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第一部 水平線の彼方へ 第一章 規格外の少女

第一章は、主人公である少女がマレーシアから東京に赴任してきたところから始まります。記憶を失い、生きる意味さえも失った少女が目覚めていきます。規格外の能力をもった少女アイシャの活躍に期待してください。

 もし、あなたが描く幻想があるとするなら、その果てに何が見えますか?


 二千二百十三年。

 初めて、訪れた東京には強い秋風が吹き荒れていた。薄着の少女は寒さに体を丸めて体を震わせてしまう。

 -ああ、寒いな-


 この街にも戦争の爪跡が深く残ってはいたが、彼女の生まれたマレーシアと比較すれば雲泥の差だった。行き届いた生活設備に、街を網羅するモノレール、この都市に暮らしていれば、生活に不自由することはないだろう。

 彼女が入院していた病院があるクアラルンプールにも、いくつかのビルは残ってはいたが、その多くは人も住めない廃墟と化し、鉄道やモノレールなどの交通インフラもなかった。

 多くの人々は生きるために、ジャングルに戻り、自給自足の生活を送っている有様である。 

 百五十年前の世界大戦で日本もマレーシアも同じように壊滅した。しかし、爪痕を残しながらも復興を遂げた国家と這い上がれなかった国家の差は歴然としていた。


 大きな赤いバックパックを背負った少女は、モノレールへ乗るための階段を登っていく。その顔は、何やら浮かない様子だった。

 カメラが監視する無人のゲートを潜り、ホームに上がれば手を煩わすこともなくモノレールに乗車できる。

 高層ビルを縫うように張り巡らされたモノレール。これに、乗れば都市内の移動には不自由することもない。こんな便利なものに、無料で乗れるのだから、日本と言う国は凄いものである。

 全てのものがAIで管理された街では、日本国籍を証明するIDさえあれば不便を感じることはないだろう。逆に、このIDを所持していなければ何もできない。

 国家はAIを使い、このIDチップを管理している。全国民の行動はログとして記録され、犯罪の防止や災害時の対応などに活用されているわけだ。簡単に言えば、全国民の行動はAIによって、逐次把握されているということだ。しかし、だからと言って犯罪などとは無縁の街かと言うと、実はそうでもなかった。

 この豊かな大都市には、多くの不法住人もいて、復興地区から離れた貧民街に細々と暮らしている。IDを持たない彼らは、街中での買い物もできなければ、もちろん、タクシーやモノレールにも乗れない。それだけではなく、管理された復興地区をうろつけば、すぐに発見されて拘束されてしまう。

 それでも、不法住人は減ることはなく、犯罪もなくなることはなかった。


 モノレールの窓からは、見たこともない近代的な街並みが見えていた。陸側を見れば、高層ビルが立ち並ぶ、世界有数の大都市だ。初めて、日本に来た少女の目には、実に壮大な景色である。逆に、海側を見れば、廃墟となった建物や海に水没しかけた工場が鎮座している。こちらは、何とも陰惨な景色だった。

 高層ビルの間を縫う高架道路には自動運転の電気自動車が走り、空中高くには複数のモノレールが交差しながら駆け抜けていく。

 しかし、無感情な少女は、そんな近代設備を、ただボーと眺めているだけだった。

 

 それにしても、モノレールに乗っている客達は異様だった。ほとんどの乗客は虚ろな目をしていて、視点が定まっていない。おそらくは、脳内に埋めもまれたチップを介し、ネット世界に没頭しているのだろうが、何とも寒々しい空間である。

 少女は、そんな乗客とは目が合わないようにしていたが、気にならないはずもなかった。

 -随分と荒んだ奴らだな-

 -世界有数の都市と聞かされていたが、ある意味ではマレーシアの方がましかもしれない-


 アイシャ・リーンというのが、彼女のフルネームだった。見た目は小柄な十五、六歳の少女にしか見えなかったが、実年齢は二十二歳ということになっていた。マレーシア人にしては、肌の色は比較的白く、黒い髪にブルーの瞳が印象的な少女である。

 一見すれば、旅行学生と言ったところだろうか。


 新築のビルが立ち並ぶオフィス街に降り立ったアイシャは重苦しい気分で目的の場所に向かって歩き出した。そこが、新しい就職先なのだが、モチベーションは地を這うように低い。

 唯でさえ、過去の記憶を失い、自分を見失っているのに、特に愛着もない国で、見知らぬ人間のために危険な任務に着く意欲など持てるはずもなかった。

 道行く人々の顔を見れば、モノレールの客と同様に虚ろな顔ばかりである。歩行時にはネットアクセスは禁止されているはずだったが、周りの人間に全く無関心の人々は現実など見ようともせずに、ただ亡霊のように通り過ぎていく。多くの輩の顔は無機質で、その目は死んだ魚のように無気力、そのものである。

 見かけは復興した大都会であっても、人々の魂は消沈しきっている。そして、モノレールで出会った人々と同じように、人に宿るはずの白い光も消え入るほどに希薄だった。

 アイシャは大きくため息をついて立ち止まってしまった。

 一年間、リハビリをしながら暮らした病院が懐かしいとは思わなかったが、ここよりもましな気がしてしまう。

 -貧困の中、酷い生活をしていたが、もっと、みんな人間らしかった-

 -看護師も明るかったし、こんなところに来るんじゃなかった-


 ほとんどの物が自動化された世界。

 インフラ設備も金融も生産工場も、全てAIが管理運営している生活に困ることのない世界だ。

 そんな夢のような世界が目の前にあったが、それを魅力的だとは到底思えなかった。


 多くの人々は自宅に籠りきりの、自称デザイナーや自称プランナー、もしくは自称クリエイターなどである。

 そんな輩達は、一生、自分が創作したものが採用されなかったとしても、最低賃金を貰って生きていくことは可能だった。要するに、遊んでいても生きてはいけるのだ。

 モチベーションが高い人間は精力的に仕事をして、同人会を作り活動し、莫大な報酬を受けている。しかし、そんな人間はほんの一握りしかいないのが実情だった。

 立ち止まったアイシャは、目の前に聳え立つビルを見上げた。どうやら、そこが新しい職場らしかったが、辺りの斬新的デザインの高層ビル群に比べると、何とも古くさくって、ぱっとしない建物である。

 -冴えない建物だ-

 -何もかも、気が滅入るものばかりだ-

 無表情な彼女の目が、目的の場所の名称を確認する。入口には特殊交安局の大きな文字が刻まれていた。どうやら、ここで間違えはなさそうだった。

 低いモチベーションは、更に低下し、地の底まで落ちていく。

 -ああ、気が重い-

 -こんなところに、入りたくない-

 -でも、ここで引き返すわけにもいかないか-

 内部には最新の電子システムが導入された屈指の電脳ビルなのだが、みすぼらしい外見からはとても想像することはできない。

 小柄な体に似合わぬバックパックを背負ったアイシャは、キャサリンから貰った紹介状と、先ほど立ち寄った警察庁で貰った書類を手に、そのビルのロビーへと重い足を進めた。


 デニムのミニスカートにオレンジ色のキャミソール、その上に黒のシャンバーを羽織った少女は、奥のエレベータを目指してトボトボと進んで行った。大きなバックパックを背負う少女に職員達の目は自然と向けられる。

 かなり奥まで進んだ所で、アイシャは警備職員に呼び止められた。

 「おい、待て。」

 立ち止まったアイシャは、冷めた顔で男の顔を見上げた。この男の顔も、あまりぱっとしない間抜け面である。

 警備員は子供を窘めるように、アイシャに向かって注意を与えた。

 「ここは、凶悪事件を専門に扱う特殊な警察だよ。君のような子供が来るところではないなあ。いったいどこに、行こうとしているのかな?」

 少し目を細めたアイシャは無表情な顔で職員を見上げたまま、しばし動かなかった。まるで人形のような少女の顔は傷ひとつなく、驚くほどに端正だった。そして、ブルーの瞳は、見ているだけで引き込まれそうになるような深き光を放っていた。

 その瞳で見つめられた警備員は思わず目を逸らしてしまった。

 そんな男に、アイシャは平然と問いかけた。

 「おまえは、特殊公安の職員か?」

 かわいらしい顔にしては、低めの歯切れの良い声だった。それに、随分と高飛車な言い方である。

 職員の男は、彼女の青い瞳に視線を戻しながら答えた。

 「そうだけど?」

 人の良さそうな警備員ではあったが、凶悪犯を扱う特殊公安局の職員としては落第である。男の目の前に、アイシャは手に持った書類を差し出した。

 書類を見た職員は、驚いて身を正すと不自然に敬礼した。

 「あっ、特殊公安室は三階です。正面のエレベータを降りれば、目の前が入口です。リーン・アイシャ警部補。」

 表情を変えずに頷いたアイシャは、男の横を通り過ぎながら声をかけた。

 「見た目が少女だからと言って、油断するな。私が凶悪犯なら、おまえを簡単に殺せたぞ。」

 冷たく無表情な彼女の言葉に、警備員は背筋がぞっとしてしまった。


 キャサリンのネットワークで紹介してもらった日本の特殊公安であったが、なぜ、こんなところを紹介されたのか、意味もわからなかった。

 しかし、体が動くようになれば、いつまでも病院にいるわけにもいかなかった。

 過去をリセットして、新しい自分を捜す。それが、リハビリ担当の医師とキャサリンから与えられた目標である。その言葉に従い、自分の望みとは関係なく、こんな場所までやってきてしまったわけである。

