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第一部 水平線の彼方へ  第六章 人を魅了するもの

第六章

街を蹂躙する戦車に防衛システムのハッキングと、いよいよ本格的な戦いの始まりです。

人を魅了するための存在であるスセリの登場話でもあり、PSAAIなるものの正体が少しずつ明らかにされていきます。

 シャワーを浴びたアイシャは髪を拭きながらリビングに出ると、眼下に広がる夜景を見下ろした。一人暮らしであれば、すぐに服を着る必要もなかった。

 嘗ての戦争で世界中の主だった都市は、全て壊滅したと言う。しかし、この東京の街を見る限りは、それは遥か昔のこととしか思えなかった。実際、百五十年も前の出来事で、それを記憶する人間も残ってはいない。ただ、記録として、その大惨事は人々の記憶に刻まているだけである。

 目を閉じて、自分というもの見つめてみる。

 確かに、他とは隔たりを持つ自分は存在している。記憶も曖昧で、どこで、どうやって生きていたのかもわからないが、確実に自分は存在した。

 しかし、自分の境界は不明瞭だった。

 自分という空間は、普段認識している部分だけではなく、果てしなく広がっているように思える。どこまでも、ずっと、ずっと、続いている。

 果てを見ようとしても、そのようなものは見えやしない。

 ただ、意味も分からない何かが、果てしなく広がっている。まるで宇宙空間のように無機質で得体のしれない何かだ。

 でも、そこは空っぽの世界ではない。人間の感覚では認知できないような、何かがある。

まるで、無限の力と無限の英知が眠っているような世界だ。

 現実という世界、そして、仮想世界、それらの区別は明確ではない。そして、自分の中にある果てしない世界も、また、同様である。

 何かの気配に、アイシャはふと後ろを振り返えった。

 「あっ?」

 そこに立つ金髪の女を見たアイシャは咄嗟に床に転がり、テーブルの上に置いたあった拳銃を掴んだ。いったい、どこから侵入してきたのだろう。

 「何者だ。」

 とても美しい顔の女は薄っすらと笑みを浮かべていた。何事にも動じないような自信を持った顔である。

 -ああ、何だ、これは?-

 -幻覚にしてはリアルすぎる-

 薄いグレーのワンピースを着た女の口がゆっくりと動きだした。

 「ふふふ、創造主の娘。」

 引き金に指を当てたアイシャは注意深く体を起こした。

 「創造主の娘?それは、どういう意味だ。」

 答えを待つアイシャの視界から、女の輪郭はぼやけ始めた。

 信じられない光景に、アイシャは目を疑った。

 -ああ、そうか-

 -これは、現実ではない-

 女の姿は消え去り、肩で息をするアイシャは緊張感を緩めて、拳銃を下した。

 「やはり、幻想か?」

 深呼吸したアイシャは床に落ちたバスタオルを拾うと、椅子に掛けた。

 「私はいったい、どうなってるのだろう?」


 翌日の真昼間、暴走する無人戦車に向かって突っ走る車に乗るアイシャは窓を開いて身を乗り出すと対戦車砲を構えた。

 「五郎、撃つぞ。耳を塞いでおけ。」

 「えええー、ここで、撃つのかよ。」

 風に髪を靡かせながら、慎重に狙いを定めたアイシャは戦車に向かって発砲した。

 ドカーン。

 ヒューン。

 パコーン。

 凄まじい衝撃音に、運転していた五郎は思わず顔をしかめる。

 「ウワー。耳を塞げって、運転しながらじゃ無理だよ。相変わらず、大胆だな。」

 キャタピラ近くに被弾した戦車は白煙をあげて停止したが、すぐに、再発進してしまう。対戦車砲の威力も移動用では限定的なようだ。

 戦車の大砲がこちらに向けられるのを見たアイシャは車の中に入ると、運転している五郎に向かって叫んだ。

 「Uターンだ。逃げるぞ。最新型の戦車相手に、こんな武器で戦えるか。」

 思いきりブレーキを踏んだ五郎は、タイヤを軋ませながら、車をターンして、戦車の射程から一目散に逃げ出した。

 街中を縦横無尽に走り回る複数の戦車に、逃げ惑う人々の顔は恐怖に歪む。もはや、公安の手におえる状態ではなかった。

 アイシャは無線連絡を入れた。

 「室長、この程度の武器では、戦車なんか止められません。もう少し、ましな作戦を考えてください。」

 いつになく強い口調のアイシャに対して、室長は落ち着いた声で応答してきた。

 「今、空自の戦闘ヘリが出動した。お前達は、一般市民が逃げる時間を稼いでくれ。」

 「時間を稼げと言われても、これは、公安の出る幕ではありませんよ。」

 「つべこべ言わずに、何とかしろ。」

 室長の叱咤の声に、アイシャは呆れ顔で回線を叩き切る。

 「くそおやじ。殺されたら、化けて出てやる。」

 それを聞いていた五郎はケラケラと笑い出した。

 「アイシャは、やっぱり最高だね。」

 「笑うな。五郎、右に曲がれ。あの戦車を足止めするぞ。」

 「了解。なんだかんだ言ってもやるんだね。」

 「仕方ないだろう。」

 再び、窓から身を乗り出したアイシャは対戦車砲を構えると、すぐに発射した。さっきと同じように白煙をあげて、戦車は停止するも、また、ゆっくりと主砲を向けてくる。こちらは、乗用車である。とても勝ち目などあるはずもなかった。

 「五郎。離脱だ。あんなのに撃たれたら、ひとたまりもない。急げ。」

 「任せとけって。」

 タイヤを軋ませて急旋回する車の中から、アイシャは暴走する複数の戦車を目で追った。よく見れば、威嚇するだけで発砲する素振りもなければ、逃げ惑う市民を追うだけでひき殺す様子もない。

 「ふーん、そういうことか?」

 対戦車砲を後部座席に転がしたアイシャは助手席に乗り移った。

 「馬鹿らしい。もう、やめだ。」

 「えっ。やめるって、どうするんだい?」

 もう、完全にやる気なしのアイシャは、防弾ベストも脱ぎ始めていた。

 「さあな。二人で海辺のドライブでもするか?」

 「しかし、室長命令が・・・。」

 心配顔の五郎に対し、アイシャは助手席に寝そべり始めてしまう。

 「心配するな。責任を追及されるのは私だ。それとも、ドライブの相手が私では不足か?」

 「いや、とんでもありません。」


 本日の早朝、陸自の無人戦車二十二台が暴走し始めた。基地の金網を破って街中に侵入した戦車は首都中心部に向かって突っ走り、通勤ラッシュの街を破壊しながら都市部を縦断した。警察庁で発生した戦闘車両の暴走と同じような事件であるが、今度は戦車だけではなく、東京近郊の監視レーダーや通信システムにまで、ハッキングが掛けられ、現在、自衛隊の主要設備は事実上ダウンしていた。

 その上、対外防衛の要でもある宮古島のミサイル基地も何者かにハッキングされ、レーダーもミサイル操作できなくなってしまっていた。

 すなわち、国の防衛システムは無力化され、暴走した戦車が首都を走り回っているという状況である。

 窓を全開にした車は海辺の高速に乗り、潮風を切って疾走する。アイシャは薄手のワンピース姿になり、風に吹かれながら助手席で寝そべった。完全にリラックスモードである。

 風で揺らめくワンピースの裾を気にしながら、五郎は少し不安げに呟いた。

 「でも、まずくないかな。命令無視は、重罪だよ。」

 「くそおやじに怒られるのがそんなに怖いのか。あんな戦車は自衛隊が何とかすべきものだ。私達の出る幕ではない。」

 アイシャは、胸元が見えるように、わざと胸のボタンをひとつはずす。それに吸い込まれるように、五郎の目はそこに向けられた。

 「まあ、そうだけどさ。これって、さぼりだよね。」

 「そういうこと。もう、自動運転でいいぞ。おまえも、少しくつろいでいろ。」

 自動運転に切り替えた五郎はチラチラとアイシャを見てしまう。膝を組んで目を閉じている姿はとてもかわいらしいし、風で揺れるワンピースの裾や胸元があまりに無防備である。

 見とれるように眺めていると、突然目を開いたアイシャと視線が合ってしまい、五郎は慌てて目を逸らした。

 アイシャは嬉しそうに五郎の表情を観察する。

 「そんなに、私の体が気になるのか?おまえ、いつもジロジロ見ているな。」

 五郎は頭を掻きながらも白状する。

 「まあ、気にならないと言えば嘘になるけど、そんな怖い顔しないでよ。」

 バツの悪そうな五郎を見て、アイシャは悪戯っぽく笑った。五郎にとっては、そんなアイシャの表情も堪らないところだった。

 「見ていたいのなら、構わないが、手は出すなよ。」

 「あたりまえだよ。勤務中に上司に手を出すわけがないだろう。だいたい、俺がそんな男に見えるの?」

 「見えるから、言ったのだ。」

 「もう、ひどいな。」

 アイシャは潮風に当たりながら目を閉じる。少し油の匂いが混じってはいたが、海の香りは心を落ち着かせてくれる。それに伴い、遠い記憶が微かに浮かんでくるのだが、それが何なのかはわからない。どこで生まれ、何をして生きてきたのかも思い出すことはできなかった。

 目を閉じてくつろぐアイシャを見ながら、五郎は思い切って誘ってみた。

 「ねぇ、アイシャ。今度の非番にデートしないか?」

 アイシャは目を閉じたまま即座に答えた。

 「デートか。実に新鮮でもあるが、非現実的な言葉だな。」

 あまりに落ち着いた彼女の反応に、五郎はがっかりしてしまう。

 「非現実的?それは、俺とはデートしないという意味?」

 「少なくとも、今はそんな気にはなれないな。」

 それを聞いた五郎はとどめを刺された気分である。あまりのしょげようを見たアイシャは、少し可哀そうになってしまった。

 -少し、いじめすぎたか-

 何か言葉をかけた方がいいかと考えているところに、真美からの連絡が入いってきてしまった。脳への直接アクセスである。

 瞬時に内容を理解したアイシャは急いで身を起こし、放り投げてあった防弾服に手を伸ばした。

 彼女の表情からは、少なからず緊迫感が伝わってきた。ただならぬ様子に、五郎は尋ねる。

 「どうかしたの?」

 「ああ、ナビにデータを転送する。そこに向かってくれ。」

 ナビを見た五郎は意外な場所に不審を抱いた。

 「一般人のマンションか。」

 「そうだ。今、真美から連絡があった。犯人がわかったそうだ。残念ながら、ドライブは中止だな。捕まえに行くぞ。」

 手際よく準備を始めるアイシャを見た五郎は、少し残念に思いながらも力強く頷いた。防弾服を身に着けて、二丁の拳銃を仕込めば、史上最強の女の子の出来上がりである。

 「了解。」

 気を引き締めて、自動操縦を解除しようとした五郎をアイシャは静止した。

 「もう少し、自動運転のままでいい。住所はナビに転送したから、黙っていても着く。しばらく、真美と通信しているから、この体でも眺めて妄想でもしていろ。」

 「妄想って、随分だな。」

 「違うのか?」

 「あああ、否定できない自分が悲しくなる。」

 アイシャは再び目を閉じて、真美との通信を続ける。

 人を馬鹿にしたようなアイシャの言葉に、五郎は苦笑しながらも背もたれに体を埋めた。こんな年下の女の子にからかわれている歯がゆさはあったが、不思議なほどに腹は立たない。

 圧倒的な戦闘能力と大胆さを持ち合わせている美少女。そんなアイシャとコンビを組めるだけでも幸運なことだ。

 言われた通りにアイシャの体を眺める五郎は、風に揺れるミニスカートを見て、思わず目を逸らした。

 「アイシャ、スカートが風で捲れているよ。」

 アイシャは通信を聞きながら、片手でスカートの裾を押さえた。あまり気にはしていないようである。

 真美からの報告は下記のような内容だった。

 無人戦車をハッキングしたのは、科学技術庁の研究員、長川洋二。二十五歳。彼の論文やネット書き込みから、強烈なAI社会への批判思想の持ち主だと推定できた。仕事は至って真面目。内向的であるが、言い出したら聞かない性格で一途なところもある。趣味は旅らしく、頻繁に海外旅行もしている。秘境や海が好みのようだった。仕事は兵器関連の開発で、エレクトロニクス関連ではなく、メカニカルな爆薬や発火装置が専門の研究員である。かなり優秀な男という評判だった。

