第一部 水平線の彼方へ 第五章 生まれ変わり
アイシャの体はいったいどのようなものであり、どんな可能性が秘められているのだろう?
第五章は、彼女の誕生を描いてみたいと思います。
培養された少女の体には複数の脳髄カプラなるものが装着済みであった。しかし、そんなことよりも奇怪なのは、この少女の頭中には、前頭部に超小型のAIが組み込まれていたことである。
しかも、そのAIは、今までに見たこともないような代物だった。既存のAIとは内部のチップ構造も、動作原理すらも違う見たこともないAIである。
一体、どんな性能を発揮するものなのだろうか。それを想像するだけでも胸が高鳴ってくる。
透明シールドの中の体は培養液に浸かり、裸の少女は目覚めの時を待って深い眠りの中についていた。
乾いた唇を舐めた枝川は思わず呟いてしまう。
「実に、神秘的だ。」
体のあちらこちらには、何種類もの管が通され、皮膚から出る僅かな気体が時々泡となって培養液の中を上昇していく。
脳髄カプラというのは、脳と全身の神経を連結するコネクタである。埋め込まれた微細チップによりカップリング調整が可能であり、体と脳のマッチングを取る機能を有している。
通常の脳髄カプラは通信機能とメモリ機能も持っており、外部の電子機器と脳を直結させることも可能としている。更に、画像や音声を記録することもできる優れものなのだが、この脳髄カプラにはメモリ機能などはなく、その代わりに前頭部のAIと直結していた。
このカプラに脳を接続すると、このAIはどんな能力を発揮し、また、どのような影響を及ぼすのか、見つめる枝川は興味津々だった。
彼はカプラに手持ちのAIを接続して、体の状態を丹念に確認していく。AIから送信する情報に対する体の反応を確認して、無数の神経素子と脳のカップリング情報を収集する気の遠くなるような作業である。
暗い部屋の中、立体的画像を映し出すモニタが明るく光っていた。その光に照らされた枝川は真剣、そのものである。
この作業において最も難しいのは知覚情報のカップリング調整である。目や耳をはじめとする全身で感じる情報を違和感なく脳に伝えるのは至難の業なのだ。
シールドを開いた枝川は少女の腕や足にそっと触れてみた。無垢な体は実に魅惑的な手触りである。生まれたての皮膚には傷一つなく、完璧なまでに滑らかだった。こんな完璧なボディは見たこともなかった。
DNAから肉体を生成する技術は確立していた。成人の肉体を生成に要する時間は、約1年である。培養時に、骨や筋肉を強化することも可能であるが、犯罪防止の観点から軍人や特殊な仕事に従事する者以外には許可されていなかった。
しかし、この少女の体は、そんな普通の強化体とは一線を画している。DNAの構造自体が今までにはないものであり、それは、偶然見つけたある論文のものと一致していた。その論文が正しければ、この体はとてつもないパワーと耐久性を持つ奇跡のボディということになる。
誰が培養したのかは知らないが、ジャングルの中で見つかった体は、性能面でも美しさの面でも世界に二つとない逸品に思えた。
枝川は恍惚の笑みを浮かべ、少女の体を隈無く観察した。この細く美しい腕の筋肉にはどれだけの可能性が秘められているのだろう。この体が躍動するのを創造するだけで、エクスタシーが体を駆け巡る。
それは、とても危険な空想ではあったが、魅惑的な夢でもあった。
少女に移植する脳の方にも脳髄カプラが装着され、記憶の改ざん作業に入っていた。枝川は記憶の九十パーセント消去を提案したが、キャサリンからはフロッガーが有する戦闘技術や判断力をそこなわないように強く要望され、記憶消去は極力抑えることになってしまった。
脳に接続されたAI端末を見ながら首を傾げる枝川に、主治医が声を掛けた。
「どうかしたのか?」
「いいえ。ただ、こいつの記憶を見ていると、全部消した方がいいくらいに思えてきます。ばりばりの軍人男とあの体のギャップは大きすぎます。」
「そんなことは、最初からわかっている。もう、後戻りはできないぞ。あの女性司令官の言葉にも従うしかない。」
「わかっていますが、拒絶反応が心配です。」
少女の体と、屈強の軍人の脳がマッチングするか?