 アイシャはキャサリンの言葉を思い浮かべた。彼女は冷徹な女だったが、自分の身を案じてくれていたのは確かだ。

 彼女は言った。

 -見知らぬ国の公安で仕事に熱中できれば、きっと気持ちも晴れるだろう-

 -おまえには、そういう仕事が似合っている-

 -過去をリセットし、新たな自分を捜しなさい-


 エレベータに乗りこんで三階のボタンを押したアイシャは大きく溜息をついて項垂れてしまった。リセットしようにも、過去などありはしない。何も覚えていないのだ。

 すると、猛スピードで玄関を駆け抜けてくる体格のいい男が目に入った。髭を蓄えた精悍な顔の三十代後半の男である。

 アイシャの目はしっかりと、その男を捉えた。空港から、ここまでの間に見た人間とは少し違っている。あの白い光が強く体を覆っている。それでも、自分に比べれば、十分の一くらいなのだが、街中の無気力な輩に比べれば、数倍の光である。

 閉まりかけたエレベータのドアを見た男は大声で叫んだ。

 「待て。待ってくれ。」

 アイシャは冷静に、ボタンを押して、閉まりかけたドアを再び開いた。

 飛び込んできた男はアイシャを見下ろし、息を切らしながら不審そうな表情を見せた。

 「ありがとう。助かったよ。しかし、大きな荷物だな。君のような子供が何の用かな?」

 「子供ではない。童顔なだけだ。」

 アイシャはショルダーバックの中にある拳銃が見えるように、わざと体の向きを変えた。彼女の手には似つかわしくない大きな拳銃である。

 「それは失礼した。ほう。PM-12か。」

 多くの警察関係者はKSシリーズという拳銃を使っている。扱いやすさと殺傷能力のバランスが良いからである。それに対し、PMシリーズの拳銃は防弾服の上からでも敵に大きなダメージを与えることができる強力な拳銃であった。しかし、その分、扱いは難しい拳銃でもある。

 破壊力と貫通力に優れるものの、反動も大きいため、余程の腕力がないと扱いきれない。その中でも、口径十二ミリのPM-12は最強の破壊力を持つ代物だった。

 間もなく三階に到着し、エレベータの扉は開いた。男は拳銃を気にしていたが、もっと重要な要件があるらしく、彼女を押しのけるように飛び出していった。

 「悪いな。急いでいるので、お先に。」


 射撃の名手でもある岩佐は入室すると、室長の辛山の前に走った。ガッシリした体格のいかにも現場向きの男は、この部屋のナンバーツー、役職は警視である。

 「室長。当りです。奴らのアジトが判明しました。」

 既に、連絡を受けて待ち構えていた辛山は、即座に命令を与えた。

 「よし、五郎とエリカは岩佐と一緒にすぐにアジトに踏み込め。敵は戦闘装備を持っている。防弾服着用の上、十分に注意しろよ。」

 辛山は四十代後半の小柄な男だったが、かなりの切れ者である。上層部にも一目置かれている存在でもあり、役職は警視長である。

 辛山の命令に従い、若い時得五郎と気丈そうな女性である佐山エリカは、間髪入れずに立ち上がった。

 もう一人、横にいる若い女性の方を見た辛山は優しげな声で命じる。

 彼女は石川真美である。

 「真美は、AIを駆使して三人をフォローしろ。」

 「了解です。」

 右手をあげて目を輝かせた石川真美はAI端末操作を得意とする情報収集係である。二十代前半の健康的な女性だった。

 その緊迫した室内に、バックパックを背負ったアイシャが入ってくる。中の様相とは無関係のように、彼女は無理に笑顔を作って元気よく挨拶した。

 「本日付で赴任いたしましたアイシャ・リーンです。よろしくお願いいたします。」

 その声に、緊迫した室内は、一瞬、固まってしまった。最初は不審そうにアイシャを見ていた辛山は思い出したような顔で近づいていった。

 「おお、よく来てくれたな。しかし、今は緊急事態だ。すまんが挨拶は後程させてもらう。そこの席を使っていいから、待機していてくれ。」

 指さされた何も置かれていない机を見たアイシャは、緊迫した表情で飛び出していく五郎とエリカに目を移した。

 -何だか、慌ただしいな-

 -大捕り物でも始まるのか?-


 伝わってくる緊迫感に、彼女の胸は計らずして、ときめき始めていた。それは、自分でも驚く程に心地よい目覚めのような感覚だった。

 病院の中での辛いリハビリの記憶しかないアイシャは、こんなことで、自分の気持ちが変化するなどとは、夢にも思っていなかった。

 元々無口なアイシャであるが、言葉が自然に出てきてしまう。

 「私も行かせてください。」

 バックパックを床に置いたアイシャは、中から特殊カーボン製の防弾服を取り出すと、肩だけ通して走り始めた。

 「待て!相手は凶悪犯だぞ。」

 辛山の静止などアイシャは聞いていなかった。こんな気持ちになるのは初めて、いや、前にもあったような気もしてくる。遠い記憶、消されてしまった記憶中にあるのかもしれない。

 夢中で階段を駆け下りるアイシャは、予感だけで嬉しくて堪らなくなってしまった。

 -獲物がいる-

 -それも、かなりの上物-


 岩佐の運転する車の助手席に乗ったエリカは後ろの座席を振り返り、ギリギリで飛び込んできた見知らぬ少女の顔をいかがわしそうな目で睨みつけた。目があったアイシャは、キャサリンの忠告を守って笑顔を繕って挨拶した。ちょっと、ぎこちない笑顔である。

 「アイシャ・リーンです。」

 真美も若くって美人だったが、まるで人形のようなアイシャの美しさは別次元のものだった。マレーシア人と聞いていたが、黒くしなやかな髪と色白の肌は、日本人と言っても通用しそうである。

 「ああ、佐山エリカよ。今日、赴任してくることは室長から聞いていたけど、びっくりね。」

 ミニスカートを穿いたままの少女は、まるで、公安の職員には似合わない華奢な子供のような姿である。高校生、いや、小柄な中学生にしか見えない。どうみても、凶悪犯相手の仕事には向きそうにはなかった。

 アイシャの横に座る五郎は、隣に飛び込んできた穢れなき少女に呆然として言葉も出ずに見とれていた。これ程に綺麗な肌をした女の子は見たこともない。それに、ブルーの瞳がとてもクールで神秘的だった。

 そんな五郎の視線を感じたアイシャは、真直ぐに五郎を見つめ返して、また、ぎこちない笑顔を見せた。

 「アイシャ・リーンです。」

 差し出された小さな手を無意識に握りながら、五郎は棒読みのような挨拶をした。

 「あっ、ああ。俺は時得、時得五郎だ。よろしく。」

 ニッコリと頷いたアイシャはショルダーバックから、拳銃を取出すと防弾服の内側に隠し、続いてAI端末を取り出した。

 彼女の体には似合わない銃に五郎はすぐに気づいた。まるで子供のような容姿に、一般的な体力では扱い切れない拳銃である。一体、この少女は何者なのだろうという疑問が広がる。

 そんな五郎が見守る中、彼女は脳内に埋め込んだチップと、取り出したAIを無線でリンクさせた。

 彼女に見とれている五郎に呆れたエリカはシートに寄りかかりながら、拳銃の実装確認を始める。

 「でも、アイシャ。あなたは、なんで、ここにいるの?室長は待機と言っていたように聞こえたけど・・・。」

 AIからの情報を聞きながら、アイシャはエリカの問いに返答した。

 「待っているのは、好きじゃない。」

 ポーカーフェイスのアイシャの様子を横目に、エリカは運転する岩佐に縋った。

 「岩佐さん、この子、どうするの?」

 ぐっとアクセルを踏み込みながら、岩佐はクールに答えた。

 「飛び乗ってきたのは、この子の意思だからな。今更、車を止めている時間もない。エリカ、室長に連絡を取って、指示を貰え。」

 「なんで、私が・・・。」

 そう言いながらも、無線端末を取り出そうとしたエリカをアイシャが静止した。

 「室長と繋がった。自分で話をする。」

 自分のAI端末を使って、アイシャは辛山に説明を始めた。

 「犯行の状況や経緯からすれば、テロリスト達は完全に追い詰められていると推察できます。逃げ道のなくなった鼠は凶暴ですので踏み込むなら、ごく短時間での制圧が必須でしょう。そうなると、味方はひとりでも多い方が良い。違いますか?」

 冷静なアイシャの説明を聞いた辛山はニヤリと笑った。

 「なるほどな。キャサリンの紹介通り、優秀なようだな。しかし、アイシャ、その情報をどこで手に入れた?」

 「AIを石川さんに繋いで、今、情報を貰ったところです。」

 来たばかりだというのに、手際のいいことである。まずは、アイシャの腕前を確かめてから実戦投入するつもりだった辛山だったが、あのキャサリンが紹介してくるくらいであれば問題もないだろうと判断した。