 そこから、推察できるのは、AIに頼るのは危険だと訴えるために、AIで駆動されている無人戦車をハッキングしたという動機である。

 辛山の指令は、この長川の身柄拘束である。ただの研究員であれば、取り押さえることに困難さはないはずである。

 アイシャの頭には、まだ真美の報告が続いていた。

 「でも、アイシャ。監視レーダーや通信システムをハッキングしたのは別な人間だと思うわ。」

 「ふーん。同時に別々な犯人が、別々なところに仕掛けてきたということか。」

 「こちらの犯人はわからないけど、たぶん、長谷川とは無関係だわ。」

 「そうか。偶然にしては出来すぎているような気もするが、無関係ね。」

 アイシャは、事件の内容を頭の中で再確認する。ふたつの事件が同時に起きたということは、何らかの関係がありそうにも思えたが、その関係がわからない以上、別々な事件と捉えて、各個解決するしかなかった。

 アイシャは真美に疑問をぶつけてみる。

 「無人戦車をハッキングするとなれば、相当に高度なハッキング技術が必要になる。この長谷川という男、そういう奴なのか?」

 「そうなのよ。研究員であれば、ある程度の知識はあるだろうけど、そんな技術を持っているとは考えにくい。それに、プロにしてはお粗末すぎるくらい、簡単に身元がわかってしまったわ。」

 「ハッキングを補助した人間がいるってことかな。」

 「それしか考えられないわ。」

 「また、謎のハッカーか。」

 ショルダーバックから拳銃を取り出したアイシャは、念のためのチェックを始めた。拳銃は必要ないかもしれないが、油断は禁物である。


 鉄筋でできた貸マンションに到着した二人は、長谷川の部屋を見上げた。古い建物の三階、一番奥が彼の部屋である。

 「真美、奴は部屋にいるのか?」

 「いると思うわ。IDの反応がある。」

 「わかった。」

 通信を遮断したアイシャは、拳銃を手にして五郎を振り返った。

 「私はエレベータで行く。おまえは階段から上がれ。」

 「了解。」

 走り出す五郎の背中に向かって、アイシャは付け加えた。

 「油断するなよ。奴は爆破物のプロだ。」

 「だいじょうぶ。心配するな。」

 階段を駆けあがる五郎を見送ったアイシャはエレベータの到着を待った。

 素人相手であれば、特に心配することもないのだが、なかなか来ないエレベータにじれったさを感じた。こんなことなら、自分が階段で行けば良かったと後悔してしまう。

 三階に到着したアイシャは、五郎と無事合流できてほっとした。二人は拳銃を構えながら、音もなく長谷川の部屋の前まで達した。

 目を合わせたアイシャが頷くのを見た五郎は呼び鈴を鳴らした。

 二度鳴らしたが、返事はない。アイシャは頑丈そうな扉に目をやって少し考えた。

 「鋼鉄の扉か。蹴ったら痛そうだな。」

 「痛いと言うか、絶対に壊れないと思うけどな。」

 「仕方ないな。」

 問答無用のアイシャは小型の爆薬を仕掛け始めた。真美に頼めば、キーの暗証番号は入手できるはずだが、それまで待つ気はないらしい。

 「下がっていろ。爆破するぞ。」

 かなり過激なアイシャの行動だったが、五郎は意見などは挟まない。

 「へいへい。」

 手すりまで下がった二人が耳を塞いで背を向けると、爆発音とともに白煙を上げてドアは開いた。

 チビレコンを出そうとする五郎を横目に、アイシャは拳銃を構えながら部屋に突入してしまった。勇敢すぎる上司に閉口しながら、五郎も急いで後に続く。

 油断なく拳銃を構え、ひとつひとつドアを開いていったが、人影はなかった。

 全ての部屋を確認した五郎は、居間に置かれた工具や作りかけの爆弾に目をやった。居間の棚には大量の爆薬も残されていた。それも、入手が難しい強力な爆薬だ。

 「爆破テロでも計画していたのかな?」

 「どうかな?誰もいないな。さあて、どうするかだ。」

 「でも、IDの反応はあったんだよね。」

 「そうだな。」

 居間にあるAI端末の電源を入れたアイシャは、自分のAI端末とのリンクを試みた。

 その間に、五郎は、部屋にある置物から、冷蔵庫の中まで、慎重に確認していく。栄養ゼリーだけではなく、実物の野菜や肉もかなりの量が確保されていた。その日付から、少なくとも昨日まではここにいたことが推定できた。

 「五郎、これを見ろ。」

 アイシャの声に、居間に戻った五郎は画面に表示された文を読み始めた。

 「これは、かなり強烈な警鐘だね。」

 ネット上に書き込まれた長谷川の声明は、AI世界に傾倒する人間の衰退と破滅を強烈な言葉と写真で批判していた。数年間続く書き込みを読み解いていくと、次第に激化していく不満と危機感が読み取れた。多くの賛同者もいたが、時にAI世界崇拝者との間での激論が交わされている局面も多く見られた。

 文章を読み進める五郎の横で、アイシャは長谷川が作ったサイトへのアクセス履歴を分析し始めた。

 「こいつ、怪しいな。」

 「何か見つかったの?」

 「数か月前から、長谷川のサイトに書き込んでいる奴がいる。四十分前にもアクセスがある。内容は消去されているが、長谷川の返答は、わかった、すぐに脱出する、となっている。私達が来ることを事前に察知していた奴がいて、そいつが長谷川に情報を提供したってところだな。」

 すぐに、アイシャは本部にいる真美に連絡を取る。

 「真美、長谷川の個人サイトに書き込んだ奴を捜してくれ。そいつが、私達が来ることを察知して、奴を逃がしたと思われる。」

 「わかったわ。でも、おかしいわね。長谷川のID反応は、まだ、その部屋から動いていないわ。本当に、誰もいないの?」

 「ああ、間違えない。誰もいないぞ。」

 「うーん。変だなあ。また、訳が分からないことが起きちゃったわ。でも、気を付けてよ。どこかに潜んでいるかもしれない。」

 「ああ、わかった。」

 回線を切ったアイシャに、五郎は声を掛ける。

 「しかし、こいつは、どこで、俺たちの動きを察知したんだろう。アイシャも公安局の専用通信ラインを使っていたよね。」

 「もちろんだ。しかし、こいつにとっては、公用ラインでも関係ないのだろう。書き込んだ奴のトレースは真美に任せて、私達は、長谷川を追うぞ。」

 「追うって、どこへ行くんだよ。」

 「葛飾のシステムバンク社だ。」

 そう言うなり、彼女は部屋を飛び出していってしまった。

 「ああ、待ってよ。アイシャ。」

 意味を呑み込めない五郎は、アイシャを追いかけて夢中で階段を駆け下りていく。手すりに手を掛けたアイシャは一気に下まで飛び降りてしまう。ワンピースがめくれ上がるのも、お構いなしである。その度胸と運動能力には脱帽するしかなかった。

 少し遅れて、車に飛び乗った五郎は、急いで車を発進させた。白煙を上げながら加速する車は、湾岸の高速に向かって疾走する。

 「葛飾か。あそこは、放棄された汚染区域だよね。」

 「そうだ。汚染区域であり、貧民達の住処でもある。そこに、日本最大のサーバー、アンジェがある。長谷川は、何度も書いていた。いざとなったら、アンジェと心中だとか、最後はアンジェとともに眠るだとかだ。」

 「ああ、そうか。アンジェは、女の名前ではなかったのか?」

 そんな五郎を余所に、アンジェに侵入した長谷川が何をしようとしているのかを、アイシャは考えていた。

 防衛省のAI戦車をハッキングできるほどの奴が、長谷川に味方しているとすれば、アンジェがある施設への侵入も難しくはないだろう。

 アパートの様子からすれば、長谷川が大量の爆薬を持っている可能性が高い。最後はアンジュと共に眠るという長谷川の書込みは本気なのかもしれない。

 -アンジュと心中なんかさせるものか-


 高速を降りると、瓦礫と化したビルの向こうに、異様とも思える巨大な建物が見えてきた。汚染された大地には黒い水がたまり、埃臭い匂いが漂っている。

 「でも、アイシャ、なぜ、あの部屋に長谷川はいなかったのだろう?」

 嘗ての戦争で汚染された地は、草も生えない不毛の地である。今でも、地中には毒素が残り、住居として使うことはできない。

 「さあな。」

 ぬかるんだ土地の向こうに、浮かぶ灰色の建物を見つめるアイシャは、ふっと幻想で見た終末的な風景を思い出していた。

 人類が滅んだ後も、残存するマシーンは動き続ける。宇宙に打ち上げた人工衛星からの電気エネルギーを受けて、何千年も何万年も動き続けるのだ。

 ただ、黙々と、何の意識も持たない機械だけが動き続ける。

 泥だらけの車を巧みに運転する五郎は、道なき道を進み、システムバンクの建屋に到着した。

 鳴り響くサイレンの音を聞きながら、金網で区切られた入口に到着すると、マスクをした警備員が駆け寄ってきた。後ろには、もう一人、もっと権限がありそうな男も控えている。

 「公安だ。」

 車の窓を開けた五郎が身分証明を見せると、警備の男は端末を使って照合した。身分を確認した男は緊迫した口調で喋り始めた。

 「何重にも張り巡らされたセキュリティゲートを突破して、何者かが侵入しました。奴は、これからアンジェを爆破するから、全員避難しろと告げてきています。」

 警備員の顔とサイレンの鳴り響く建屋を見た五郎は、落ち着いた口調で質問した。

 「それで、避難したのか?」

 「いいえ、警備のものが、侵入した男を追っています。」

 「俺達も追う。場所を教えろ。」

 警備の男は、後ろにいる男の承諾を確認すると、建物を指さしながら答えた。

 「はい。あの正面のドアから入り、右の廊下を進むと、エレベータと階段があります。一つしかないエレベータで男は地上七階に向かいました。」

 「そこに、アンジェがあるのか?」

 「アンジェは、七階から十二階までのフロアに置かれています。エレベータで行けるのは七階までです。」

 警備の男の答えを聞いたアイシャは、助手席に乗っていた五郎の膝に手をついて、身を乗り出すように顔を出した。

 「あとは、私達にまかせて、全員、避難させろ。警備員も全員だ。犯人は本気で自爆するつもりだ。」

 まるで、少女のようなアイシャの姿に戸惑う警備員は、後ろを振り返りもう一人の男に判断を委ねた。

 それを見たアイシャは車のドアを開くと、五郎の上を這いずるようにして外に出た。

 「アイシャ・リーンだ。おまえは?」

 後方にいた初老の男は、アイシャの端末に提示された身分証明を確認すると神妙な顔で口を開いた。

 「この施設の責任者の江藤だ。」

 「なら、話は早い。すぐに、全員、退去させろ。」

 「しかし、このサーバーがダウンしたら、ネット上に深刻な被害が出てしまう。我々には、このサーバーを守る義務がある。侵入者を放置して逃げるわけにはいかない。」

 今時、珍しいくらいに真面目で責任感のある男のようだった。しかし、今は逃げることが重要である。

 「死にたいのか?今、公安室長に連絡して、警察庁からおまえの会社に直接退去命令を出すように手配した。敷地から出るのは、正式な退去命令を受けてからでいい。まずは、サーバーのある建物から警備員を外に出せ。」

 胸ポケットから、拳銃を出したアイシャは五郎にめくばせした。

 「しかし、・・・。」

 まだ、迷っている江藤に向かってアイシャは最後の言葉を告げる。

 「よく考えろ。あの建物が爆発したらどうなる。手足を吹き飛ばされた部下の死体を見たくないならば、さっさと避難させろ。」

 苦渋の表情を浮かべた江藤はしばらく考えてから決断した。彼の指示により、建物内部の全員に退去命令が下される。

 そこに、本部からの音声通信が入ってくる。

 「アイシャ、私だ。」

 室長からの入信だった。

 「状況は把握している。あと七分で岩佐とエリカが到着する。それまで待機だ。いいか、建物には突入するなよ。」

 「いいのですか?奴は本当に爆破するつもりです。内部の人間が退去するまで待ってくれる保証はありません。」

 「構わない。岩佐達には遠距離ライフルを持たせてある。それで犯人を狙撃しろ。絶対に建物には近づくな。いいな。」

 アイシャとしては、犯人を取り押さえに行きたかったのだが、室長の命令であれば仕方ない。いつ爆発するかわからない建物である。突入するなという命令も理解はできなくはなかった。

