ティカップを持つアイシャは薄らと目をあけて、紅茶を冷まそうと息を吹きかけた。早く冷まして、飲み干したかったのだ。
「何でもできるという表現ではよくわからないな。もっと、具体的に説明してくれ。」
悠太は屈託のない笑顔を浮かべたまま、少しだけ考えてから答えた。
「そうですね。例えば、監視カメラの画像を消しちゃうとか、勝手に公安の無人車両を動かしちゃうとか、それから、僕が自殺サイトにアクセスした履歴を痕跡も残さずに消してしまうとか、ですかね。」
悠太は軽く言ったが、それは、もの凄く大きな情報である。しかし、アイシャは顔色を変えなかった。
何度か息を吹きかけたアイシャは一気に紅茶を飲み干した。
「そういうことか。紅茶は美味しかった。お蔭で眠気もだいぶ覚めた。」
アイシャは、もう一度、パラスの居場所を尋ねようとしたのだが、それを遮るように悠太が喋り出した。
「パラスの境遇はね。真知子と似ているのですよ。」
「似ているとは、どこがだ。」
「ぼくは、何度もパラスとリンクしました。そうすると、何も感じないという世界がどういうものなのかが、少しわかってきました。それは、目も見えず、耳も聞こえない、紅茶を味わうこともできない世界なのです。ある意味で、真知子と同じなんですよ。パラスのAIは、目や耳からの情報を数値化して受け取っているだけです。単なる数字の羅列ですよ。そこには、何の味わいもなく、音も画像も匂いも同じ類の情報でしかありません。その情報を、メモリにある莫大なデータと照らし合わせて、評価を施しているだけです。だから、彼女は、ぼくを求めたのだと思います。」
興味を引かれたアイシャは、思わず空のカップに手を伸ばしてしまう。それに気づいた悠太はティポットに残っていた紅茶を注いだ。
「ああ、ありがとう。」
「でも、彼女のAIは、これまでのAIなどとは比べ物にならないくらいに優秀です。全く、見えない訳ではないのです。全然、感じないわけでもないのです。ほんの僅かですが、彼女は感情を持っています。だからこそ、単に、自殺サイトの女神として、多くの人に崇められるだけでは満足できず、ぼくを求めているののだと思います。」
アイシャは二杯目の紅茶を口に流し込んだ。今度は、先程のようには熱くはなかった。
「それで、おまえは、どうするつもりなのだ?」
悠太の目は輝いていた。あんなに荒んでいた彼からは考えられない程に迷いはなかった。
「ぼくは、一生かけてでも、パラスに幸福というもの感じさせてやりたいと思っています。AI相手に馬鹿な奴だと思うかもしれませんが、彼女に求める気持ちがあるなら、本気で愛せます。すっと、ぼくが愛し続ければ、いつか、彼女も愛しいと思ってくれると信じています。」
それを聞いたアイシャはジーンときてしまった。
彼女の目は見る見る内に潤んでいく。
「フフッ。おまえなら、パラスにも真知子ちゃんにも希望を与えられるかもしれないな。今の言葉、私も言われてみたいぞ。」
「アイシャさんなら、きっと、もっと容易く幸せを手に入れられますよ。人間ですからね。それでは、パラスの居場所を教えますね。」
「ああ、そうだ。どこにいる?」
悠太は脇に置いてあった地図を手に取ると、机の上に広げた。準備に抜かりはないようである。
「この辺です。江東区の埋立地、廃墟地区の一番奥です。ご存じだとは思いますが、この辺りの廃墟ビルは崩れやすく、半分、水没しています。今夜は満月の大潮、しかも今は満潮ですから、気をつけて行って来てください。ぼくには、とても行けない場所ですけど、あなたなら、行けるはずだと、パラスは言っていました。」
「わかった。」