 「わかった。岩佐の指示に従って、作戦に参加しろ。ただし、ちゃんとした防弾服も着用していないのだから、今日は五郎か岩佐の後ろから突入して、できる限り前面に出ないようにしろ。」

 「はい、了解しました。」

 その会話を聞いていたエリカは肩を窄めた。

 「殺されても、知らないわよ。」

 タイヤの軋む音と共に、急カーブを回った車は、更にスピードを上げて高架へと駆け上る。復興地区のビルの向こうには、崩れかけたビルが立ち並ぶ廃墟街のシルエットが夕日に照らされて浮き上がっていた。


 見たこともない景色を見つめるアイシャは、ときめく気持ちを抑えきれなかった。暗い病院の中で沈み切っていた自分が、こんな気分になれるとは思ってもみなかったことだ。これから、始まるだろうテロリストとの銃撃戦を想像するだけで胸がわくわくしてしまうのだ。

 しかし、考えてみると、銃撃戦どころか、犯罪者と対峙した記憶もないのに、なぜ、こんな気分になるのか、不思議で仕方なかった。

 記憶の彼方、脳裏の果てを見ても、病院でのリハビリの記憶しか浮かんでこない。あとは、訳の分からない幻想世界が見えるだけなのだ。

 高速を降りた車は速度を落とし、古いビルの前に静かに停止した。

 素早く車から降りた面々は素早く拳銃を構えて様子を窺い始めた。

 マイクロ無線機を耳に付けた岩佐はビルの様子を確認すると、歯切れ良い声で命令を発した。

 「アジトは四階だ。俺とエリカはエレベータを使って正面から突入する。五郎と、それからアイシャは非常階段から裏口に回れ。同時に踏み込むぞ。」

 「了解。」

 ビルの裏側の非常階段を目指そうとしているアイシャに目を止めた岩佐は、五郎の肩を掴んで耳打ちした。

 「五郎、彼女を守ってやれよ。」

 「わかっていますよ。俺が前に立って踏み込みます。」

 先に非常階段を駆け登り始めたアイシャは手に持ったAI端末を使いどんどんと情報を吸い上げ続けていた。本部では真美が猛スピードで情報を収集しているので、新しい情報が次々に入ってくる。

 五郎はかなり先を行くアイシャを見上げた。鉄の階段には隙間があり、彼女のミニスカートの中が見え隠れする。

 「オオッ。サービスいいな。」

 しかし、そんなことを言っている場合ではなかった。彼女を追いかけて走り始めた五郎は、すさまじいスピードで階段を駆け上がっていくアイシャに驚いてしまう。五郎が二階に登った頃には、彼女はアジトの扉の前に着いてしまっていた。

 「嘘だろう。なんていうスピードだ。」

 しばらくして、息を切らしながら到着した五郎は、彼女の肩をそっと掴むと、後ろに追いやった。

 やっと、彼女の前に出られた五郎はほっとする。

 「速すぎるよ。危ないから、俺の後に隠れて。」

 五郎の声に頷いたアイシャは端末から入ってくる公安用の通信やデータ情報を確認しながら、彼の後ろに付いた。三十センチ近く背が高い五郎の後ろに入ると、完全に隠れてしまって前が見えなかった。

 ドアの手前で拳銃を構えて立ち止まった五郎は、前方を確認しようと顔を出すアイシャを制止する。

 「顔を出さないで。」

 それに頷いたアイシャは拳銃を構え、五郎の背後に触れ合うほどに寄り添った。あんまり近くに顔を寄せるので、五郎はビクッとして後ろを振り返ってしまった。

 -ウワー、なんてかわいい子なんだ-

 -この小さい体を抱きしめたら、気持ちいいだろうな-

 そんな五郎の顔を見たアイシャは不思議そうな顔をする。

 「どうかしたのか?」

 「いやー、何でもないよ。相手は凶悪犯だから気を付けてね。」

 五郎は邪念を振り払うように首を振り、仕事に集中した。


 背負っていたプラスチック製のバックから、ラジコンのようなものを取り出した五郎は畳んであったタイヤを伸ばすと、手に抱きかかえる。

 「こいつの出番だ。」

 アイシャにとっては見慣れない機械である。

 「それは何だ?」

 アイシャの問いに、五郎は笑顔を見せながら、自信たっぷりに説明した。

 「ハンディタイプの偵察機、通称チビレコン。いきなり飛び込んだら、危ないだろう。だから、こいつに先に入ってもらうってわけさ。全方向の映像とレーダー情報を送ってくれるんだ。ほら、こいつがハンディ型のモニタで、内部の様子がわかるって寸法さ。」

 興味深そうに背伸びをしたアイシャは彼の背中越しに覗き込んだ。

 「私のAIともつながりそうだ。」

 彼女は頭の中で、自分のAI端末 レゴに五郎が持つ偵察機と通信するように命令した。目にも止まらぬ速さで、自動的にID検索を行ったレゴは、偵察機との通信を確立させ、チビレコンのデータをアイシャの脳に転送し始めた。

 時々、背中に触れるアイシャの髪に、ドキドキとしながらも、五郎は気を引き締めて、突入の準備を整えた。

 「あの・・・。名前、なんだっけ?」

 アイシャは不服そうな顔で答える。

 「アイシャだ。」

 「ああ。アイシャだったよね。余計なことかもしれないけど、その手に持っている拳銃、本当に使えるんだよね。俺には無理だし、強化体のエリカさんだって、反動が強すぎるからと言って、使わないくらいの拳銃だ。」

 自分の手に握る拳銃をアイシャは見つめてみた。確かに、この体には大きすぎる拳銃であるのだが、試し撃ちはちゃんとやっていた。

 「使えない拳銃を持っているわけがないだろう。それよりも、前に集中しろ。」

 見た目のイメージとは違い、かなりきつい命令調であったが、五郎はさして気にはしなかった。彼女の方が上の役職なのは、先日、室長から聞いて承知していた。

 「それじゃあ、岩佐さんの合図があったら、チビレコンを入れてから突入するからね。後ろから、援護してくれ。」

 「わかった。石川真美からの情報では、敵は五人。建物の構造は裏口から入ると、狭い通路があって、左にはトイレ、正面に扉。」

 一瞬振り返った五郎の目には、冷静沈着に拳銃を構える少女のあどけない顔が見えた。本当に、この子はだいじょうぶなのだろうかという不安と、内部の情報まで教えてくれる頼もしさの両方が五郎の中で交差する。

 「すごいな。その端末は、本部からのデータも拾えるのか。」

 「レゴっていうんだ。これがないと、私は生きていけない。」

 生きていけないとは大げさな表現である。何にしても大事なものなのだろうということは理解できた。

 岩佐からの突入命令を待つ五郎は何度もアイシャを振り返ってしまう。素人が配属されるわけがないのはわかっていたが、彼女の折れそうな小さな体や細い腕を見ると、不安は拭い去れない。赴任早々に撃たれでもしたら大変なことである。彼女の安全を確保するためには、先に入って敵を素早く制圧するのが一番である。五郎は、グッと腹に力を入れた。

 「相手も拳銃を持っている。射殺許可は出ているから、躊躇は必要ないからね。」

 「了解。でも、敵の武器を把握できていない。おまえも気をつけた方がいい。」

 「ああ、ありがとう。」

 ほどなく、岩佐からの合図があり、五郎は目の前の扉をそっと開けて、チビレコンを床に置いた。音もなく侵入したチビレコンからは、すぐさま内部の映像が送られてきた。

 アイシャは脳内に埋め込まれたチップを使い、直接的に中の様子を把握することができた。AI端末と常に高速リンクすることにより、リアルタイムに脳に情報が提供されるので、モニタを見るよりも手っ取り早いし正確だった。

 チビレコンからの映像データを見る限り、事前情報に間違えはなく、正面の扉までは人影は見えなかった。レーダー情報を確認しても同じである。

 「よし、いくぞ。」

 手持ちの端末で画像を確認した五郎は、気合を入れて扉を蹴り飛ばした。

 

 その瞬間、左側のトイレのドアが微かに動く。チビレコンを通しての画像を見ていたアイシャは、それを見逃さなかった。

 「危ない。」

 止めようと手を伸ばしたのだが、既に五郎は中に突入してしまった。引き戻せないと判断したアイシャは、躊躇うこともなく、後ろから彼を蹴り飛ばした。

 「ウワー。」

 前のめりに激しく転倒する五郎の体を掠めて、横のトイレから機関銃が連射される。激しい音と、砕けた破片が舞い上がる中、アイシャは正確に敵の位置を特定した。

 つんのめった五郎は、置いてあった酒の空き瓶に顔から突っ込み、そのまま壁にぶち当たって止まった。

 それと同時に、近くにあったゴミ袋をトイレに向かって投げつけたアイシャは床を転がりながら、敵に向かって発砲していた。

 -ドゥキューン、ドゥキューン、ドゥキューン-


 一発目の銃弾が機関銃を持つ男の右手に命中し、手首から先が千切れ飛ぶのと同時に機関銃が放り出される。その機関銃が宙にある間に、アイシャは更に二発撃ち、弾丸は男の頭と胸に命中した。