 「わかりました。」

 室長からの交信を切ったアイシャは唇を噛みしめて建物を睨んだ。中からはポツリポツリと非難してくる社員や警備員が出てきたが、全員が退去するまでにはまだ時間がかかりそうだった。

 アイシャの脳には真美の声が聞こえてくる。

 「不満そうね。」 

 防弾服を着用し、拳銃も身に付けたアイシャは建物を冷ややかな目で見つめている。いつものように、無表情な顔だったが、内心は穏やかではなかった。

 「あたりまえだ。こうして手をこまねいている間に、奴が建物を爆破したら何人死ぬと思う。」

 「室長の判断は間違っていないわ。今、突入しても、爆破を阻止できるかどうかわからない。それに対して、あなたや五郎さんのリスクが高すぎるわ。公安AIのシミュレーション結果からも間違えない。」

 「ふん。シミュレーションが何だって言うんだ。私の脳から直送したデータを公安のAIで分析する。その結果を見て、室長は判断したのだろう。しかし、現場にいない人間が、AI任せで判断するのもどうかと思うぞ。」

 「室長はAIの判断を鵜呑みにしているわけではないわ。実際に、AIの判断を無視したことも何度もある。」

 「そんなことを言っているわけではない。私が目の当たりにしている光景はデータじゃないんだ。死の危険に直面した多くの人間が見えている。もし、建物が爆破されて多くの人が目の前で殺されたら、どんなに後悔しても後悔しきれないということだ。」

 こんなアイシャは初めてだった。真美は言葉を失ってしまった。

 その時、ビルの壁に設置してある大きな液晶画面に画像が映し出された。

 同時に、息を切らしてエリカが駆け寄ってきた。

 「アイシャ、これ。」

 エリカは肩に二つのライフル銃を掛けており、そのひとつをアイシャに投げてよこした。

 それを受け取ったアイシャはビルを見上げたが、犯人の姿はどこにも見えない。狙撃しようにも、これではどうにもならなかった。

 「岩佐さんは?」

 「向こうのビルよ。あそこから、犯人の狙撃を試みるってさ。」

 エリカの指さした廃墟ビルはかなり離れていた。十五階の建物なので、水平位置からの狙撃は可能だったが、距離は五百メートル程はあった。

 その時、電源の入った液晶に犯人の姿が映った。その姿は長谷川洋二に間違えなかった。

 ライフルを確認したアイシャは液晶画面を見ながらも、ビルの窓にも注意を払う。もし、姿が見えれば狙撃できるのだが、容易に姿を出すほど馬鹿ではないだろう。

 銃口をビルに向けながら、エリカも犯人を捜した。

 「地上からだと、窓に近づいてくれないと狙撃できないわね。」

 「そのくらい、犯人も承知しているだろうな。」

 「そうね。岩佐さんの位置からなら、ある程度窓に近づけば撃てるだろうけど、あの距離だと難しいかもしれないわね。」

 液晶の長谷川は緊張気味に喋り始めた。彼のバックに映るサーバー群から、この建物内にいることは間違えなさそうだ。それも、七階から十二階のいずれかである。

 アイシャは真美との交信を再開した。

 「液晶画面の画像はそっちでも見えるのか?」

 「見えるわ。ネットにも配信されている。」

 「モニタにアクセスして、奴の居場所の限定はできないか?」

 「無理ね。モニタにはアクセスできるけど、リモート機能もないし、カメラやマイクとの間は一方通行の物理リンクだもの。」

 報告を聞いたアイシャは液晶モニタを見上げて唇を噛んだ。こうなってしまうと、早く全員が避難してくれることを祈るだけである。


 長谷川の緊張感のある力強い声が響き渡る。 

 「この世界は歪み切っている。まるで、AI達の奴隷ではないか。」

 命をかけた演説の始まりである。

 その頃、岩佐は廃墟ビルの階段を駆け上がり、地上十五階に陣取っていた。朽ち果てたコンクリートを注意深く踏みながら、窓辺に近づいた岩佐はサッシの残骸をどかすと、ライフルを設置した。

 アイシャやエリカは軽々と片手で持てるが、重さ二十キロはある二十五口径の遠距離ライフルである。生身の岩佐にとっては設置しなければ扱えない代物だった。

 長谷川の演説は続いていた。

 「我々人類は、利便性を求めてAIやネット環境を開発した。それは、あくまでも生活の利便性や効率化を求めたものではなかったのか。すなわち、AIもネット環境も人間のために存在し、人間が統制するものであり、我々の下位に存在しなければならないはずだ。」 

 辺りを見渡したアイシャは右手に持っていたライフルの銃口を下げて地面に付けた。

 「五郎、このライフル。持っていてくれ。」

 「ああ、いいけど、アイシャはどうするんだい?」

 「もう少し前で見たくなった。」

 「えー。」

 重たいライフルを五郎に渡したアイシャは建物に向かって歩き始めた。その目は、液晶画面ではなく、ビルの窓を鋭く睨みつけている。

 油断なく銃口を建物に向けていたエリカは、目の前を通り過ぎるアイシャに気づいて声をかけた。

 「アイシャ。どこにいくのよ。」

 「死を決しての演説だ。もっと、前で聞いてやろうと思ってな。」

 「待てよ。あんまり近づくと・・・。」

 エリカの声など無視して、アイシャはどんどんと進んでいった。

 「殺されても、知らないわよ。」

 長谷川の方は自分の言葉に酔うように拳を握って力説していた。日本中、いや、世界中に映像は流れ、多くの人間が注目していた。

 「しかし、現状はどうだ。ネットに溺れた人間は生活力を失い、子孫の繁栄にも無関心だ。サーバー上のAIは、より強く、深く人間を陶酔させる。よく見てみろ。俺達は、AIによって骨抜きにされているんだ。そんな奴らに生活の基盤を管理させるなど狂気の沙汰だ。こんなことが、許せるか。」

 ビルの前にある倉庫を見上げたアイシャは思いきりジャンプして屋根の上に飛び乗った。そして、焼却炉の煙突によじ登り始める。

 ミニスカートがめくれるのも気にぜず、アイシャはどんどんと登っていった。立てかけたライフルを両手で押さえた五郎は半ば口を開けて、それを見上げていた。

 「アイシャ、パンツ、丸見えだよ。」

 ライフルでビルの窓を狙っていたエリカも舌打ちする。あそこまで近づいてしまうと、もし、ビルが爆発すれば巻き込まれるのは必至である。

 「信じられないわ。あのバカ女。」

 本部にいる真美はアイシャと交信する。

 「室長の命令は待機よ。何しているの?」

 「奴と直接対話する。人間と人間の会話であれば、奴は応じるはずだ。」

 「何、言っているの。危険だわ。」

 「別に、そんなことはどうでもいいさ。命など惜しくはない。」

 「もう・・・。」

 真美との交信を切断したアイシャは、目の前のビルに視線を向けた。

 ビルに人影はなかったが、マイクを通した長谷川の力強い声が聞こえる。

 「取り込まれているのがわからないのか?機械であるはずのAIに支配されかけているんだよ。」

 煙突のてっぺんに手をかけたアイシャは、そこに飛び乗り立ち上がった。風当たりも強く、体を保持するものもなかった。

 両足を広げたアイシャは煙突の淵に足をかけて、何とか体を安定させる。そして、地上十二階あたりの窓を睨んだ。距離は三十メートルほどである。

 強い風に髪は大きく靡き、スカートもバタバタとはためいていたが、彼女はしっかりと立ったまま、ビルを睨みつけた。

 マイクを通した長谷川の声はよく聞こえた。

 「我々はAIへの依存を止めるべきだ。こんなサーバーは必要ない。快楽サイトもリアルゲームも必要ない。こんなものに、俺達の未来を壊されてたまるか!」

 大きく息を吸い込んだアイシャは腹に力を入れて大声で答えた。

 「そうだな。そんなものには託せない。私は私の意志で未来を決める。長谷川、顔を見せろ。人間同士の会話をしようじゃないか。マイクもカメラも通さず、一対一だ。」

 アイシャの声は五郎にも聞こえていた。

 「ああ、相変わらず大胆だな。でも、出て来るかな?」

 ライフルを構えたまま、エリカは答える。

 「顔を出してみろ。私が頭をすっ飛ばしてやる。」

 本部では、映し出された多数のモニタを、辛山が顔色も変えずに凝視していた。真美の調べ上げた犯人や事件に関するデータに交じって、現場の実況中継もしっかりと映っていた。

 「真美。」

 真美は辛山の横でデータの監視と検索を続けていた。

 「はい。」

 「岩佐とエリカに命令だ。回線を接続してくれ。」

 緊張気味に顔を上げた真美は、室長に視線を向けた。窓の光を背にした辛山の顔には無精髭が見えていた。

 「はい。すぐに」

 回線が繋がると、すぐに辛山は決意に満ちた声で命令した。

 「長谷川が顔を出しても一分だけ待て。」

 どうして、一分待たなければいけないのか。岩佐もエリカも疑問に感じたが、反論はしなかった。

 「了解しました。一分ですね。」

 「そうだ。」


 回線を切った辛山は、何事もなかったように、モニタの情報に視線を向けた。その顔は重く険しい表情だった。

 すでに、現場には警察も到着しており、辺りを取り囲み始めた野次馬との押し問答も始まっていた。

 真美は、少し心配になり、辛山に質問する。

 「アイシャの命令違反、怒っていらっしゃいますか?」

 「そう思うか?」

 「どうでしょうか?」

 「ここから先の展開は人工知能でも、予想できないはずだ。人間というのは、時に非効率的で、非生産的なことをやるものだ。アイシャはリスクを承知で、奴と会話しようとしている。本来、止めるべきなのだろうが、これも一興だ。」

 それを聞いた真美は複雑な気持ちだった。どうやら、待機命令を無視して犯人に近づいたアイシャの行動を咎めるつもりはないようだが、危険は承知でやらせる室長の真意は理解できなかった。


 長谷川は途切れていた演説を再開した。

 「そうだ。我々は自らの意志で未来を決定しなければならない。AIなどなかった時代への回帰だ。それが、唯一、人類が選択すべき道だ。」

 大きく息を吸い込んだアイシャは大声で反論した。

 「それは違うぞ。」

 「何が違う。おまえには、人類の哀れな未来が見えないのか?」

 「時は帰らない。人間は原始時代には戻れない。AIを得て、情報網の確立と自動化を推進した人間は労働からも解放された。それを放棄などできるわけがない。」

 「いや、できるさ。ただ、やろうとしないだけだ。」

 「いや、できない。長谷川、顔を見せろ。私の目を見て話せ。」

 アイシャはビルを睨みながら、真美と交信する。

 「建物内の避難は終わったか?」

 「九十八パーセントは終わっている。あと、二分あれば完了するはずよ。」

 ビルの中にいる長谷川は決意に満ちた顔で、カメラなどの機材を動かし始めた。

 「よし。顔を見せてやる。銃は持っていないよな。」

 羽織っていた防弾チョッキを脱いだアイシャは胸ポケットの拳銃を取り出すと、良く見えるように翳してから下に落とした。

 「これでいいか?」

 窓辺にカメラが見え始め、ライトが照らされる。液晶は二画面に分離されて、片側にアイシャの姿が映った。その瞬間、サファイヤブルーの瞳を輝かせた美しい少女の姿に、画像を見る日本中の人間から驚きの声が上がった。