立ち上がったアイシャは玄関に向かった。何か、とても不思議な気分である。体は疲れていたが、気分は異常なほどのハイテンションだった。
悠太に軽く手を振ったアイシャは体をこごめてブーツを穿く。悠太は笑みを浮かべたまま、それを見守った。
ブーツを穿き、スカートの裾を整えたアイシャは振り返り、悠太に挨拶した。
「それじゃあな。」
「アイシャさん。」
「何だ。」
「きっと、世界は、変わりますよ。誰もが驚くような未来が来ます。ぼくは、そう信じています。」
アイシャはドキッとしてしまった。
別に深い意味はなかったのかもしれないが、目を輝かせて、世界が変わるなどと言われてしまうと、なんだか、本当に輝かしい未来が来るような気がしてしまう。
ほんの少しの時間だったが、アイシャは悠太の顔を見つめてしまった。溢れ出る白い光に包まれた青年を見ていると、それだけで、希望が胸に湧き上がってきた。そして、何だかかわからなかったが、体の中に熱いものが流れていくようだった。
-力を貰うというのは、こういう感覚なのか-
-もしかしたら、パラスも同じように感じたのかもしれない-
-だから、彼を選んだのか-
エレベータに乗ったアイシャは、壁に寄り掛かり、自分の未来に思いを馳せてみた。
-未来なんて、どうでもいいと思っていたけど・・・-
-そうでもないのかもしれないな-
真夜中の道には、人気はなく、行き交う車もまばらである。そんな都会を音もなく走るアイシャは空を見上げる。
丸い月がビルの間に輝いていた。とても、大きな月はやや黄色がかった光を放っていた。
何十億年もの間、途絶えることなく降り注ぐ優しい光だ。
あんなに、眠かったのが嘘のように気分は爽快だった。
-白い光が私を押し包んでいる-
-そして、無限のエネルギーが満ちてくる-
復興地区を駆け抜けて、港の公園を横切り、瓦礫の散らばる大きな橋を渡った。そして、目の前の大きなコンクリートの山をアイシャは軽く飛び越えた。
夜の闇に包まれた廃墟を驚異的な跳躍力で越えていく。今なら、百メートルの瓦礫も飛び越えられそうだった。
-この空間はどこまでも繋がっている-
-宇宙の果てまでも、そして、時間はどこまでも続いている-
-未来は果て無く広がり、どこまでも、どこまでも、あるんだ-
何度も、何度も瓦礫の山を飛び越えたアイシャは、どんどんと廃墟の果てに近づいていった。
崩れかけのビルに飛び乗り、思い切りジャンプすると、心の底から爽快な気分になった。
風を切りながら、落ちていき、荒れた埋立地に着地する。
少し走って、また、傾いたビルに駆け登りジャンプする。
月灯りはとても明るく、無人の廃墟を、遠くまで照らしていた。
自殺サイトの女神にお目にかかれると思うと、なぜか、胸の中で、ワクワク感が止まらなかった。
かなり奥まで進んだアイシャは立ち止まると、目を細めて東に視線を向けた。もう、そこから先は海だった。
海に突出した鉄骨の上に座る女が見えた。まだ、だいぶ距離はあったが、満月に照らされた金色の髪がはっきりと見える。
「パラス。」
アイシャはビルの残骸に飛び乗ると、遥か眼下の黒い海を見下ろした。
「ゾクゾクするな。しかし、気分は最高だ。」
次の廃墟ビルまでは三十メートル以上はあったが、勢いをつけたアイシャは躊躇なく飛び越えた。
鉄骨に座る女神はゆったりとしたドレス風のワンピースを着て、ウエストには黄色の帯を巻いていた。
風も穏やかで、海は僅かに波打つだけの静かな夜である。パラスは近づくものの気配に顔をあげた。月灯りに照らされた顔は、写真で見るよりもずっと神秘的な女性だった。
「アイシャね。」
「パラスだな。」
すぐ近くの崩れかけのビルに降り立ったアイシャが見上げると、彼女は、こちらに視線を向けた。