 転倒した痛みに耐えながら五郎が顔を上げた時には、半ば頭を吹き飛ばされた男はトイレの奥まで弾き飛ばされ、血の海の中に倒れていた。

 「五郎、だいじょうぶか?」

 「何とか。」

 頭から出血しながらも頷いた五郎を確認すると、拳銃を内ポケットにしまったアイシャは素早く床に落ちた機関銃を拾い上げた。

 その凛々しき姿を見た五郎は言葉も出なかった。

 「突入する。おまえは、そこで休んでいろ。」

 呆気にとられている五郎を飛び越えたアイシャは目の前の扉を蹴り破ると、鮮やかにジャンプして椅子に飛び乗った。目にも止まらぬスピードで、いとも簡単にドアを破壊する少女の姿は、実に衝撃的だった。 

 まるで、昔見た映画のワンシーンのようにも感じられた。

 彼女はテーブルに片足を乗せると、容赦なく機関銃を連射した。

 -ダッダッダッダーン-


 岩佐らの突入に、背を向けていた敵二人は振り返る間もなく頭を打ち抜かれ、振り返った男二人も腕と足を撃ち抜かれた。

 「ウワー、ギャッー。」

 腕と足を射抜かれた二人は、人とは思えない叫び声をあげて倒れると、床の上でもがき苦しみ始めた。

 そこまで、ほんの一瞬の出来事である。

 突入した岩佐とエリカが拳銃を構えた時には、既に敵は戦闘力を失っていた。

 

 アイシャの目には血の海に沈む凶悪犯達が目に入っていたが、この時点では何が起こっているのか、彼女自身把握できていなかった。ただ、トイレから狙う敵から五郎を助けようと蹴り飛ばしたことだけしか意識にはなかったのだ。

 銃口からゆらゆらと立ち昇る煙に視線を送ったアイシャは表情も変えずに少しだけ首を傾げた。

 「久しぶりの感触だな。」

 血が滴る右の頬を押さえた五郎は、痛めた足を庇いながら、ヨロヨロとアイシャに近づいていく。

 ミニスカートのまま大きく足を広げて機関銃を構えているアイシャを見上げるとピンク色の下着が丸見えだった。

 「オオー、オー。」

 あまりに鮮烈で刺激的な光景に、五郎は思わず感嘆の嗚咽を漏らしてしまう。

 その時になって、ようやく、アイシャの意識は自分がやったことを把握し始めていた。敵の額を狙って撃ったことや、手足を狙って撃ったことが意識の中に明確に沸き上がってくる。

 構えていた機関銃を下ろしたアイシャは深く冷たい目で敵を見下ろした。床の上で、ウジ虫のようにもがき苦しむ凶悪犯である。

 「雑魚どもが、見苦しい。」

 椅子の上から飛び降りたアイシャは床を這う男の背中を容赦なく踏みつけた。

 「ギャッー、アー。」

 断末魔の叫びと共に、男は失神した。

 それを見ていたもうひとりは、ほとんど千切れてしまった腕をばたばたさせながら、床を這いずって逃げようとする。

 「ウワァー、ウワァー、やめろ。」

 敵を冷酷に見下すアイシャは問答無用、その男の胸の辺りを蹴り飛ばした。

 バキッ。

 「ウギャー。」

 近くのテーブルをなぎ倒した男は壁に激しく衝突して動かなくなった。


 失神した男から目を逸らしたアイシャは手にする機関銃を不思議そうな顔で眺めた。こんな銃を撃った記憶はなかったが、さっき、思わず、久しぶりの感触だと言ってしまったところをみると、どうやら撃ったことはあるようだ。でも、思い出すことはできない。

 -ああ、きっと、忘れてしまったのだろう-

 そんな彼女を眩しそうに見つめる五郎は頬の血を手の甲で拭いながら感謝の意を示した。

 「すごいな。君のお蔭で助かったよ。ありがとう。」

 アイシャは、その声に現実に引き戻された気がした。見れば、あまり気骨のない男の顔が見える。

 彼女は素っ気なく答えた。

 「任務を果たしただけだ。」

 クールなアイシャは、機関銃を投げ捨てると、岩佐の前に進んでいった。


 こんな仕事をしていると、予想外ということはよく起こる。三日前、室長から若い女性が赴任すると聞いてはいた。凶悪犯罪を担当する部署に配属される女性であれば、素人でないくらいはわかっていたつもりだ。しかし、彼女はあまりに破格だった。

 正面を向いたアイシャは手を上げて敬礼すると、ややかすれた声でゆっくりと報告を始めた。

 「トイレにいた敵は、時得巡査長に向けて発砲したため、安全確保を優先して射殺しました。部屋の中にいた敵二人は岩佐さんとエリカさんに拳銃を向けていたため、極めて危険な状況と判断し射殺。残り二人は手足を撃ち、戦闘能力を奪いました。」

 顔色一つ変えずに報告してきたアイシャに、岩佐は軽く敬礼を返してから、頭を撫でた。

 「戦闘能力を奪ったのであれば、そこまでで良かったのではないか?」

 その指摘に、アイシャは目を背けてしまった。やりすぎてしまったという認識は、間違えなくあった。

 「そうですね。すみません。つい、蹴り飛ばしたくなってしまいました。」

 岩佐は呆れた顔で溜息をつく。

 「まあ、いい。優秀な部員が増えて嬉しいよ。ところで、アイシャ。今まで、おまえは何人殺したことがある?」

 大きな手に頭を撫でられたアイシャは首を傾しげた。

 「さあ、何人でしょう?記憶障害が酷くて、思い出せません。」

 それを聞いていた岩佐は笑い出してしまった。横にいるエリカは、呆れてそっぽを向いてしまう。

 「そうか。思い出せないなら、仕方ないな。それで、君は何歳だ。外見からは、中高生に見えるが、正式に拳銃所持が認められているとすれば、そんな歳でもあるまい。」

 「はい。二十二歳ということになっています。」

 あいまいな答えだったが、この規格はずれの少女を見ていると、追求すべきことではないと岩佐は悟った。

 「そうか。以後、凶悪犯といえども、無益な殺生はしないこと。いいな。」

 二人の会話を聞くのも馬鹿らしくなったエリカは、倒れた犯人達を注意深く確認し始めた。


 左の床に倒れた男は、右肘付近と両足を撃ち抜かれた上、アバラを折られて白目を剥いていた。弾丸は右腕の中心部を正確に貫通し、腕は肉だけでかろうじて繋がっている状態である。両足から千切れ飛んだ肉片も床にしっかりと残っていた。まだ、生きてはいたが、早く止血してやらないと、失血死は免れそうもない。

 もう一人も同じように、右腕と両足を撃たれていた。アイシャに蹴られた胸の脇は大きく陥没し、壁に激突した顔も変形してしまっている。蹴り飛ばされて大きな机に当たった際に、顔の骨が砕けたのであろう。こちらは、もう、息がなかった。

 エリカは床に落ちていた二丁の拳銃を拾うと、少し離れたテーブルの上に置き、今度は右に倒れている二人に視線を送った。 

 仰向けに倒れている二人は頭を撃ち砕かれ、口を開けたまま、酷い形相で死んでいた。着弾してから二メートルくらいは飛ばされており、銃弾は正確に眉間を貫通し、床には飛び散った肉と血が一直線に残っていた。

 至近距離から正確に射撃され、一発で即死したと思われる。


 裏口に向かうドアはノブの金具が破壊され、アイシャが蹴ったと思われる部分は分厚い板が割れていた。

 そのドアを越えて行くと扉が破壊されたトイレが見えた。その中を見ると、便器の向こうに仰向けになって男が死んでいた。

 頭を半分吹き飛ばした弾丸は壁にも穴をあけてめり込んでおり、銃弾の威力の凄まじさを物語っている。

 その周りには、大量の血と飛び散った肉も付着していた。

 弾丸は胸と右手首にも着弾しており、穴のあいたシャツは大量の血で真紅に染まり、右手は手首から先がなくなっていた。

 近づいたエリカが壁に寄りかかっている男の体を足で押すと、横に倒れて背中が見えた。胸の弾丸は背中まで貫通しており、背中からは千切れた内臓が飛び出してぶら下がった状態である。

 -PM-12か-

 -殺傷能力最強と言われるだけのことはあるわね-

 -防弾服無しで胸に受ければ、内蔵が背中から飛び出してしまうのか-

 少し癖のある茶髪を手で直したエリカは澄んだ目で死体を眺めながら溜息をつく。

 -しかし、凶悪犯といえども、かわいそう-

 -これじゃあ、まるで、惨殺現場ね-

 

 数日後、夜の特殊公安室には岩佐とエリカの二人だけが残っていた。

 コーヒーを二つ入れた岩佐は、報告書作成のために残業しているエリカにひとつを差し出した。

 エリカは、そんな上司の気使いに恐縮してしまう。

 「あっ、ありがとうございます。」

 岩佐は少し陰りのあるクールな男である。あまり喋る方でもなく、どちらかと言えば話しかけにくいタイプだった。

 エリカの方は女性としては長身で筋力もありそうな体形である。年齢は三十歳で、さばさばした性格の持ち主だった。

 岩佐は熱いコーヒーに息を吹きかけると、少しだけ口に含んだ。容姿に似合わず、猫舌なのだ。

 「あのアイシャという女の子をどう思う?」

 エリカは頭の中にあったことを正直に口にした。

 「役職が警部補ですから、仕方ありませんけど、ちょっと、高慢と言うか、口のきき方が気になります。最初は敬語を使っていましたけど、二日目からは、私や五郎に遠慮なしの命令調ですからね。」