そして、もう一つ、枝川が気になるのは、少女の頭の中に装着された人工知能である。これが、どういった役目を果たすものなのか、はたまた、阻害になるものなのか、である。
しかし、主治医が言うように後戻りもできず、時間的猶予もなかった。
移植手術はすぐに行われた。
少女は闇の中を彷徨い続けていた。何も見えない空間は、まるで異次元空間のようだった。時々、ガーンガーンという不気味な音が聞こえ、黄色い閃光が見えるのだが、それが何なのかの判別もできない。
何かを感じていても、自我という意識を固定することもできず、ただ、それが記憶に残るだけである。当然、まともな思考も働かない。ただ、傍観者のように、得体のしれない闇の中に鎮座するだけだった。
長い、長い無の果てに、少女は気づいた。ガーンガーンと響く音が次第に変化していく。夢の中で、遥か彼方に聞こえていた音が、次第にはっきりとした距離感を持って聞こえてきた。
「なんだろう。これは・・・」
音が次第にはっきりとしてくると共に、意識という感覚が目覚めてくる。それと同時に、激しい違和感と苦痛、それに吐き気が襲ってきた。
聞こえるのは人の話し声のようでもあったが、恐ろしく耳障りな音が直撃的に脳に突き刺さり、とても言葉を聞きわけようという気にはなれなかった。
「ウワー。」
思わず叫んだつもりであったが、悲鳴にもならないうめき声が漏れただけである。ベッドの上の少女は目を見開き、身を反らせて苦しみ出していた。
目にも何かが見えてはいたが、まるで画像となっていない。色も形も判別できず、ただ、脳に向かって、激しい苦痛を与えるだけでだった。
開いた口からは涎が流れ、人間とも思えない唸り声をあげてもがき苦しむ少女の体を駆けつけてきた看護師が抑え込もうとした。
「キャー。」
女性看護師はもがく少女の足に蹴り飛ばされると、そのまま、壁にぶち当たって気を失ってしまった。
「危険だ。少女に触るな。」
立ち尽くすもうひとりの女性看護師を跳ね除けるように飛び込んできた枝川はベッドの上にある非常用電撃のスイッチを入れた。
「ギャー。」
この世のものとも思えぬ形相で身を反らした少女は強力な電撃ショックで気を失った。
ぐったりとした少女の目を閉じさせると、緊迫した顔の枝川は看護師に精神安定剤を要求した。
「みんな落ち着け。この程度の拒絶反応は想定内だ。だいじょうぶ、少しずつリハビリをすればいいだけだ。心配するな。何とかなる。」
少女の腕に注射器を刺しながら、まるで自分に言い聞かせるようにゆっくりと枝川は喋っていた。強化体のパワーは絶大である。普通の人間では取り押さえることすらできない。
この状態では人間と呼べるものではなかった。このままでは、化け物を生み出したのと変わらない。
-早く、まともな状態にしなくては-
-しかし、焦りは禁物だ-
-丁寧に、ひとつひとつハードルを越えていくんだ-
数週間後、狭い無音室の中、目隠しされた少女は椅子に腰かけたまま、肩で息をしていた。
とても苦しそうに見えたが、枝川がパソコンから送るメッセージに対して、何とか首を動かして反応していた。これだけのことができるようになったのも大きな進歩である。
手術着のまま、手足を革のベルトで固定されている少女を枝川は室外から監視しながら、パソコンを操作してメッセージを送る。恐ろしい程の緊張感に包まれた枝川は慎重に無数の脳髄カプラをひとつずつ調整していった。いつ終わるともわからないデリケートで難しい作業である。
脳髄カプラとリンクしたAI端末には、彼女の思考を反映した分析結果が表示される。明確な言語レベルではなかったが、色やイメージなどから、彼女の脳がどのように活動しているのかが読み取れる。
今日は、だいぶ、落ち着いているようだった。こういう状態が維持できれば、作業も進展する。
枝川は端末を通して、彼女の脳に直接自分の意思を伝達してみた。
「何も心配することはない。ぼくの声が聞こえるかい?聞こえたら、頷いてみてくれ。」