 全身に爆薬を巻き付けた長谷川は窓ガラスを蹴破ると顔を見せた。

 「よし、目を見て話してやるぞ。おまえの名前を言え。」

 「アイシャ・リーンだ。」

 煙突の上に立って、こちらを睨んでいる少女を見た長谷川は胸の高鳴りを感じた。まるで、人形のような姿は、奇跡的とも思える美少女である。

 彼はニヤリと笑った。こんな演出は願ってもないことである。

 「驚いたな。アイシャか。」

 「そうだ。」

 一点の曇りもないアイシャの表情を確認した長谷川は意を決した。

 人間というのは美しい女性に弱いものである。これほど、無垢で汚れのない少女であれば猶更である。長谷川にとっては、全く予期していなかったアイシャの出現は願ってもないことだった。

 これで、多くの人間の注目を引ける。

 「よし。アイシャ、おまえに問う。AIの放棄を否定するのであれば、まずは、その代替案を言ってみろ。」

 吹き付ける風がアイシャの髪を揺らす。

 「単純な事だろう。人類は後戻りなどできない。だとすれば、AIを使いこなすしかない。」

 長谷川は、そんなアイシャをあざ笑った。

 「使いこなすなどできやしない。自分たちの作ったツールに振り回されているのがわからないのか。」

 長谷川は考えに考え抜いた論理を展開している。それに比べて、アイシャは思いついたことを言っているだけである。

 この論争に勝とうなどとは、彼女も思ってはいない。ただ、時間を稼ぐことが重要なのだ。しかし、それだけでもなかった。

 「ふーん、確かに人間はAIに依存し、流されているかもしれない。しかし、おまえは、それがなぜなのかわかっているのか。」

 できるなら、彼の主張を聞いてみたい。そして、命を掛けてまでの主張であるなら、それを世界に流してやりたいとも思った。

 長谷川も真っ直ぐにアイシャを睨んだまま、会話を続けた。

 「何だと。わかっているに決まっているだろう。機械は人間の能力に似合ったものでなくてはならない。例えば、人間の体が耐えられない加速力を持った乗り物を作っても使いこなせない。それと同じように、人間が把握しきれない領域にまで到達してしまったAIは使いこなせない。そんなものは、ただの凶器だ。」

 「違うぞ。ぜーんぜーん、違う。おまえは敗北者だ。未来を変えるAIに恐れをなす腰抜けだ。把握しきれないから使えないという考えは早計だ。初めて、空を飛んだ人類だって、そうだった。何度も失敗して、何人もの人間が死んだ。でも、諦めなかったからこそ、今があるんだ。痛みを恐れ、失敗しないことだけを願うだけでは、明日など掴めない。簡単に諦めて、回帰させようなど腰抜けなどいらない。今こそ、人間の方が変わらなくてはならない時だ。」

 「笑わせるな。おまえこそ、人類を滅亡に持ちびく狂信者だ。勝てない戦いに導いた嘗ての戦争主義と変わらない。」

 「進化を放棄した生物は死滅する。今までだってそうだったろう。この世界を作るために、どれだけの人間の命を使った。山のような涙と苦しみを越えて、人は進んできたんだ。未来は現在の先にあるものだ。文明の後戻りなど、愚弄なものの選択だ。」

 アイシャは表情を変えることはなかった。でも、煙突に立つ官女は風を受けながらも、長谷川の顔から視線を外すことはなかった。

 その熱き瞳を睨み返しながら、長谷川は腹に力を入れて叫んだ。

 「これは進化の放棄ではない。誤りは正すべきだ。一度、陸に上がったイルカは海に戻り、そこに適応した。時は充分にある。生命体にとって、やりなおすという選択はありだ。」

 力説する長谷川は身を乗り出すようにしてアイシャを見ていた。彼の目はアイシャ以外を見ていなかった。もちろん、自分をライフルで狙うエリカにも、岩佐にも気づいてはいない。

 風が止まり、靡いていたアイシャの髪が肩のあたりに納まっていった。彼女の深淵な瞳は長谷川を捕らえたまま動かない。時が止まったような瞬間だった。

 「まだ、言いたいことはあるか?」

 何かを感じ取った長谷川は、得体のしれない恐怖を覚えながらも必死に叫んだ。

 「ある。人間とは、主体性を持って行動しなければならない。己の信じる主張を叫び、選択した道を勇敢に進むべきものだ。それが、魂を持つ人間と言うものだ。我が人生に悔いはなし。」

 岩佐は腕の時計を見た。ちょうど、六十秒だった。

 遥か先の標的を正確に捉える岩佐は静かに標的を見つめる。何が正しいのかなんてことは、誰にもわかりはしない。長谷川の言葉は正論かもしれないと岩佐は思う。しかし、多くの人を危険に巻き込む存在を許すわけにはいかない。それが、今のところのルールだった。

 ズキューンという音と共に、一筋の銃弾が長谷川の額を貫通していった。目を見開いた長谷川の体はゆっくりと後ろに倒れていく。

 それを確認したエリカは構えたライフルを下ろした。

 -これで、終わったな-

 長谷川は消えゆく意識の中で、ニッコリと笑った。

 -ああ、これで、良かったのか?-

 -俺のメッセージは世界に伝わったのかな-

 -でも、やれることはやった-

 -人類に未来を・・・-

 そして、彼の意識は消滅した。


 しかし、その瞬間。長谷川が顔を出していた窓付近で激しい爆発が発生した。

 ドカーン。

 バーン。

 ガシャーン。

 室内で赤い炎が見えたかと思うと、窓ガラスを吹き飛ばした爆風がアイシャに襲いかかってきた。

 「ウワー。」

 吹き出した爆風と炎が体を押し包み、彼女の小さな体は簡単に吹き飛ばされてしまった。同時に、無数の破片が体に突き刺さっていく。

 「キャー。」

 叫び声をあげたアイシャは一瞬で失神してしまい、そのまま空中に放り出された。爆風は地を這い、上昇気流となり、彼女の体を押し上げていく。

 そんな信じられない光景を目にしたエリカは思わず叫んでしまった。

 「嘘だろう。」

 彼女は降り注ぐビルの破片を腕で避けながら、頭上を越えて飛んでいったアイシャを追いかけて端降り始めた。力の限り、走った。

 モクモクと吹き上がる黒い煙と、鳴り響く爆音の中をエリカは疾走した。強化体のエリカの走る速度は常人よりもずっと速い。しかし、それでも落下点には到達できそうもなかった。

 エリカは大声で叫んだ。

 「アイシャ。着地体勢を取れ。おまえなら、着地できる。目を覚ませ。」

 しかし、目を閉じたアイシャは爆風のなすがままに激しく回転しながら、飛んでいくだけである。

 百メートル以上先のコンクリートに向かって落ちていくアイシャに、エリカは、もう一度、叫んだ。

 「アイシャ、起きろ!バカ女。起きやがれ。聞こえないのか。」

 いくら強化体といえども、あの速度で叩きつけられれば、ただでは済むわけはない。しかし、どんなに走っても彼女を受け止めることはできそうもなかった。

 絶望的な気分に包まれるエリカは心の中で叫んだ。

 -くそっ、目を覚ませよ-

 -いやだ。おまえの死ぬところなんか、見たくない-

 しかし、アイシャは目を覚ましてはくれなかった。

 エリカは唇を噛みしめて立ち止まった。もはや、どんなに手を伸ばしても、アイシャには追いつかない。激しい爆発で生じた熱風が吹き付ける中で、エリカは、ただ、呆然と立ち尽くすだけだった。


 暴風に飛ばされる木の葉のように、アイシャの体は宙を飛んでいく。集まったやじ馬達は、次の瞬間に起こるだろう惨劇に言葉を失い、ただ、固唾を飲んで見守っていた。

 しかし、その中を、ただ一人、あり得ない速度で走る影があった。

 黒いリボンで束ねたブルーの髪を風に靡かせ、彼女は閃光のように走っていた。

 その大きな瞳は、空中にいるアイシャを捉えて離さない。

 尋常ではない速さにより、野次馬達の目には、彼女の姿形は見えななかった。ただ、何かが風のように通り過ぎていくのを感じただけである。

 あまりの速さに、エリカも自分の目を疑ってしまった。強化体であるエリカの動体視力は通常の人間に比べれば、かなり優れているのだが、それでも、走る少女の顔も姿も確認できない程である。

 「信じられない。あれは、何なの?」

 まるで光の筋のように一直線に走る少女は笑みを称えながら、唖然とする観衆の間を風のようにすり抜けていった。

 「オオ??」

 「今のは、何だ?」

 目の前を通り過ぎた物体に振り返った時には、彼女は遠く離れて見えなくなっていた。

 少女は落ちてくるアイシャの軌道を計算しながら、タイミングを計っていた。

 「アイシャさん。必ず、捕まえますわ。」

 空に向かってジャンプした少女は太陽と重なる程に高く舞いあがっていった。

 

 あたりに集まった多くの野次馬からは感嘆の声が上がる。

 「ウォー。」

 「何かが飛んだ。スゲー。」

 「何だ。あれは?」

 少女は空中で手を伸ばすと、見事にアイシャの体を掴み、自分の胸に引き寄せた。

 何人かの野次馬達の頭上を飛び越えていく少女は、アイシャを抱きかかえると砂埃を巻き上げながら汚染土の上に着地した。

 凄まじい速度で着地した少女は、派手に横滑りして、土と泥水を巻き上げた。土煙の中、二人の姿は完全に埋もれて見えなくなってしまった。 アイシャを抱いた少女は必死にバランスを取ろうとしが、最後は土の上に激しく転がってしまう。

 「キャッ。キャー。」

 慣性の法則に従い、二十メートルほど転がった少女はやっと停止した。それでも、アイシャを守るように抱きしめたままだった。

 綺麗な衣装が汚れてドロドロになりながらも、少女は満面の笑みを浮かべながら立ち上がった。両腕には、軽々とアイシャを抱きかかえ、体からはボタボタと泥水が流れ落ちていた。

 正に身を挺してアイシャをキャッチした少女を取り囲んだ者達からは盛大な拍手と歓声が湧き上がった。

 「オオ、オー。」

 「カッコいい。」

 「スセリだ。」

 「オオ、本当だ。スセリだ。」

 「スセリ、最高!」

 クリクリと目を動かす少女はまるでステージから降りてきたような露出度の高い派手な衣装を身に着け、長い脚をやや広げながら、艶のある声で喋り出した。

 「危なかったですわ。こんなにも勇敢な女の子を死なせてはいけませんわよね。」

 それに反応して、更なる拍手が鳴り始めた。

 「スセリー。」

 「スゲー。こんなことができるんだ。」

 その感性と拍手はどんどんと大きくなっていった。

 辺りは騒ぎを聞きつけた民衆で埋まっている。二人を取り囲むように、人の輪が何重にもできてしまった。

 「スセリ。だいじょうぶか?」

 「はーい。私は平気ですわ。衣装がドロドロになりましたけど、そんなのは、全然、構いません。アイシャは、私達の女神ですもの。凶悪犯に立ち向かい、私達の意思をも代弁する勇敢な女神です。その命が救えたのなら、泥水を被っても、全然、へっちゃらですわ。」

 少女の両腕の中で、アイシャは腕をダランと垂らして失神したままである。そんなことはお構いなしに、少女は喋り続けた。

 「みなさん、私のことも、このアイシャのこともしっかりと目に焼き付けてくださいね。今夜も渋谷でライブやりますから、ヨ・ロ・シ・ク。来られない方は、ネット配信の方で、ご覧になってくださいね。」

 民衆の拍手は一段と大きくなり、若者達からの声援が交差する。

 「スセリ、見に行くとも・・・。」

 「オー、絶対見に行く。」

 声援に応えて、ニッコリ笑った少女は後ろを振り返った。

 「ああ、彼女のお友達が来たようなので、私は退散いたしますわ。それじゃあ、また。」

 駆け寄ってきたエリカは、目の前にアイシャを差し出され、まるで誘導されるように両手を出して受け取ってしまった。

 「あっ。」

 スセリを見送ったエリカは、はっと我に返ったが、風のように加速した彼女の姿は見えなくなっていた。少なくとも、身元の確認くらいはしておくべきだったのだが、なぜか、言葉すらも出せなかった。