 リラックスしながら、コーヒーを飲む岩佐は苦笑するしかなかった。エリカはわかりやすい人間である。顔を見れば、彼女の考えていることはだいたい察しがつく。

 「あんなガキに、使われるのは堪らないか?」

 「まあ、正直に言えば、そうです。」

 「しかし、公安部は軍隊同様、階級による命令系統の遵守は絶対だ。気に食わなくても、彼女の命令には従えよ。」

 「わかっていますよ。それに、彼女の能力については評価しています。あの時だって、単に機関銃を連射しているようにしか見えませんでしたが、私と岩佐さんに銃を向けている敵の頭を一発で射抜き、自分に銃を向けようとした相手二人は利き腕と両足を打ち抜いています。瞬時の判断であそこまで正確に撃てるなんて、常人のできることではありません。」

 あの時の情景を思い浮かべた岩佐は感慨深そうな表情を見せた。あの衝撃は、一生忘れられないだろう。

 「ああ、あれは正に神業だったな。裏口のドアから、何かが飛び出してきたと思った時には四人が撃たれていた。もし、あれが敵だったら、銃を向ける間もなく、自分が撃たれていただろう。」

 エリカはフッと鼻で笑ってはみたものの、岩佐の言うことに間違えはなかった。

 「一体、彼女は何者なのですか?」

 「さあ、俺も知らない。ただ、室長の知り合いらしき合衆国関係者からの紹介だということだ。」

 二人はカップの中に揺らめく湯気を見ながら、同じことに思い馳せる。

 -何だか、胡散臭い話だ-

 

 その頃、帰り道に病院を訪れたアイシャは、入院中の五郎の枕元で、リンゴを剥いていた。

 「いや、アイシャさんが来てくれるなんて、うれしいな。」

 陥没した頬骨を固定するために巻かれた包帯が痛々しかったが、五郎は満面の笑顔である。

 ノースリーブを着た彼女の細く小さな手がリンゴの皮を器用に剥いていく。そんなアイシャの胸元が気になって仕方なかった。見えそうで見えない、膨らみかけた少女の胸はあまりに魅惑的だった。

 「どうぞ。」

 無表情にリンゴを差し出すアイシャの手からフォークごとリンゴを受け取った五郎は躊躇もなく頬張った。

 「イテイテッ、でも、うまい。これは、うまい。」

 痛いのに、無理にリンゴを頬張る五郎に、アイシャはぎこちなく反応する。

 「そうか。おいしいなら、良かった。それから、アイシャでいいぞ。おまえよりも年下だからな。」

 「ええ、でも、上司だからね。」

 「そんなことは気にするな。呼び捨てにしてもらった方が、気が楽だ。」

 ぶっきらぼうで、無表情のアイシャではあったが、こうして、プライベートの時間を使って病院まで来てくれたのだから、決して冷たい人間ではないことは確かである。

 「本当?なら、そう呼ばせてもらうよ。」

 次のリンゴを剥くアイシャから目が離せない五郎は、少しでも彼女に長くいてほしくって話題を探した。病院は退屈だし、何しろ、眺めているだけでも価値がある美少女である。こんな子が、傍にいてくれるだけでも幸せな気分になってしまうのは彼だけではないはずだ。

 しかし、気の利いた話題は、なかなか浮かんでこない。

 二つ目を剥き終わると、アイシャは、再び、五郎に差し出した。

 「怪我をさせてしまって、すまなかったな。」

 りんごを受け取る時に、僅かに彼女の指に触れただけで、五郎はドキドキとしてしまう。そんな自分を悟られまいと、笑顔は崩さなかった。

 「ゼーンゼン、問題ないよ。このくらいの怪我はすぐに治る。機関銃で撃たれるよりは、ずっとましさ。」

 五郎は痛い顔で無理に笑顔を作りながらも、心の中ではもう少し手加減して蹴り飛ばしてほしかったとも思っていた。

 アイシャの方も後悔していた。手加減したつもりだったのだが、思った以上に強く蹴ってしまった。五郎だけではない。あの凶悪犯も軽く蹴ったつもりだったのだ。長いリハビリで、この体には馴れたつもりだったが、いざとなると、まだ制御しきれない。いつになっても、自分の体という実感もないし、困ったものである。

 アイシャは丁寧にリンゴを剥きながらも、五郎を観察していた。彼の目の動きを読み、何を考えているのかも予想してしまう。無意識に人を観察してしまうのは、性分なのだろう。

 彼が根に持つタイプではないのは明らかである。

 頬骨が砕けてしまい、とても痛いはずなのに、自分の剥いたリンゴを一生懸命に食べてくれる。心底、善良な人間と思って間違えなさそうである。

 しかし、特殊公安部員としては、少々軽率すぎるようにも思えた。彼女には、もっと、したたかにならなければ、生き残れない世界だという認識があった。このような仕事をした記憶もないのに、不思議なのだが、そう思えるのだ。

 それにしても、彼は女性の胸や太腿が気になって仕方ないようだ。別に、見られて困るようなこともないのだが、それも五郎を軽薄に感じさせるひとつであった。

 「私の顔に何かついているのか?」

 ジロジロとアイシャを見ていた五郎は慌てて視線を外した。

 「いや、リンゴを剥くのが上手だなと思ってさ。」

 ちょっと、無理な言いわけかと、五郎は思ったのだが、アイシャは素直な反応を返してきた。

 「ああ、そうだな。リンゴを剥いた記憶はないのだが、手が勝手に動く。おそらく、実際には経験があるのだろうな。」

 リンゴを器用に剥く細く小さな手に五郎は注目した。傷ひとつない綺麗な手である。

 そして、また、彼の視線は、自然とアイシャの足から胸へと移る。あまりにもおいしそうな体に、抱きしめたいという衝動が止まらなかった。

 妄想が広がっていくのに気付いた五郎は首を振った。出会ったばかりの女の子、しかも上司である。こんなことを考えるのは不謹慎というものである。

 しかし、穢れを知らないような少女の姿には、どうしても魅かれてしまう。気が付くと五郎の視線は彼女の体に向けられてしまう。そして、脳裏には、デニムのミニスカート姿で、機関銃を持つ彼女が浮かんでくる。窓の光をバックに、片足を椅子に載せ、もう片方の足をテーブル掛けて、機関銃を構えた、あの姿は一生忘れることはできないだろう。

 リンゴを剥き終えたアイシャは、最後の一切れを五郎に渡すとキャミソールの上から自分の胸を触った。

 「この胸の膨らみが、そんなに気になるのか?さっきから、ジロジロ見ているぞ。」

 一心にリンゴを剥いていたように見えたのだが、彼女は五郎の視線にしっかりと気づいていたようだ。

 自分の下賤な欲望を指摘された罰の悪さに、五郎は俯いてしまった。

 「ごめん。」

 「別に、謝る必要はない。無垢な少女を穢したいと願うのは男の本能だ。この体が気になるとしても、少しも不自然なことではない。でもな。女の立場で言わせて貰えば、それは男の身勝手な衝動でしかない。女というのは自分を守ってくれる普遍の愛情を求めるものだ。」

 アイシャの言葉は、五郎の胸を突き抜けていくようだった。

 -普遍の愛情か-

 -痛い言葉だな-


 数週間後。

 ネット上の偽名告発から、特殊公安二課の面々は麻薬密輸組織を追いつめていた。

 退院したばかりの五郎が運転する車は猛スピードで港を突っ走る。助手席のアイシャはドアを開くと身を乗り出して風を切った。

 「真美、敵の位置がわかるか?」

 アイシャからのダイレクト通信を受けた真美は、すぐに応答した。

 「岩佐さん達が追いかけているわ。今、二十五番倉庫の裏側を東に猛スピードで逃走中よ。」

 「五郎、敵は、あの倉庫の向こうだ。挟み撃ちにするぞ。」

 「オーケー。行くぞー。」

 タイヤを軋ませてカーブを曲がる車が激しく揺れた。そんなことはお構いなしに、窓の桟に掴まったアイシャは辺りの倉庫に目をやり、犯人の位置を確認した。

 彼女の聡明な頭脳は瞬時に数秒後の位置関係を算出する。

 「これでは、間に合わないな。」

 風圧で激しくスカートが揺れて、下着が見え隠れするのも、彼女は気にもしていない。それが、もの凄く気になる五郎だったが、残念ながら倉庫の間を駆け抜ける車の運転から目が離せなかった。