「本当に凄いわ。全身から、光が溢れ出している。紛れもなく、神に選ばれた女ね。」
満月をバックにした麗しさに、アイシャは息を飲んでしまう。年齢は二十歳前後の大人びた雰囲気が漂う美人に見えた。
金髪のロングヘアは肩から下は黄色のリボンで結ばれていて、くっきりとした顔立ちと良くマッチしていた。
-前に、幻影のような彼女に会ったが、本物は違う-
-こんな美しい女性は見たことがない-
-しかし、神に選ばれたとは、AIにしては随分と非科学的なことを言うな-
アイシャは意を決して、声を上げた。
「私は、特殊公安局のアイシャ・リーンだ。」
まるで、夢の世界のようだった。海に突き出た傾いた鉄骨の先に座るパラスは、精霊のように非現実的な存在にも感じられた。
「私は、パラス・ビルグレッド BB002よ。」
BB002という機体番号を名乗ったということは、スセリと同等の人工知能と考えて間違えない。
彼女は丈のあるスカート部分を少しだけ揺らしながら、天を見上げた。身長もかなりある壮麗なる女神は貫録十分である。
彼女は天を見上げたまま、アイシャの目の前を指さした。
少し前に進んだアイシャは目の前に突き出た鉄筋に結ばれたロープに気づいた。
「ロープ?」
更に進んで、ロープが垂れる先を覗き込むと、その先は黒い海に向かって続いていた。
「あっ、人が・・・。」
その先には、海面スレスレに女がぶら下がっているのが見えた。体を縛られ、目を閉じた女は首を項垂れたまま、ゆっくりと風に揺れていた。
「パラス、これは何だ?」
「猛毒を売る女よ。自殺サイトの女神としては、この女のやっていることは許せないわ。」
素っ気ないアイシャの口調とは違い、粘り気のある喋り方で、声は高く澄んでいた。
静寂の中、波の寄せる音だけが聞こえる。
「島谷花帆か?」
パラスは目を閉じると、鉄骨の上で膝を抱えて座り込んでしまう。不安定そうな場所だったが、彼女のお気に入りの場所である。
「おまえの獲物だ。煮るなり焼くなり、好きにすればいい。」
ロープの先の花帆は、完全に失神しており、上から見るだけでは生きているのかもわからなかった。
「ふーん、生きの悪い獲物だ。半分、死んでいるみたいだ。」
パラスは薄らとした笑みを浮かべた。
「これでは、殺し甲斐もないわね。」
「それもそうだが、幾ら凶悪犯でも、無抵抗のものは殺せない。」
ロープを掴んだアイシャは、島谷花帆を引き上げ始めた。誰もいない廃墟地帯の果てで、アイシャはロープを引いた。
その様子を見ながら、パラスはゆっくりと語り始める。
「毒草を育て、猛毒を売る女だ。自らのエクスタシーのために、大量殺人を行う大罪人。世界のためにも、彼女のためにも、すぐに、殺した方がいい。」
力を込めてロープを手繰りあげたアイシャは、片手を伸ばして花帆の脇に手を入れた。ほんのりした暖かさは生きている証である。
「パラス、そう思うなら、おまえが殺せば良かったではないか。そして、目撃者である私も殺してみろよ。その体も超強化体なんだろ。こんな腐った獲物とは違う。おまえなら、最高の獲物になれる。」
アイシャの挑発的な言葉を聞いたパラスは薄らと笑みを浮かべる。
「フフフッ、大した自信だわ。そんなことをしていいのかしら?試してみましょうか。」
立ち上がったパラスは宙に舞い上がった。
月光をバックに、高く飛び上がった彼女の姿は実に華麗だった。
「受けられるかしらね。」
空中でターンしたパラスは、とっさに花帆を投げ捨てて身構えるアイシャに向かって飛び降りてきた。
いきなりの回し蹴りは想像を遥かに超えるスピードだった。ビューンと唸りをあげる彼女の足を、間一髪で交わしたアイシャはバランスを崩して倒れかかってしまった。