枝川の言葉を認識した少女は苦痛を告げようとしたのだが、まるで言葉にならないうめき声が漏れただけである。
「ウォー、ウェー。」
少し乱れた彼女の脳波を見た枝川は急いで次の言葉を伝えた。
「苦しいのだね。まだ、喋らなくていい。君の脳と端末を接続しているから、君の考えていることはわかる。これから、君の耳を使えるように調整する。うまくいけば、次は体を動かす練習だ。わかるよね。リハビリって奴だ。」
少女は静かに頷いた。
気が狂いそうなほどの苦しみの中で、少女の目からは涙が滲み出ている。相変わらず、口からは涎もが流れ落ち、ともすれば、失禁してしまうあり様だった。
しかし、枝川は、はっきりと進展を感じていた。最初の状態に比べれば、こちらの意思に反応を返せるようになっただけでも雲泥の違いである。
「まずは、女性の声でアーという音を出す。こちらで、脳とのカプラを調整するから、一番はっきりと聞こえたところで頷いてくれ。こちらでも、脳波の反応を見ているからね。苦しければ、無理に答えなくてもいい。」
少女は再び静かに頷いた。手も足もまともに動かせないが、首から上はだいぶ動くようになってきている。
最初はどうなるかと思ったが、これならば、何とかなりそうだった。少しずつでも前に進めれば、いずれゴールにたどり着けるはずである。
少女の方は何がどうなっているのか、全く把握できていなかった。目隠しされて何も見えず、手も足も思い通りには動かない。ここがどこかもわからなかったし、自分が何ものなのかも認識できない。現実感自体がほとんどなく、夢と現実の区別もできていなかった。
意識と呼べるものは曖昧で、昨日の自分と今日の自分が同じものであるという認識すらできなかった。
音はずっと聞こえていた。最初は脳に突き刺さるような音だったが、段々とまともな音になり始めている。頭の中には、医者らしい男の言葉が直接届いてくる。優しい言葉である。
あの気が狂いそうな音と画像が渦巻いていた時と比べれば、天国のように楽になっていた。
昨日は全身の違和感で何度も嘔吐してしまったが、今は、体も落ち着いている。どれだけの時間が経過したのかは把握できなかったが、時間の経過と共に系統だった記憶が少しだけできるようになっていた。
脳裏には果てしない空間が広がり、そこには数々の幻想が見えていた。この時の彼女には、その幻想と現実は見分けられない。
ジャングルの中を走り回る子供となり、薄汚い川で遊んでいたり、闇の空間に浮いて彷徨っていたり、また、人類の文明の残骸の中にひとり取り残されていたり、その幻想は無数に存在しているようだった。
いつの間にかベッドに寝かされていた少女は誰かに抱き上げられる感覚に気づいた。
「アイシャさん。体を洗いましょうね。」
看護師らしい女性の声がはっきりと聞こえた。依然として目隠しがされたままだったが、手足は縛るロープはなくなっているようだ。
-ここは、現実?-
お湯が体に当たり、誰かが皮膚を洗っているようだったが、体のどの部分なのかも判別できない。ただ、なすがままに身を任すだけである。
リハビリは順調だった。
更に二か月が過ぎると、何とか歩けるまでになり、言葉も喋れるようになっていた。
依然、目は見えなかったが、皮膚感覚もある程度まともになったようである。彼女は目の前を通り過ぎる人間に顔を上げた。
目が見えなくても、彼女には人の存在を感知できた。それは視覚として認識できるのではなく、白い光のようなものとして認識できる能力である。しかし、彼女自身、それが特別なものであるとは思ってはいなかった。
無機質なものには白い光はないが、植物にも微かな白い光が存在することもわかってくる。そして、驚くことに、自分自身の腕や体を見ると、溢れるほどの光が見えた。その輝きは、他の人間とは比べ物にならない程に、眩しくもあり、体から溢れて零れ落ちていた。