 カーブを曲がると、目の前に障害物が見えた。瞬時に、ハンドルを操作して、それを避けると、車は大きく揺れた。

 「オオー、危なかった。アイシャ、中に入いってくれよ。」

 バタバタと髪を靡かせながら、目を細めたアイシャは犯人の車の音に集中していた。五郎の忠告など耳にも入らないようである。

 「心配するな。五郎、前を押さえるぞ。もっと、アクセルを踏み込め!」

 大胆なアイシャの命令だったが、血眼でハンドルを切る五郎の方は気が気ではない。入り組んだ港の倉庫地帯である。一歩間違えば、簡単に建物に突っ込んでしまいそうだった。

 危険な特殊公安の仕事の第一は、リスク回避である。死んでしまったら、終わりであり、確実な手段を積み重ねて犯人を追いこむことが基本なのだ。

 「もう、限界だよ。これ以上出したら、コントロールしきれない。」

 ゆったり目のベージュのシャツブラウスにグレーのミニスカートを穿いたアイシャは車から身を乗り出したまま、冷静に犯人の車の位置を予測した。

 「いいから、踏め。一気にケリをつけてやる。」

 自信に満ち溢れているというよりも、怖いもの知らずと言った方が正しかった。彼女には、リスク回避や安全策などという言葉はなく、ただ、一直線に犯人を追いこんでいくだけである。

 そんなアイシャをチラリと見た五郎は心の中で思わず呟いた。

 ーああ、今日は水色のパンティかー

 -これが見納めにならないことを祈りたいよ-


 ズボンを穿いて来ればいいのに、彼女はいつも短いスカートである。風で揺れるスカートからは下着がしばしば見えてしまうのだが、そんなことはお構いなしに、アイシャは足を広げて拳銃を構える。

 「五郎、聞こえないのか。もっと、アクセルを踏め。」

 「もう、大胆すぎるよ。いろいろな意味でさ。」

 仕方なく五郎はアクセルを思いきり踏み込んだ。モータの唸る音と共に車は猛然と加速した。


 一方、急ハンドルを切った岩佐は、隣にいるエリカに冷静な口調で命令した。

 「タイヤを狙え。」

 窓から顔を出したエリカは命令通りにタイヤを狙って発砲する。しかし、二発撃ったが当たらなかった。

 狙いを定めて、もう一発撃とうとしたが、犯人の車はタイヤを滑らせながら右に折れてしまった。それに反応した岩佐は急ブレーキをかけて車を回転させるも、犯人の車との間隔は大きく開いてしまう。

 「このくらいで、逃げられると思うなよ。」

 両側が倉庫の細い通路に入いった犯人はところどころにある荷物やゴミを飛ばしながら疾走する。開いてしまった距離を詰めようと、岩佐はグッとアクセルを踏み込んだ。

 犯人の一人が軽機関銃を構えて顔を出した。エリカは身を伏せながら、拳銃だけを窓から出して応戦した。

 「岩佐さん、やばいよ。奴ら、機関銃を持っている。」

 犯人の撃った弾丸が車のボディに炸裂し、エリカは瞬時に車の中に身を隠した。彼女の発砲した弾丸も犯人の車には命中したが、金属のボディを傷つけただけだった。

 犯人達の軽機関銃が連射されると、自動小銃では反撃もままならない。

 「チェッ。好きなようにはさせるか。」

 エリカは隙を見て顔を出してタイヤを狙うが、撃つより先に窓ガラスに複数着弾してしまい、ガラスの破片が飛び散ってきた。

 「キャッー。」

 エリカが怯んだ隙に、敵の弾丸がタイヤに着弾してしまった。

 投げ出されそうになったエリカは両手でシートと扉を掴んで体を支えるのが精いっぱいだった。

 コントロールを失った車は倉庫の壁に接触し、岩佐はブレーキングを余儀なくされた。

 「畜生め。」

 何度か回転した車は倉庫の鉄の扉にぶち当たって止まり、犯人の車は見る見る遠ざかっていった。それを見た岩佐は思わずハンドルを叩いて悔しがる。

 「クソ野郎が!」


 岩佐の車が停止するのを確認した犯人の一人は大きな笑い声をあげた。

 「はっはっはっ。ざまあみろ。」

 銃でシートを叩きながら勝ち誇る男の横でハンドルを握る男は目の前に迫るコンテナの上の少女に釘づけになっていた。

 ミニスカートをはためかせた少女は、こちらを見据えながら両手に拳銃を構えているではないか。

 「前だ!前を見ろ。あっ。」

 男がハンドルを切った瞬間、少女が持つ左右の拳銃が同時に火を噴いた。

 放たれた銃弾はフロントガラスを砕き、タイヤを撃ちぬいた。コントロールを失った車は、回転しながら彼女が立っているコンテナに激突して大破してしまう。

 少女は高くジャンプして大破した車の上に飛び乗ると、足元を見下した。

 「ふん、歯ごたえのない奴らだ。」

 ゴホゴホと咳をしながら苦しそうに中から這い出してくる三人の男を見たアイシャは、ゆっくりと二丁の拳銃を向けた。

 「動くな。」

 その声に、反応した一人が拳銃を向けようとしたが、アイシャの拳銃から放たれた銃弾は、その男の腕と足を容赦なく撃ち抜いた。拳銃を放り出した男は、絶叫と共にコンクリートの上をのたうち回るしかなかった。

 撃ったのは左手に持つ七ミリ方であったが、犯人の手足は骨まで撃ち抜かれていた。

 「ウワー。」

 絶叫をあげて苦しがる男から、アイシャの視線は別な方向に動いた。

 その視線の先では、もう一人の大男が立ちあがり、転がった拳銃に手を伸ばそうとしていたが、車から飛び降りたアイシャはその手を思い切り踏みつけた。その瞬間、バキバキと甲の骨が折れる音と男の叫び声が倉庫街に響き渡る。

 男は絶叫と共に、暴れまくった。

 「ウギャー。どけー。その足をどけろ。」

 痛みに歪んだ顔の男の目には、広げた足の間の水色の下着を映っていた。

 「このドスケベが。」

 身を屈めて男の襟を掴んだアイシャは大男の体を持ち上げると、倉庫の壁目がけて投げつけた。何の抵抗もできずに、大男の体は宙を飛んでいく。

 「ウワー。」

 激しく壁に激突した男は、そのまま頭からコンクリートの上に落ちて血まみれとなった。

 もう一人の男は震えながらも短剣を抜いて、アイシャに立ち向かってきた。拳銃を脇にしまったアイシャは嬉しそうな顔で身構えた。

 「ふん。いい根性しているじゃないか。」

 突き出されたナイフを避けたアイシャが放った回し蹴りが男の顔面を捕らえると、骨が砕ける音が鳴り響く。

 バキッという音共に、男の体は宙に浮き、倉庫前に積み上げられていた荷箱に頭から突っ込んでいった。

 「ウギャッ。」

 木箱をぶち割り、頭をめり込ませた男は、そのまま不自然に体を折曲げたまま動かなくなった。


 血だらけになりながらも、ヨロヨロと立ち上がろうとするさっきの大男を見たアイシャは風のように走ると、立上りかけた男の腹を蹴り込んだ。

 「ゲホッ。」

 鈍い音共に、アイシャの足は男の腹に深くめり込む。

 さっと身を交わしたアイシャの横で、膝を付いた男は、口から血ヘドを吐きだしながら前のめりに倒れていった。

 完全に動かなくなったのを確認したアイシャは、少しずれてしまったブラウスの襟を直すと、スカートに目をやった。

 「あー、血が付いてしまった。これ、気にいっていたのに・・・。」

 つい先日、街のショーウィンドに飾ってあったスカートである。これを穿けばかわいいだろうと思って買ったものだった。


 そこに、車を止めた五郎が駆け寄ってきた。

 現場を見た彼の脳裏には、無残という言葉だけが浮かんだ。発砲許可の出ている凶悪犯ではあったが、あまりに残酷な執行現場だった。

 見事に仕留められた三人の男に目をやった五郎は、息も切らさずに立っているアイシャに視線を移した。

 「怪我はない?」

 「ああ、問題ない。でも、スカートが汚れてしまった。」

 コンクリートに倒れた男は、脛を押さえながら、まだのたうち回って苦しんでいたが、そんなことよりも彼女はスカートの汚れが気になるようだった。倉庫の前に倒れた大男は口から血ヘドを流して気絶していた。口と目を大きく開いたままの顔があまりにも惨たらしくって、五郎はすぐに視線を逸らした。

 スカートに血が飛び散るのも頷ける状況である。

 五郎は荷箱に頭を突っ込んだまま体を九の字に曲げて動かない男に視線を向ける。

 これが一番惨たらしかった。早く出してやらないと、死んでしまいそうである。

 「あのアイシャ。上司に向かって失礼かもしれないけど、もう少し、手加減した方がいいと思うよ。」

 五郎は反発されるかと思いながら、かなり遠慮気味に言ったのだが、状況を見渡したアイシャは意外にも素直に応じた。

 「ああ、そうだな。おまえの言う通りだ。また、やりすぎてしまったようだ。」

 彼女の表情を見ると、少し落ち込んでいるようにさえ見えた。


 それから間もなく、車を捨てて走ってきた岩佐とエリカが合流したのだが、凄まじい執行現場を見た二人は悶絶してしまった。

 「これは、また・・・。」

 五郎と岩佐は顔を見合わすと、急いで木箱を壊して男の頭を引きずり出し始めた。

 「ウワー。」

 男の顔を見た五郎は、思わず叫んでしまう。大きく変形した顔は原型を保っておらず、目や鼻からはボタボタと血が流れ落ちていた。もはや、生きているのか、どうかもわからない状況であり、それを確認したくもなかった。