 大田区の川沿いには古い街並みが残っていた。

 海側の埋め立て地は、戦火の影響で水没してしまったが、少し内陸に入ると昔ながら雑多な風景が保持されていた。

 古いビルが密集して立ち並び、どんどんと付け足した配線が電柱いっぱいに張り巡らされた街は廃墟地区でもなかったが、復興地区でもない。所謂、貧民街である。

 その中でも、ひと際、ごちゃごちゃの電線やらファイバーが配線されたビルがあった。


 狭い階段を登る三十代の男、石館隆は四階まで登ると、フーと息を吐いた。

 「クソが・・・。エレベータくらい付けろよな。」

 ギーッという音がするドアを開けると乱雑な狭苦しい部屋が目に入ってきた。

 正面の机には小太りの久光ひさみつ、左のソファには、いかにもテロリストらしいリグレット・フォルシュナが座っていた。

 リグレットの後ろには、そのまま戦争にでも行けそうな服装の東洋人が二人控えていた。

 「久光さん、昼飯、買ってきましたよ。」

 石館は、両手に持った弁当の袋をテーブルに置いた。

 片手をあげて応えた久光は、リグレットを厳しい顔で睨みつけていた。油ぎった顔の中年男は、いかにもがめつそうな食えない男である。ヘミング社の営業部長という正規の肩書はあったが、その実は武器の密輸と販売というのが彼の仕事だった。

 十年以上前から、テロ集団ブッティーガとは取引があり、当時、武器調達役だったリグレットとは長年の付き合いである。

 今は、ブッティーガの指導者となったリグレットは疑い深い目で久光を睨み返す。

 「幾らリリーがいるとしても、日本政府に戦争を仕掛けるのは、やりすぎだ。」

 落ち着き払ったリグレットを横目で睨んだ久光は不服そうな顔で言い返した。

 「今更、何をビビッている?サイは投げられた。もう、後には引けないぞ。」

 「ふん。おまえが勝手に投げたサイコロではないか。日本政府という巨大な組織と戦っても勝てる見込みはないと言いたいだけだ。武器を売るだけなら、復興地区のビルを幾つか爆破すれば充分だろう。」

 石館が買ってきた弁当を開きながら、久光は反論する。

 「意外に小さい男だな。今、我々は自衛隊の統制システムの一部をハッキングしている。更に、日本の防衛設備の要を、リリーに解析させている。全ての解析が完了すれば、一気にシステムを乗っ取り、自動運転が可能な兵器を動かして街を破壊してやる。なあに、東京市民を皆殺しにするつもりはない。ある程度、暴れてやれば充分だ。その後は、武器を奪って逃走する。この国の兵器の一部でも、マレーシア政府をひっくり返すには十分だ。」

 リグレットは危険だと感じていた。確かに、BB001型のリリーの力は絶大ではあったが、彼女は魔法使いではない。やれることにも限界があるはずだ。

 それに気になることもあった。

 「なあ、久光。同時に発生した無人戦車の暴走。あれは何だったのだ。リリーがやったわけではないのだろう。」

 それを聞いた久光は少し顔を曇らせた。彼としても、それは予想外の出来事だった。

 「あれは、その。まあ、全体の計画に支障きたすようなものではない。細かいことを気にするな。」

 それを聞いたリグレッドは鼻で笑う。

 今までやってきた東南アジアや中東の弱小国でのテロとはわけが違う。衰退しているとはいえ日本は高度な防衛システムを持つ先進国である。そこで生じた予想外を追求しなくて良いわけがない。小さな綻びも大きな失敗に繋がるのはよくあることだ。

 とは言え、久光が言いだしたら聞かないのも承知していた。この時は、まだ、うまく事が運ばなければ、逃走すればいいくらいにリグレットも甘く考えていた。

 「まあ、それはいいとして、宮古島の方はどうなっている?」

 リグレットの質問に、久光は自信満々に答えた。

 「順調だ。今、リリーが、遠隔操作で巡航ミサイルの発射準備を進めている。まだ、現地にいる人間は気づいていない。」

 「ふーん。間抜けなものだな。目の前の武器が操作されているのに気づかないのか。」

 「AIによる全体管理と、遠隔操作の武器。そんなものに、頼っているのが高度防衛システムってものだ。」

 「なるほどね。」

 「もう少しで設定が完了するはずだ。その後、ミサイルは自動的に動き始める。そこまで行けば、発射まで、数分だ。気づいても、止められやしないさ。」

 「弾頭の威力は、どのくらいだ?」

 「今回は、小型の電磁爆弾を使用する。破壊範囲は爆心から半径二キロだが、東京の八十パーセントの電子機器を狂わすことができる。」

 「ここは、だいじょうぶなんだろうな。」

 「もちろんだ。落とすのは、台東区と墨田区の間くらいに設定する。こいつ一発で、日本の中心地を焼き尽くしては意味がないからな。」

 久光の作戦は、だいたい理解できた。

 まずは、宮古島から、東京に向けて巡航ミサイルを撃ち込む。これで、間違えなく、東京は大混乱になるはずである。

 その後、三鷹基地の自動戦車と厚木基地の自動ヘリを遠隔操作し、自衛隊の有人兵器と交戦させ、最後は市が尾の自衛隊本部まで攻め込む予定である。

 その後は、大型貨物船に奪った兵器を積み込み、自分達はヘリで逃走する算段となっていた。

 しかし、リグレットにとっては、あまり乗り気になれないテロ活動である。特に、日本に遺恨があるわけでもなく、計画自体もリリーというたったひとつの切り札に頼りきったもので、リスクも大きかった。

 ただ、久光とは腐れ縁であったし、資金も底ついている。要するに、何かをやらなければ、金銭的に立ち行かない状況なのだ。

 リグレットは立ち上がると屋上に向かった。部屋の中で煙が発生すると警報機が作動してしまう面倒なビルでは、屋上まで行かないと煙草も吸えないのだ。

 屋上に登ると、リリーの後ろ姿が見えた。背中まで伸びた黒髪を風に揺らす姿は、少し寂しそうにも感じられた。

 何百人もの戦士を殺し、素手で大男とも戦える最強の少女だったが、そんなことは信じられない程に、とても小柄で痩せている。

 リグレットに気づいたリリーは、さっと振り返った。気が強そうな顔だが、陰湿さはなく、少女らしいクリアさもあった。

 久光の話からすると、リリーはとても忙しいはずであったが、彼女の様子からは、全く、そんな感じはしなかった。

 「休憩中か?」

 リグレットの言葉に、リリーは笑顔を見せる。彼女の笑顔には優しさと人懐こさがあった。

 「人工知能は休まない。」

 「では、何をしている。久光の話だと、おまえは、とても忙しいはずだが、仕事は終わったのか。」

 「別に、何をしているわけでもない。人間と違って、私は頭がいいのさ。演算は一瞬だし、一般的なことは並行処理できる。久光の命令くらい、片手間で充分さ。」

 「凄いものだな。」

 煙草に火をつけたリグレットは煙を吐き出すと、目を細めて東京の街並みを見渡した。

 「なあ、リリー。あの戦車の暴走は誰の仕業なんだ。」

 りりーの顔に笑みが浮かんだ。

 「クククッ。さあ、何なのだろうな。知っていても教えない。」

 リグレットは、知っているけど教えられないということなのだろうと理解した。

 リリー意外に、そんなことができる者がいるとすれば、大変な強敵であるはずだが、その重要さに久光は気づいていない。

 この優秀なAIが、どう考えているか知りたかった。

 「作戦に支障をきたすことはないのか?」

 「あるかもしれないな。」

 味わうように煙を吸い込んだリグレットは、じっとリリーの横顔を眺めてみる。あるかもしれないと言いながらも、彼女は落ち着いている。

 「それで、放置していていいのか?」

 「どの道、避けることはできない。」

 リリーの明確な答えを聞いたリグレットは東京の街に視線を移した。彼女の言葉から推察すると、その敵との戦いは避けられないということのようだ。

 ジャングルに覆われ、原始的な生活をするマレーシアからすれば、東京は凄いところだ。あの激しい戦火から、よくも、これだけ復興させたものだと感心してしまう。

 ふと視線を移すと、リリーも景色を眺めていた。何もかも、この女はわかっているのだろうとリグレットは思う。

 「そうか。しかし、これだけのビルを作るとは、日本という国は凄いな。」

 「繁栄の証だな。」

 遠くを見つめるリリーの目には憂いを感じさせるものがあった。喋っていれば、明るく気丈な女なのだが、時々こういう表情になることがある。人工知能であれば、感情などはないはずであるが、彼女は人間と少しも変わらないような表情を見せる不思議な人工知能だった。

 この桁外れに優秀な戦士が、久光のような愚物の所有物であることが、とても惜しい。叶うならば、彼女を同志として迎えたいと、リグレットはずっと思い続けていた。

 煙を吐いたリグレットはリリーの隣に寄り添い、彼女と同じ景色を眺めてみる。

 リリーは神妙な顔で、リグレットに告げた。

 「あんたは、とても強い魂を持っている。それは、生命体としての強さの象徴だ。それだけの魂が、もし、私にあればな。本当、神にでもなれそうな気がするよ。」

 「ほう。AIの癖におもしろいことを言うな。バリバリの電子頭脳が、神などという迷信じみた言葉を使うとは、意外だ。」

 「人間は、勝手な論理で割り切って、わかったような顔をしているが、世界というのは、そんなに単純なものではないのさ。神という表現が正しくないのはわかっているが、最も近い表現だ。」

 吸い終えた煙草の吸殻を指で弾き飛ばしたリグレットは、この不思議な少女を思わず見つめてしまった。


 昼下がりの警察病院では、手術を終えたばかりのアイシャを真美とエリカが見舞っていた。

 ベッドの脇に座る真美は、器用にリンゴを剥きながら、ほっとしていた。体の破片を取り除く手術を終えたばかりのアイシャは体じゅう、包帯だらけであったが、今までの例に漏れず、至って元気そうだった。

 「はい。どうぞ。」

 手を伸ばしてリンゴを受け取ったアイシャは口を大きく開けて齧ると、モグモグと噛み砕き始めた。

 真美の後ろで、横を向いて座っていたエリカは、リンゴを食べるアイシャをじっと見つめる。この状態であれば、問題はなさそうである。

 スーと立ち上がったエリカは、皮肉っぽい視線をアイシャに向ける。

 「手術したばかりなのに、よく食えるな。でも、これなら、安心ね。私は帰るわ。」

 振り返った真美は、そんなエリカの顔をまじまじと見てしまう。手術の間、ずっと待ち続けていたのに、すぐに帰ろうとするエリカの行動は理解できなかった。

 「もう、帰っちゃうの?」

 「まだ、自衛隊の管制システムも復帰できていないからな。まあ、そのなんだ。アイシャ、おまえは、ゆっくり休んでいていいからな。」

 アイシャは口をモグモグしながら答える。

 「エリカ、忙しいのに、ありがとう。」

 礼を言うアイシャに片手を上げたエリカは病室を出て行った。

 見送った真美は笑みを浮かべながら、アイシャの耳元で囁く。

 「あなたが手術室に入った後、エリカさん、涙目だったのよ。たぶん、自分の目の前で怪我をさせてしまったから、責任を感じていたのだと思うわ。」

 「別に、エリカの責任ではない。」

 「そうね。でも、エリカさんは気にしていたわ。」

 真美は剥き終えた次のリンゴをアイシャの口元に差し出した。

 彼女は大きな口を開けると、真美の手にあるリンゴを直接齧った。

 「ねぇ、アイシャ。エリカさんのメモリに入っていた画像、見てみる?スセリがあなたの体を受け止めた瞬間が残っているわよ。」

 アイシャはモグモグとリンゴを噛み砕きながら答える。

 「スセリ?聞いたことがあるな。」

 「有名人ですもの。ネット上には、狂信的なファンもたくさんいるアイドルよ。ただ、変わっていて、プロダクションとかには所属しないフリーのアイドルなのよ。メディアに出ることもなく、野外ライブが主な活動というところね。彼女のライブはネット配信されているから、初ライブから最新版まで百以上のライブを見ることができるわ。」