また、自分の感じている世界に二種類あることも、段々とわかってきた。病院でリハビリをする自分と、それとは別の不確定的世界である。感覚的には、どちらの世界も同じように感じられ、いずれの世界に居ても現実感はない。ただ、夢の中を漂っている如き感覚だった。
「枝川、私の体はどうなっているんだ。」
とても違和感のある女の子の声だったが、それにも慣れてきた。
彼女は背筋を伸ばしたままベッドに座り、聴覚と白い光に集中してあたりの様子を探っていた。目隠しは外されているが、依然として、目は見えてはいない。
椅子に腰かけて、ゆっくりと足を動かす少女を観察した枝川は満足そうに微笑んだ。今日は、とても落ち着いている。それは、拒絶反応が治まっている証拠だった。
白の診察用着衣から伸びたすらっとした足は床まで届いておらず、体を支える腕はとても細かった。
「どうって、順調だよ。少しずつ感覚も戻っているだろう。リハビリを続ければ、そのうち、走ることもできるようになるよ。」
「それは、楽しみだな。しかし、ここは、現実なのか?」
「ああ、もちろん、そうだよ。」
「先生は、何も見えないはずだと言うが、変なものが見える。」
それを聞いた枝川は怪訝そうな顔をした。視覚神経は完全に止めてあるはずである。それなのに、何かが、見えるとはどういうことであろう。何かセッティングにミスがあるのだろうか。それとも、幻覚の類だろうか。
「変なものって、何が見えるのかな。」
「なんていうか。白い光のようなものだ。それが見えるから、人がいるのもわかる。目の前に見えるのは、先生だろう。それから、今、入口付近を誰かが通った。」
枝川が入口のドアに視線を向けると、確かに、若い女性の看護師が通り過ぎていくのが見えた。
「へえ、通り過ぎたのは、どんな人だった。女性か?それとも、男性だったか?」
「それは、わからない。見えるのは、ただの白い光だからな。ただ、先生よりもちょっと弱々しい光だったな。」
興味はあったが、枝川には、それが、どういうものなのかは見当がつかなかった。もしかしたら、超強化ボディの特殊能力なのかもしれないが、あの論文にも、そんなことは記載されていなかった。
それから、また、時が過ぎた。
その日の彼女は、今までに最高と思える程に元気に見えた。目を閉じたままの少女は肩から胸の辺りに触れて、自分の体を確かめているようだった。
AI端末の画面に表示される脳波を確認しながら、枝川は、そんな彼女の様子を観察していた。
自分の体を気にする彼女の仕草に、枝川は一抹の不安を感じた。
「どうしたんだい。体が気になるのかい?」
「気になる。私は、自分の体がどんなものなのかを覚えていない。」
彼女の素朴な疑問に、枝川は少しだけほっとした。
「そうだな。年齢は十五歳くらいに見えるかな。髪の毛は黒色。瞳はサファイヤブルーだ。」
「やはり、女だよな。」
「そうだよ。何か、問題でもあるのかい?」
枝川は注意深く彼女の表情を窺った。自分が女であることに、違和感を覚えているのかもしれない。しかし、それが、どの程度なものなのかを枝川は知りたかった。それによっては、更なる記憶操作が必要になる。
「よく、覚えていないのだが、私は女だったのか?そうでなかったような気もする。何か、おかしくないか?」
彼女の脳には、女性としての行動パターンや動作パターンを強制的に埋め込んである。記憶も改ざんし、女性であると思いこませたつもりでもある。それが十分機能していることは、普段の歩き方や仕草でも確認できている。しかし、脳にある男としての記憶も完全に消したわけではないので、本人は戸惑っているのであろう。
しかし、この程度であれば、それほど深刻になる必要もなさそうだった。想定範囲の内である。
枝川は何気ない口調で対応した。
「そんなことは、考えない方がいい。それより、まだ見てはいないだろうが、君はなかなかかわいらしい女の子だぞ。声も素敵だ。それに似合った考え方や行動をしないとだめだよ。見えるようになるのを楽しみにしているといい。」