 岩佐はアイシャを睨みつけた。

 「どうしたら、こんなになるんだ。やりすぎだぞ。」

 背の低いアイシャはジャンプして、岩佐の後ろに倒れている犯人の顔を覗き込んだ。

 「ああ、顔、滅茶苦茶ですね。すみません。」

 呆れ顔の岩佐の後ろから、エリカも男の顔を覗き込む。

 「ウワー、目玉が飛び出しちゃっている。アイシャに蹴られるくらいなら、拳銃で手足を撃ち抜かれた方がまだ救われるわね。」

 唾を飲み込んだ五郎も、反射的に頷いてしまった。


 更に一か月後。

 復興エリアから東に進んだ埋立地に、嘗ての高層ビルの残骸があった。

 夜の廃墟ビルに飛び込んだアイシャと五郎はテロリスト一味を追いつめていた。大阪で爆破事件を起こした凶悪な外国人集団である。

 屋上に敵を追いやり、最上階の階段傍に身を潜めたアイシャは真美と連絡を取った。

 「敵の数はわかるか?」

 「監視カメラの情報を分析する限り、七名だと思うわ。全員が拳銃を所持しているわよ。一人はマシンガンも持っているわ。」

 壁に身を隠しながら拳銃を構える五郎は反対の壁に隠れるアイシャに声をかけた。

 「応援を待った方がいいよ。二人で踏み込むのは危険すぎる。」

 アイシャは冷静に敵の足音を探っていた。おそらく、目の前の階段を上がった犯人は屋上で待ち構えているに違いなかった。地上四十階の屋上には逃げ場はない。となれば、逃走経路はこの階段だけである。ここを二人で押さえておけば袋のネズミということだ。

 ここは、五郎の言うように応援が来るのを待ってから踏み込むのが良さそうだとアイシャは思った。

 五郎の意見に同意しようとしたアイシャだったが、その時、外でヘリの音が聞こえてきた。

 それに反応した五郎は拳銃を構えながらも、アイシャの後ろの窓に視線を向けた。しかし、窓は締まっていたし、小さな窓からはヘリは見えなかった。

 「公安のヘリが来たのかな?」

 「違うだろう。見てくるから、油断ぜずに、ここにいろ。」

 「ああ、わかった。」

 後方にある小窓をこじ開けたアイシャは顔を出して遠くから近づいてくるヘリを目視した。明らかに、公安のヘリではない。こんなところを低空で飛んでくる一般ヘリとも考えにくかった。

 犯人たちはヘリで逃げるつもりなのだと、アイシャは確信した。

 戻ってきたアイシャに五郎が声をかける。

 「敵のヘリかな?」

 「間違えなく、そうだな。ヘリが来る前に、奴らを拘束する。私が屋上に登るから、援護してくれ。」

 「えっ、えー。」

 敵が待ち構える屋上に続く狭い階段を駆け上がるのは自殺行為である。上から狙い撃ちされてしまったら、隠れる場所もない。

 左手に特殊カーボン製の手袋をはめたアイシャは右手に拳銃を握ると、後ろの小窓を蹴り飛ばした。一撃で、桟ごと窓は吹き飛び、遥か下へと落下していった。

 どうやら、階段ではなく窓から行くつもりのようである。

 「敵を撃つ必要はない。階段付近を狙撃して敵の注意を引きつけてくれ。私は窓から外に出て、屋上に登る。」

 「ちょっと、待てよ。相手は銃を持っていて、七人もいるんだぜ。機関銃もあるって言うし、殺されちゃうよ。」

 「そうかもしれないな。では、命令の追加だ。私が殺されたら、死体の回収を頼む。」

 「待ってよ。怖くないのかよ。アイシャの死体なんか、回収したくないよ。」

 腕を掴もうとした五郎だったが、その手をすり抜けて、アイシャは窓から飛び出して行ってしまった。

 「ああ、もう本当に無茶苦茶なんだから・・・。」

 急いで階段に近づいた五郎は壁に隠れながら、屋上のドアを狙って発砲した。すぐに、ドアが開き、向こうも応戦してくる。こうなったら、少しでも犯人の注意を引きつけるしかなかった。

 外に出たアイシャは窓の桟に足をかけると手を伸ばして、コンクリートの隙間に指を突っ込んだ。冷たい風が吹き上げてくる。二百メートル下は海である。

 コンクリートが崩れないのを確認したアイシャは、一気に片腕の力で体を持ち上げた。

 屋上では階段付近の両側に二名を配置して、下から撃ってくる五郎に応戦していた。残りの三名は少し離れた位置から、階段に向かって銃を構えている。ひとりは機関銃、残りの二人は自動小銃である。

 万一、五郎が上がってきても、確実に仕留められる配置である。

 屋上のコンクリートを掴んだアイシャは一気に体を持ち上げて空中にジャンプした。数メートル上の手すりを軽々と飛び越えたアイシャは、捲れ上がるスカートも気にもせずに屋上に降り立った。

 着地音に気づいた三人は振り返ろうとしたが、振り返る前に銃弾を浴びて続けざまに倒れていった。

 PM-7特有の乾いた銃声が三発鳴り響く。それを聞いた五郎は、アイシャが屋上に到達したのを確認し、いっそう激しく上に向かって拳銃を連射した。

 「くそっ、こうなれば、やけくそで撃ってやる。」

 アイシャが放った拳銃の音に、反応した階段付近の四人は身を翻してアイシャに向けて発砲した。 二十メートル近い距離である。アイシャは左に走りながら、それを避けると同時に四人に向かって発砲した。

 彼女の動きはあまりにも早く、狙いが定まらない。それでも、犯人は夢中で撃ちまくった。

 アイシャの放った銃弾が命中して男が一人倒れたが、犯人の銃弾の一発もアイシャの防弾チョッキに命中し、もう一発も髪の毛を掠めていった。

 強烈な衝撃を感じながらも、アイシャは近くにあった排気口の陰に飛び込み敵の様子を伺った。敵も素人ではない。かなりの腕のガンマンである。

 弾丸は防弾チョッキを貫通はしなかったが、当たったところにかなりの痛みが走っていた。

 「ああ、痛いな。意外と、やるじゃないか。」

 アイシャは嬉しそうな笑みを浮かべると、敵との間合いを計った。

 銃弾の痛みは生きている証のように感じられ、不快ではなかった。とても、スリリングで喉の奥が震える程の緊張感が堪らない。

 -ああ、この感覚だ-

 -前にも感じたことがある気がする-

 拒絶反応と戦った一年近くのリハビリの日々が思い出される。封印された記憶と破壊された感情が少しだけ蘇ってくるようだった。苦痛と絶望中でもがき続けた一年である。

 その時の苦痛に比べれば、こんな痛みは何でもない。そして、この緊張感は堪らないほどの快感でだった。

 犯人の撃ち放つ弾丸がすぐ傍のコンクリートに炸裂し、アイシャは思わず目を閉じた。残りは三人である。

 「さあ、死ぬのはどちらかな。行くぞ。」

 呼吸を整えたアイシャは排気口の陰から飛び出すと、両手の拳銃を連射しながら犯人達に向かって走った。蛇行しながら走るアイシャには、犯人の放った銃弾は当たらない。

 バキューン、バキューン、バキューン。

 何発もの銃弾が近くのコンクリートを削る中、風のように疾走するアイシャは敵との距離を詰めていく。

 距離を詰めれば、撃たれる確率も高くなるが、外すこともない。横跳びに体を投げ出しながら、アイシャは引金を引いた。一瞬の中で、彼女の目は正確に敵を捕らえて狙いを定めていた。

 バキューン、バキューン。

 敵二人があっという間に撃ち殺されると、もう一人は拳銃を投げ捨てて両手を上げた。とても敵わないと判断したのであろう。

 近づいたアイシャは左足で、その男の顔を容赦なく蹴り飛ばした。

 バキッーン。

 軽く蹴ったつもりだったが、足は顔にめり込み、屋上の床を弾むように転がった男はうつ伏せに倒れて動かなくなった。

 「ああ、またやりすぎたか?」

 階段を駆けあがってきた五郎は、拳銃を構えたまま、注意深くあたりを確認すると屋上に飛び出してきた。

 そのままの態勢で四方を確認したが、すでに動ける敵はいなかった。

 彼の視線の先には、最初に打ち殺した男が握りしめていた機関銃をむしり取るアイシャが見えた。

 それと同時に、爆音をたててヘリが近づいてくるのも見える。

 「アイシャ、ヘリが近づいてくる。隠れて!」

 機関銃を手にした彼女は近づいてくるヘリを見上げた。その顔は、まだまだ、戦いたくって仕方ないようだった。

 暗い夜空にライトの光が眩しく光る。間近に迫る黒いヘリの巨体は凄い迫力だった。

 「落とすぞ。」

 「えっ?」

 五郎は、アイシャに向かって全力で走りながら叫んだ。

 「落とすって、どうやって」

 「決まっているだろう。機関銃で撃ち落とす。」

 「アイシャ、待ってよ。危険だよ。向こうからも撃ってくるかもしれない。」

 ヘリの轟音の響く中、機関銃を手にしたアイシャは助走をつけるとフェンスの上の手すりに飛び乗った。手すりの向こうは海だったが、そんなことも、五郎の忠告も、お構いなしである。