 「ふーん。ライブは興味ないが、私を受け止めたという画像は見たいな。」

 真美は手に残った齧りかけのリンゴをアイシャの口に入れると、AI端末を通じて、画像を送り始めた。

 そこには、恐ろしい程の速度で走り、空中でアイシャをキャッチしたスセリの姿が映っていた。

 異常なほどに高くジャンプして自分を受け止める画像を見たアイシャはリンゴを噛み砕きながら呟いた。

 「凄いジャンプ力だな。」

 「彼女、間違えなく強化体だよね。ライブでのパフォーマンスも生身の体でないからできるのね。でも、一般の人間は強化体に脳移植はできないはず。彼女、いったい何者なのかしら?」

 「さあな。」

 リンゴを飲み込んだアイシャは包帯だらけの右手を伸ばし、真美の腕を掴んだ。

 「真美、ちょっとだけ、抱きしめてくれないか。」

 そんなアイシャの行動を見た真美は、ちょっと理解に苦しんでしまった。自分を心配してくれていたエリカに対しても、何の反応も示さず、自分を助けてくれたスセリに対しても興味を示さず、いきなり抱きしめてくれとは、ある意味身勝手極まりない行動である。

 しかし、まるで子供のようなアイシャの顔を見た真美は言いかけた言葉を飲み込んでしまった。

 「二日間は絶対安静なのよ。もう少し、おとなしく寝ていなさい。」

 「私の体は普通じゃない。真美に抱きしめられたくらいでは壊れやしない。なあ、いいだろう。」

 そう言いながら、既にアイシャは両手を伸ばしていた。

 「もう、甘えん坊さんね。」

 真美は、アイシャの顔を胸に埋めるように抱きしめる。小さな体のアイシャは、母親に抱かれる大きな子供のごとく、腕の中に納まってしまった。

 ふーと息を吐いたアイシャはまるで赤ん坊のように、真美にしがみつく。

 -もう、どうにもならない程の人恋しさを感じる-

 -こんなことをするのは異常なのだろうが、我慢できない-

 -真美は、優しいー

 -こんな人に、ずっと傍にいて欲しい-

 真美に対してのタガはすっかりと外れてしまっていた。抱きしめられる心地よさに、何もかもがどうでもよくなってしまう。これも、脳移植の後遺症のひとつなのかもしれない。

 「暴れ出した体の細胞がおとなしくなっていくようだ。もう少しだけ、こうしていてくれるか?」

 「もう、本当に赤ちゃんみたいね。スセリの個人データも送るわ。と、言っても、たいした情報ではないけどね。」

 目を閉じて真美の柔らかな胸に顔を埋めるアイシャは、同時に真美からのデータも受け取っていた。

 スセリ・クシュナー。戸籍は見つからない。一年程前から路上ライブを始めている。それまでの彼女に関するデータは何もなしである。生まれた場所も年齢もわからない。IDもなかれば、住んでいる場所もわからない。

 しかし、彼女はIDなしでも、管理コンピュータに拘束されることはなかった。

 

 その夜、特殊公安室の中に衝撃の情報が走った。

 自衛隊からの連絡を受けた辛山は、一同を見渡すと、険しい顔で報告した。

 「宮古島基地から、東京に向けて巡航ミサイルが発射された。」

 基地から発射された中型ミサイルは火を噴きながら、東京に向かって飛行中だった。自衛隊本部での解析では、目標点は東京区内の東より、着弾予想は五十分後である。

 首都を守るための迎撃システムはあったが、今はハッキングに合っていて使えない。

 「自衛隊と公安で、全力をあげて、都内の迎撃ミサイルシステムの正常化を試みている。真美も、それに参加してくれ。」

 真美は緊迫した顔で頷くと、すぐに、AI端末を動かし始めた。

 岩佐を振り返った辛山は、少し声を落として命じた。

 「岩佐、脱出用のヘリを二機、至急用意させろ。一機は、アイシャのいる病院に向かわせろ。もう、一機は、ここだ。三十分後に脱出できるようにしておけ。」

 じっと、辛山の顔を見てから、岩佐は頷いた。

 「わかりました。」

 岩佐は納得したようだが、五郎は目の色を変えて反論した。

 「室長、待ってください。脱出用って、何ですか?もしかして、東京を捨てて、逃げようというのではないですよね。」

 駆け寄った五郎は辛山に掴みかかる勢いである。

 辛山の方は目を伏せたまま、冷静に答えた。

 「そうだ。もし、三十分後までに、迎撃ミサイルが使用可能にならなければ、ここから、逃げる。」

 五郎は歯を噛みしめると、思い切り、目の前の机を叩いた。バシーンという音が、部屋の中に木霊する。

 五郎の横にいたエリカも身を乗り出して、辛山に反論した。

 「五郎の言う通りです。市民を置き去りにして、逃げるなんてできません。公安の任務の第一は、人々の命と安全を守ることではないのですか?」

 ミサイルが東京に着弾し、何十万もの人々が死ぬ光景を想像すると、それを残して逃げ出す後ろめたさは大きく、悲しいほどに卑劣な手段に思えた。

 そんなことは百も承知だったが、辛山には、他の手立てが思いつかなかった。

 辛山はより険しい顔で強く反論した。

 「例え、百万の国民が死のうと、この戦いは終わらない。残った一千万の国民を誰が守るのだ。幾多の屍を目の当たりにしても、どんな罵りを受けようとも、我々、特殊公安は最後の最後まで戦う。それが、私の決断だ。」

 それでも、五郎は納得しなかった。もう、一度、机を叩くと、歯を噛みしめて叫ぶ。

 「俺は、逃げませんよ。ミサイルに体当たりしてでも、止めて見せます。」

 部屋を飛び出していく五郎に向かって、辛山は叫んだ。

 「待て、体当たりなどしても、止められないのはわかっているだろう。少し、冷静になれ。」

 辛山の声に、一度は立ち止まった五郎だったが、そのまま、部屋を出て行ってしまった。


 誰もいなくなった病室で、アイシャは窓の景色を見つめていた。驚くほどに青白い月が光り、病院の庭を照らしていた。

 体は自由に動かず、とても退屈である。

 頭の中に長谷川の声が聞こえてきた。命をかけた最後の演説、彼は何かを人の心に刻み込もうとしていた。

 -おまえこそ、人類を滅亡に持ちびく狂信者だ-


 アイシャのブルーの瞳が月明かりに照らされ、サファイヤのように光っていた。神は、何のために、こんな澄んだブルーの瞳を与えてくれたのだろう。

 -私の心は、こんな清楚なものではない-

 -血を求める野獣と変わりはしない-

 唇を噛みしめたアイシャは思う。

 -けど、おまえの言葉は覚えておいてやるー

 -AIなどなかった時代への回帰か-

 -確かに、人は、どこかで道を間違えたのかもしれない-

 包帯で包まれた両手を見つめたアイシャは体の底から震えてくるものを感じた。それは、心を揺り動かすだけの言葉であったが、彼女は、それを否定した。

 -しかし、戻れるはずがないだろう-


 アイシャは目を閉じて、AI端末を介して仮想空間を覗いてみた。そこには、深く複雑な世界が広がっている。マーケットサイトに快楽サイト、ニュースに論文、書籍にゲーム、無限とも思える情報世界である。

 この広大な仮想世界全体を制御する人工知能があるという。

 それが、HREAIである。

 そのまま翻訳すれば、人間の意志を反映しながら進化する人工知能。

 誰一人、アクセスしたこともなく、どこにあるのかもわからない。完全なるクラウドマシーンである。そいつが、本当に、人間の意思を反映してくれているのかなど、わかったものではない。

 暇があると、真美は、このクラウドを探しているようだった。おそらく、この世界にはそういった人間はたくさんいるはずだが、そのクラウドの実態を暴き出したものはいない。

 「仮想空間を支配する、誰も把握できないAIか。まるで、神様だな。」


 そう呟いて目を開いたアイシャは何気なく窓を見て驚いてしまった。そこには、窓の淵に掴まって、逆さまに顔を出しているスセリがいた。

 ニッコリと笑うスセリは窓を開けるように手で合図している。

 アイシャが窓のカギをあけると、片手で窓を開いたスセリは軽々と身を翻して飛び込んできた。

 何とも、奇抜な登場の仕方である。

 「初めましてかしら?アイシャさん。スセリ・クシュナー BB003ですわ。」

 「ああ、本物は、画像よりも、存在感があるな。」

 まるで、昔からの友人のように、スセリはアイシャのベッドに腰かけた。

 「あらあら、意味不明なことをおっしゃいますわね。」

 ベッドで体を起こしていたアイシャは、月明かりを背にする少女を観察した。

 腿まであるブルーのハイソックス。短すぎる黒のスカートに胸だけ隠したような紺色のキャミソール。明らかに男の目を引くための衣装は、女性としては、あまり好感が持てなった。

 「ふーん。ケバイ女だな。アイシャ・リーンだ。」

 とりあえず挨拶したアイシャの顔に、スセリはぐっと顔を近づけてきた。

 「知っていますわよ。特殊公安室の警部補さんですわ。」

 「ふーん。窓から来訪するなんて、妙な女だな。しかし、まずは、礼を言っておこう。助けてくれて、ありがとう。」

 「いいえ。礼には及びませんわ。死にそうな方がいたら助けるのは当然のことでしょう。私は、人を歓喜に誘い、守護する役目を担っておりますの。」

 「さすが芸能人だ。自分の売込みには余念がないな。ところで、BB003っていうのは、何だ?」

 「私の機体番号ですわ。」

 「機体番号?」

 アイシャが質問した瞬間、スセリはアイシャの持つ端末に視線を移した。

 「あらっ、誰かから、緊急通信が入っていますわよ。」

 AI端末のレゴは赤い文字で入信を告げていた。

 真美からの緊急連絡である。

 通信を確立させると、すぐに真美からの緊迫した連絡が飛び込んできた。

 「大変なことが起きたわ。さっき、宮古島の自衛隊施設から大型巡航ミサイルが発射された。ミサイルシステムは外部からハッキングされ、操作不能という最悪な事態よ。」

 「東京に飛んでくるのか?」

 「リモート操作により着弾地点をプログラムされた上に発射されているものと思われるわ。こちらの分析では、到達予想点は東京。到達予想時間は、今から四十五分後。」

 「爆弾の威力は推定できているのか?」

 「ええ、搭載されているのは中程度の電磁爆弾で、もし、中心部に着弾すれば、五万人規模の被害と、ほぼ東京全域の電子機器に重大な影響をもたらすはずよ。」

 「深刻だな。」

 「そうよ。防衛省からの協力要請で、私たちは全員で防衛施設のハッキング解除に当たることになったわ。防衛省の作戦では、市が尾の防衛システムを二十五分以内で奪還して、迎撃ミサイルで撃墜させることになっている。室長につなげるから、後は室長と話して。」

 「了解した。」

 すぐに室長の緊迫した声が聞こえてきた。

 「アイシャ、良く聞け。そこで、AI端末を使って、真美のトレースはできるか?」

 「可能です。」

 「なら、真美のアシストを頼む。それから、十五分後までに迎撃ミサイルシステム奪還ができなかった時には、東京を脱出しろ。脱出用のヘリをそちらに向かわせている。」

 辛山の命令を聞いたアイシャは、驚いてしまった。

 「三百万の市民を置いて逃げろと・・・。」

 「そうだ。我々も脱出する。もし、ミサイルが東京に落ちても、まだ、戦いは終わらない。おまえが死ぬことは許されない。いいな。」

 冷静に考えたアイシャは、すぐに承諾した。

 「わかりました。脱出します。」

 室長との交信を終えたアイシャは、すぐに真美のトレースに入ろうとしたが、強制的にAI端末とのリンクが切断されてしまった。

 その衝撃が脳に走り、アイシャの意識は飛んでしまった。

 「ウワッ。」

 真っ白になった世界の中に、段々と何かが見えてくる。

 -ああ、ここは、どこだ?-

 -ヘリの上?-


 いつの間にか、アイシャはヘリに乗っていた。操縦しているのは、見知らぬ自衛官である。窓の外を見ると、西の空を横切るミサイルが見えた。まるで、現実感はなく、一直線の尾を引いてミサイルは東に向かって遠ざかっていった。