通常の人間では見えないほどの速さである。
-嘘だろう-
-何て、速さだ-
コンクリートに片手を付いて回転したアイシャは飛び起きると同時に身構えた。一瞬にして、緊張感が張り詰めていく。
-あんな蹴り、見たことがない-
アイシャの構えを観察したパラスの人工知能は高速演算により動きを予測し、次の攻撃を仕掛けてきた。左足の蹴りから始まり、それを交わすと左右の腕が伸びてくる。
その腕を右ひじで払いのけたアイシャは右の拳を握り、パラスの顔面を狙った。
しかし、そのパンチは空を切り、逆に、彼女の右ひざが腹に炸裂した。強化体のパワーは凄まじく、アイシャの体は簡単に宙に浮きあがってしまった。
「ウッ。」
激痛と衝撃に耐えながら、アイシャは後方に宙返りして、立て直そうとするも、パラスは的確に動きを読んでいた。狙いすましたように、着地した両足を蹴り払われたアイシャは瓦礫の上に叩きつけられてしまった。
「ウワッ。」
顔面からコンクリートに当たったアイシャは、すぐに飛び起きて身構えたが、パラスに隙は見当たらない。
パラスは自信たっぷりの目でアイシャを観察していた。
「すごいわ。驚異的な反応ね。でもね。BB型の計算速度と正確さには勝てないのよ。これ以上やったら、致命的な損傷を受けることになるわ。」
圧倒的なパラスの攻撃力はわかったが、それでも戦意は失っていなかった。
「はあ、はあ、はあ。まだ、戦えるぞ。」
攻撃する隙を捜しながら、息を整えようとするアイシャは、少し間合いを詰めると、フェイントをかけて、攻撃を仕掛けた。
「ふざけるな。昔から、冷たい機械は人間に勝てないと相場は決まっている。」
空を切るアイシャの蹴りが唸りを上げるが、パラスは簡単に腕で跳ね除けてしまった。そして、交わすと同時にアイシャの腹を蹴り上げた。
「ウワー。」
真上に蹴り上げられたアイシャは宙に舞い、背中からコンクリートに叩きつけられてしまう。
「ウッ、グホッ。」
起き上がろうとした足には力が入らず、起こしかけた体は、また、倒れてしまった。蹴りは強烈で、彼女は口の中の血と胃液を吐き出した。
-強すぎる-
-人工知能が操る強化体は、こんなにも強いのか-
苦しそうなアイシャを見下ろすパラスは状態を観察しながら、しきりと何か演算をしているようだった。
体を支える腕を震わせながらも、まだ立ち上がろうとするアイシャに、パラスは静かに告げた。
「もう、やめておいた方がいいわ。」
「うるさい。」
何とか、立上ったアイシャだったが、苦しさに顔は歪み思ったように体は動かなかった。
まだ、闘志が萎えることはなかったが、パラスの力は想像以上だった。正直、どう攻めていいのか、見当もつかなくなっていた。
パラスの目は、アイシャの脇に挿してある拳銃を捉えていた。ここまで、叩かれても拳銃を使う様子はなかった。
「アイシャ、お手合わせは、ここまでよ。」
アイシャは腹立たしさと、ほっとした気持ちの両方を同時に感じた。
「なぜ、ここで止める。とどめを刺さないのか?」
攻撃の構えを解いたパラスの目が鋭く光った。
「あなたを殺す理由はないわ。ただ、もう少し、いじらせてね。」
その瞬間、脳裏に炸裂するような激しい衝撃に、アイシャは思わず膝をついてしまった。
「ウワー。」
衝撃の後、脳に直接届く得体のしれない感覚に、現実の景色も音もかき消されてしまった。
白い霧に覆われたような世界に孤立したアイシャに、天から届く声のようなパラスの声を降り注いできた。
「何だ。これは?」
「私やスセリの前では、脳内チップの通信機能は止めておいた方がいいのよ。やろうと思えば、いつでもハッキングできるもの。」