「誤魔化すな。私は、いったい誰なんだ。どこで、生まれて、今まで、どこで何をして生きてきたんだ。思い出そうとすると、頭が混乱する。」
枝川は笑みを浮かべて、強力な精神安定剤の注射器を持った。
「腕を貸してくれるかな。注射をする。君はマレーシア人の女の子だ。フルネームは、アイシャ・リーン。過去などは必要ない。そう、君は生まれ変わった。生まれたばかりだと思えばいい。」
「待て。本当に、それで・・・。」
何かを考えようとしたのだが、注射が効いてくると、何もかもが霧の中に消えてしまった。ただ、枝川の声が暗示のように聞こえてくる。
「必要のないことは忘れた方がいい。そうだ、夕刻に、君と面談したいという人が訪ねて来る。合衆国軍のキャサリン中将だ。なかなか、品のいい女性だよ。それまで、ゆっくりと休みなさい。何も考えずに、ゆっくりとね。」
「キャサリン?どこかで聞いたことがあるような。ああ、でも、思い出せない。」
どんどんと意識が薄らいでいった。
目を閉じたアイシャは、そのまま、ベッドに倒れてしまった。
混沌とした意識の中、アイシャは、また、別な世界を彷徨っていた。
先ほどまで枝川と話していた世界も、今見えている世界も夢のようにしか感じられない。人気のない巨大な地下空間には螺旋状に階段が続いていた。その階段の途中から、彼女は地下空間を見下ろす。
底までは百メートル以上はありそうだった。上を見上げても、照明のある天井までは、やはり同じくらいの高さだった。
その空間の中で巨大な鋼鉄の機械が静かに動いていた。誰もいない空間の中、白い水蒸気を表面から発しながら、ただ、黙々と動き続けていた。
無数のパイプが機械にはつながり、巨大な機械を冷却しているようだった。
-これは、一体、何なのだろう?-
-でも、何かが伝わってくる-
-なんだか、かわいそうだな-
-無人の世界で、おまえは、何をしている?-
その機械の思考が伝わってきた。思考というよりも、ぼやけたような概念である。しかし、それは、その機械と意識のやり取りをしているようでもあった。
-こいつは、世界を見つめている-
-ただ、何の感情もなく見つめている-
-衰退する人間がいる?-
-何とかしなければいけないと思うかって?-
-そりゃ、衰退しているとわかっているなら、放置はできないだろう-
-自分ではないものに成り果てても生きる価値があるかって?-
-それは、どうかな?-
そこで、アイシャは目を覚ましてしまった。
何とも言えない違和感が体を駆け抜けていく。寒気がするような変な感覚である。先ほどの世界では、はっきりと得体のしれないものが見えていたが、目覚めた世界では何も見えない。
しかし、自分の体に触れてみると、今までで一番はっきりとした感覚があった。
-どうやら、こちらが現実みたいだな-
病院内の面会室で待っていたキャサリンは、看護師に手を引かれながら入ってきた少女に目を奪われてしまった。
目を閉じたままゆっくりと歩く姿も仕草も、女性そのもので、全く違和感などはなかった。そして、ストレートの黒髪の艶やかさも顔立ちの美しさも、あの培養室で見た少女とは比べ物にならないほどに、艶めかしい輝きを放っていた。
「驚いたわ。あなたが、その、アイシャ・リーン。」
膝を閉じて、目の前の椅子に座った少女は目を閉じたまま頷いた。
薄手のノースリーブのワンピースがとても良く似合う、かわいらしい姿には、もはや、あのフロッガーの面影どころか、微かな残り火すら見えなかった。
信じられないような顔で、少女を見つめていたキャサリンだったが、すぐに真顔に戻って質問した。
「目は見えないの?」
アイシャは心の目でキャサリンを観察していた。白い光はまばゆいばかりである。これだけの輝きを持った人間を見たのは初めてである。それでも、自分と比べてしまうと、白い光の量は比べ物にはならないほどに希薄だった。
アイシャは冷静に頷いた。。
「見えない。来週から、目のリハビリをする予定だが、今は目の神経を閉じてあるから、何も見えない。」