 「あれは何だ?」

 「ミサイルですよ。間もなく、東京に落ちます。」

 もう一度、アイシャは、そのミサイルを見た。自衛官は冷静に操縦を続けていたが、彼女の胸は締め付けられるように苦しくなっていた。

 「あああ、やめろ!」

 その瞬間、ミサイルは地上に落ちてしまった。容赦なく、呆気ないほど簡単に、東京のド真ん中に巨大な火柱が上がった。

 次の瞬間、凄まじい音が鳴り響き、爆風でヘリが大きく揺れた。。

 ドカーン。

 ビーン、ビーン、ビーン。

 鼓膜が破れそうな衝撃波と共に、無数のビルが崩れ去っていく。電磁爆弾の衝撃波の破壊力はすさまじかった。

 破壊される街を見下ろしていると、ヘリの計器が狂ったように動き始めて、振り落とされそうなくらいに揺れ始めた。

 「墜落します。飛び降りてください。」

 なぜか、操縦士の声は異常なまでに冷静だった。失速した機体はぐるぐるとまわり始めている。もはや、掴まっていても体が振り回され、あちらこちらにぶつかってしまう状態である。

 「くっ、このままでは・・・。」

 アイシャは思いきり、扉を蹴り破ると、外に飛び出した。

 風切り音が聞こえる中、体のバランスを整えたアイシャは、パラシュートの紐を引いた。一瞬にしてパラシュートは開き、ガクンという衝撃と共に体は支えられたが、吹き荒む乱気流に巻き込まれてしまった。

 こうなると、もう、どうにもしようがなかった。ただ、凄まじい勢いで振り回されるだけである。

 「ウワッー。」

 普通の体であればただで済まなかったであろうが、何とか持ち堪えたアイシャは地上に着地した。しかし、そこは、廃墟の街だった。

 煙と埃が舞い上がる街は薄暗く不気味な色に染まり、あちらこちらから火花が散っている。立上ったアイシャの足元には、崩れたビルの瓦礫が広がり、見渡すと、至るところに人間らしき残骸が散乱していた。

 思わず口を手で押さえたアイシャは、目を逸らすが、その先にも、瓦礫に潰された生々しい死体が転がっている始末である。

 「ウー、これは・・・。」

 少し歩いただけで、息苦しくなり、呼吸ができなくなってしまった。焼けた地表には、酸素が欠乏しているようだった。

 「苦しい、誰かいないのか?」

 見渡す限り、街は破壊されていて、無数の遺体が転がっているだけである。とても、生存者がいそうな状況ではなかった。

 ドカーンという爆発音に振り返ると、燃え上がるビルが崩壊していくのが見えた。

 グオーン。

 ガラガラ。

 ズドーン。

 崩れるコンクリート共に、ビルの中からは新たな遺体が落ちてきた。

 ガラン。

 ズズズズーン。

 ドーン。

 音は反射して不気味に響き、あたり一面に煙と焼けたにおいが立ち込めた。崩壊の衝撃で巻き上がる粉塵にアイシャは背を向ける。

 「あああ。何て、ことだ。」

 一瞬、粉塵の向こうに、動くものを見たアイシャは、一瞬の希望を抱き、走りだした。二十メートルくらい先の瓦礫の中である。

 到達したアイシャは座り込んで、夢中で瓦礫を掘り始めた。確かに、この辺りで、何かが動いたように見えたのだ。

 必死に、瓦礫を退けると人の腕が見えてきた。それを掴んでみたが、腕だけで、先には何もなかった。

 「ウワー。あああ。」

 千切れた腕を投げ捨てたアイシャは、立ち上がると、よろよろと歩き始める。眩暈と吐き気で倒れそうだったが、それでも、アイシャは進んでいった。

 「生存者を捜さなければ・・・。」

 少し進むと、瓦礫の中に女の子の体が見えた。潰れてもいない体である。駆け寄ったアイシャは抱き上げてみるが、もう、息はしていなかった。

 十歳前後のかわいらしい少女は眠るように死んでいた。

 「ああ、くそっ。」

 その死体を抱きしめたアイシャの目からは涙が零れ落ちていく。

 「誰か、いないのか?返事をしてくれ。」

 絶望感に胸が締め付けられていく。アイシャは廃墟の中で叫んだ。

 「誰か、生きている奴はいないのか。」

 少女の遺体を傍らにそっと置いたアイシャは、また、歩き始めた。これほどまでに、苦しい思いをしても体は動く。それは、きっと、生きることを放棄していない証拠である。

 「ふざけるな。誰が、こんなことをした。」

 絶望的な廃墟の街を睨むアイシャの頭の中には目に見えるものとは別なものが見えてくる。

 「誰だ?」

 意識の中で声がした。声というより、概念だったかもしれない。

 「このようにして、憎しみというものは、生まれるのだな。今のおまえの中には、憎しみが渦巻いている。そして、そのはけ口を求めている。」

 「ふん、その通りだ。今なら、世界中を焼き尽くせそうな気分だ。」

 「人間とは御し難いものだな。」

 「何を言っている?」

 問いかけてみたが、その存在は、広大な空間の中へと消えていった。そして、目の前の光景すらも、歪んだ黒の中に埋没して、消えてしまった。


 遠くで、誰かの声がした。

 誰かが、名前を呼んでいる。

 「だいじょうぶですか?アイシャさん?」

 目を開いたアイシャの目にはブルーの髪の少女がぼんやりと見えてきた。

 「ああ、スセリ?」

 「はい、スセリですわ。どうかしたのですか?急に、動かなくなってしまいましたから、驚きましたわ。」

 すぐに、スセリの顔ははっきりと見え始めた。同時に、息苦しさもなくなっていた。辺りを見回せば、病院のベッドの上である。

 「ああ、夢だったのか?」

 スセリは不思議そうな顔で首を傾げた。

 「おかしな人ですわね。急に倒れたかと思ったら、夢を見ていたのですか?でも、顔が真っ青ですわよ。」

 「だいじょうぶだ。ちょっと、眩暈がしただけだ。」

 心臓の鼓動は速く、呼吸も乱れていたが、段々と、意識ははっきりとしてきていた。

 何とも言えない恐怖感に、アイシャは両腕で自分の肩を抱きしめた。

 まだ、体が震えていて、冷静ではなかったが、スセリは何事もなかったように話を続けた。

 「まだ、話は終わっていませんわ。」

 「ああ、話か。何の話だったかな。」

 そう言いながらも、もう一度、AI端末にアクセスしようと試みたが、レゴとのリンクは成立しなかった。まだ、頭の中は混乱してはいたが、レゴとリンクさせなければならないという焦燥感だけは明確にあった。

 「どうしましたか?」

 「AIとリンクできない。」

 「あらあら、そうですか。申し訳ありませんが、レゴをハッキングさせて貰いましたわ。私の話を聞いてくれないのですもの。」

 「待て、それどころじゃない。そうだ。ミサイルだ。スセリ、レゴのハッキングを止めて、開放してくれ。」

 アイシャは焦っていたが、スセリの方は悠々とした態度である。

 「だめですわ。先に話を聞いてください。」

 「後で聞いてやるから、レゴを開放しろ。」

 「だめですわ。大事な話です。」

 スセリとの問答は平行線だった。揺るぎない彼女の瞳を見たアイシャは考えた。

 -この体では、きっと、こいつを力づくでねじ伏せることはできない-

 -この目を見る限り、譲る気はなさそうだ-


 「わかった。聞くから、早く話せ。」

 「あらあら、お気が短いこと。これは、あなた方にとっても、日本国にとっても、重要な話ですわ。」

 「いいから、早くしろ。」

 「わかりましたよ。今、東京にミサイルが向かってきているのですよね。」

 「そうだ。東京に向かってミサイルが飛んでくる。被弾する前に、どうしても、自衛隊の管制システムを奪還して迎撃ミサイルを稼働させなければならないんだ。私には、真美をアシストする任務がある。だから、レゴを解放してくれ。」

 スセリは大きな瞳をクリクリさせながら首を傾げた。とても、愛嬌のある仕草である。電磁爆弾を搭載した中距離ミサイルが近づいてきている緊迫感など、彼女にはまるでなかった。

 「ふーん、迎撃ですか?うまくいきますかね。どこで撃ち落とすのか、知りませんが、東京近郊で迎撃すれば、だいぶ被害が出そうですわよ。」

 「東京に落ちるよりはましだろう。」

 「確かに、そうですけど、もっと、いい方法がありますわ。」

 「どうするんだ。」

 「そのミサイル、私が止めて差し上げても構いませんのよ。巡航ミサイルであれば、宮古島基地の制御系を奪還すれば、まだ、目標点の変更が可能なはずです。迎撃するよりも、そちらの方が良いと思いますわ。」

 「そんなことができるのか?」

 「それなりの機材さえあれば、成功確率は九十パーセント以上と予想できますわ。あなたに、PSAAIである私の実力をお見せするいい機会かとも思いますので、お手伝いさしあげても構いませんわよ。」

 横目でレゴの様子を見たアイシャは少し考慮した。簡単にレゴを乗っ取ったスセリのハッキング能力の高さは疑う余地もない。こんなことは真美でもできないだろう。

 そのことだけから判断すれば、彼女の力を借りるのは有効な手段である。しかし、どこの馬の骨ともわからない彼女に依頼することには抵抗があった。

 「そのPSAAIというのは何だ?」

 「完全独立型の人工知能ですわ。私の体は、アイシャさんと同じ、培養した超強化体ですのよ。その体に、完全独立型の人工知能を搭載したモデルです。世界最高の性能の人工知能は、全てのAIを強制的に動かす能力を持っています。」

 「わかった。自慢話はそこまででいい。そのPSAAIのおまえなら、ミサイルを止められると言うのだな。」

 「そうですわ。」

 「おまえ、その代償として、何がほしいんだ?」

 「代償なんていりませんわ。ただ、あなたの命令をいただくだけで十分ですわ。」

 アイシャは、スセリの顔を見ながら考え込んでしまった。

 爆風で飛ばされた自分を助けてくれたことを考慮すれば、彼女に悪意はなさそうにも思えたが、わざわざ自分に近づいてきてミサイルを止める提案をするなど、タイミング的にも出来すぎている。計算高い人工知能の罠という可能性も十分に考えられた。

 しかし、罠だとしても目的は皆目わからない。そうしている間にも、時間はなくなっていく。ミサイルは、どんな手段を使ってでも止めなくてはならないのだ。

 さっき、見せられた光景は、幻影と言うにはあまりにリアルだった。アイシャの胸に刻まれた恐怖は、まだ、少しも色あせていない。あんな状態に陥るくらいなら、何にでも頼りたいところだ。

 考え込んでいるアイシャに、スセリは決断を催促してきた。

 「どうしました。何を迷っているのですか。ミサイルはどんどんと近づいて来ていますわ。今まで、指揮権を取り戻せなかったあなた方が、自衛隊のシステムを二十分や三十分で取り戻せるわけありませんわよ。もし、東京に着弾したら、きっと、たくさんの人間が死ぬでしょうね。それでも構わないのですか?」

 「爆弾の威力もわかるのか?」

 「はい。あなたの端末に、どんどん情報が入ってきますし、防衛省のサイトにはたくさんの情報が転がっていますわ。そんなサイトを閲覧するだけなら、一秒もかかりませんもの。そうですね。二万人くらい死にますかね。ビルの下じきになったり、全身焼けただれてしまったり、それは惨たらしい光景が見えてきますわ。」

 外からはヘリの音が聞こえてきた。恐らく、室長が差し向けた脱出用のヘリであろうが、レゴをハッキングされてしまっているので確かめる術もなかった。

 -くそっ、そうすればいい-

 -彼女ならば、ミサイルを止められるかもしれない-


 ヘリが近づき、何もかも打ち消すように激しいエンジン音が鳴り響いてきた。アイシャは鋭い目でスセリを見据えながら質問した。

 「なぜ、私の命令が必要なのだ。おまえだって、危険に瀕しているのだ。できるのであれば、自分の意志でミサイルを止めればいいではないか。独立型の超高度AIならば、そのくらいの判断は自分でできるだろう。」