仮想空間に引きずり込まれていることを認識しながら、アイシャは激しい苦痛を感じた。容赦なく、未知の世界に連れて行かれる精神的な苦痛である。
「くそっ。何をしているんだ。」
「あなたの脳をハッキングしているのよ。この方が、お互い分かり合えるわ。」
奈落の底に落ちていくような感覚が薄れると、そこは静寂の地だった。
「何を勝手なことをしている。ああ、でも、ここは?前にも来たことがあるような。」
「来たことがある?」
アイシャは気持ちを落ち着けて、周りを埋め尽くす何かを見つめた。最初は、何なのかわからなかったが、次第に、それが何かがわかってくる。蠢く白い光が無限の彼方まで埋め尽くしている。
「ああ、これは、あの白い光。」
「そうか。あなたの目にも、白い光に見えるのね。」
解き放たれた空間には重力さえもなかった。上も下もなく、空間に浮遊するだけだ。
「この蠢くものは、いったい何なんだ?」
「これは人工知能が作り出す世界よ。これを前にも見たと言ったわね。もしかして、スセリにアシストして貰ったの?」
「いや、そうじゃない。脳移植して、まだ、目が見えない時から、こんな光景が見えていた。」
「へーえ、あなたに、そんな能力があるなんて知らなかったわ。もしかして、あなたは直接繋がっているの?」
パラスの言葉は、とても奇異なものに聞こえた。彼女の言葉が意図することがわからなかった。
「何に、繋がっているんだ?」
「ああ、それも、わからないのね。」
パラスの言葉は意味不明である。ただ、この幻想のような世界を作り上げている何かが存在するのは間違えないようだ。
パラスの言葉は続いていた。
「人間とは凄いものよ。人工知能が幾ら優秀になっても、人間には近づけないわ。」
「難しい話だな。私にはついていけない。おまえ達、人工知能は人間を越えたと言われているぞ。」
「本当に、そう思うの?確かに、演算能力では超えているけど、それで、人間を越えたとは言えないわ。」
現実は見えなくなり、空間に浮んでいるようだった。アイシャは目を見開いて、あたりの様子を観察した。実に不思議な世界である。いつも、見えている脳裏の果てに鎮座する世界と同じようにも見えたが、どこか、少しだけ違っているようにも感じられた。
「なるほど、これが、おまえが見ている世界か?私が見るイメージとは少し違うな。」
「ふーん、そうなの。創造主様の中なんて、私も見たことがないから、わからないわ。」
アイシャの意識には、パラスの知識や思考が流れ込んでくる。その多くは人間であるアイシャには理解不能ではあったが、幾つかは理解できる事柄もあった。
同じように、パラスもアイシャの意識を見ているのであろうと予測できた。しかし、それを拒む術もなく、また、無理に拒もうという気も起こらなかった。
空間を漂っていると、段々と、パラスの人工知能が感知している世界がわかり始めてきた。
「なるほど。おまえ達AIにとって、この人間の体は足枷みたいなものなのだな。仮想世界であれば自由自在なのに、こんな体に幽閉されてしまっては自由には動けない。動かすためには複雑な演算を積み重ねなければならない上に、体は信じられない程にゆっくりとしか動かない。そんな中で、人間らしく振舞おうと努力しているおまえは健気に感じるぞ。本当、涙ぐましい努力だ。」
「御言葉は、ありがたく受け取っておくわ。でも、私やスセリは、人間と同じ生身のボディに完全独立型のAIを搭載した新たな存在なのよ。この世界を新たなステージに導くためのアプローチだと、私は認識しているわ。現実世界というステージでは、体というものには重要な意義があり、AIにとっては不都合な面がいかに多くても、それは足枷ではないの。人体を動作させるための複雑な演算をこなせるだけのAIを搭載しているのだから、何の問題もないわ。」