少女の声はややかすれていたが、とてもキュートな響きを持っている。この中に入っているのが、あのフロッガーの脳だとはとても信じられなかった。
「何てクリアで、深みのある声なの。それに、かわいらしい顔。」
手を伸ばして触ってみたい衝動を覚えてしまうほどに神秘的で美しい顔だった。肌のきめ細かさは、赤ん坊のようで、柔らかくしっとりとしている。
しかし、少女の方は素っ気なかった。
「そうか。」
面会室の窓は眩しい程の光を受け、少女の顔の右側だけを明るく見せていた。それに、見とれてしまっていたキャサリンは、はっとして話を始めた。
「時間がないから、端的に要件を言うわ。」
「そうしてくれ。」
話に集中しようとしたキャサリンだったが、彼女の肌や顔がどうしても気になってしまう。こんな少女の中に、あのリベルロ・フロッガーの脳が入っているのだという驚きが消えないのだ。
そこには、強靭な肉体を持ち自信に持ち溢れていた男とは、全く別物の、抱きしめたくなるほどに華奢な体があった。
なかなか、話し始めないキャサリンに少女は声をかけた。
「どうかしたのか?」
「いいえ。何でもないわ。」
少女を見つめたまま、キャサリンは事務的な思考に戻って話し始めた。
「私の部下の中でも、あなたは最も優秀な兵士だった。あなたが重傷を負い、この病院に収容された際、私が一番に考えたのはあなたを失いたくないということだったわ。だから、どんな手段を使ってもあなたの命をつなぎ留めたかった。」
「そうか。私は、あなたの部下だったのだな。」
少女の言葉に感情はなかったが、キャサリンは気にせずに続けた。
「重傷を負ったあなたを救う方法は、ただひとつ、脳移植しかなかった。そして、手に入った体はそれしかなかった。だから、私は決断した。そう、私が、脳移植手術を命じたのよ。だから、全責任は私にある。もし、不服があるなら、遠慮なく言ってちょうだい。」
キャサリンの声が頭の中に残響していた。まだ、聴覚も完全ではない。しかし、言葉の意味は理解できたし、それを分析することもできた。
「そうか。あなたの判断に間違えはない。恨むようなことはしないと約束しよう。」
口調はなんとなくリベルロ・フロッガーに似ていたが、アクセントが大きく異なり、非常に柔らかく聞こえた。
「そう言って貰えると助かるわ。」
「ふん。しかし、礼は言わないぞ。」
「ええ、それで、問題ないわ。次に、これからの選択肢だけど、まずは、もう一度脳移植をすることも不可能ではない。元の体のDNAから、体を培養すれば十二か月後には元と同じレベルの体が作れる。」
キャサリンの言葉を聞いた少女は即座に答えた。
「いや。もう、脳移植はごめんだ。目が見えないので、この体は見ていないが、皆、美人だというからな。まあ、それを楽しみにやってみるさ。」
少女の答えに、キャサリンは意外そうな顔をした。
「本当に、それでいいの?」
「良くはないさ。だけどな。もう、脳移植だけはごめんだ。あれは地獄に落とされた様なものだ。気が狂わなかっただけ、設けものだと思っている。」
少女の答えは明確だった。本人が、そう言うのであれば、再度の脳移植は強要できない。
「辛い思いさせてしまったのね。ごめんなさい。しかし、自分のものではない体で、本当に生きていける?」
少女の表情は、全く変わらなかった。
「どうかな?脳移植前のことは、ほとんど覚えていない。自分がどんな人間だったのかもわからない。悪いけど、あんたのことも何一つ覚えていない。」
アイシャの言葉は、キャサリンの胸に突き刺さった。本当に、この脳移植を命じて良かったのだろうか?今更、後悔しても意味がないのはわかっていたが、それでも、彼女の意思は揺らいでしまった。
「そうなのね。初対面の挨拶をしなくって悪かったわね。」
「そんなことは気にする必要もない。もう、わからないことだらけ。大概のことは許容範囲だ。」
キャサリンは深い憂いの顔をあげて、真っすぐにアイシャを見つめた。ここで、落胆していても、何か変わるわけでもない。