 「判断はできますわ。でも、人間の命令ではなく、私だけの判断で、多くの命を左右するような決断をしてよろしいのですか?わたくしは、機械なのですよ。」

 「自分はあくまでも人間の道具だとでも言いたいのか?」

 「違いますか?」

 余裕の顔を崩さないスセリを見ながら、アイシャはなおも迷っていた。

 「おまえは、私を助けるときに人間の同意を取ったのか?人命を左右するような行動に際して、人間の同意が必要だと言うならば矛盾していないか?」

 「単純な人命救助であれば、AI単独の判断で問題はありませんわ。しかし、ミサイル攻撃の阻止となれば、戦略的要素や政治的要素が絡みますので話は違います。」

 何を尋ねてもスセリは即答してくる。さすがに、超高度AIと言うだけあって、抜け目はないようだ。

 アイシャは決断するしかなかった。ハッキングされたAIすら取り返せない。スセリの言う通り、真美達が自衛隊のハッキングを解除できる可能性が極めて低いのも確かだ。

 このまま、何もしないで、ミサイルが東京に落ちてしまっては取り返しがつかない。見せられたものは、ただの幻影だとしても、あの地獄の光景は忘れられなかった。

 アイシャは決意した。

 「スセリ、ミサイルを止めろ。東京に住む三百万人の命が絶対優先だ。」

 アイシャの言葉を聞いたスセリはニッコリと笑った。

 「承りましたわ。では、特殊公安局のコンピュータルームに連れていってください。ちょうど、空にヘリも飛んでいますし、ちょうどいいですわ。」

 「わかった。」


 必死に、防衛システムの奪還を目指して真美は、AIシステムを駆使して戦っていた。しかし、やっと、一部のシステムを奪還できても、あっという間に、奪い返されてしまう。

 リリーが守護するシステムの奪還など不可能に近いことは、もはや明白だった。リリーの能力と、人間のオペレータとではあまりに差があり過ぎた。段々と、真美は絶望的な気分に支配されていった。

 そこに、アイシャからの通信が割り込んできた。

 「どうしたの?」

 怪我をしたアイシャを抱きかかえたスセリは、ヘリから下ろされたロープに病院の窓から飛びついたところだった。

 「室長に繋いでくれ。それから、真美も聞いていてくれ。」

 一刻を争う防衛システムの奪還という使命もあったので、一瞬迷ったが、アイシャの真剣な声を感じ取った真美はすぐに承諾した。

 「わかったわ。」

 辛山はすぐに応答した。

 「アイシャ、何事だ。今は緊急時だぞ。」

 「こちらも、一刻を争います。今から、そこに、PSAAI、超高度AIであるスセリを連れて行きます。彼女は、宮古島の施設を正常化して、巡航ミサイルの遠隔操作システムを正常稼働に戻せると言っています。かなりイレギュラーなのはわかっていますが、特殊公安局の端末をスセリに使わせて、宮古島のシステム奪還を試みさせてください。」

 「なんだと、そんなことができるわけがないだろう。一般人に、公安のシステムを使わせるなど、言語道断だ。」

 「スセリは人間ではありません。私が操るAIです。必ず、巡航ミサイルの軌道を変えてみせます。」

 辛山は拳を握りしめて唸った。彼の周りでは、あちらこちらの危機を示す警報音が鳴り響き、映し出されたモニタには、各所で右往左往する職員達の姿が映っていた。

 避難命令を出す職員や、国家の中枢を担う人間を逃がそうと必死になる者達である。

 もはや、市が尾のシステム奪還は絶望的な状況だった。

 辛山はアイシャに向かって念を押した。

 「必ず、だな。」

 「はい。必ず、逸らして見せます。」

 「よし、わかった。許可する。それで、今はどこにいる。」

 「ヘリの中です。あと、三分で特殊公安局の上空に到着しますので、屋上に飛び降ります。」

 辛山は溜息を付いたが、すぐに笑い出してしまった。怪我をしているというのに、相変わらずの大胆な部下である。しかし、彼女なら、無謀とも思えることもやり遂げてくれると信じたかった。

 迎撃ミサイルの稼働は絶望的なのだ。まだ、打つ手があるなら、それは救いである。

 「アイシャ、頼んだぞ。」


 公安局の上空にヘリが到着すると、アイシャを抱えたスセリはヘリの扉を開いた。凄まじい風に目を細めた彼女は、十メートル下の屋上を見下ろした。下には岩佐と五郎が待ち構えているのが見える。

 「ロープを下ろす時間がもったいないですわ。飛び降りましょう。アイシャさん、しっかりと掴まっていてくださいね。」

 頷いたアイシャはスセリの背中に手を回してしがみついた。まだ、体は回復していない。今は、スセリに頼るしかなかった。

 腕を組んで見上げる岩佐の視線に、上空のヘリから飛び降りてくる少女が映った。

 「アイシャさん、行きますわ。」

 ブルーの髪を靡かせながら勢いよく落ちてくるスセリはあまりにも鮮烈だった。まるで、映画のシーンのように、彼女は華麗で美しく、セクシーですらあった。

 彼女が、目の前に着地すると、衝撃で屋上の床が揺れて埃が舞い上がり、一瞬、見えなくなった。しかし、アイシャを抱いたまま、しっかりと着地した彼女は、その中に凛と立っていた。

 岩佐は顔色一つ変えなかったが、その姿はあまりにも衝撃的だった。

 目の前で、抱いていたアイシャを下ろしたスセリは五郎や岩佐には無頓着だった。

 「アイシャさん、歩けますか?」

 スセリの手を掴んだアイシャは問答無用に走り出した。

 「当たり前だ。走るぞ。来い。」

 「キャッ、傷が開きますわよ。」

 無理に腕を引っ張られたスセリは体のバランスを崩しながらも、アイシャに従った。その顔は、なぜか嬉しそうで、二人は戯れるかの如く階段を駆け下りていった。

 岩佐は冷めた目で、そんな二人を見送った。

 「いやはや、この世界も、段々とおかしくなっていくな。」


 コンピュター室に飛び込んだスセリは、すぐに、最新鋭のAI端末を操り始めた。全神経をそちらに集中すると、体は固まったように動かなくなってしまった。

 瞳は遠くを見たまま、瞳孔の動きも停止してしまう。

 周りには、アイシャだけではなく、辛山と真美、それに岩佐が取り囲み、真剣な眼差しをスセリに送っていた。宮古島の奪還に、何万もの人命がかかっているのだ。

 目の前に並ぶAIに吐き出されてくるデータで状況は確認できた。宮古島のミサイル基地内のAIに侵入したスセリは、ハッキングされていた制御を次々に正常に戻していった。その経過はログとなって画面に現れるのが、あまりに速くって、とても人間が追えるものではなかった。

 それを見た真美は感嘆の声をあげる。

 「すごい。自由自在だわ。幾ら人工知能でも、こんなことができるなんて信じられない。」

 椅子に座ったアイシャは、シャツをめくり、体に巻かれた包帯を気にしていた。無理に動いたので、傷口から、かなり出血してしまっているようである。

 「だいじょうぶか。」

 辛山の声にアイシャは頷いた。

 「この程度は、平気です。」

 スセリは目も動かさずに喋り始めた。

 「アイシャ、もう少しでミサイルの遠隔操作機能を復帰できますわ。復帰したら、私から、直接、現場の自衛官に指示しても構いませんか?」

 「ああ、おまえに一任する。」

 アイシャの答えに、誰も意義は挟まなかった。もはや、ここで、スセリを疑うことが無意味であることは、誰もがわかっていた。


 その頃、宮古島のミサイル基地内では途方に暮れる自衛官達が最悪の瞬間が近づくのを、最悪の気分で待っていた。手も足も出せない状況下で待つのは、何よりも辛いことだ。

 「あと、どのくらいだ。」

 責任者らしい男は、装置と向き合う数人のオペレータに向かって尋ねた。彼らの前には、ヘッドセットが投げ出され、動かしようのないAI端末を途方に暮れながら見つめているだけだった。

 「はい、あと十五分で台東区三丁目付近に着弾します。」

 「制御は回復しないのか?」

 「はい。考えられる処置は全てやりましたが、制御は回復しません。」

 若いオペレータが、心痛な声で答えた時だった。目の前の画面が突然動き出した。

 「あっ、いや。待ってください。」

 急いで、目の前の端末を操作し始めたオペレータの目には、次々と映し出される巡航ミサイルの操作パネルが飛び込んできた。

 夢中で操作を始めた男の横に座っていたベテランのオペレータも椅子を前に出して座りなおした。

 「信じられない。システムの一部が回復しています。」

 「何?本当か?」

 同時に、スピーカから女性の声が流れてきた。

 「今から、四十秒後に、制御系統は正常に戻ります。メイン制御のエラーメッセージが全て消えるまで、そちらからの手動制御は行わないでください。」

 この声は、いったい何なのだろうと疑問を感じながらも、全オペレータは、その言葉に耳を傾けた。

 その声は、更に続いた。

 「完全に制御系統が回復したら、H-167ミサイルの着弾目標点を二十秒以内に書き換えてください。書き換える目標点は北緯三五ドット零八八四五一、東経一四一ドット九五九八三九です。落ち着いて、作業するようお願いします。」

 男達の目の前のモニタは全て復帰し、エラーメッセージや操作盤の赤いLEDはひとつずつ消えていった。まるで、奇跡のような出来事に、一同は言葉も出なかった。

 「ミサイル制御が復旧します。」 

 女の声は書き換える着弾目標点を機械のように繰り返していた。

 「目標点は北緯三五ドット零八八四五一、東経一四一ドット九五九八三九です。落ち着いて、作業するようお願いします。」

 どこの誰かもわからない声だったが、この言葉を疑うものは誰もいなかった。藁をも掴みたい気持ちがそうさせたのだろう。

 心臓が張り裂けそうな緊張感が走る中、きっちり、四十秒後にシステムは完全復旧した。

 「よーし、落ち着いてやれよ。ミスは許されない。二十秒間の勝負だ。」

 男達は一斉に目標点の書き換え作業に入った。誰の目にもやる気が漲っていた。あの絶望のどん底から、今、確実にチャンスは訪れたのである。

 「メインメモリアクセス完了。」

 「ライトモードに移行完了。」

 「データオーバーライトします。」

 「書込み完了。」

 「メモリ、通常動作モードに戻します。」

 「よし。」

 その瞬間、ミサイルの進行方向が変わった。見る見るうちに着弾予測地点が移動していく。

 ミサイルの軌道が東京から外れていくと自衛官達の顔に笑みが零れ始めた。

 「やりました。ミサイルは太平洋沖に向かっています。」

 「いや、東京圏外に出るまでは気を抜くな。」

 指揮官の声に、一同は笑みを消して、ミサイルの行方を監視した。

 そして、二十分後、はるか太平洋上にミサイルが着弾するのを確認すると、一斉に歓喜の声が湧き上がった。

 「ウワォー。やったー。」

 「いやー、良かった。」

 太平洋上に着弾した電磁爆弾は海面を大きく盛り上げて大爆発を起こした。これが、東京に落ちていたら、と思うと恐ろしいことである。

 東京にいる辛山も着弾を確認して、ほっと胸を撫でおろした。

 しかし、作業を終えて、アイシャや真美と笑顔で雑談するスセリを見た辛山の胸には、別な心配が過っていった。


 江東区に広がる嘗てのウォーターフロントの廃墟群。この辺りは、戦争後の海面上昇で、多くの建物が水没してしまっていた。

 海水から聳えるたくさんの廃墟ビルは月灯りに照らされ影のようにひっそりと鎮座する。人類の衰退を象徴するような光景である。

 傾いたビルの上に座る金髪の少女がいた。月灯りに照らされた茶色の瞳が夜の廃墟を見つめている。

 とてもグラマラスな肉体の少女は欧州系の彫の深い顔を少しだけ動かした。その横顔には、大人の雰囲気が漂い、自信に満ち溢れていた。

 彼女が座る廃墟ビルは、コンクリートのあちらこちらが崩れ落ちていた。露出した鉄骨も錆びて朽ち果ててしまっている。そんな危ういところに、彼女は片膝を抱えて、ひっそりと座っていた。

 足元の海水の動きに視線を向けた少女は、深遠な瞳で海の動きを見つめると、微かに口元を緩めた。

 大爆発の影響であろう。海面が一メートルばかり持ち上がっていた。

 「始まったな。」




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