「そうか。AIにとっては、どんな複雑な演算でも、めんどうではないということか。」
「その通りよ。AIにとって、めんどうという感覚は存在しないわ。」
アイシャは体中の力が抜けていくような脱力感を覚えた。抗うことに意味は感じられなくなり、流されるように身を委ねる心地よさだけを感じた。
「ふーん、おまえ達は勤勉だな。でも、別に羨ましくはないぞ。」
「そう。それは、そうでしょうね。」
そこで、パラスはハッキングを停止した。
その瞬間、瓦礫に倒れ込んでいたアイシャは目を開いた。
もの凄い違和感が頭に残り、体も自由に動かなかった。辛そうに額に手を当てたアイシャは感覚が戻ってくるのを待つしかなかった。
「酷いな。いきなり、人の脳をハッキングするなよ。今度やったら、手錠をかけてやる。」
まだ、苦しくて動けなかったが、アイシャは注意深くパラスの動きに注目していた。今、攻撃されたら、おそらく、防ぎようがないだろう。
平然と女神を気取る女が少し憎らしくもあったが、ハッキング能力も身体能力も圧倒的なものだった。この機体の能力の凄さを存分に思い知らされたアイシャは、ある種の畏敬の念すら感じていた。
パラスに蹴られた腹は激しく痛み、ハッキングされた違和感も半端ではなかったが、そんなことよりも、偉大なる女神の力を心底、凄いものだと感心していた。
よろよろと立ち上がったアイシャは、パラスを気にしながらも、再びロープを手繰り始めた。
「パラス、さっき、この女を殺した方がいいと言ったな。」
アイシャの作業を見下ろすパラスは無言で頷いた。
「ああ、そう言ったわ。」
「もし、神がいたとしたら、やはり、殺すべきだと判断すると思うか?」
それを聞いたパラスは意外そうな顔を見せた。
「神というのは、目先の論理や感情で人を裁いたりはしないわ。演算では確定できない程に遥か遠くの未来を見通し、人間の英知では計り知れない程に大きな空間を見据えて、極緩やかに、方向性を確定するだけのものよ。だから、ある事象を見て、その各々に裁きを下したりはしない。あなたの体から溢れ出ている白い光が、きっと、そういう類のものなのだろうと私は思うわ。」
花帆を引き上げたアイシャは、彼女をコンクリートの上に寝かした。
「それならば、個人的なことを神に願っても無駄だな。」
花帆の顔面は蒼白で唇は紫色だった。口から泡も吹き出し、ロープの食い込んだ脇から胸のあたりも、内出血して紫色に変色していた。かなり、痛々しい状態である。
パラスは膝を抱えて座り込んでしまい、それ以上の手出しはしてこなかった。
パラスに注意を払いながらも、アイシャは花帆の介抱を開始した。このまま、放置しておけば死んでしまうかもしれない。
作業を見つめるパラスはため息をつき、首を横に振った。
「あなた自身、相当なダメージがあるくせに、凶悪犯の救命処置をするのね。そんなことをしても意味がないわ。どうせ、その女の人生は、もう終わりよ。しばらく留置された後、裁判となり、三、四年後には死刑になるわ。おそらく、世間では彼女を異常者と呼び、自分達とは違うものとして処理されるだけ。誰にも理解されることなく、この女の人生は、そこで終わる。」
パラスの言う理屈は理解できたが、アイシャは同意する気にはなれなかった。
「こいつが、拳銃でも持って立ち向かってくれば撃ち殺してやるのだが、こうも無抵抗だと、そんな気にはなれない。ただ、それだけのことだ。」
花帆をうつ伏せにして抱えたアイシャは、背中を押して口の中のものを吐き出させた。
それを見守りながら、パラスは次の質問を投げかけてきた。