 「逃げられると思うなよ。」

 狙いを定めたアイシャはヘリに向かって機関銃を連射した。

 ババババーン。

 ガシャーン、ガシャーン。


 激しい連射音が響き、ヘリの機体には銃弾の雨が炸裂する。鋼鉄の装甲に火花が散ったが、簡単に落とせるものでもなかった。

 「おいおい、嘘だろう。本当に、落とそうとしている。」

 屋上の手すりの上に立つアイシャは機関銃を撃ちまくった。発射する火薬の光で照らされる顔は嬉しそうにも見えた。

 近づこうとした五郎は立ち止まり、ただ、呆然と見つめるだけである。夜の廃墟を切裂く弾丸の音と飛び散る火花が闇を染めて炸裂する。

 やがて、銃弾は鋼鉄を侵食し、ヘリの機体から真赤な炎が噴き出した。

 それを見た五郎は、思わず呟いてしまう。

 「まじかよ。本当に、落とした。」

 しかし、呆然と見ている場合ではなかった。次の瞬間、凄まじい爆風がアイシャの体を吹き飛ばしてしまった。手すりから飛ばされたアイシャはコンクリートの上を弾むように転がった。

 「キャッー。」

 コンクリートに叩きつけられたアイシャは機関銃を投げ出して頭を押さえるのがやっとだった。

 「アイシャー。」

 五郎は爆風に耐えながら、転がるアイシャ向かって走ると、思いきり飛びついて抱きとめた。しかし、勢いよく転がる二人は風にも煽られて止まるどころではなかった。

 「ウワー。」

 コンクリートの上を滑り、更に弾んで、二人は転がっていった。

 やっと止まって見上げると、上空のヘリからの無数の破片が飛び散ってくるのが見えた。もう、避ける余裕などありはしない。

 「くそっ。」

 五郎はアイシャに覆いかぶさるようにして守りながら、飛んでくる破片の衝撃に耐えた。鉄の破片が防弾服の上に当たる痛みに顔を歪める五郎は、ヘリ本体が落ちてこないのを祈るしかなかった。

 幸いヘリの本体は頭上を通り過ぎて、ビルの反対側に墜ちていった。

 バッバッバッ。

 ギューン。


 少し遅れて、ビルの向こうからは、大きな爆発音と炎が吹きあがった。

 燃える炎に照らされた五郎は体に降り積もった鉄くずを払いのけると、顔をしかめながら体を起こそうとした。しかし、立ち上がることはできなかった。

 下でうつ伏せになっていたアイシャは体を回転させて、五郎の顔を見上げた。

 「五郎・・・。」

 炎に照らされた汗まみれの顔は、痛みに少し歪んでいた。しかし、彼はすぐに笑みを浮かべて、優しくアイシャに呟く。

 「だいじょうぶかい。怪我はない?」

 五郎は力を振り絞って、もう一度、立上ろうとするが、よろけてしまう。

 -勇敢すぎる女の子-

 -どんな凶悪犯も彼女にかかれば、子供のようなものだ-

 -無表情で、動じることもない-

 -でも、どうしようもないほどにかわいい-


 アイシャのブルーの瞳が五郎を見つめたままで動かなくなっていた。

 心なしか、その目は潤んでいるように見えた。

 「おまえ・・・、馬鹿だな。」

 アイシャの声を聞いた五郎はニッコリと笑う。

 「この状況で、その言葉なの?」

 「私は強化体だ。庇う必要などない。」

 背中の傷は相当に痛かったし、どうやら足も痛めてしまったらしい。それでも、痛みに耐えながら五郎は無理に笑顔を維持していた。

 「強化体だって、君は女の子じゃないか。綺麗な体に傷でもついたら大変だろう。」

 いつも無表情なアイシャだったが、少し戸惑ったように瞳を動かし、目の前の五郎から恥ずかしそうに視線を外した。

 「女の子・・・。」

 横を向いた彼女の目からは、涙が一筋、流れ落ちていくのが見えた。予期せぬ涙に、五郎は驚いてしまう。

 -嘘、泣いている?-

 -今まで、感情なんか見せたことないのに・・・-

 目を逸らしたままのアイシャは、五郎に遠慮がちに告げた。

 「悪いが、どいてくれ。スカートがめくれあがってしまっている。恥ずかしい。」

 上半身を起こしていた五郎はアイシャに覆いかぶさったままだった。見ると、アイシャのミニスカートはすっかりとめくれて下着が丸見えである。

 「ああ、ごめん。今日は、ピンクのしましま模様だね。」

 慌てて、足を動かそうとすると痛みが走ったが、それでも手を添えて何とか体を起こした。

 五郎に続いて、立上ったアイシャは、素早くスカートを直し、少しふらつく五郎を支えた。体はとても小さかったが、力は異常なほどに強く、がっしりと押さえられた感じだった。

 「だいじょうぶか?」

 アイシャは片手で五郎を支えながら、もう片方の腕で涙を拭った。

 まさか、アイシャが泣くなんて思っても見なかった五郎はあっ気にとられながらも、足には力が入らずに、小さなアイシャにもたれかかってしまう。

 「あはっはっ、情けないな。」

 防弾服を着ているので、密着感はなかったが、彼女の息づかいが聞こえていた。

 「少しも情けなくはない。もっと、寄りかかっていいぞ。何なら、抱きあげてやろうか?」

 「いやー、それは、ちょっと、勘弁してよ。」

 五郎の体を支えながらも、彼女の目はヘリが墜落した方に向けられる。ビルの下からは真赤な炎と黒い煙が噴き上がっているのが見えていた。

 五郎はライトを出して辺りを確認し始めた。生きているものがいないかの確認は重要だった。

 蹴り飛ばされた男は白目を剥いて失神していた。顎が少し変形していたが、顔が潰れていないだけ、アイシャも手加減はしたのであろう。

 中央部に倒れている三人は頭や胸を撃ち抜かれて即死状態である。みんな口を開けたまま、壮絶な死に顔を晒している。

 ドア付近に突っ伏している男は、こめかみを撃ち抜かれ、これも即死状態である。これだけ酷く顔を歪めて死んでいるところを見ると、撃ち殺される瞬間は余程痛いのだろうと想像できた。

 痛みは瞬時で終わるのだろうが、こんな死に方はしたくないと、五郎は思った。

 残りの二人も見事に頭を撃ち抜かれて死んでいた。これで、とりあえず、安心できる状態であるのは確認できた。

 少し傾いた五郎の体を立て直したアイシャは、腹の痛みに少し顔をしかめた。防弾服の上から撃たれたところである。しかし、彼女は言葉にはしなかった。

 アイシャの肩につかまりながら、ゆっくりと歩く五郎は彼女に質問する。

 「でも、アイシャは、なんで、いつもミニスカートなの?」

 革のブーツは履いてはいたが、こんな激しい戦いをするならば、足も隠しておいた方が安全だろうし、ミニスカートではすぐに下着が見えてしまう。五郎は、最初から不思議で、聞いてみたかったのだ。

 その質問に対するアイシャの回答は単純だった。

 「病院の看護師に、似合うって言われたんだ。もしかして、似合わないか?」

 「そう言う意味じゃないよ。破片が当たって腿から少し血が出ているじゃないか。スカートでは危ないだろう。」

 アイシャは自分の腿にできたかすり傷に目をやった。別に気にするほどの傷でもなかったが、確かに血は滲んでいた。

 「でも、スカートを穿かないと、女らしくないだろう。」

 「アイシャなら、ズボンを穿いても、ちゃんと女の子に見えるよ。」

 アイシャの頭の中には、女らしくしなくてはいけないという呪縛のような意識があった。それは理屈ではなく、暗示のように植えつけられた意識である。

 スカートを穿かなければならない。鏡を見て服装や顔を確認しなければならない。女性らしくしなくてはいけない。

 まだ目も見えなかった頃、病院で女性看護師に手を引かれてトイレに入ったのを思い出す。とても親切な看護師が、トイレの使い方を教えてくれた。

 「女の子はそんなことはしないのよ。こうして、水を流しながら、音が聞こえないようにね。」

 五郎を支えるアイシャは、ヘリが墜落した方へ向かっていた。

 「墜落したヘリがどうなっているか見にいくぞ。生存者がいるかもしれない。」

 「ああ、そうだね。」

 五郎は自分を支えながら、どんどんと歩くアイシャの顔を見下ろした。それにしても、凄い女の子である。あっという間に、敵七人を戦闘不能とし、ヘリコプターまで撃ち落としてしまう。それに、もの凄い力持ちである。

 ビルの下に落ちたヘリは激しく炎上していた。生存者は見当たらなかった。

 それを見下ろしながら、アイシャは五郎の手をギュッと握った。

 「五郎、あんまり無茶するな。こんな私を守る必要なんてない。でも、その、嬉しかったぞ。」

 燃え上る炎に照らされたアイシャの横顔には涙の流れた筋が見えた。五郎は彼女の手を握り返した。

 「どういたしまして。」

 -この女の子といっしょなら、死ぬことはあっても、退屈することはないだろう-


 これから先、いったい何が起きるのか?

 五郎は楽しみになってしまった。




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