「辛いと思うけど、がんばってね。私にできる援助ならば、惜しむことはないわ。今日は、あなたの意思を確認できて良かった。少しだけ、ほっとしたわ。まだ先のことになるでしょうけど、あなたの働けそうな場所も捜しておくわ。生まれ変わったつもりで、そこで、生きてほしい。」
「ああ、頼む。」
「新しい戸籍も必要かしら。そちらも、手配しておくわ。」
もう、戻らなくてはいけない時間だったが、キャサリンはすぐに席を立たとうとはしなかった。見れば見るほどに、美しい少女である。生まれたばかりの美しさと言えばいいのだろうか?いや、ただ美しいだけではない。その存在には特別な意味がありそうに思えた。
その女神のような姿には、あのフロッガーの姿は重ならない。もう、二度と彼の姿を見ることもできないのだと思うと切なさが広がった。しかし、それと同時に、生まれ変わった少女に対する期待も膨らんでいった。
フロッガーという存在がなくなることは痛かったが、せめて、この少女に価値ある人生を送ってもらいたいとキャサリンは思った。
「あなたの体は、実に美しいし、神々しさすら感じるわ。この世のものではないみたい。」
キャサリンは手を伸ばして、少女の頬に触れてみた。彼女は嫌がることもなく、なすがままである。
「私は化け物なのか?」
それを聞いたキャサリンはクスッと笑った。こんな普通の女のように笑えたのは何年ぶりだろう。
「いいえ、とてもかわいらしい女の子よ。生まれたての赤ちゃんのように、純真に感じる。」
立上ったキャサリンは少女の手を握った。
「アイシャ、この世界は闇に沈もうとしている。このまま、何もせずに沈んでいくのは嫌なの。私は、この運命に抗いたい。あなたに、そうしろとは言わない。でも、私の言葉は覚えておいてほしい。」
椅子に座った少女は表情も変えずに、キャサリンを見送った。抗うと言われても、何を、どうろというのか、見当もつかなかった。
-そう言えば、あの機械も、変なことを問いかけてきたな-
-何にしても、私にあまり期待しないでほしい-
-できれば、静かに、死なせてほしかった-
それから、一月後、アイシャは恐る恐る目を開いた。差し込む光が眩しくって、何度も目を閉じたり開いたりしてしまった。
白く細い指先を見つめ、その後、鏡に映る自分の姿を見た。まだ、視界は少し歪んでいたが、それでも、はっきりと自分の顔を確認できた。
-ああ、確かに、整った顔だなー
-でも、それが何だというのだ-
アイシャは無感動に、そう思っただけだった。この容姿がどんなものであろうと、それに意味は見いだせなかった。
依然として、自分というものがはっきりと掴めない。しかし、意識はある程度は固定できるようにはなっていた。多少の差異はあっても、最初の頃のように、昨日の自分が自分でないとまでは思わなくなっていた。
その日から、枝川はアイシャの体のデータを取り始めた。
視力、聴力、筋力などの測定と、骨や血液など、あらゆるところの診断である。
夜の研究室でデータを纏めながら、あることに枝川は注目した。それは、彼女の知能指数だった。特に、計算能力や瞬間的な記憶力は異常なほどの数値だった。
筋力は、成人男性の二倍程度、骨の強度は三倍程度である。こちらの方は、ある意味で少し期待外れだった。これでは、通常の強化体に毛が生えた程度の性能である。
しかし、計算能力は桁外れである。
「そうか、頭の中のAIを使っているんだな。でも、彼女は自分の頭の中にAIが入っていることを知らないはずだ。頭の中のAIを彼女はどう認識しているのだろう?」
枝川は、それを確かめるための実験を思いついて、ニヤリと笑った。
いつものように、診察室に入ったアイシャは、目の前に置かれたAI端末の画面に目をやった。
「これは、なんだ?」
枝川はキーボードを打ちながら、笑顔で答えた。
「今日は、ちょっと、ゲームをやってみてほしいんだ。」
「ゲームね。まあ、いいが、何のために、そんなことをするんだ。」