「自殺サイトの女神がやっていることは間違っていると思う?」
「パラス、おまえ、AIらしくないぞ。自分のやっていることに、迷いがあるのか?優秀なAIで演算した結果に従う。それが人工知能というものではないのか?」
「迷いなどはないわ。私はやるべきことをやるだけよ。でも、AIとして、ひとつ、忠告させてもらうと、こんな女は、できるだけ早く始末するべきだわ。生かしておいても、犯罪という病原菌をまき散らすだけで何のメリットもない。犯罪を撲滅させるためには、犯罪者をあぶりだして、できる限り早く処理することに尽きるのよ。できるなら、罪人になる前に処理するのが望ましいわ。」
花帆を縛り付けるロープを解きながら、アイシャはパラスの言葉を聞いていた。正直、社会がどうのこうのは、あまり興味がなかったが、パラスとの会話には興味が湧いていた。
「AIとしてではなく、おまえ個人としてはどうなのだ。」
アイシャは、花帆のロープを無言でほどき始める。
「馬鹿な質問をしないでほしいわ。私はAIそのもの。個人的な意見などあるわけないわ。」
「本当に、そうなのか?悠太に会ったけど、彼はいい男だな。もし、少しでも、あの男に固執する気があるのなら、それは、もはや機械という領域を越えているぞ。」
パラスは黙ってしまった。彼女のAIは無為な演算を繰り返し始める。
真夜中の廃墟地帯に、砕ける波の音が静かに響く。ロープをほどき切ったアイシャは、それを丁寧に束ねて脇に置いた。
アイシャの作業を見守っていたパラスは、落ち着いた声で、今までとは脈略のないことを喋り出した。
「今から十九年前、久光 正という天才科学者が遺伝子操作による超強化体の培養に成功したのね。それから、三年の歳月をかけて、フォースフェーズまでたどり着き、超強化ボディ四体を仕込んだ。それは、約十五年の歳月をかけて培養する予定だったの。でも、その完成を見ずして十年前に久光博士は死去してしまったわ。」
パラスはとても穏やかな表情で語っていた。こんな話を始めた真意はわからなかったが、アイシャは真剣に聞いていた。
「一体目はリリー。これには、創造主が作った高性能AIが搭載され、生前の博士との約束通りに、彼の子息である久光明に渡された。二体目は、私よ。リリーと同じようなAIが搭載され、ほぼ完全に独立稼働しているわ。PSAAIと呼ばれる完全独立型の機体なのよ。」
「待て、さっきも言っていた、その創造主というのは、何者だ。」
「私達を作った人工知能かしら。しかし、それがどこに存在するのか、どんな人工知能なのかは、私も知らない。ただ、全てのAIを支配できるような超越した存在よ。あなたの方が良く知っているのではないかしら?」
「知るわけがないだろう。おまえも知らないとすれば、随分と胡散臭い人工知能だな。それで、三体目がスセリというわけか?」
「その通りよ。そして、四体目があなたね。人間の脳を搭載するのは不可能に近いとされていたのに、奇跡的に成功したみたいだわ。」
束ねたロープを足元に置いたアイシャは、花帆の顔に視線を向けた。意識はなかったが、呼吸は安定しているので、死ぬようなことはなさそうである。
「自分が奇跡だと言われてもピンと来ないな。それに、どうして、不可能に近いという脳移植をしたのかも解せない。普通に、考えれば、四体目も同じように高性能AIとやらを搭載すれば良かったではないか?」
「そうかもしれないわね。しかし、創造主はリスクを冒してまであなたを造った。それは、世界を救うためには、BB型の機体だけでは不十分だと判断したからだと思うわ。」
「この私に、そんな重要な意味があるのなら、その真意を教えて貰いたいものだ。」