「君の反射神経を計っておきたいだけだ。最初はゆっくりと、敵の宇宙船が出てくるから、それを撃墜するんだ。矢印ボタンで、レーザー銃が左右に動き、スペースキーで発射だ。」
とても、クラシカルな単純ゲームである。
アイシャは何度か矢印キーで銃を動かして撃ってみた。何度かやってみると、ゆっくりと、動く標的は簡単に撃破できた。
「ふん、簡単だな。」
「いや、そうでもないよ。どんどんと速くなるからね。もし、撃ち落とせなければ、突っ込まれてやられてしまう。」
「他愛もない遊びだな。」
アイシャの指は素早く、正確に動き、次々に宇宙船を撃破していく。どんどんと速くなる宇宙船をアイシャのブルーの瞳が追った。強化体の動体視力が、普通の人間よりもずっと優れているのは、既にわかっていた。しかし、それにしても、アイシャの射撃は正確無比で、おまけに速かった。
もはや、枝川の目では、宇宙船の動きは見えなかった。それでも、アイシャは全部打ち落としてしまった。
更に早くなると、彼女の指先の動きすら見えなくなってしまった。それでも、まだ、彼女は失敗しなかった。
そこで、枝川はアイシャを制止した。
「もう、いいよ。」
「ああ。」
頷いたアイシャだったが、手の動きは止まらなかった。
「いや、もう十分だ。止めていい。」
アイシャは、僅かなタイムラグの後に、手を止めた。
その後、驚いたように、彼女は自分の手を見つめていた。
「アイシャ、君は、どうやって、宇宙船の動きを予想していた?」
「あっ?ああ、そうだな?私、何をやっていた?ああ、そうか。ゲームだよな。たぶん、反射的に撃っていただけじゃないのか。」
枝川は疑わしそうに、アイシャを見つめた。
「本当かい?遅い時も、早くなっても、出てくる宇宙船の速度は一定ではなかった。でも、君は、その速度を正確に予測して撃っていたように見えたよ。」
アイシャの目は、明らかに戸惑っているようだった。彼女自身、どうやっていたのかがわからない。まるで、自分の意思など無視して、体が勝手に動いていたような気がしていた。
大きく息をしたアイシャは、椅子に座りなおすと枝川に視線を向けた。少し落ち着くと、アイシャの脳裏には、ゲームをしていた時の思考が蘇ってきた。
よくよく、思い返すと、段々と自分がやっていたことがわかってきた。
「ああ、パターンだ。最初から、最後まで、同じパターンだったではないか?最初の宇宙船は中くらいの速度、次の宇宙船は、二割くらい速くって、その次は、最初のよりも三割くらい遅い。その繰り返しだ。そして、ステージが進む度に、速度は三割り増しってところか。」
枝川は優しく笑った。
「その通りだね。でも、凄いな。あの速度で、そんな繰り返しを間違えずに、予測していたなんて、君の脳はやっぱり普通じゃないよ。」
「そうなのか?」
アイシャはよくわからないという風に首を傾げた。
しかし、枝川は確信した。アイシャの意識は、脳内にある人工知能を脳だと思って使っている。今のところ、人工知能で意識は作れない。しかし、意識があれば、人工知能を脳の代わりとして使えるという証明だった。
人工知能の計算速度はあまりに速く、彼女の意識はリアルタイムに把握できない。人工知能に操られた強化体は尋常ではない速度で動いてしまい、それに脳内の意識がついていけないわけだ。普通の人間だったら、明らかにおかしいと気づくはずだが、ある意味、おかしいところだらけのアイシャは気づいていない。
人工知能には、計算履歴も残っているはずなので、少し時間が経てば、意識は人工知能が何をしていたのかを把握できる。だから、不自然ではあるが、彼女はちゃんと人工知能がどのように計算していたかを説明できたわけだ。
通常、意識と言うものは、脳の並列動作の一つを認識し、多少の時間的ずれは辻褄を合わせてしまうのだが、人工知能となると、あまりにも脳とは違いすぎて、時間的辻褄が合わなくなっていると考えれば納得できる。
アイシャの顔を見据えた枝川の胸は、いっそうの探求心が湧き上がっていた。