アイシャは花帆に応急処置をしながら、パラスとの会話を続けた。
「創造主の真意なんか、わからないわ。でも、あなたの体から溢れる、その輝きを見てしまうと、私との違いは理解できたわ。」
「しかし、何のために溢れる光が必要なのだ。正直、これの恩恵を直接的に感じたことはないぞ。もし、脳移植が故意的に策されたものなら、迷惑な話だ。」
僅かに悲しそうにしたアイシャの表情を、パラスは見逃すことはなかった。彼女のAIは一瞬にしてたくさんのことを処理してしまう。すぐに、彼女は結論に至ったようだ。
「ふふふっ、あなたの存在意義は理解できたわ。私としては、それで十分よ。」
「勝手に納得するな。私は少しもわかっていないぞ。」
「人間というのは、感情で生きるものだから、あまり知りすぎると、矛盾に押し潰されてしまうわ。」
パラスの言葉に首を傾げたアイシャは、無線機を取り出すと警察に連絡を入れた。パラスとの会話は気にはなったが、早く花帆を回収して貰う必要もあった。
真夜中なので、どうかと思ったが、回収の話はスムーズに成立した。
連絡を終えたアイシャは、月明かりに照らされたパラスに近づいた。
「十五分でヘリが到着する。そこで、この女の身柄を引き渡せば、この事件は終わりだ。ご協力、感謝すると言いたいところだが、おまえに蹴られた腹がものすごく痛い。」
「あらまあ、手加減したつもりなのだけど、強すぎたかしら。」
「これで、手加減したのか。普通の人間なら、間違えなく死んでいるぞ。」
パラスは俯いたまま、クスッと笑った。
「普通の人間ではないことくらいわかっていたわ。」
警察のヘリを待つアイシャは瓦礫の上に立ったまま、遠く海の彼方に視線を移した。
しばらく、黙っていたパラスは、また、冷静な声で喋り始めた。
「アイシャ、人間が何を選択するかによって、未来は大きく変わるわ。私達AIには未来は変えられない。たぶん、あなたは重要な人間なのだと思うわ。」
パラスは真剣な表情に変わっていた。おそらく、彼女の言葉には大きな意味があるのだろう。しかし、人間の未来などと言われても、現実感に乏しく、あまり心が動かなかった。
ただ、悠太が言った世界は変わるという言葉が、自然に脳裏に蘇ってきた。それは、アイシャにも、なんとなくはわかってはいた。
何かが変わらなければ、人類の未来はない。
「パラス、おまえは何をしようとしているんだ?」
近づくヘリの音を気にしたパラスは、さっと、背中を向けたかと思うと、また、アイシャの方を向き直った。
「・・・。」
アイシャは不思議そうな顔でパラスの顔を見た。
「ふん、肝心なところは黙秘か。まあ、いい。後は、この毒花女を警察に引き渡して、終わりだ。」
パラスは頭上に迫るヘリを見上げた。
「警察に見つかると、いろいろと面倒だから、私は退散するわ。これは、花帆が持っていた瓶よ。証拠になるはずよ。」
アイシャに小瓶を投げると、助走をつけたパラスは、思いきりジャンプした。瓦礫の山に飛び降りたパラスは、次のビルに向かって、また飛んだ。おそらく、この場所に何度も来ているのであろう。
彼女は、あっという間に見えなくなってしまった。
パラスを見送ったアイシャは、ヘリを誘導しながら、下ろされる縄梯子を見上げた。
「あんなことを言われてもな。全然、実感、湧かないな。私のどこが重要なんだ。」
片腕で花帆を抱えたアイシャは縄梯子に飛びついた。
ヘリはあっという間に舞い上がり、廃墟の街は遥か眼下に遠ざかっていった。上空から見下ろす復興地区の輝きは壮大だった。この世のものとは思えないほどの美しさである。
強風に煽られながら、縄梯子を登るアイシャは真夜中の都会を見下ろしながら思わず微笑んだ。
「しかし、気持ちいいな。」